ノート:日本語訳聖書
この「日本語訳聖書」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2016年5月11日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
日本語訳聖書のこの版の一部または全部は口語訳聖書のこの版に転記されました。転記元の履歴は転記先の帰属表示に必要なので、転記先のページが存続する限り転記元のページを削除してはいけません。 |
記事統合(記事転記)の提案
[編集]聖書翻訳からの分離前にノート:聖書翻訳で提案していたように、新約聖書#日本語訳との統合を提案します。また、同時に文語訳聖書、口語訳聖書、共同訳聖書、新共同訳聖書などの関連項目との整理を行いたいと思いますのでご意見ください。--おーた 2007年7月9日 (月) 14:50 (UTC)
- 整理への着手ありがとうございます。現在の記事は、やや聖書教会刊のものによった記述になっていますので、今後、新改訳などについては詳しい方の記述を待ちたいと思います。あるいは「現在、典礼で使われる聖書」という項がどこかにあってもいいのかもしれません。
- 新約聖書#日本語訳はわりとすっきりまとまっていて、あれをそのまま残しておいてもいいかなと思います。ただ現在は現代語訳に拠った記述になっているので、あれではもちろん足りません。当座は主項目として、この項目へのリンクを節冒頭で付記し、必要に応じて適時内容を圧縮するというのではいかがでしょう。--Aphaia 2007年7月10日 (火) 16:53 (UTC)
- お疲れさまです (なんにもしてませんが)。とてもうまくまとまっているとおもいます。新規立項も適切だとおもいます。
- 意見ですが、できれば、各記事の、特に「評価」を述べている箇所については、参考にした図書を出典として示しておいたほうがいいとおもいます。
- それと細かいことですが、見出しではWikiLinkせず、本文中の語句でリンクほうがいいみたいです。 --Hatukanezumi 2007年7月16日 (月) 15:29 (UTC)
- 見出しのリンクを外しました。また、「典礼で用いられる日本語聖書」の節を作りました。東方正教会についてどなたか追記ください。さらに新共同訳以前にカトリックが典礼で使っていた聖書はなんだったのか、小学生だったので思い出せません。これもどなたか追記をお願いします。「評価」についての参考文献表示は、そのうち対応します。--おーた 2007年7月17日 (火) 13:03 (UTC)
- 各翻訳についての評価の出典を脚注でつけておきました。ご覧のように、私が参照したのは3冊だけなので、他の方々に本文共々補強していただければと思っています。でもまあ、これで、この記事は大体終了ですかね。--おーた 2007年7月29日 (日) 15:09 (UTC)
変体かな
[編集]- ベッテルハイム『約翰伝福音書』
- はじめに かしこいものあり かしこいものハ
の「ハ」は、かたかなの「ハ」のように見えますが、おそらく変体かなの「は」なので、ひらがなで表示した方が、よいのではないでしょうか? --Jovanni 2009年8月2日 (日) 23:04 (UTC)
- こんにちは。該当箇所は、参考文献にもある、海老澤有道『日本の聖書 聖書和訳の歴史』講談社学術文庫、p.135に拠ってます。「変体かなの「は」」であるという推測に関しては、原本を見たこともないので何ともいえません。「変体かなの「は」」であると断じている資料があれば、考慮するべきと思いますが現段階ではこのままにしておくしかないと考えます。--おーた 2009年8月3日 (月) 13:21 (UTC)
- 「断じている」ですか... 古典を読む人間には常識かと思いますけれど。聖書の言語入門の辺の記載はどうですか? それとも、もっと権威的な文章でないとだめ?--Jovanni 2009年8月3日 (月) 21:06 (UTC)
- 古典を読む人間にとって常識だというのは概ね理解しました。ただ、日本語聖書翻訳史の権威の海老澤有道も変体仮名については十分理解したうえで、あのような引用をやっている訳です。そこにどのような判断が働いているのか、私には申し上げようがありません。「独自研究を行わない」を原則とし、出典主義に固執するWikipediaの編集では、海老澤の引用方法を踏襲するしか無いと考えます。もっとも、他の資料で該当箇所を「は」と表記しているものがあり、その資料が十分に信頼に足ると判断されるものであれば「ハ」を「は」の表記へ変更しても構わないと考えます。--おーた 2009年8月5日 (水) 12:13 (UTC)
大正改訳
[編集]「日本語の古典文学作品のひとつとしてよい翻訳である。」とあって、個人的にはうむそのとおり、と思う半面、これはウィキペディア的にはまずいんじゃないかな、とも思います。どなたかの意見として紹介する(……と○○らに評価される[出典][出典])のでなければ、除去が適当ではないかと。--Aphaia 2007年7月29日 (日) 09:06 (UTC)
- 了解しました。評価部分について、出典を入れる作業をしますので、それまでは消しておいて頂いて結構です。--おーた 2007年7月29日 (日) 11:38 (UTC)
原典資料
[編集]実物を確認しようかとおもって、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開されているものをリストアップしました。明治元訳はいろいろな版がでていて、検索するとたくさんひっかかりますので、下に挙げたのが最適かどうかはわかりません。あと、本文で触れられていない翻訳もいろいろあるのかもしれません。大正時代の資料はまだ収録されていないのか、見つかりませんでした。
- 『舊新約全書』 (明治元訳)
- 『聖福音書 上』『聖福音書 下』 (高橋五郎訳)
- 『Waga Shu Iesus Kirisuto no Shin-yaku seisho』 (E. ラゲ訳、ローマ字)
- 『我主イエズスキリストの新約聖書』 (E. ラゲ訳)
- 『我主イイススハリストスノ新約』 (日本正教會訳)
- 『聖詠経』 (1885年)
- 『聖詠経』 (1901年 2版)
--Hatukanezumi 2007年7月29日 (日) 17:40 (UTC)
- 調査、ありがとうございます。外部リンクとして本文に載せて宜しいのではないでしょうか。--おーた 2009年8月3日 (月) 13:23 (UTC)
その他の翻訳
[編集]日本語訳聖書#その他のキリスト教の翻訳と日本語訳聖書#その他の翻訳は統合すべきではないでしょうか。どちらにも組織的な訳と個人訳が混在しており、新約・旧約双方か、新約のみかというような基準で分けられているわけでもないようですし、離れた節に別個に存在している理由なり基準なりが全く分からないのですが。--Sumaru(会話) 2016年2月7日 (日) 16:48 (UTC)
はい。統合した方が宜しいでしょう。この日本語訳聖書の項目については、おそらくは宗派的な思い入れから翻訳例を書き込んでいく方々が多いために、雑然とした状態に陥りやすいようです。組織訳、個人訳は分けて列挙していくので宜しいかと思います。--おーた(会話) 2016年2月10日 (水) 07:45 (UTC)
- 1週間たちましたが、特に異論はないようですので、統合しようと作業し始めましたが、岩波委員会訳のみに評価が(それも否定的なもののみ)付されているなど、中立性の点などから疑問もあるため、その翻訳の方針のようなものを付けられるものは付け、評価を付けられそうなものは評価をつけ、(多分脚注で)書誌もきちんと示すといった拡充も行った方が良いかと考え直しました。ですので、統合する作業はもう数日から1週間程度かかります。また、手許にある聖書が岩波委員会、田川訳、塚本訳、宮平訳、前田訳、現代訳くらい(他の節に出てくる聖書は除く)しかないため、一応近所の図書館も使いますが、全部に万遍のない加筆は難しいということはあらかじめお断りしておきます。
- なお、本田哲郎訳として「小さくされた者の聖書」が挙がっていますが、検索ではヒットしません。『小さくされた人々のための福音』ならヒットしますが。--Sumaru(会話) 2016年2月14日 (日) 17:11 (UTC)
- 予定していた1週間を過ぎてしまいましたが、少なくともまだあと数日はかかります。「その他の訳」の部分はあらかた終わっているのですが、バルバロ訳の刊行年、フランシスコ会訳分冊版の完結年、口語訳の底本など細かい誤りが多く、全体的に(手持ちの文献で可能な範囲ですが)検証と加筆をしているためです。また、一部の引用が引用の要件を満たしていない恐れがある(例えば新改訳は初版から第三版のどれなのか、など書誌の記載に不備がある。著作権保護期間を過ぎたものでも転記や復刻されたものを使っているなら、校訂などによっては二次著作権が発生する恐れがある。例を挙げるとギュツラフ訳の「ゴクラクトモニ」(海老澤氏の『日本の聖書』文庫版からの孫引き)が「ゴクラクトトモニ」と転記されているが、誤記なのか校訂なのか、出典提示がないので判然としない)ため、確認の取れる範囲で出典を補完し、補完できないものは一時的に除去する予定です(この点、気は引けますが、私にとっても加筆した結果が版指定削除に巻き込まれるリスクを抱えるのは嫌ですので)。
- それと、上の節で設置が合意された「教会で公に用いられる日本語翻訳」節ですが、それ以外の各節に組み込みなおすことを提案します。理由は、カトリックの節はあまりにも情報が少なく、節分けする意義に乏しいこと、逆にプロテスタントの節は現改訳や現代訳などに触れざるをえないことから、他の節と重複して言及せざるをえない(しかし、新共同訳や新改訳に比べて、そこまで大きく扱うほどの地位を占めているのか不明で、中立的な観点から疑問がある)などの理由です。--Sumaru(会話) 2016年2月25日 (木) 15:38 (UTC)
- 加筆はなおもローカルで続行中です(随分時間がかかっていてすみません。当初の予想を超えた大掛かりな加筆になっています)。各節に組み込みなおしたいとした上の提案に異論がないものと見なして、そのようにしますが、「現改訳や現代訳などに触れざるをえない」について訂正します。現代訳は少なくとも10版まで版を重ねており、私の手許にも1冊あるので存在を確認できますが、現改訳聖書って刊行されているのでしょうか。版元の公式サイトを見ても、出版のための献金と予約注文を募る段階で止まっているように見えますし、国会図書館の所蔵もAmazonなどの取り扱いもないようです。ですので、すでに公刊されたことについての有意な論拠(もしくは公刊されていないとしても、その刊行見通しの意義を第三者が述べている信頼できる情報源)が挙げられない限り、少なくともこの記事では現改訳の記述は除去ないしコメントアウトしたいと思います。現改訳聖書の記事自体がWikipedia:独立記事作成の目安を満たしているのかは判断が付きませんが、少なくとも刊行されておらず第三者的言及も示されていないものをこの『日本語訳聖書』という記事で単独で節分けして扱うのは非中立的に思われます。--Sumaru(会話) 2016年3月3日 (木) 18:33 (UTC)
報告 あらかた加筆を済ませました。あわせて、手持ちの『新約全書』(明治37年版)および大正改訳(初版)の画像もコモンズにアップし、ビジュアル面でも若干の補強をはかりました。なお、1点あらかじめコメントしておきますが、ノート:新改訳聖書の議論(田川評の加筆禁止)は承知の上で加筆しています。ここであえて田川評について加筆したのは、
- その議論(特に最後の方のやり取り)でも、他の主題の記事に加筆することまでは禁じられていない。
- 田川氏だけでなく永嶋氏(関西外国語大学教授)の文献でも(田川氏ほど取り付く島もないレベルではないとはいえ)同様のネガティヴな見解が示されており、これらはいずれも「日本語訳聖書の歴史」について概説した中でなされている。
- 田川氏の寸評については(本文中にも明記したように)学術誌の書評で批判されており、すでに第三者的言及の対象となっている。
といった判断が根拠となっています。--Sumaru(会話) 2016年4月10日 (日) 11:31 (UTC)
- コメント Sumaruさん、大変豊富な加筆を頂きありがとうございます。勉強になります。なお、「ノート:新改訳聖書の議論(田川評の加筆禁止)」について少し誤解がお有りのようなので申し上げますと、田川氏の評価全般を書くべきでは無い、と私は考えておりません。ただ「田川氏による批判のみを節を設けて特に取り上げる」事に批判的でした。ですのでSumaruさんのように、「様々な方の評価の中に、田川氏のものも含まれており、多角的に検討されている」という文脈の中で使われる分には、一切異議ありません。
- 重ねて豊富な加筆に対し感謝を申し上げます。ありがとうございます。--Kinno Angel(会話) 2016年4月20日 (水) 07:55 (UTC)
- コメントありがとうございます。可能な限り誠実に、と思って加筆しましたが、なにぶんクリスチャンではないだけに、信徒の方々からどう見えるのかという点に不安な気持ちもありました。ですので、キリスト教関連の記事でご活躍なさっているクリスチャンの方から温かいコメントをいただけて安堵しています。--Sumaru(会話) 2016年4月21日 (木) 16:04 (UTC)
2023年6月に訳文の比較節へ「ライフライン訳新約聖書」が追加されていますが、この節への加筆のみで本文では同翻訳への言及がありません。訳文比較節への要不要を含め、キリスト教関連の記事を執筆・加筆している方によるメンテナンスが必要ではないでしょうか。 --Kachi-lan(会話) 2023年8月6日 (日) 18:07 (UTC)
- 気付くのが遅くなりましたが、2023年11月25日 (土) 15:34の版で対応していただきありがとうございました。 Kachi-lan(会話) 2024年1月31日 (水) 01:17 (UTC)