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ノート:明智秀満/過去ログ1

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↓の記述について

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客観性に問題があると思いましたので、本文からノートに移動させていただきました。「はるかに高い」などとこの説の信憑性があるような書き方をするのはいかがなものかと思いましたので。第一、秀満の生年を1530年代に固定する根拠も不明確ですので(133.188.5.31さんによる改稿の前は、1557年説がとられていたはずです)。--松茸 2006年5月26日 (金) 11:48 (UTC)

(この部分にあった移動記述は削除しました)生年を1536年、1537年などとする史料が提示されたため、取り敢えずその件は終了としておきます。記述内容に関してはまだ少々検討の余地があるようですが。--松茸 2006年6月3日 (土) 08:38 (UTC)

遠山明知氏と同一視するのは、信頼に足る資料からは無理があり、ある特定の地域(の特定の人々)以外からは、俗説としてほぼ無視されているのではないでしょうか。したがって↓について、とりあえず本文からノートに移動します。以上の署名の無いコメントは、211.131.79.110(会話履歴)氏によるものです。--Knua 2006年11月5日 (日) 05:25 (UTC)

  • (この部分にあった移動記述は削除しました、ここにあった本文から除去された記述はココで確認してください。)
見にくいので変えました。私は専門科でないので分かりませんが、違うと主張して一方的に記事から本文を除去されることはおやめ下さい。とりあえず、「俗説としてほぼ無視されている」ということですが、その根拠を示されることをお勧めいたします。
それとノートでは署名を(--~~~~で出来ます)お願いいたします。--Knua 2006年11月5日 (日) 05:23 (UTC)

遠山景玄と同一人物とする記述について

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211.131.79.110です。まず、Wikipediaの作法を無視してしまいましたことを深くお詫びいたします。その上で、説明をお許しいただきたいのですが、以下の理由から本文の内容には正確性に著しい疑義があり、速やかに訂正されるべきものと考えます。 問題となる部分は、遠山景玄と明智秀満が同一人物であるとする点です。 これについて寛永諸家系図伝の明知遠山家譜をみますと、遠山景玄は、元亀から天正初年にかけての武田軍東美濃侵攻に伴う合戦で、討死したとされています。東濃の諸自治体史も、史料としてはここに根拠を持つと考えられ、時期に多少の差異はあるものの、この時期における景玄討死は通説的な見解となっています(そのうち、少なくとも岩村町史はネット上で閲覧が可能です)。 寛永諸家系図伝の記載に素直に従う限り、景玄の死後における明知遠山氏相続の経緯も自然であり、景玄と秀満を同一人物とする必然性は全く見当たりません。 他方、景玄と秀満を同一人物とすると、きわめて不自然な状況が生じます。これは要すれば別途説明しますが、端的に申せば、

30才を過ぎた後に、嫡子(あるいは既に当主となっていたかもしれません)の立場を捨てて、母の実家の養子となることが通常にありうるだろうか?

ということです。信頼に足る資料で十分な補強がされない限り、遠山景玄と明智秀満を同一人物とする新説を主張するには全く不十分と考えるところです。--211.131.79.110

コメントありがとうございます。よく履歴を見ますと、この記述を載せた方(133.188.5.31会話履歴)は何度か特定の見解を載せていると言われていたようです。私では正しく修正ができないので、加筆修正をお願いいたします--Knua 2006年11月6日 (月) 12:52 (UTC)
遠山景玄との同一人物説をとらないと成り立たない部分を削除しました。天海=秀満説は、物語としては面白く勿体ない気はするのですが・・・。残りの部分は、十分な検証能力がないため、「正確性への疑義」はそのままにしてあります。そもそもは、遠山景玄から転送されてきて、驚愕したのがきっかけでしたので。--211.131.79.110
編集ありがとうございます。まだまだウィキペディアではそのような驚愕に値することがかなり多くあります。もしそのような項目を見つけられましたら、ぜひ編集をお願いいたします。--Knua 2006年11月8日 (水) 19:58 (UTC)

遠山景玄の戦死について

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遠山景玄が父景行とともに、上村合戦の再に戦死したというのは、例えば旗本遠山氏の記録である『明智年譜』にはどこにも記載されておりません。景行とともに戦死したのは、甥で婿の小里光次です。当然のことですが、明智町の龍護寺に景行の墓はあっても、景玄の墓はありません。以上より、遠山景玄が上村合戦で戦死したというのは誤りと認識いたします。 景玄が三宅氏を継いだというのは、例えば「明智系図」に、「遺跡号三宅弥平次」とあることからもうかがえます。遺跡というのは跡を継いでという意味です。景玄が三宅を継いでその家督を長男の一行に譲ったというのは、恐らく父の景行が健在であったことからそのような処置がなされたものと考えます。弟の利景を還俗させることもありえたでしょうが、特に不自然なものとは思えません。 以上、上記の議論は意味のあるものとは思えず、修正させていただきます。光秀の一族については、系譜等がさまざまに改ざんされており、表向きの記述だけで解釈するのではなく、さまざまな情報を総合的に判断して真実を見極めることが重要です。そういう自然科学的に事実を見極める態度がWikipediaのような百科事典には必要と思われます。ここは、俗説に惑わされず、この分野の専門家にお任せください。 平成18年11月15日 Hironaga

211.131.79.110です。今回、手近にある史料として、寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜(ともに続群書類従完成会版)の旗本明知遠山家譜を確認してみました。結論から申しますと、やはり遠山景玄と明智秀満の同一人物説はWikipediaのような百科事典への掲載は不適当と考えられます。以下にその理由を述べます。まず、上記史料の関係箇所の記述の概要ですが、
1)景玄は元亀元年に死亡(寛政重修諸家譜)
2)景玄の父・景行は、元亀3年の上村合戦で没、享年64(同上)
3)景玄の弟・利景は、僧籍にあったが還俗し、景玄の遺子・一行を養う
(寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜)
となっています。1)を採れば、そもそも同一人物説の成立する余地はありません。便宜上これを不問にするとしても、同一人物説の大前提(=元亀2年頃に景玄が三宅弥平次になったこと)が成り立つとするためには、60歳を超えた老齢の父(当時にあっては、いつ寿命が尽きてもおかしくない年齢といえます)と後見が必要な若年の嫡子を残して、30代半ばの働き盛りの武将が他家に養子に行くこととなり、極めて不自然です。したがって、信頼に足る史料に依拠しつつ、そのような事態に至らしめる確固たる理由が示されなければなりません。
もし、そうした事実があったと記述する史料もないうえに、「おそらく」などという個人的推測にすぎないものを根拠として構築された説であるならば、それはフィクションとされるべきです。実際のところ、史料について極めて恣意的な取捨選択をなさっているようであり、初めから結論ありき―完全に否定されないから自説が真実、というレベルのご主張のようにも見えます。一方、(Hironagaさんが俗説と断言された)通説は、上記のような現時点で信頼に足るとされる史料と整合的であり、かつ、ストーリーの流れも自然です。
遠山景玄と明智秀満を同一人物とする説は、少なくとも現時点ではフィクションとして扱われるべきであり、百科事典であるWikipediaへの掲載には異を唱えます。まずは、関係学会誌上に査読付論文の掲載がされるなどして、専門家からのある程度の支持を得た後に、そういう説もあると記載するのが順序であると考えますがいかがでしょうか。--211.131.79.110 2006年11月15日 (水) 11:30 (UTC)

UTC様へ

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遠山景玄が三宅家を継いだことについて、きわめて不自然というご意見のようですが、まずこの問題について述べたいと思います。 三河広瀬城主の三宅高貞は、この時代の三宅一党の統領であったのですが、跡を継ぐ男子がなかったため、摂津守高清を養嗣子とします。しかし、永禄三年(1561)、家康に広瀬城を攻められ、そのときに高清は戦死します。高貞はその後家康に従い、天正元年(1573)11月5日に没しています。遠山景行の妻が三宅高貞の娘であることは、『明智年譜』あるいはその菩提寺である安住寺(明智町杉野)の記録からも間違いありません。 高清が戦死した後、三宅高貞が遠山景行(入道宗叔)に娘の子を養子にほしいと望んだのはきわめて自然なことです。景行としては、次男の利景を還俗させて養子に出すか、長男の景玄を出すか、その二者択一を迫られたわけです。景玄には長男(一行)が生まれていたことから、その一行を景行が後見するということで、景玄に三宅家を継がせたと判断できます。 玄琳の書いた「明智系図」(細部には誤記が多いのは事実ですが)に、「遺跡号三宅弥平次」とあるのもその傍証と考えます。この景玄が三宅を継いだことが不自然と断定されておりますが、どういう発想からでたものか理解に苦しむところです。 寛政重修諸家譜に景玄は元亀元年に死亡、と記されているとのこと。勉強不足で原本を確認しなくて申し訳ありません。 まず述べたいことは、寛政重修諸家譜についてはすべてが事実ではないということです。各家の都合で書き換えられている部分が少なくありません。それは皆さんの認めているところだと考えます。旗本遠山家は、公式には遠山景行が明智光安であるとか、遠山景玄が三宅弥平次であるといったことを認めていませんので、そのことを寛政重修諸家譜に書くようなことはまず考えられません。遠山景行が明智光安、というのは『恵那叢書』にも記されているのですが、明智町では龍護寺の入り口の看板にもあるように公認されたことです。それは、各家の履歴(いつの時代にどこから来たかということ)などをもとに肌で感じてわかることだからです。 旗本遠山家だけでなく、小里氏なども光秀との関係は、不自然と思えるほど消し去ろうとしています。一例として、「明智系図」では、光秀の長女を菅沼定盈室、次女を家康の再従弟の桜井監物家次(松平家次)室としていることを例にとって見ましょう。この部分、寛政重修諸家譜では、菅沼定盈の継室を松平家次女としています。松平家次は1563年に亡くなっているなど、「明智系図」自体、誤記が多く含まれてます(改ざんされている可能性もあります)が、すべてが造作ではないことは、関連人物がともに出てくることからもうかがえます。光秀の長女が山崎の合戦後も生存したことは、「天正十年夏記」にあるとおりです。彼女は、勧修寺晴豊に助けられています。その光秀の長女について、「明智系図」が誤りで寛政重修諸家譜が正しいと決め込むべきではありません。現状では、断定はできないのですが、光秀の長女は最初に松平家次の長男忠正に嫁ぎ、次にその弟の忠吉に再嫁、1582年に忠吉が亡くなり、桜井松平から菅沼定盈に再々嫁したと考えるのが妥当なものと思われます。ちなみに、忠正・忠吉の妻は公式には家康の妹とあるだけで、その出自はよくわかりません。 明智秀満については、三宅出雲(長閑斎)が実父という説もありますが、長閑斎は妻の父であり実父ではありません。年齢的にも、本能寺の変のとき秀満47歳前後、長閑斎は63歳(貴族の日記にある)で整合しません。明智光安が実父というのは、『美濃国諸旧記』などにも載せられており、まったく根拠のない話ではありません。『美濃国諸旧記』にも、明智光安の子に三宅姓が記されています。また、明智光安と弟の光久は、1万5千貫(7万5千石)を領していたと『美濃国諸旧記』に記されています。7万5千石というのは東美濃のかなりの部分を領有していたということです。この時代、東美濃の実質的な盟主は、武田氏を後ろ盾にした遠山景行と小里光忠です。それは、『濃州小里記』などを読めばよく理解できます。明智光安の子がなぜ三宅を名乗ったのか、表向きの歴史と事実はわが国においては整合しないことはしばしばです。 いずれにしても、光秀に関連したであろうという人物について、寛政重修諸家譜の記載のみが真実というのは、相当な暴論であり、そのような発想は真実を明らかにするという本来の学問にとは無縁のものと考えます。本来の学問は、さまざまな矛盾のなかから、事実は何かを肌身で感じながら一つ一つ検証していくことではないでしょうか。 残念ながら、わが国においては、考古学だけでなく歴史学そのものにおいても、正しい歴史が伝えられておりません。旧石器捏造はたまたま表に現れた氷山の一角です。その過程で、旧石器の矛盾点を指摘した本来の学問たる論文が、徹底的に排除されていたのは記憶に新しいところです。それは、UTCもよくご存知のことと思います。高群逸枝がいみじくも述べたように、わが国には道学は存在しても歴史学はありません。現状Wikipediaの歴史部分は、かなり道学化しています。UTC様も、そのような道学化を好んで推進されているとは思いませんが、結果的にそうなされることのないように希望いたします。 平成18年9月18日 Hironaga

(追記) 遠山景玄が戦死した元亀元年の戦いは、実際には元亀三年の「上村合戦」のことです。「上村合戦」については、元亀元年としているものが少なくありません。元亀元年に、ほかに大将級が戦死するような戦争はありません。先に述べたように、旗本遠山氏の記録である『明智年譜』には、「上村合戦」で遠山景玄が戦死したことは書かれていません(そもそも参加していない)。戦死したのは、遠山景行と小里光次です。 『濃州小里紀』にも、「上村合戦」のことが記されており、遠山与助と小里内作(光次のこと)の二人の戦死が書かれています。遠山与助というのは、明知遠山の当主のことで、これだけだと景行か景玄かはよくわかりません。いずれにしても、景行と景玄の親子が戦死したとは読めません。景行の戦死は確かなのですから、この与助は景行と判断できます。当事者の記録である『明智年譜』と『濃州小里記』のいずれからも、「上村合戦」で遠山景玄が戦死したというのは読み取れません。やはり、寛政重修諸家譜の記載が自家(旗本遠山家)に都合よく書き改めたものと判断できます。『濃州小里記』には、特に景玄の死を隠す理由はありません。 明智秀満が遠山景玄でないとすると、その出自はまったく不明ということになります。光秀との関係においても、なぜ右腕といわれるほど信頼されていたのか。まともに取り扱うことの少ない景玄の「上村合戦」の戦死をもって、その関係を否定することは、歴史の意図的抹消であり、改ざんといわざるを得ません。もし、Wikipediaがこのような歴史の解釈しかしないというのであれば、歴史ではなく道学を記したものであると宣言するべきです。

211.131.79.110です。名宛人の「UTC」というのは私のことだろうと思いますので、お答えします。まずは、当方の疑問にご説明をいただきましたことにお礼を申し上げます。しかしながら、今回のご説明からは、残念ながら、異説として併記することも適当でないフィクションと判断せざるをえません。
理由は、前回述べたとおりですが、いくつか繰り返しますと、当該事実を直接に記載した史料・文献がないうえに、他から推測するとしても必然性がなく、それどころかむしろ不自然な結論になってしまっています。完全に否定されないからといって、それが真実であるわけではないのは当然です。また、寛政修重諸家譜すらご覧になったことがないとのことですが、それにもかかわらず自説を断言してしまうのでは、初めから結論ありきではないか?と指摘されてもやむをえません。たしかに史料は本当のことばかり書いていませんが、だからといって恣意的な取捨選択が許されるわけではありません。なお、明智系図にある遺跡号三宅弥平次というのは、明智光春のことでしょう。しかるに遠山景玄と明智光春が同一人物だという史料は何もありません。
さらに、一方ではこれまでの歴史学界あるいは考古学界の権威主義的姿勢を厳しく批判しておきながら、他方では「明智町では龍護寺の入り口の看板にもあるように公認されたこと」などと、自治体あるいはお上の権威(本当に自治体で公認しているかどうかは別ですが、仮にそうであるとしても)に対して無批判に服してしまう態度は理解に苦しみます。
いずれにせよ、まずは、関係学会誌上に査読付論文の掲載がされるなどして、専門家からのある程度の支持が得られたならば、そういう説もあると記載するのが順序であると考えます。(211.131.79.110)--61.209.160.219 2006年11月18日 (土) 01:10 (UTC)

61.209.160.219様へ

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貴重なご意見、大変ありがとうございます。 遠山景行が明智光安であることを論じたものは、『恵那叢書』がありますが、最近のものでは、学研の『俊英明智光秀』にも、査読付き論文とはいえないにしても、一応の書き物が載せられています。遠山景行=明智光安ならば、自動的に遠山景玄=明智秀満という図式になります。できるかぎり良質な史料で、遠山景行=明智光安あるいは遠山景玄=明智秀満が証明できればそれに越したことはないので、その探求を行ってい期待と考えます。また、査読付き論文を含め、この問題について広く議論できる(インターネット上ではすでに議論になっている部分がありますが)よう、関係者と相談して努力していきたいと考えます。 最後に、わが国の考古学を含めた歴史学の問題点をひとつ追加して述べさせていただきたいと考えます。それは、奇妙と思えるほど実証主義に偏っていることです。例えば、墓碑(あるいは被葬者の氏名のわかる遺物)がなければ、古墳の被葬者はわからないというような主張です。もちろんこのような実証主義は、例えば皇国史観的な記紀の歴史観に対するひとつの歯止めになっているのでしょうが、結局それがために何ひとつ歴史的事実を提示できず、明治以来の歴史観が一般の書物(Wikipediaの古代史部分も大差ありません)において温存されている結果となっています。 この実証主義は、自然科学の分野にいる者から見ると、理解しがたいものです。すなわち、科学というのは、見えないものを見えるようにするというのが、基本的な考え方だからです。誰の目にもわかる目に見える証拠がなければ、事実とは認めないというような論理では、何も真実は明らかにできません。今日の自然科学では反証主義、すなわち、ある仮説に対し反証に耐えたものがより真実であるという考え方が主流です。正直な感想を言わせてもらうならば、わが国の実証主義は、真実を探求すること、それを放棄するための便法となっているように思われてなりません。それは歴史学の置かれた特殊な状況下(学問としての自由がどこまで保障されているかということ)で、保身のため、あるいは生活のためにやむをえないということなのかもしれません。 61.209.160.219様の言われるような遠山景玄=明智秀満を示す(良質な)史料がなければ、事実とは認めないというような論理は、わが国の歴史学のそのコミュニティーだけで通じる論理であり、科学という意味では邪道なのだということをご理解いただきたいと考えます。そのような奇妙な論理のために、科学的な思考が放棄され、旧石器捏造のような事件が起きたものと認識しております。現在の歴史学あるいは考古学のコミュニティーにおいて、仮にしかるべき論文を出しても、例えば一連の立花論文の例を見ても、それを科学的に受け入れる下地があるか疑問なところです。 この問題は、この課題だけではないので、別途議論が続くかもしれませんが、できる限り実りあるものとしていきたいと考えます。 平成18年11月18日 Hironaga

61.209.160.219=211.131.79.110です。誤解のないように申し上げますが、当方は、推測をするな、と言っているのではありません。推測を行うにしても、その結果が不自然であってはなりませんし、あまり推測に推測を重ねるべきでもありません。そして、これらを充たしたとしても、やっとたくさんある説のうちのひとつになりうるかどうかです。他説を排して、自説が真実だ、と主張するためには、信頼に足る史料を用いてその必然性を証明しなければなりません。これは、自然科学だろうかどの分野であろうとも、等しく当てはまるのではありませんか。
しかるに「遠山景玄=明智秀満を示す(良質な)史料がなければ、事実とは認めない」というのは当然の態度ではありませんか? 当方、これを否定されるならば、学問などやめてしまうべきだと心底から思います。都合の良い史料を継ぎ接ぎして、あとは推測と仮定を重ねに重ねて、結論が一丁上がり!という態度が適当であるということでしょうか? これは、どこかで見た態度ではありませんか? 過去に歴史を改竄・捏造した人々が、まさにこういう態度をとったのではありませんか? 
また、前回、「明智秀満が遠山景玄でないとすると、その出自はまったく不明ということになります。」と仰っていますが、これのどこがいけないのでしょうか。勘違いされているのではないかと危惧しますが、「不明」というのは我々をはじめとする後世の人間にとっての話です。Hironagaさんにとって不明であっても、明智秀満の存在が否定されるわけではありません。当方からみれば、Hironagaさんの態度は捏造につながるものであり、断じて容認することはできません。(61.209.160.219=211.131.79.110)--218.218.133.197 2006年11月20日 (月) 11:52 (UTC)

61.209.160.219様へ(その2)

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例えば、宇宙を論じる場合、直接証明するものは無いわけですから、ある仮説を立て、各種の観測結果とより矛盾しないものがより真実ということになります。歴史でいえば、例えばわが国の古代史は、古事記・日本書紀には造作が多いために、何が真実かは、風土記やカウチに残る伝承記録、中国・朝鮮の史料、古墳等の遺跡(貴殿の言い方からすればあまり良質でない史料かもしれません)等、さまざまな情報をもとにもとめることが必要です。もっとも、わが国の歴史学のコミュニティがそのようなほう方法論をとっているわけではありません。あくまで奇妙な実証主義です。

明智光秀あるいはその一族については、主要な史料(『明智軍記』等)に造作が多いために、さまざまな情報からより真実に近いものを構築していくことが必要です。しかし、この光秀に関連した出自等についても、古代史と同じく歴史学のコミュニティがより正しい推論を行ってきたとはいえません。例えば、光秀に関しては高柳光寿氏の著作が著名ですが、その深いご知識からすれば、土岐沼田に伝わる家譜や「土岐文書」をご存じないとは思えないのですが、それらを無視して光秀の出自をどこの馬の骨かわからぬように書かれています。「土岐文書」などはかなり良質な史料と思われますが、光秀に関して、歴史学のコミュニティは、今もなお高柳氏の論調そのままの論者が少なくありません。

歴史学のコミュニティは、史料の良質性を恣意的判断をしている思われる部分が少なからずあります。例えば、本能寺の変に関して述べた立花論文、あるいはそのもととなった「天正十年夏記」について、個別に聞けばそれを正しいあるいは信頼できると答えても、公には沈黙するか逆のことを述べる方も少なくありません。Wikipediaの本能寺の変を見ても、立花説を論拠が乏しいと公然と述べる輩が多いのです。

今日においても。光秀に関して公の書き物において、事実関係が素直に記載されない傾向が根強く残っているのはご理解いただけるかと思います。寛政重修諸家譜に景玄が元亀元年に死んだと書いてあっても、仮に遠山景玄=明智秀満であるとすれば、当時の旗本遠山氏が事実をそのまま記載するはずはありません。何が事実化は、その他の情報おから総合的に判断する必要がありますが、それを示すものがほかに見つからないのです。先に『濃州小里記』でこの話を少しさせていただいたのですが、本能寺の変の部分では、小里光久(光次の長男)が流れ弾で死亡、その以外を抱えて困っていた従者を明智秀満が助けたとあります。これから、光久と秀満は身内と読めますが、光久の母は、『濃州小里記』では景玄の妹となっています。

遠山景玄=明智秀満以上に、遠山景行=明智光安をという結論はさまざまな情報から矛盾無く判断できます。そういうさまざまな情報をもとに判断した結論に捏造はありません。公式なものとはいえ(わが国では公式なものほど偽りが多い)、改ざんされた可能性の高い寛政重修諸家譜の一点でもってすべてを否定するのは、歴史学のコミュニティ独特の論理であって、科学的なものではないということはよくご理解ください。

考古学だけでなく歴史学のコミュニティの閉鎖性は、すでに多くの方々の指摘を受けているところです。特に問題は、国際的に通用しない学問的方法論を用いていることです。貴兄のその謝った方法論でなお主張され、修正されるなら、そのたびに元にもづすことを繰り返すだけです。歴史学のコミュニティから少し離れた目で歴史を再考されることを強く望む次第です。 平成18年11月21日 Hironaga

61.209.160.219です。ご助言ありがとうございます。しかしながら、今回、長々とご高説を賜りましたが、要するに、演繹的アプローチは科学的で、帰納的アプローチは非科学的、と仰っているに過ぎません。実際、そんなことはありませんし、これを学術的素養のある人々の前で披瀝すれば、物笑いの種になるだけです。
他方、学術分野によって、また、研究の対象によってどちらかのアプローチがより適しているということはあります。人間の力の及ばない法則に支配された自然科学の分野と、人間の営みそのものの研究である歴史学では、適切なアプローチが違って然るべきです。歴史の分野で、最初に結論を決め付けると、史料の恣意的な取捨選択に陥りやすく、結果的に捏造につながりかねません。率直に申し上げて、景玄=秀満説や秀満=天海説は、まさにこうした弊害が出た典型であるといえます。(61.209.160.219)--218.218.132.107 2006年11月21日 (火) 11:29 (UTC)

景玄=秀満説の問題点について

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突っ込みどころにキリがないうえに、相手の学術的素養というか理解力に根本的な疑問が生じているので、どうしたものかとは思いますが、改めて問題点を順次指摘させてください。とにかく主張者の態度も含めて問題点のオンパレードという感じですが、とりあえず土岐明智氏の側からも含めて。

実際のところ、遠山景行と明智光安を同一人物とする『恵那叢書』のみが根拠です。あとは、推測と仮定、史料の恣意的な選択と解釈の積み重ねです。『恵那叢書』ですが、秀満の頃よりずっと後の江戸時代に在地の人物(すなわちアマチュア)により書かれたものとされています。その信頼性に対する学術的な評価ですが、類似した郷土史的な書物である『濃州小里記』や『老人物語』等とともに、程度の差こそあれ、虚実を織り交ぜた「物語」あるいは「文学」との扱いです。他の信頼に足る史料・文献での補強のないまま、これらのみで一説を構築しても、せいぜい出来の良いフィクションです。

また、遠山景行が明智光安と同一人物だとすれば、各々その子とされる遠山景玄=明智秀満となると仰っているようですが、事はそう簡単ではありません。明智光安の子とされるのは明智光春です。光春と秀満を同一人物とする説はありますが、現在では、むしろ別人物とする説が有力となっています。ですから、光春=秀満も証明しないといけないことになります。

とにかく、別の名前を持つ人物は、別人として扱うのが大前提です。同一人物とするには、よほどの信頼に足る史料によって必然性が示されなければなりません。(61.209.160.219)--61.116.112.220 2006年11月22日 (水) 13:41 (UTC)

景玄=秀満説と恵那市明智町

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景玄=秀満説の前提となっている明知遠山氏と土岐明智氏の同一化を図る説は、恵那市明智町を中心にとなえられています

光秀の生誕地については諸説ありますが、学術的には「(現在の)恵那市明智町ではない」というのが通説です。その根拠は、清和源氏である土岐明智氏とは別系の明知遠山氏(利仁流藤原氏)の存在によります。

したがって、明智町がどうしても光秀生誕の地にこだわるならば、16世紀に明知遠山氏と土岐明智氏が同一であったとする説は、きわめて都合が良いことを否定できません。

ちなみに、恵那市明智町では、「光秀まつり」が毎年5月に開催され、また、「光秀公学問所」などの光秀と関連付けられた旧跡が存在するなど、明智光秀の生誕地であることが、観光の目玉のひとつと位置づけられており、また、地域のアイデンティティのシンボルともなっていると考えられます。つまり、光秀生誕の地と(一般に)みされるか否かに強い関心を持つ人々が存在しているとみるのが自然でしょう。

なお、明智町が町をあげて同一化説を公認しているかどうかは、また別問題です。『明智町史』は、たまたま地名(の発音)が同じであったことから、意図的にあるいは自然発生的に、光秀生誕がとなえられるようになったにすぎない旨の見解を示しています。(61.209.160.219)--218.218.131.178 2006年11月23日 (木) 01:06 (UTC)

議論の反映について

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133.53.248.253様、61.209.160.219=211.131.79.110です。まず初めに、議論を反映していただきまして、誠にありがとうございます。その上で、意見を申し述べることをお許し下さい。現在の本文のままでは、これまでの議論の内容に即していない部分があると考えますので、書き直させていただきました。具体的には、

・通説は、遠山景玄が上村合戦で討死したとする
・遠山景玄=明智秀満説および明智秀満=天海説は、学術的に認知されていない
・明知遠山氏と土岐明智氏の同一化を図る説は、現在の恵那市明智町を中心に主張されている

の諸点です。これまでのノートをご覧になっていただければお判りになると思いますが、これらについては、現在の事実関係としてHironagaさんも認めていらっしゃると理解しています(念のため申し上げますが、ここでいう「事実」とは、通説の内容がそうである、等々という意味においてです)。 しかしながら、現在の書きぶりを見ますと、あたかも景玄=秀満や秀満=天海が通説あるいは最有力説であるかのように読めてしまうのではないかと考え、書き直させていただきました。

なお、当方は、そもそも景玄=秀満説や秀満=天海説を、百科事典たるWikipediaに掲載すべきではないという立場ですが、どうしてもということであれば、(明智光秀ゆかりの地とされるか否かに強い関心を持つ)恵那市明智町を中心としてみられる俗説(遠山景行(明知遠山氏)と明智光安(土岐明智氏)の同一化を図る説)について仮定をさらに展開させたものである、との「注記」を付することが絶対的な条件であると考えます。

なお、昨日は、ご説明することなく修正し、事後報告となってしまいましたこと、平にお許し下さい。(61.209.160.219=211.131.79.110)--218.218.132.107 2006年11月21日 (火) 11:07 (UTC)


議論をする時のマナーとして

こんにちはKnuaです。記事の内容についてのコメントではありませんが、ノートにおいて議論をしている間は該当部分の編集をしないでください。これが続く場合、編集合戦として保護依頼をしなければいけません。お願いいたします。--Knua 2006年11月21日 (火) 11:32 (UTC)

Knua様、61.209.160.219です。了解しました。たびたびお手間をとらせてしまい申し訳ありません。(61.209.160.219)--218.218.132.107 2006年11月21日 (火) 11:41 (UTC)

その後もHironagaさんと思しき人物が自説を書き加えていらっしゃるようです。

明知遠山氏と土岐明智氏の同一化を図る説は、率直に言って、(明知遠山氏の存在を理由として、学術的には生誕地であることを否定された)現在の恵那市明智町をどうしても明智光秀の生誕地と主張したい、という歴史学の観点からみれば邪な動機に基づくトンデモ説であり、しかも景玄と秀満の同一人物説は、さらに何回もの大飛躍を加えた劣悪な派生形だというのが当方の主張なので、明智秀満の事跡は百科事典に執筆するほど詳しくないのですが、それでも、本能寺の変後の消息について、天海になった可能性が高い、というのは酷すぎませんか?

しかも枠をはみ出してしまっているので、読みにくくて仕方ありません。(61.209.160.219)--61.116.112.220 2006年11月22日 (水) 12:35 (UTC)

61.209.160.219様へ(その3)

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ノートの記載、ご自分のものを消すのはご自由ですが、他人のものまで勝手に削除するのはいかがかと思われます。それと、61.209.160.219様には、さらに議論を進めていくには少なくともペンネームを記載願います。それが基本的ルールだと思います。 消された内容を再掲染ます(同じには再現できませんが…)。

貴殿のご意見へのコメント

・通説は、遠山景玄が上村合戦で討死したとする

→インターネットで見る限り、「上村合戦」合戦で遠山景行とともに景玄が戦死したとするものもあれますが、そう書いていないものも少なくありません。通説というのは少し言い過ぎのように思われます。

・遠山景玄=明智秀満説および明智秀満=天海説は、学術的に認知されていない

→認知されていないというより、学術的な調査・研究がそもそも行われていない、あるいは避けられている、というのが正解であろうと思われます。学術的に認知、という言葉が出てきたので、逆に質問させていただきますが、天海葦名説は学術的に認知されているのですか。確かに、『東叡山開山慈眼大師縁起』や『徳川実記』にはそれらしいことが書かれているのは事実ですが、その後それを学術的に検証した論文、書籍等はあるのですか。船木景光が父であるというような説が流布されているのですが、それはどういう学術的研究成果に基づくものなのですか。もし、そのような学術的な資料があれば教えていただきたいと考えます。『徳川実記』や『寛政重修諸家譜』に記載されているものは、すべて事実で学術的に認知されたものである、というような乱暴な考え方はされていないと思います。『徳川実記』などに記されていても、他にそれを示すものがなければ事実とは認めないのが基本的ルールです。天海葦名説の場合、例えば、天海が「丸に二引き両」(足利または遠山の家紋)と三宅輪宝(三宅の家紋)を用いていること、あるいはその周囲に葦名氏を感じさせる人脈が全くないことなど、その説をうかがわせるものが何もないことです。天海を秀満とした場合には、それらの矛盾点がほとんど合理的に説明できます。先にも述べましたが、多様な現象を合理的に説明できる(反論に耐えうる)答えを見出すことが学問であり、学術的な判断です。それは自然科学でも社会科学でも変わらないと考えます。

・明知遠山氏と土岐明智氏の同一化を図る説は、現在の恵那市明智町を中心に主張されている

→明知遠山氏と土岐明智氏の同一化を図ろうとしているような方は、当方の知る限り明智町にはいません。単に、遠山景行と明智光安を同一人物と考えているということで、氏族そのものを同一化しているのではありません。景行より前の明知城主は遠山景保であり、後北条氏に仕え江戸城代となった遠山直景は景保の子(あるいは弟か)といわれています。遠山直景の系統の事跡については、インターネット上の「武家家伝」の武蔵遠山氏の項、あるいはWikipediaの該当箇所に詳しく載せられているので参照ください。明智光安と遠山景行が同じ人物かどうかというのは、その時代の東美濃に関するさまざまな記録を集めれば、もっとも反論に耐えうる説であることは容易に説明できます(もちろん、表向きの記録を集めても答えは出ませんが…)。なお、明智町では明智光秀の生誕地という言い方をしていますが、これは多分に観光宣伝で、郷土史家がすべてそう考えているわけではないので、そのあたりは混同されないほうがよいと思います。

61.209.160.219様かと思いますが、本文、部分的に四寝ないような加工がされている点、明らかに重複・誤記の部分は見直させていただきました。重要部分読めないようにされては、他の方からの意見をいただくことができなくなります。

61.209.160.219様のようなご意見は、歴史学のコミュニティのすべてとは思いませんが、一部を代表するものと認識いたします。そのような意味では、大変勉強になります。正直申し上げて、61.209.160.219様のようなご意見は、科学的な思考に基づくものとは申せません。その実体のない権威主義的なものの言い方は、例えば旧石器捏造事件において、地層絶対主義を掲げ、矛盾点を無視、反論を封殺した事例を思い起こさせるものです。61.209.160.219様は、この明智光秀関連の歴史に相当お詳しいものと期待していましたが、残念ながら硬直した議論にとどまって、学術的な議論、すなわち反論に耐えうるものは内科を見出すさ議論に発展しません。それどころか、真実を明らかにするという本来の学問・学術に反する行為を「学術」の名の下に行っているに過ぎないように思われます。61.209.160.219様は、当方と違ってまだお若いようですから、歴史学のコミュニティの一部に残る柔軟性に乏しい思考から抜け出し、より確からしい事実を見極めて、広く国民に伝えていってほしいと願うしだいです。 平成18年11月23日 Hironaga


Hironagaさんへ。61.209.160.219です。まず、私は、Hironagaさんのノートの改竄などしておりません。証拠もなく他人に罪を着せるとは、正気の沙汰とは思えません。厳重に抗議します。また、私がペンネームを付けるようにとこのとですが、Hironagaさんのように真正な署名もしていない方に言われる筋合いはありません(これはもう随分以前から、何人もの方に指摘されているのをご存知ないのでしょうか)。
それから、Hironagaさんには論理思考ができないのでしょうか? 「明知遠山氏と土岐明智氏の同一化を図ろうとしているような方は、当方の知る限り明智町にはいません」と言いながら、すぐ後に「遠山景行と明智光安を同一人物と考えている」人はいる、というのは理解に苦しみます。まさに同一化を図っている人がいると、指摘していらっしゃるではありませんか。
明智町との関連は、絶対に指摘しておくべきです。捏造のインセンティブの存在を疑うに足る合理的な根拠があるわけですから。Hironagaさんのように、根拠薄弱な自説をゴリ押しし、あろうことか他説を排除するのにやぶさかでない態度をみれば、より強く感じるところです。
あと、たしかに捏造事件はありましたが、歴史学の先達の努力の結果を全否定するのは驕慢といわざるをえません。それも、演繹法と帰納法の区別もつかない程度の御仁が主張されるのでは、まともに扱ってもらえないのは当然です。無知だからこそ、そのような単純な二分法ができるのかもしれませんが。
とにかく、相手が自分にとって都合の悪い主張がたくさん行い、しかも論破できないからといって、自力救済に逃げるのはやめて下さい。それは「テロリズム」です。(61.209.160.219)--218.218.131.178 2006年11月23日 (木) 00:26 (UTC)
市町村の記事を主に編集をしているものとしては、町おこし的な話題はとても百科事典として有用だと思います。それを、本元に書くに値としないような俗説であれば明智町に書いてもおもしろいかもしれません。それならば歓迎しますが、Hironaga様はいかかでしょうか。--Knua 2006年11月23日 (木) 01:16 (UTC)

61.209.160.219様へ(その4)

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順番に整理してお答えします。まず、「明知遠山氏と土岐明智氏の同一化」の問題ですが、このように書くと土岐明智氏は代々明智町を本拠としていて、明知遠山氏と同一だという意味になります。明智光秀に関する可児長山と明智町の議論の一部には、先祖代々その地に住んでいたという意味合いが含まれているときがあります。それを意識して書かれていないとすれば、単に「明智光安と遠山景行の同一化」と書くべきです。両者では明らかに意味が違います。『恵那叢書』は、『恵那古城志』等をもとに明治時代に阿部直輔(栄之介)が編纂したものです。阿部直輔については、インターネットでもそれなりに事跡を確認できますが、明智町と直接関係する人ではありません。

明智光安と遠山景行が同一かどうかは、このほかのさまざまな情報から判断する必要があります。『美濃国諸旧記』などには、すぐ下の弟として光久が記されていますが、それに該当する人物が小里光忠です。この当時の小里氏が光秀と親戚であることは、『兼見卿記』の元亀3年(1572年)12月11日条で、「明知十兵衛尉折帋を以て申し来たりて云う、濃州親類の方より申し上げる也、山王の敷地に新城を普請せしむる也、それ以来不快也、今度別して祈念の儀憑み入るの由申し来たる也」、とあることです。この頃、美濃で築城といえば小里城になるからです。

1552年6月に土岐(明智)定明が弟の定衡に招殺され(『明智物語』等)、東美濃に盟主がいなくなったとき、御嵩城主の小栗信濃守が土岐高山城に攻め入ったのですが、それに反撃したのが武田氏を後ろ盾にした遠山景行と小里光忠です(『濃州小里記』等に記載されていますが、インターネットでも多数確認できます)。御嵩城というのは。可児長山城に隣接しています。この戦いで、信玄配下で、遠山景行と小里光忠が東美濃の実質的盟主となります。『美濃国諸旧記』の記述では、光秀を光安と光久が後見したように記載されていますが、ともにが東美濃で勢力を有していたことは共通します。年齢も、『美濃国諸旧記』と『濃州小里記』や『明智年譜』とほぼ一致します。斎藤義龍が1556年9月に明智城(可児長山城)を攻めた際、『武功夜話』には織田方が支援に向かったとあるのですが、『明智年譜』には遠山景行と信長の密接な関係が示されています。景行は出家して、「宗叔」を名乗るyのですが、『美濃国諸旧記』などに光安は同じ音となる「宗宿」で出てきます。また、『美濃国諸旧記』には光安の子に三宅姓が見られますが、景行の妻は三宅氏でそれも共通しています。これだけの共通性があるのですから、明智光安と遠山景行が同一という意見が出てきてもなんら不思議なことではありません。それを最初から捏造と決め付けるのは相当な暴論だと考えます。

明智光安=遠山景行、あるいは遠山景玄=明智秀満も、さまざまな情報をもとに、最も矛盾の少ない(反論に耐えうる)答えとして導き出せるものです。「根拠薄弱な自説のゴリ押し」というようなことを言う前に、このほかにどういう矛盾点があるか、その反論を具体的に述べるべきです。これまでのところ、『寛政重修諸家譜』の記載の一件以外に反論はいただいていないと認識しています。『美濃国諸旧記』にしても、あるいは『濃州小里記』にしても、それぞれに都合よく書き改めているというのは事実であり、そのような視点で吟味しながら見る必要がありますが、相互の関係を見れば何がより確からしいかはそれなりに絞り込まれてきます。明智光秀関係については、とりわけ系譜等の改ざんが多いわけで、旗本遠山氏が提出したと思われる、『寛政重修諸家譜』の該当部分の記述が事実と言うのなら、ほかのソースの異なる情報でそれ補強することが必要と考えます。

天海=秀満が誤りということについて、例えば天海葦名説が正しいという観点から、反論・主張していただいても結構です。否定するだけでは、何がより矛盾のない事実かの答えを見出せません。そもそも、61.209.160.219様の主張を読ませていただくと、より正しい事実を明らかにするというのではなく、否定のための否定、そういう論理を展開されているように思われます。わが国の歴史学のコミュニティには、光秀のような問題にはそのように対処しようという傾向が一部にあることは理解しておりますが、もう少し具体的な情報をあげて受け答えをしていただきいと考えます。

歴史学の先達の業績を全否定と述べられていますが、光秀に関してはそういわざるを得ない部分が少なくありません。この分野において、優れた見識をお持ちの方を何人か知っています。しかし、それをそのまま公にされることはない、というのも紛れもない事実です。61.209.160.219様のこの間のご意見を聞く限り、それなりの学術的な立場におられると推察いたしますが、その立場にふさわしい学術的な議論・反論が展開できますよう切に希望いたします。 平成18年11月23日 Hironaga

Knua様 ご意見ありがとうございます。この問題は、町の話題というのではなく、わが国の歴史あるいは歴史学の本質的問題を議論しているものと理解しています。Knua様は、その欄をさっと読ませていただいた限りでは岐阜県の教育関係の方とお見受けしますが、光秀については郷土の人間でありながら教育において扱いの難しい対象であるとお察しもうしあげます。光秀については、もう少し事実を事実として学校でも教えられるようにしていくべきであろうと思います。このあたりの考え方は、必ずしもKnua様と一致しないかもしれませんが、中央の歴史がそのまま事実的発想、あるいはその押し付けは多少見直されるべきと考えております。 平成18年11月23日 Hironaga

Hironagaさんへ。まず、証拠もなく、他人にノート改竄の罪を着せておいて、知らんふりは許されません。改めて厳重に抗議するとともに、釈明を求めます。
それから、当方は、景玄=秀満説を前提とする秀満=天海説は成り立たないといっているのであって、天海が芦名氏出身だろうと他氏出身だろうと、そうした議論とは互いに独立しており、影響はされません。Hironagaさんは、議論の独立性についてもご知見がないようですね。
論理的思考もできず、ある議論が他と独立しているか否かもわからず、演繹法と帰納法の区別もできない。これでは、当方が縷々行ってきた説明の妥当性をHironagaさんが理解できないのは、Hironagaさんの基礎的能力の欠如に原因があると断じることも許されるでしょう。しかし、そんな程度の御仁が、他説を排して自説をゴリ押しし、あろうことか歴史学界を全否定するのですか? いや、その程度だからこそ、そのような暴挙を平気でやってのけるというべきでしょうか。(61.209.160.219)--211.3.114.48 2006年11月23日 (木) 07:29 (UTC)
一応、あまりに目に余る点は適宜反論しておきます。まず、以前も少々触れましたが、『明智物語』や『濃州小里記』、『美濃国諸旧記』などは、秀満の頃よりずっと後の江戸時代に、在地の人物(つまりアマチュア)によって、虚実織り交ぜ脚色して書かれた「軍記物」です。要は、「物語」や「文学」とみるべきものです。ですから、これだけを根拠にするということは、例えていうなら、「功名が辻」や「利家とまつ」のみを根拠に百科事典に記事を書こうとしているのと同じです。
それから、沼田藩主家伝来のいわゆる土岐文書によれば、土岐明智氏の全盛期の知行地は、美濃国土岐郡、多芸郡、武芸郡、尾張国海東郡(+武蔵国の一部)にわたっており、また、明智姓の由来となった明智荘は可児郡ですから、むしろ土岐郡から西方にかけて勢力を持っていたことになります。遠山氏の勢力圏であった現在の明智町を含む恵那郡(土岐郡の東方、遠山荘)は全く入っていません。
さらに、明智定明がその弟・定衡に殺されたというのも一般的な説では全くありません。仕えていた土岐頼芸の追放に関連して、斎藤道三の手にかかったというのが有力説です。そもそも、定衡なる人物を記載した良質の史料がありません。(61.209.160.219)--211.3.114.48 2006年11月23日 (木) 08:31 (UTC)

61.209.160.219様へ(その5)

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まずお詫びを。投稿のボタンを押してもうまく入らないことがあることがその後わかりました。この問題につきましては、こちらの操作ミスであり、深くお詫びいたします。

今回、いろいろと意見をいただき、建設的な議論ができそうで何よりと思っております。まず、『濃州小里記』、『美濃国諸旧記』などにつきましては、それぞれの都合に合わせて(江戸時代後期くらいに)書き換えられていることは、間違いありません。したがって、これらの書き物については、相互に比較し、より正しそうなものを選択する必要があります。例えば、明智定明がその弟・定衡に殺されたことは『明智物語』のみにあって、沼田家譜のほうでは斎藤道三の陰謀という書き方になっています。道三が頼芸を美濃から追放したときとは、時間的に少し間があるので、それとは直接関係ないと思います。この問題、沼田土岐家にとっては、兄弟の内紛は不都合なわけで、第一義的には『明智物語』のほうがやや信頼が高いということになります。定衡の背後に道三がいた可能性も考えられますが、『明智物語』にそれをうかがわせるものは見られません。『明智物語』では、土岐に入った定衡を定明の家臣が討ち取るのですが、その後の美濃の状況、あるいはその子(土岐定政)が母の実家(母の父は菅沼定広)に逃げざるをえなかった状況からすると、やはり『明智物語』のほうに信憑性があります。

都合の悪いことはか書かない例としては、『明智年譜』には武田氏との協力関係が抹消されているのに対し、『濃州小里記』にはそれが記されていたりします。明知遠山氏にとっては景行を殺されただけでなく、武田氏に明知城を攻め落とされていますから、間違っても武田氏との蜜月時代は書けなかったのであろうと推察できます

これらの書き物は、慎重に吟味する必要がありますが、これは、『寛政重修諸家譜』や『徳川実記』などに対しても同様と考えます。いずれにしても、『寛政重修諸家譜』などは全面的に信用できて、『美濃国諸旧記』などはすべて造作というのは言いすぎです。わが国では、貴族の日記類でも改ざんが行われるのであり、その種の資料を一切無視したら歴史が空白になってしまいます。

次に、遠山氏の勢力範囲の恵那郡は土岐明智氏の所領に入っていないという問題ですが、この時代(15世紀から16世紀)、遠山氏は土岐氏(正確には土岐明智氏)の被官的立場であったということです(これは教科書的な書き物にも載っていることです)。それと、地方領主同士で、密接な婚姻関係を結んでいることです。また、土岐明智氏が遠山氏に養子を出し、跡を継ぐようなことも頻繁に行われたと考えます。岩村遠山氏の系譜を見ていただくとわかるのですが、うまく繋がらない部分が少なくありません。これもその事情を物語るものと考えられます。土岐明智氏と遠山氏は、その両者だけでなく隣接する三河の鈴木氏や三宅氏とも密接な婚姻関係を結んでいたことは言うまでもありません。 根異性18年11月23日 Hironaga

Hironagaさんへ。61.209.160.219です。ノート改竄に当方が無関係であったと認めていただいたということで了解いたしました。
さて、「遠山氏は土岐氏(正確には土岐明智氏)の被官的立場であったということです(これは教科書的な書き物にも載っていることです)」とのことですが、ちょっと待ってください。教科書に載っているのは、「遠山氏は土岐氏の被官的立場であった」ということであって、(正確には土岐明智氏)というのは全く載っていません。
なぜ、遠山氏が土岐氏の被官とされえたかは、室町期の守護に与えられた特権ゆえです(これは、高校教科書なら載っていると思います)。この特権は、守護の一身専属的なものであり、たとえ兄弟であっても守護となった者とそうでないものは決定的な差が生じます。だからこそ、応仁の乱をはじめ、守護大名の後継争いが激烈を極めるのです。したがって、守護でない土岐明智氏に置き換えることは適当でなく、むしろ土岐明智氏は、幕府奉公衆として遠山氏と同等の立場というべきです。
また、秀吉の時代や明治以後の一時期はともかく、江戸時代の光秀は、Hironagaさんの仰るような、触れるも憚り家譜も偽造しなければならないような存在ではありません。第一、Hironagaさんの秀満=天海説と矛盾してしまいます。もしそうならば、光秀の重臣が生きてなどいられません。春日局も然り。さらに旗本妻木氏の記録について、遠山氏や小里氏のように徹底した改竄がされていないのも不自然です。明知遠山氏よりも、もっと光秀に近い縁者だったのですが。
それから、定衡なる人物ですが良質な史料にでてこないので一蹴してもよいのですが、問題点を指摘しておきます。土岐明智氏の歴代は、頼尚-頼明-定明-定政-と続いており、頼尚以前の通字は基本的に「頼」です。とすると、頼明と定明の間が不自然になるのですが、「明」を分け合っているので、まあよいとしましょう。とすると、頼明の子である定明の弟は、定○ではなく、○明となるべきです。なお、沼田藩主家の通字は「定」なので、それを見て後世の人物が面白おかしく創作した可能性も指摘できます。「軍記物」には、娯楽性も重視されたのですから。(61.209.160.219)--211.3.114.48 2006年11月23日 (木) 12:06 (UTC)

61.209.160.219様へ(その6)

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沼田家譜には、守護の土岐成頼は土岐明智氏の出とあります。いろいろと意見がありますが、これは事実と判断できます。したがって、その子政房の系統も明智氏と考えられますが、成頼と政房は不仲(幕府への出仕をめぐって立場を異にした)であり、明智氏としての家督は3男頼尚に与えられたと判断できます。頼尚の後は次男の頼明が家督を継ぎますが、「土岐文書」などを読むと頼明が東美濃において、特別な立場であることが読み取れます。

江戸時代初期は確かに光秀ははばかられる存在ではなかったと思います。しかし、綱吉以降くらいでしょうか、朱子学が官学として普及して以降はそうとはいえません。『美濃国諸旧記』などは江戸時代後半に手を加えられ、修正されていると言われています。徳川は、外様でありながら細川家を優遇していますが、その大きな理由は細川ガラシャの死が関が原での戦勝に貢献したからとも言われています。その論からすると、逆に光秀の関係者は優遇されていたとも推定できます(春日局の夫稲葉正成も、それなりに貢献しています)。したがって、貴殿の言われるようなことは、天海=秀満説と矛盾するものではなく、徳川初期には特別に優遇されていたからこそ、天海や春日局(ほかにも光秀関係者はいます)が大きな影響力を有することができたと見ることもできます。

系図の問題ですが、旗本遠山氏や小里氏の系図は、光秀と関連する部分が消されている(遠山景行や小里光忠の出自があいまいになっていること、他に景玄の問題など)だけで、ほかは大きく改ざんされているとは思いません。妻木氏の場合、同じ明智氏といっても少し光秀とは離れているので特に修正する必要はなかったと思います(煕子は広忠の実子ではなく養女であると言うような説もありますが…)。

定衡なる人物ですが、結局『明智物語』の信憑性をどう見るかということになります。多少お怒りになるかもしれませんが、これまでに述べてきたように、光秀に関しわが国の歴史学はバイアスをかけて見るために、学問としての正常な判断に欠けている面があります。その偏見を捨てて『明智物語』を読むと、かなり信憑性の高いことがわかってきます。文面から察してまだ読まれていないようですが、一度精読されることをお勧めします(天理大で出版されています)。『明智物語』は、『明智軍記』とは性格の異なるもので、個人の記憶違いで(あるいは思い込みで)誤っている部分があるかもしれませんが、全体的に見て不自然さはあまり感じられません。光秀に関しまだ偏見の残っているような説が主流の歴史学会では、物語になってしまうかもしれませんが…。

61.209.160.219様は、歴史学のコミュニティでそれなりのお立場とお見受けします。そのお立場からすると、先輩諸氏の論と異なるものは容認しがたいということかもしれませんが、明智光秀に関して、歴史学は学問としての機能をこれまで果たしてきませんでした。歴史はどうしても政治に影響されるからでしょうか。そのような政治的風潮に迎合したもの(歴史学ではなく道学という)をあたかも真実の歴史とするという行為は、いわゆる捏造に当たるものと考えます。いろいろとお立場がおありでしょうから、光秀に関し真実を明らかにしてほしいとは申しませんが、政治的に歪んだものの押し付けへの積極的な加担者というお立場になられないよう願うばかりです。先輩諸氏の論を読むだけでなく、その原典に直接触れて光秀に対するより正し理解を深めていただければ幸いです。 平成18年11月24日 Hironaga

(追記) 

系図といえば思い出しました。『寛政重修諸家譜』の旗本遠山氏や妻木氏の系図をご覧になっておられるということなので、もしお時間があれば下記の点について確認いただければ幸いです。

・①遠山景玄の妻(一行の母)、一行の妻(阿子の母)
・②明智光廉(三宅長閑斎)の妻(光秀の長女・次女の実母)
・③妻木煕子の母

①については、いずれかあるいは両方の妻が武田氏あるいはその家臣の家の出であったと思われます。そのために、『明智年譜』では抹消されたものと思われます。一行については、小牧・長久手の後も、依田(松平)康国に従って信州にいました。一行は明知遠山の当主であり、いくら利景の妻が家康の縁者とはいえ、このような行動を取るのは、依田氏と特別な縁があったからとしか考えられません。それでもまお、納得のいかない部分があります。旗本遠山氏には、まだよくわからないところが幾つかあります。

②についても、武田の関係者だからよくわからなくなっているように思われます。「明智系図」で光秀の長女と次女は徳川の重臣に再嫁したように書かれているのですが、その真偽は明智氏側からだけでなく、母方との関連からも調べる必要があります。

③については、伝聞の類なのですが、煕子の母は水野氏(忠政の娘か孫)という説があり、その虚実を確かめたいとかねてから思っていたところです。本能寺の変では、水野忠重が助けられ、また常滑城主の水野守隆(妻は水野忠政の娘)が光秀に味方するなど、明智氏と水野氏の関係をうかがわせる事例が幾つかあります。しかし、煕子の母は水野氏についての状況証拠はあっても、確定証拠がありません。煕子の母が水野氏だと、光秀と家康は親戚になります。それでは不都合なのか、明智氏と徳川氏の関係については、意図的に消されている部分(②の関係も同じく公式には認められません)が少なくありません。わが国の系図というのは、そういうものなのでしょうが、歴史の真実に近づくのは改めて難しいものだと実感しております。

本件、自ら国会図書館などに行って調べるべきものですが、何分障害者手帳を受給する身となり、遠出がままならなくなった状況で大変申し訳ありません。


Hironagaさんへ。61.209.160.219です。まず、寛政重修諸家譜は、今すぐに確認できる環境にないので、今しばらくお時間を下さい。ただ、このレベルの諸氏ですと、戦国期の当主らの母は無記載、あっても「某氏」というのがむしろ一般的です。あまりご期待に添えないのでは、とは思います。
なお、誤解なきよう申しますが、当方、日本史が専門ではありません。社会科学の一分野とだけ申しておきましょう。制度を学ぶ者にとって、歴史の探求は必須でありますが、東美濃の遠山氏と土岐明智氏(主に光秀誕生まで)の研究は、あくまでも趣味として、です。ただ、興味を持ったのが子供の頃からなので、自治体史や一般の書籍で関係がありそうものは、ほぼ読んだと思います。さすがに学術論文の全てにまでは手が回っていないと思いますが。また、子供の頃は、恵那市(当時は恵那郡でしたが)明智町の旧跡やら説明やらで、そこが明智光秀ゆかりの地だと信じていました。
と、前置きが長くなってしまいましたが、問題点を指摘します。
・土岐成頼が土岐明智氏の出との断定は尚早です。一色氏の出自とするのが一般的でしょう。
・仮に土岐成頼が土岐明智氏の出身だとしても、美濃国守護が土岐明智氏とはいえません。成頼より後の歴代守護は明智姓を全く称していませんし、明智姓は頼尚以降、歴代守護とは独立した系統が相続しています。吉宗以降の徳川宗家を、紀州徳川家と言わないのと同様です。
・明智定明が東美濃で特別な地位にあった、と仰っていますが、具体的な記述をご教示いただけませんでしょうか。
・「妻木氏の場合、同じ明智氏といっても少し光秀とは離れているので特に修正する必要はなかった」と仰いますが、光秀の妻・煕子の実家(養女であろうと)ですし、広忠以下一族の多くが明智方として落命したとされています。妻木氏が特に修正する必要がないほど関係が薄いと言うのでは、これだけで御説を却下しても十分なほど致命的な検証不足と言わざるを得ません。
・『明智物語』の全てが創作だとは言いません。しかし、そうした類のものを主たる根拠とするものを、いくつもある説のひとつとしてならともかく、他を排して唯一の説として百科事典に記載しようとするのはいかがなものでしょうか。「功名が辻」や「利家とまつ」を根拠に、これが絶対の事実だとゴリ押しする事態に出くわされたら、Hironagaさんも悪い冗談だとお思いになるはずです。
それから、自説が認められるということと、他説を排除できるということは同じではありません。とくに、歴史学の分野では、数的に十分な史料が揃っていることからして、そう多くありません。限られた史料について、その信頼性を吟味して取捨選択し、解釈を行うのですから、ある出来事に対して、いくつかの説が共存することは何もおかしくないのです。ただ、根拠となっている史料の信頼性があまりに劣っていたり、無理な推論が行われていたりすれば、ひとつの説としてすら認められないのは当然です。
年長者とおぼしきHironagaさんに対して不躾な言の数々、平にお許し下さい。しかしながら、今後はどうか、ウィキペディア本文にては他人の主張を今少しく尊重して下さいますよう。(61.209.160.219)--220.212.99.157 2006年11月24日 (金) 14:22 (UTC)

61.209.160.219様へ(その7)

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明智一族に関連した「土岐文書」、当方は美濃源氏フォーラムの発表資料をいただいて参考にしています。貴殿から美濃源氏フォーラムにアプローチ可能と思いますので、一度お試しになって資料を集められうとよいと思います。それから明智頼明と足利幕府の関係等を読み取ることができます。当方を通すより直接核に似た抱くのがよいと思います

沼田家譜にある土岐成頼=明智頼弘に異論があるのは、ひとつは明智氏に対する歴史学コミュニティの偏見であろうと考えます。一色というのは、丹後(丹波)の一色氏というのではなく、瑞浪市にある一色という地名(瑞浪市一色町)に由来するものと判断しています。対外的には、源とか土岐あるいは明智というっても、それでは互いに区別できないので、それぞれの地名を苗字として用いることになります。例えば妻木広忠が、一方で明智藤右衛門と称していることです。土岐明智氏の祖は土岐頼貞の9男頼基です。頼基の母は正室(北条氏)であり、当時の常識では頼基が土岐市の本家となります。土岐氏第3代美濃守護に頼康がなったのは、頼基の姉妹が頼康の妻であったこと(正室が娘婿を選んだという意味)も関係していると考えています。頼基には、同母弟に頼兼、頼明、頼忠がいて、広い意味ではこれらの兄弟を含めて明智氏とすることもあります。この時代のみのの歴史を読むとわかるのですが、その頼明が守護を継いだ(実際には家督を継いだのか)というように説明されているものもあります。土岐市美濃守護第5代の頼忠については、頼康の弟とするものが多いのですが、実際には義理の弟と考えるべきです。頼忠から見て、頼基の系統は本家(明智氏だけでなく土岐氏としての)に当たるわけですから、成頼が守護となったのはそれほど不自然なものとは思いません。『明智物語』には、いかにも土岐氏の本家ゆかりの品を明智氏が伝えていたように読めます。今日沼田土岐家(明智氏本家)が土岐市全体の本家として扱われていますが、それはそのような歴史的経緯を踏まえているからと判断できます。歴史学コミュニティのバイアスがかかっているため、そこまで言う歴史学者はいませんが…。

妻木氏の系図に対する当方の意見について述べられていること、少し考えすぎという感じがします。小里氏にしても、旗本遠山氏にしても、系譜を勝手に造作しているわけではなく、大部分は正しいのです。修正するのは、そうせざるを得ない事情があるわけで、そのレベルにかかわらず不都合なものはすべて修正すると言うことではなかったと判断できます。

特に異論を唱えられているのは、秀満=天海の部分だろうと思います。個人的には天海の家紋が明確になった時点で、説ではなく事実とすべきと考えたのですが、ここはひとつの説という形で示したわけです。理由は、すでにいろいろと述べているので再掲いたしませんが、さまざまな状況からそう判断できるわけで、『東叡山開山慈眼大師縁起』などの書き物以外に何の根拠もない天海葦名説と比べようのありません。世の中、自然科学の世界でも絶対的事実というのは存在しないように、歴史において絶対正しい、というものはありません。時代あるいは人によって、判断が異なるのは当然です。だからといって、歴史は自由に作ってよいものではありません。歴史で重要なことは、そこから学び取って、将来に活かしていくということです。自らに都合よく解釈するのでは、何も学べません。可能な限りその実像に迫り、その本質に触れることが重要です。

この問題に当方のドグマを指摘されておりますが、正当な意見(適切な反論)があればそれに対応して直してきたわけで、その姿勢は今後も変わりません。議論が長くなりましたが、とりあえずひとつんの説という形で、秀満を載せたいと考えます。

この分野(明智光秀関係)、歴史学のコミュニティにおいて専門家と呼べる方はほとんどいません。本業ではないにしても、この分野についてさらに研鑽を積まれ、その第一人者になっていただきたいと考えます。当方、この先あまり長く生きれるとは思っておりません。この分野をさらに研究されるというのなら、いずれ当方の持っている資料一式を貴殿に寄贈したいとも考えております。今後ともよろしくお願いいたします。平成18年11月25日 Hironaga


Hironagaさんへ。61.209.160.219です。議論が拡散する一方ですし、これまでの対話によって重要な点が明らかになったと思いますので、ここで最初に立ち戻りたいと思います。
元亀3年頃に遠山景玄が他家へ養子に行ったとするHironagaさんの説に対し、当方は、老齢の父と後見が必要なほど若年の嫡子を残して30代半ばの武将が他家に養子に出るのはきわめて不自然である、と指摘しています。
これに対して、Hironagaさんは、全く自然であるとのお答えをいただきましたが、その後の議論において、景玄が養子に行ったと直接に言及する良質な史料の提示はありませんでした。
以上を踏まえると、景玄が養子に行くのが自然であることを証明するためには、同時期に他家で同様の事例がめずらしくないこと(より具体的に言えば、そういう事例が数多く存在すること)を提示する必要があります。なお、他家の多くは、明智光秀と関係が深くないですから、この観点からの史料の偽造・改竄を心配する必要はありません。
それから、Hironagaさんとの議論でわかったのは、江戸期に光秀関係の資料の偽造が生じたのは、綱吉以降としていらっしゃることです。しかるに寛永諸家系図伝の編纂は、家光の時代であり、その後は幕府公文書として保管されていたものですから、廃絶してしまった小里氏はいうに及ばず、たかが一旗本に過ぎない遠山氏が偽造や改竄などできるものではありません。
寛永諸家系図伝には、景玄の死期について言及はありませんが、その子・一行の項に、父の死後に叔父である遠山利景の養子となった旨の記述があり、景玄=秀満説とは相容れないこととなります(繰り返しますが、寛永系図は家光の時代の編纂ですから、ここでは、いつものHironaga説の観点からの偽造・改竄の可能性を主張することはできません。)。(61.209.160.219)--218.218.131.140 2006年11月25日 (土) 09:04 (UTC)

61.209.160.219様へ(その8)

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61.209.160.219様にはなかなかご理解いただけなくて残念なかぎりです。すでに述べたように、三宅高貞の亡くなったのが1572年、その養嗣子の高清が戦死したのが1561年ごなります。恐らく、高清が亡くなってまもなく景玄が三宅を継いだものと考えられます。景行は1509生まれですから、高清の亡くなったときの景行の年齢は50代前半となります。一行が幼かったには事実としても、景行が老齢というのは正確ではありません。それと、「明智系図」に遺跡号三宅弥平次とあるように、景玄は三宅氏の名跡を継いだのであり、実家(明知遠山)と縁が切れたわけでもありません。光秀の配下に三宅姓の武将がいることからすれば、三宅一族の一部を引き連れて弥平次が明智軍に加わったとも見ることもできます。

家督を継ぐという問題については、例えば、織田信雄が北畠氏、信孝が神戸氏の名跡を継いだからといって、織田家を捨てて、全面的に北畠氏、神戸氏の人間になりきって行動したとうことではありません。三宅弥平次の場合、三宅氏あるいは明知遠山というより、光秀とともに行動することが多かったわけですが、別にそれが異例というようには思いません。不自然というのは、多分に現在の養子という概念でそれを狭く考えすぎているからであろうと思われます。

寛永諸家系図伝の件、原本を見ていないのですが、そう書かれているといううことであればそうなのでしょう。景玄については、旗本遠山家の菩提寺にである龍護寺に墓がないことは述べましたが、それ以前の安住寺(明智町杉野)にも、景行の墓はあっても景玄の墓は見当たりません。その景行の墓碑には、  ‐景行の遠山元祖前相模守嘆一乎内室先逝一十年。   慕レ碑建レ寺為施二田山 称二法名一曰二光林妙珠一。   従然後来元亀辛未極月念八。上村戦場   功成目殺。住持直行遂得二公頭一如レ法葬送   則景行也。上件語者因二光帥一記以揚二大較一   冀後来生二明知一此由無レ怠一祭詞一到二億万年一 とあります。景行が戦死したことは間違いないのですが、景玄については「上村合戦」で戦死したというのは、寛政重修諸家譜をもとにしたと思われるものしかありません。その「上村合戦」について、例えばインターネット上で読める「遠山氏の敷衍」「一三 岩村城主諸氏の交替」に「上村合戦の遠山勢の中心的存在は遠山景行であつた。秋山晴近の精鋭を正面に受けて奮戦して戦死したのである」とあります。これは『明智年譜』等も参考としたものでしょうが、墓碑の記載とも整合します。ここで重要なことは、61.209.160.219様が老齢とされた景行(『上村合戦』の時点で64歳)が戦闘の中心にいることです。その長男で30代のはずの長男景玄が戦死したどころか、その戦争に参加したことをうかがわせる記録がどこにもないことです。

天海の出自等の記録が含まれる東叡山寛永寺元三大師縁起 3卷(沙門胤海撰)は延寶八年(1680)の編纂となっています。その『東叡山開山慈眼大師縁起』において、弟子が天海に年齢等を尋ねた際、天海自身、俗世のことはなにもかも忘れたしまった、と答えています。これを読む限り、在世中から天海は自らの出自を明確にしなくなったということになります。もちろん、編纂段階で改ざんされた可能性もないわけではないのですが、やはりここは在世中から天海の出自をあいまいにせざるを得ない状況が存在したと考えるのが妥当でしょう。そういう状況ならば、旗本遠山の系図も書き換えられる可能性があります。寛永諸家系図伝は寛永20年、すなわち天海の亡くなった年に、太田資宗を責任者としてその編纂が完了しています。資宗は太田重正の子(英勝院の養子)で、武蔵遠山氏(本来の明知遠山氏)の親戚ですから、天海の出自を知っていてもおかしくない人物ですから、旗本遠山だけでなく、資宗などが修正したことも考えられます。

『東叡山開山慈眼大師縁起』のその天海の返答、問題があるとすれば家紋として天海が「丸に二引き両」と「三宅輪宝」を用いていることです。当時は、誰でも家紋を見たらどの家か峻別できたといいますから、家紋を示すということは出自を明らかにするのと同じ意味になります。これは、喜多院建立の際などには自らの家紋を用いたが、高僧になるに従いいろいろと言う人がいて(寛永諸家系図伝の編纂意関係した林羅山も朱子学者です)出自をあいまいにせざるを得なくなったということとなのでしょうか。

寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜が重要な史料であることは事実です。しかし、遠山景玄にたにいては、旗本遠山氏側の記録と矛盾すること、また天海の出自については生前からあいまいにする状況(天海自身の意向)であったと判断でき、寛永諸家系図伝の当該記載をそれだけですべて事実とすべきではありません。そのような一点だけを金科玉条のごとく主張するのではなく、さまざまな状況からより確からしい真実を見出すことが必要です。

先にも述べましたが、『東叡山開山慈眼大師縁起』や『徳川実記』の記載以外に何もありませんから、天海葦名説を学術的に証明できているとはいえません。天海に関しては、その人脈、家紋、筆跡鑑定等、総合的に分析すれば、明知秀満にに結びつくものばかりです。唯一貴殿が否定材料とされた寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜の遠山景玄の死に対応する証拠は、天海葦名説の場合と同様、その記載以外には裏付ける独立したもの(記録、墓等)がありません。景玄の墓でも見つかれば別ですが、その寛永諸家系図伝の記載をもって、遠山景玄→三宅弥平次→明智秀満→天海を否定する絶対的根拠とすることはできません。現状、遠山景行=明智光安の可能性が極めて高いことを考えれば、絶対的な事実とは申しませんが、有力な説としてそのことをWikipediaに掲載することは、他とのバランスを考えても十分なものと判断します。少なくとも、天海葦名説が載せられているなら、それ以上に学術的である天海=秀満を載せてしかるべきです。それは、Wikipediaとしての最低限の義務と考えます。 平成18年11月26日 Hironaga

(追記)しばらく(1週間くらい)パソコンを使用できる状況ではなくなるので、61.209.160.219様のご質問にお答え出来なくなると思います。その点、よろしくお願いいたします。61.209.160.219様には、科学的思考とはそぐわない一点主義の立場から離れ、幅広く歴史を捉えられて、より確からしい歴史は何か、何を国民に伝えるべきか、じっくり時間を取って再考、模索いただければ幸いです。寛永諸家系図伝の記載をあげられるなら、それに対応するそれと別の独立した証拠をもってそれが正しいとして議論に望むようにしてください。それが科学的思考であり、研究者のマナーです。独立した二つ以上の証拠というのは、自然科学なら当然求められることです。また、天海=秀満説否定ということは、天海葦名説を肯定されているのでしょうから、その点についての論考を載せていただければ幸いに存じます。

Hironagaさんへ。61.209.160.219です。まず、以前にも申しましたが、天海=明智秀満説を否定することと、天海=芦名氏説を支持することはイコールではありません。不可分な議論なのか、そうでなく独立しているのか、見分けるようにしましょう。
それから、このノートで、明智頼弘を土岐成頼と同一人物としたうえで、明智頼尚をその三男とする主張をされていましたが、東大史料編纂所の写本(ネット上で閲覧可)には、そのような記述が見当たりません。寛政重修諸家譜のときもそうでしたが、Hironagaさんは史料に実際に当たられていないようですね。
改めていうまでもありませんが、上記は、歴史学に限らす、全ての学問において基礎中の基礎です。当方へのご忠告はありがたく頂戴いたしますが、これでは残念ながら説得力が皆無といわざるをえません。
これまでの経緯も含め、学術的な基礎が全く欠如しているにもかかわらず、積極的に他説を排除し、編集合戦も厭わないというHironagaさんのご姿勢が続く限り、適宜ご議論は申し上げますが、Hironagaさんの記事には「正確性」なりで疑義があるというテンプレートを貼り、Hironagaさんにはご存分に執筆していただきつつ、読者は「この記事はマユツバ」と見て相手にしないという状況にもっていくしかないないのか、と思うに至っています。--61.209.163.26 2006年12月2日 (土) 14:45 (UTC)

61.209.160.219様へ(その9)

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色々と議論させていただき、大変ありがとうございました。寛政重修諸家譜、寛永諸家系図伝あるいは東大史料編纂所にある(権威付けられた)史料だけが信用できて、他の地方あるいは各家の記録などはすべて無視してよいというような61.209.160.219様のご意見は、歴史学のコミュニティーのすべてではないと思いますが、その一部に根強く残されていることがよく理解できました(61.209.160.219様は、歴史が専門でないとおっしゃられていますが…??)。そのような歴史学のコミュニティーにだけしか通用しない「学術的基礎」を身につけていないといわれれば、喜んでその言葉を受け入れたいと考えます。

繰り返しになりますが、このような極端な実証主義的態度は、わが国の歴史学(の一部)でのみ通用するものであり、正しい学問的方法とはいえません。正しいどころか、為政者の都合でのよいように歴史を描き出す捏造の温床としか思えません。このような極端な実証主義的態度を一部の歴史学のコミュニティーの方々がとる主要な理由は、要するに今日においても政治的に微妙な問題を避けて通りたいという方便であろうと考えます。

その結果として、わが国においては歴史の重要部分がほとんどが伝えられていません。それが如何に不幸なものであるか、特に外国人(例えばカレル・ヴァン・ウォルフレン)から見て奇異に映っていることは間違いありません。ウォルフレン流にいえば、わが国においてはそのコミュニティにいる限り事実は語れないのです。歴史学のコミュニティーにおられる方でも、その現状を憂いておられる方が少なくないことも承知しております。

これも繰り返しになりますが、当方の基本的認識は、特に歴史については絶対的な真実はなく、より確からしい事実が存在するだけであるということです。そのより確からしい事実は、さまざまな情報を分析してより矛盾(反論)の少ないものであり、そこに(一部の)政治的あるいは道徳的なバイアスをかけるべきではありません。

そのようなバイアスをかけられて描かれてきた歴史の代表例が明智光秀であり、その関係者であろうと考えます。改めてその理由は申し上げるまでもないでしょう。邪馬台国をはじめとした古代史についても、より確からしい事実の追求が行われているとは思いません。Wikipediaに載るわが国の古代史は、記紀の記述が大部分で、それがあたかも真実の歴史であるかのような書き方になっています。古代史や光秀関連だけでなく、そのほかにも政治的あるいは道徳的なバイアスのかけられたもの(歴史学ではなく道学の世界)が少なくありません。

このような道学的なものに対して、それこそ「正確性」なりで疑義があるというテンプレートを貼りつけなければなりません。そのような記事は、多くが歴史学のコミュニティの方々の書かれたかものと考えられますが、歴史の項目の大部分にその「正確性」に疑義を貼り付ける結果となってしまいます。もちろん、当方はそのようなことはするつもりはなく、疑問のある点についてひとつひとつ意見(反論)を述べ、より確からしい事実を見極めて行きたいと考えます。歴史学のコミュニティの方に描けない部分は、今後も適宜その空白を埋めるよう心がけてまいります。

秀満の記載、61.209.160.219様の御主張は空白にするようにということのようですが、ご意見は一通り入れていると考えており、しばらくはこれでいかがでしょうか。有力な反論があれば(例えば遠山景玄の墓が発見されたというようなこと)、いつでも修正いたしましょう。 平成18年12月3日 Hironaga


61.209.160.219です。論理的な対話がほとんど不可能で、しかも都合の悪いことは陰謀による史料の偽造・改竄のせいにされるので、非常に困りますが、いすれにせよ現在の記述では、諸々の留保(保護や、正確性や中立性での疑義)の解除は問題外と考えます。理由は縷々説明したとおりですが、一言でいえば、新説の披瀝はウィキペディアの役割ではないからです。しかも、史料の信頼性や推考・解釈の論理性の点で不十分とあらば、いうに及びません。
その際、当方は遠山景玄=明智秀満説は掲載すべきでないと言っているのであって、明智秀満の記事を一切空白にしろと言っているわけでは全くありません。秀満の経歴や事績については学術的に認められた説がありますから、それが記述されるべきです。稚拙かつ未熟で独善的な説はウィキペディアにふさわしくありません。
Hironagaさんは何か大きな勘違いをなさっているようですが、歴史上、明智秀満という人物とその事績は厳然と存在しているのであり、後世の人間にとって可視的であるか否かとは全く別問題です(Hironagaさんが自分は全知全能だから、己が知らないということは明智秀満の存在を否定することと同じである、などと仰るのであれば話は別ですが・・・いろいろな点で)。
ここで各論に戻って2点ほど。どうやら景玄の墓所のわからないことがHironaga説の重要な根拠になっているようですが、この時代の武将で墓の所在が伝わっていないことなど普通です。遠山景行の墓があるのは、直系子孫が旗本となって江戸期まで生き延びることができたからでしょう。他方、遠山景玄はそうではない(旗本初代・利景の兄)のであり、子孫が絶えています(景玄の子・遠山一行は慶長年間に早世)。ですから、同じ合戦で討死しながら、前者に墓があり、後者になくてもおかしくありません。
他の例をみても、江戸期に大名として存続した苗木遠山氏の関係では、藩祖・友政の兄・友重が討死していますが、その墓所は伝わっていません。墓所についてHironaga説を採り、生年について1550年代説を採るならば、遠山友重=明智秀満説も成り立つことになってしまいます。
また前々回のノートで、養子に行くことが不自然でないとの論拠に、織田信長の子らを例として挙げられましたが、いうまでもなく嫡男の信忠は養子に出ていません。これでは、Hironaga説を支持するどころか、むしろ不自然だということを補強してしまっているではありませんか。(61.209.160.219)--211.131.246.60 2006年12月4日 (月) 12:40 (UTC)

61.209.160.219様へ(その10)

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遠山友忠の次男友信について述べられておりますが、確かに当方もその墓の所在は存じません。ただこの友信の最後については、阿照羅城での戦いの際、蘭丸山黒血ヶ洞にて自刃した、というように伝承が残っております。遠山景玄の場合、同じ「上村合戦」で死んだ父の景行についてはさまざまに記されているのに、『明智年譜』や『濃州微小里記』等ではその戦死どころか参加したことさえうかがえないのです。

遠山景玄の墓がないのはその後の旗本遠山氏が直系でないからとの御説。確かに遠山利景がその後に建立した龍護寺にないのはそれで説明できるかもしれません。しかし、安住寺のほうにも無いの点には、疑問符が付いてしかるべきです。すなわち、安住寺の景行の墓は、墓碑等から死後まもなく造られたと推定でき、本当に「上村合戦」で景玄が戦死していたら同時に造られているべきものであること。それと、遠山友信と違って、その子の一行が当主として明智遠山を継いでいること、などからです。

いろいろと議論させていただきましたが、61.209.160.219様のこれまで述べられてきたことの根拠は、要するに「寛政重修諸家譜」(あるいは「寛永諸家系図伝」)記載だけで、それだけが正しいという論理です。これは、例えば容疑者が無罪だと言っているから無罪だというのと同じ論理なのです。このような論理は歴史学のコミュニティでは通用するかもしれませんが、ほかの学問領域では相手にもされない論述なのです。これは繰り返し述べてきたことなのでこれ以上述べません。

61.209.160.219様の議論のもうひとつの問題は、議論を狭めて歴史の全体的な流れのなかで物事の判断を行おうとしないことです。あるいは、歴史を否定することはあっても、それに代わるべき確からしい事実を挙げない、という言い方のほうがよいかもしれません。たとえば、『兼見卿記』元亀3年12月11日の記事から明智光秀の親戚が美濃にいてそれが小里氏と判断できること、あるいは明智光安と遠山景行の類似性当を考慮すれば、「美濃国諸旧記」などを元に語られるこの時代の東美濃の歴史が実際とはかなり異なっていることは誰でも気の付くことです。そのような歴史の体系的な見直しにまで踏み込まむことがこの問題では重要であり、学問的により確からしい事実を導き出すうえで必須のものとなります。

小里氏や遠山景行の末となる旗本遠山氏について、公式には(「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」では)明智光秀との関係は一切記されていないわけですが、その理由は改めて述べるまでもないでしょう。したがって、明智秀満に相当する遠山景玄の記述について、「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」をそのまま正しいものとする、というのは通常の意味での学問的態度ではありません。まして、景玄の戦死については、ほかに何も裏付けるものがないのです。もちろん、61.209.160.219様のいわれるような俗書の類にも何も記されていません。

何で議論がかみ合わないのかといえば、要するに61.209.160.219様の論理が歴史学のコミュニティだけ(一部かもしれませんが)で通用するもの、さらに端的に言えばとても科学的とはいえないものだからです。歴史学のコミュニティの中にも、優れた見識をお持ちの方を多数存じておりますが、61.209.160.219様のような極端な排他的なご意見はこれまでに伺ったことがありません。まあ、恥ずかしい限りの主張としか言いようがありません。

61.209.160.219様は、これまでのご意見を読むに、東大史料編纂所に関係されている方とお見受けします。当方の意見は、明智光秀に対してこれまでに東大史料編纂所の方々の出されてきたものとは相対するものであり、そういう意味での感情的な反発が含まれるのかとも想像致します。その感情的なご発言から推定して、いろいろとご事情があるように察します。感情的な議論は疲れるのですが、今日の歴史学の本質的な重要な問題を含んでおり、ここは納得のいくまで議論したいと考えます。 平成18年12月5日 Hironaga


61.209.160.219です。まず当方、東大史料編纂所とは何の関係もありません。先方にご迷惑がかかるといけませんので、これは断言しておきます。また、先日申し上げましたとおり、学術に関わりがないわけではありませんが、日本史のコミュニティとは今のところ無縁です。日本史コミュニティに対するお怒りがあるのだろうと拝察いたしますが、あまりご自身の学術的素養に大きな疑問符のつくようなご発言は控えられた方がよいかとご忠告申し上げます。
そのうえでいくつか。なによりも、Hironagaさんの御説のような、異なる名前を有する複数の者を同一人物であるとする主張が認められるには、きわめて高度な挙証が要求されるのは当然です。たとえば、対象を明智氏や遠山氏レベルまで広げた場合、戦国武将で生年が近い者など、どれほどいるかわかりません。それらについて、最初から仮説を決め付けたうえで、都合の良い史料を取捨選択するというHironagaさんご推奨の方法を採れば、かなりの「同一人物」をでっちあげることができるのは間違いありません。これは学問の自殺行為ですし、過去に国家権力が関与して歴史を捏造したやり方が、まさにこれです。この反省があるからこそ、日本史学が方法論的に偏ったきらいはあるとは思います。
あと、これも当方が遠山友重=明智秀満説を支持していると曲解されそうで怖いのですが、あえて。史料がひとつしかないとして当方を批判しておいでですが、このHironaga流でいくならば、否定する史料がひとつしか示されていない遠山友重=明智秀満説もまた却下には不十分ということになります。また、武田軍の東美濃侵攻では、いわゆる遠山七頭のほとんどが討死したとされていますが、多くは墓も討死の様子も伝わっていませんから、これらの者もHironaga説を採る限りにおいて、明智秀満と同一人物である可能性があることになってしまいます。(61.209.160.219)--218.218.135.231 2006年12月5日 (火) 13:45 (UTC)

61.209.160.219様へ(その11)

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61.209.160.219様の言われるように、名前の異なる人物を同一とすることには慎重な検証が必要です。それは、本来の意味での厳密な史料批判に心がけるということなのでしょう。ここで「本来の意味での」を付けたのは、もちろん今日それが否定のための論理にしか用いられないことが多いからです。たとえば、古事記と日本書紀の間でも矛盾する記述が少ないのですが、矛盾するからすべて否定するというのは、正しい方法論とは思いません。本来は、どういう意図で記紀が作られ、どういう手法(手口)で歴史が改ざんされているかを理解した上で、何が確からしいかを推定していくことが必要です。その推定は決して難しいものではありません。記紀の場合、表向きにかかれたものに造作が多く、神話的あるいはそっと目立たぬように書かれているところに真実が隠されています。記紀に関して、今日そこまで読みきろうという研究者は、当方の知る限り誰もいません。

明智光安=遠山景行の問題も、記紀と同様、表向きの記載には造作が多いわけで、正しい推理を行うためには、そっとかかれたような史料、墓、家紋などを詳細に分析して事実関係を読みきることが必要です。光秀関係については、相互に矛盾する記載が多く、また本当に歴史を読みきる研究者もいないため、表向きの記載から出自不祥などという結論になってしまうわけです。記紀と同じく光秀に関しても、明治以降先学たちが少なからず論じているのですが、御用学的な学説(負の遺産)を築き上げてしまたために、借金で首が回らないというところでしょうか。わが国では歴史学に限らず、師匠の説に反することを述べるのは難しいものがあります。

明智光秀関連については、今日においても、その関係を明らかにしたくないという一族あるいは集団がいることはたしかでしょう。たとえば、喜多院で天海の出自の話は厳禁です。仮に歴史を読みきって,より確からしい事実を推定できたとしても、それをWikipediaに何でも載せればよい,というものではないことは十分承知しているつもりです。たとえば、今回の議論でも多少述べていますが、明智次右衛門光忠=小里光明の問題については、その地元(瑞浪市)で合意ができておらず、より確からしい事実としてもWikipediaに載せることはしばらく(ある程度の合意が得られるまで)控えるべきものと認識しております。明智光安=遠山景行の場合は,小里氏と違って、少なくともその当事者である明智町では基本的に合意ができており、世の中に広めてほしいという応援歌を耳にしております。そういう意味では,このより確からしい事実を広く宣伝していくことに何のためらいも必要ありません。

厳密な史料批判については、特に古代史において皇国史観的な強引とも思える解釈に対するひとつのブレーキとしての機能を果たしていると考えます。ただ、それに走り過ぎるがために、より確からしいと推定される事実まで否定することになり、逆に科学的な推論に基づかない説(皇国史観に偏ったものが多い)が世にはびこる結果となっています。

仮に50%以下の信頼しかなくても、ほかに代わるべきものがなければ、それが最も確からしい事実となります。もちろん最も確からしい事実でも、きわめて信頼性の低いものまでWikipediaに載せてもよいと言っているわけではありません。

世の中には科学的根拠の乏しいきわめて信頼度の低いものが通説となり、あたかもそれが事実かのようにWikipediaにも載せられているものが少なくありません。このような場合、それを全面的に修正すべきなのでしょうが、実際にかなり難しいものがあります。通常は、その通説により確からしい説を追記するという形になります。Wikipediaにはそのような書き方になっている部分が、特に歴史関係では聖徳太子等、幾つか見られます(通説より非科学的なものも少なくないのですが)。

天海の問題については、天海葦名説はあまりに不自然で、その人脈等から光秀説が流布されるようになったのはご存知の通りです。しかし、天海=光秀では、年齢、筆跡鑑定、用いている家紋等、矛盾点が多すぎてとても確からしい事実とはいえません。その点天海=秀満ならば、それらの矛盾点はほとんどなくより確からしい事実ということになります。あえて問題といえば、先に述べたように、喜多院等の関係社寺によっては好ましいと思っていないところがあることです。そのような意見とより確からしい事実の重みの社会的なバランスをどのようにとるべきかはなかなか難しい問題です。

明智秀満=遠山景玄の問題について、その理由はこれまでに述べてきたとおりですが、言い落としたこととして、秀満の子三宅重利(重則ともいう)の末裔(肥後細川家の家臣)の用いた家紋が「桔梗」と「丸に二引き両」とあったことがあげられます(出典が定かでないのですがこれは調べればわかることです)。当方は、この問題について読みきったと認識しています。遠山姓から三宅姓を名乗ったことへの疑問も、特に理由がなくても母方の苗字を名乗る武将が少なくない時代であり、また秀満自身三宅姓にこだわっていないことからすればおのずと答えが見えてくるものと考えます。平成18年12月6日 Hironaga

61.209.160.219です。まず、何度も申し上げますが、天海=葦名氏説が成り立たないからといって、それだけで景玄=秀満説が成立するわけではありません。
なお、天海の出自について、当方は基本的に関心がないのですが、Hironagaさんの家紋を根拠とする御主張は、脆弱といわざるをえません。第一に、輪宝紋は、そもそも仏教由来であり、出自に関係なく仏教関係者が用いる可能性があるのではないかということ。第二に、丸に二字引両はあまりにポピュラーな家紋であり、これをもって遠山氏とは断定できないことです(格子紋であれば、話は別だったかもしれませんが)。
また、母方の姓を名乗った戦国武将は多いとのことですが、老齢の父と若年の嫡子を残して、30代半ばの武将が、他に家を支える兄弟もないまま養子に出てしまった事例がたくさん提示されることを楽しみにしております。(61.209.160.219)--219.66.45.30 2006年12月6日 (水) 13:08 (UTC)

61.209.160.219様へ(その12)

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まず、家紋の問題からお答えします。ここでまず重要なことは、天海が2つの家紋を用いていることです。確かに、「丸に二引き両」は、遠山だけでなく足利氏の系統など、多くの家が用いています。また、「三宅輪宝」も三宅氏だけでなく、ほかに2,3の家が用いていることは事実です。個々にあげれば、どの氏族に属する人物か特定するのは難しいかもしれませんしかし、その2つを同時に用いるということで、その人物の範囲が狭まるのです。また、どういう氏族に属するかは、それ以外の人脈等、さまざまな情報からもある程度推定できるものです。葦名氏というのもひとつの候補になるのですが、家紋が合わないという結論になります。

61.209.160.219様の思考のひとつの特徴かもしれませんが、物事を総合的に見て判断するのではなく、ひとつのものだけを取り出して是非を問われる傾向があります。これは学問的思考ではありません。ヤクザの言いがかりのようなもので、このような思考ではまともな議論ができません。もう少しじっくり考えて、学問的で複合的な思考の上で、知的な議論ができることを希望いたします。

もうひとつのご質問のほうも、なぜ疑問なのかそもそもそれを疑問とする思考過程がわかりません。既に述べたように、遠山景玄には嫡男のほかに僧籍にあるとはいえ弟(利景)がいます。この時代、僧籍にあるといっても、いざとなればいつでも還俗して家を継ぐことが行われるのであり、弟がいないというのは誤りです。父の遠山景行は、元亀3年の「上村合戦」のとき63歳ですが、戦いに参加していることからすれば老齢という言葉で表現されるものとはだいぶ異なります。もう少し以前の議論を踏まえて、十分思考していただきたいと考えます。

似たような例を挙げろということですが、たとえば日本人なら誰でも知っている吉良義央の話からいたしましょう。特に説明は不要と思いますが、吉良義央は長男を妻の実家の上杉氏に養子に出しています。そのとき弟はまだ生まれていません。その弟が亡くなって、逆に上杉氏から養子をもらいます。上杉氏が大大名とはいえ、吉良氏もそれなりの名門ですからそのとき唯一の跡継ぎを養子に出すというのは、通常は考えにくいのですが、そういう例もあるということです。大須賀忠政の場合は、長男でありながら養子となった例です。実父は、いうまでもなく榊原康正です。榊原氏は、跡を継いだ忠政の弟康勝に子がなく、大須賀家を継いでいた忠政の子忠次が榊原氏を継いでいます。

三宅高貞とその養嗣子高清の話は以前にしましたのでそれを読んでください。この時代、隣接する土岐明智氏、明知遠山氏、三宅氏、鈴木氏は、互いに婚姻関係を結んでいるのですが、たとえば鈴木氏と三宅氏などは領地争いをするなど、すべてが良好な関係であったわけではありません。このようななか、遠山景行の立場からすれば、子供が妻方の三宅氏を継ぐというのは、戦略的にもこれほど美味しい話はないわけです。吉良義央が妻方の跡継ぎに長男を出したときも同じように思ったかも知れません。景行の場合は、一行がいてさらに利景もいたわけで、跡継ぎがいなくなる心配は何もなかったのですから、吉良義央と立場は同じではないかもしれませんが…。

この間の議論、61.209.160.219様の述べられていることは、最初から読み進めればわかるように、学問というよりただのヤクザの言いがかりのようなものばかりです。ペンネームも、名乗られていないのですが、名乗られないということはこちらがどういうようにお呼びしてもよいということだと思います。このような愚問を繰り返されるならば、その実態をもう少し広く認識してもらうために、61.209.160.219様を「史料偏差所の歴史マフィア様」とでも呼ばせていただくしかありません。名乗られない以上、それでよろしいですね。 平成18年12月7日 Hironaga


分別ある社会人ならば、相手が自分の都合の悪い主張を次から次へと繰り出すなど思い通りにならないからといって、暴言を吐いてはなりません。「ヤクザ」「マフィア」といった反社会的存在と同一視されることは、最大限の侮辱であり、強く抗議するとともに陳謝を求めます。
なお、当方はウィキペディアのルールに則った署名をしておりますが、それすらなさっていないHironagaさんに、ペンネームをとやかく云われる筋合いはありません。(61.209.160.219)--211.131.247.76 2006年12月7日 (木) 13:40 (UTC)

61.209.160.219様へ(その13)

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本件改めて読み直すと、当方の今日の歴史学、考古学への批判を前面に出した主張への反発から始まったのかもしれませんが、学問としての冷静さではなく、感情的で挑発的な発言が並んでおります。こちらにはこちらの言い分がありますが、ここでそれを繰り返しても仕方ないでしょう。いずれにしても現状、感情的なところで行き詰っているのは間違いありません。ここは第3者を加えて、あるいは第3者の意見を聞いて、必要ならそれから議論を再開したいと思います。本件しばらく第3者の意見が入るまで、(61.209.160.219様の理不尽なご発言があれば別ですが)当方は発言を中断、控えさせていただきたいと考えます。 平成18年12月 Hironaga


議論で叶わないと見るや、他人を無頼の徒呼ばわりして陳謝の弁もなく、そのうえ自らを棚に上げて責任を当方に転嫁しようとするとは、あきれ果てます。Hironagaさんのかかる態度こそ、「感情的」かつ「理不尽」であり、社会人ならば到底許されるものではありません。
また、当方を日本史コミュニティに属する者とみなして敵意を露にされてきたようですが、仮に日本史を専門としているのであれば、あまりにレベルの低い主張を相手にしたところで得るものが何もありません。本業でないゆえに、ここまで議論してきたと言えます。いわんや、東大史料編纂所の関係者と断定し、あろうことかマフィアと関連付けるなど、良識を疑います。
なお、当方はHironaga説の弱点を指摘するに事欠きませんから、議論を続けて全く構いません。(61.209.160.219)--61.209.161.105 2006年12月8日 (金) 11:51 (UTC)

61.209.160.219様へ(その14)

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61.209.160.219様がまた何やら独断的な主張を述べられておりますので、若干誤解の生じないように申し述べておきます。当方が61.209.160.219様の態度が理不尽、というニュアンスで述べたのは確かですが、その前に61.209.160.219様が当方に対し、無知だとか歴史の素養がないなどといった悪口を数多く述べられていること、そのような発言を繰り返されたことが問題のひとつであることはご認識いただきたいと考えます。

先に述べましたように当方からの発言は控え、第3者の意見を聞く形にしたいと願ったのですが、61.209.160.219様がこれまでの議論を無視した発言を繰り返されるので、基本的なところを簡単に整理しておきたいと考えます。61.209.160.219様の基本的な主張は次の2点であろうかと考えます。

①「寛政重修諸家譜」に遠山景玄は元亀元年に死んだとあり、明智秀満(三宅弥平次)とはなりえない。
②30代の嫡男の遠山景玄が老齢の父景行と幼少の一行を残して三宅氏の養子に入るのは極めて不自然である。

最初の①については、光秀関連のについては人物には改ざんされている可能性が高いこと、景玄じゃ「上村合戦」で景行とともに戦死したと解釈されているが、それに関する記録が「明智年譜」や「濃州小里記」等に一切なく、また景行と違って安住寺にも墓がなく、「寛政重修諸家譜」あるいは「寛永諸家系図」をそのまま事実にできないことをの記載が示しております。②については、長男を養子に出した例を幾つか挙げたのですが、その反論はなく、不自然という主張そのものが成り立たないというように認識いたします。

以上のように61.209.160.219様の主張されている点については、いずれもそのまま認めることはできないものです。明智秀満=遠山景玄を判断するもっと重要な判断材料である明智光安=遠山景行について、詳細に類似性を示したのですが、信用できないものばかりとするだけで、具体的には何の反論もありません。秀満と天海の類似性についても、何一つまともに反論されようともしません。

以上から、この議論の問題点は明確であろうかと考えます。地方の地道な歴史研究の成果を一切無視して一顧だにせず、何一つ裏付けもないままに中央の権威を押し付ける、61.209.160.219様の態度はまさにそのような権威主義的、強圧的姿勢そのものです。歴史マフィアという表現は、多少誤解を招くかもしれませんが、わが国の歴史学における権威主義(自分たちだけが正しいという考え方)は、閉鎖性とあいまっていわば伝統的秘密結社(マフィア)といわれても仕方ないものです。

そのような61.209.160.219様のような主張に沿って、権威と矛盾するような地方の説は除いてWikipediaは編集されるべきであると、皆様がおっしゃられるならそれに従いましょう。 平成18年12月8日 Hironaga

まず各論を少々。輪宝紋や丸にニ引両の双方を用いる人物として、他説を排除して明智秀満だというためには、推測だけでは全然不足です。必然性を裏付ける史料が必要です。また、遠山景玄が養子に出た件ですが、類する事例が事例が全く示されませんから、自然だなどとは断言などできません。平和な元禄期の事例では、状況が違いすぎて全く意味を持ちません。また、他の例も兄弟がいるわけですから、これでは不自然だという当方の主張を補強するばかりです。
学術や日本史、ウィキペディア、あるいは社会や日本語に至るまで、何事も「決まり」「ルール」というものがありますから、それを無視して自分勝手に振舞えば、権力者でもない限り、無知あるいは素養がないと看做され、いきすぎれば制裁を受けるのは致し方ないことです。制度はそうやって維持されていくのです。誤解なきよう申しますが、「お前は無知だ」などといつも面と向かって明言されるとは限りませんし、制裁といっても暴力を意味するわけでもありません。一般的な懲罰は、信用の喪失でしょう。
なお、根拠なく相手を特定の関係者と決め付けて執拗に批判を続けるのはおやめになった方が良いと思います。一般的に言えば、これでは妄想に取り付かれているとみなされる恐れが十分にあります。
歴史学の方法論に基づく批判も、今の御主張では全く的外れというしかなく、分野を問わずある程度の学術的訓練を受けた者にそんなことを言えば、学術的素養に欠けている可能性大と判断されてしまうでしょう。どんな学術分野でも、事例の一般化・普遍化による理論構築(歴史学の場合に即せば、戦国武将が謀反を起議論こすのはどういう場合か、数学的に説明する等々)と、個々の事例を探求する実証(あのとき誰がどうした等々)に大別されます(これは、分かりやすいよう、かなり単純化していることはお断りしておきます)。そして、明智秀満という個人の個別の事績について議論をしているにもかかわらず、Hironagaさんが今まで仰ってきたことは絶対に前者を行え、ということです。いかに的外れかお分かりでしょうか。しかもというか当然というか、全く違うことをやっていらっしゃいます。
それから、いくらHironagaさんに申し上げてもわかっていただけないのですが、Hironaga説のように、積極的に事実を創り上げる主張は、きわめて高度な挙証が要求されます。推測が成り立ちうるだけでは足らず、必然性も要求されるのです。そうでなければ、誰かに都合の良い歴史が山ほどでっち上げられることになってしまいます。また、Hironagaさんは、少し抽象度の高い議論をすると、理解が困難でいらっしゃるようであり、しかも当方を歴史学の関係者とみなした感情的な批判に逃げてしまうので、非常に困ります。こうした状態で、他説を排除することにやぶさかでなく不穏当な言辞もいとわないという態度を続ければ、ウィキペディアにおいては遠からず投稿ブロックなどの深刻な事態に至ることは必定であり、他人事とはいえ強く懸念いたします。(61.209.160.219)--211.131.245.57 2006年12月9日 (土) 01:26 (UTC)

UTC様ほか皆様へ

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この議論、何が問題かはご理解いただけたかと思います。当方はこれ以上申し上げません。さまざまな分野の皆様のご意見を伺いたいと考えます。この問題は、Wikiupediaの編集方針にもかかわる話ですから、運営にかかわっておられる方々からもご発言を期待しております。平成18年12月9日 Hironaga

え~と…本論とは関係の無い事ですいませんが…「UTC」は人の名前ではありません。UTCは、協定世界時の事ですよ。--松茸 2006年12月9日 (土) 12:47 (UTC)

松茸様

Wikipediaの基本的なことを理解せずに述べて申し訳ありません。コメントありがとうございます。Hironaga


前半生だけではなく

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横から失礼。61.209.160.219さんとHironagaさんが議論を交わしているようですが、私も一言。明智秀満=遠山景玄は明智秀満=明智光春=遠山景玄が正確なのですよね。もちろん遠山説を採用すると、明智光春(秀満)は天正10年没でないと断言することになります。ざっと見た感じ、天正10年没の否定はなされていないかと思います。これの論証もお願いしたい所です。

あと『明智一族宮城家相伝系図書』(東大史料編纂所蔵)には明智光俊(光春)の弟に明智光景があります。Hirokage氏はこの系図を疑問視しているようなので注目に値しないかと思いますが、万が一利用するとするなら光景は遠山利景という事になりますよね。そうすると光景も天正10年に亡くなっているので、遠山利景との食い違いが激しすぎるかと思います。(というか明智光安の子孫が遠山氏とすると、宮城氏の系図全てを否定する事とほぼ同義)ちなみに同史料によると、

  • 明智光継:1468-1538
    • 明智光綱:1497-1535
      • 明智光秀:1528-1582(自害)
    • 明智光安:1500-1556(自害)
      • 宮城兵内:1529-?
      • 明智光俊:1537-1582(自害)
        • 宮城宗俊:1562-1613
      • 明智光景:1540-1582(戦死)

が当時の元号で記してあります、参考までに。(ちなみに同系図は「光秀養子説」を採用しており、明智光秀は進士信周と明智光綱の妹の子という事になっています)

また明智光安が戦死した戦いでは、遠山主殿助という武士が明智攻めに加わっています(『明智軍記』)。遠山説を見ますと不自然なのは否めないところです。(ただし『明智軍記』の史料性は残念ながら高くありません。『明智一族宮城家相伝系図書』との一致点があったために参考)

あとHironagaさんはちゃんと署名して発言するべきだという事を、お願いします。hat2867 2007年4月16日 (月) 12:31 (UTC)

いかんせん昨年の議論だったので、見られていませんのでしょうか。 私としては論証不十分として、遠山説断定を削った上で保護を解除していただきたいと思っております。今までの流れではそでれかまわないと思っています。いかがでしょうか。hat2867 2007年4月24日 (火) 13:51 (UTC)

光秀の小姓・左馬助の出典に関して

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本文中に、「光秀の小姓として仕えて寵愛された左馬助」とありますが、これは、おそらく男色相手として寵愛された小姓・明智左馬助のことを指しているかと存じます。 そこで識者の方々にお伺いしたいのですが、「寵愛された小姓の左馬助」の出典は何という文献にあるので御座いましょうか? 何分わたくしは戦国史の門外漢である上に、本文上で「要出典」と附記する方法も存じません。 何とぞ宜しく御願い申し上げます。

hat2867様

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 幾つか疑問を述べられていますが、まず秀満が天正10年に亡くなったという通説について述べたいと思います(すでにWikiprdiaのなかで述べたと思いますが)。この通説が当時も広まっていたのは、フロイス『日本史』などの記述からも事実です。「秀満は、光秀の妻子などを刺し殺し、自らもしろとともに果てた」とするこの説は、実際には噂だけのものであったことは、誰が坂本城で死んだかを考えればよくわかります。光秀の末子の内治麻呂(後の喜多村弥平衛)は、母(後妻、喜多村氏)とともに、落城前に実家逃れています。秀満の子(三宅重利、島原の乱で戦死)も、坂本上では死んでおりません。光秀の前妻の父(妻木広忠)は城を出て、数日後に西教寺(娘の墓前と伝えらる)で自害しております。光秀の叔父で通説で坂本城代とされる三宅長閑斎(明智光廉)は、福知山で捕らえられ刑死しています。また、「天正10年夏記」(加修寺晴豊の日記の一部)には、秀満の妻の姉と思われる人物が丹波で捕らえられ、京に護送されたことが記載されています。

 秀満の妻(光秀の次女、実際は長閑斎の娘)は、光秀での長男玄琳が末弟の喜多村弥平衛に書き送った「明智系図」では、家康の縁者に再嫁したように記載されています(この記述そのものはあまり正確なものではない)。秀満も、もし坂本城で死んでいたら、西教寺に墓なり記録なりがあるはず(光秀、妻木広忠らにはある)でありが、その墓はどこにも存在しません。以上述べたように、坂本城で確実に死んだ人物は、一人もいません。噂になったのは、秀満の一世一代の名演技であったということになります。

 その他、幾つかの系図等を上げられていますが、これは歴史学者なども述べているように、光秀関連の系図には信用できるものがほとんどないというのは実態です。『明智軍記』や『美濃国諸旧記』の明智一族関連の記載も、意図的に改ざんされていて、そのままでは信用できないものばかりです。

 上野寛永寺の周辺には石灯籠が多数あります。そのほとんどにおいて、誰が誰に送ったかが記載された部分が削り取られています。これは戊辰戦争のときに幕府側が消したものと考えられます。光秀関連の記録も、恐らく沼田土岐家(明智氏の本家)や旗本遠山家(明知)などが中心となって抹消・改ざんしたものでしょう。不都合なことはすべて抹消・改ざんする、それが古事記・日本書紀以来のわが国の歴史的伝統なのでしょう。

 貴殿のご発言もそのような伝統を踏まえたものかもしれませんが、建設談合や教員採用の口利きと同じく、いつまでもそれでよいとは思いません。過去の「伝統」にとらわれず、より正しい研究成果を持ちよって歴史の見直しを図っていくことを切望しております。 2008年7月25日 Hironaga --以上の署名のないコメントは、125.14.135.3会話/Whois)さんが 2008年7月25日 (金) 12:13 (UTC) に投稿したものです。

まさかご返事が頂けるとはつゆ思わず、返答遅れてしまい誠に申し訳ありませんでした。私は趣味で史上人物の列伝を好む一般人ですが、まさか建設談合や口利きのような明らかな不当行為と同じく扱われるとは思いもよりませんでした。私にそのような非があったのであれば残念でなりません。
歴史改竄は日本だけのものではなく、歴史学全体のやっかいな障壁のようなものです。いくら高級な史料でも捏造の可能性を否定はできませんし(悪魔の証明ですね)、誤伝などもあります。でも史料というものを検討するというのが歴史の常套手段だと思っています。しかし遠山説慎重派(?)の方々とHironaga様のこの議論で用いられている史料の主要なものは殆どあまり高級な史料ではありません。もちろんHironaga様のおっしゃる通り、明智光秀の伝記というのは山本勘助のように伝説が多く、特に出自につきましては確定し難いという事です。
一般的(残念ながら出典が上記の史料ですが)に、
  • 明智光秀の叔父で後見人だった明智光安は斎藤道三・義龍の争いで道三側に付いて滅ぼされ、光秀は流浪する事となった。
  • 光秀の重臣だった明智秀満(明智光春も同様)は光秀が滅ぶ際に死んだ。
と言います。この二点は確かに後世の史料に書かれているものですが、最も多く見られる説だと考えます。これを否定する事はあらゆる意味で簡単ですが(Hironaga様のような異説を持ち出したり、史料自体の信憑性を問うなど)、最も浸透している説を主文として書くのがWikipediaのスタンスです。推測した不確実な情報の掲載は独自研究に当たります。またWikipediaに執筆してよいかどうかの基準は「真実か」ではなく「検証可能か」なのです。個人のサイトで「この説は正しい」と主張するのは学者として普通の事だとは思いますが、ここはルールの存在するWikipediaです。Hironaga様は今でも署名を拒否なさっているのでルールへの反論が心配ですが、きっとわかって頂けると願っております。--hat2867 2008年8月19日 (火) 07:35 (UTC)

hat2868様

 さらにご返事があるとは思えず、このノートにアクセスしていなかったためにご返事が遅れて申し訳ありません。貴殿のご意見は結局61.209.160.219様のものと基本的に変わりがなく、お名前を変えて(61.209.160.219様は失礼なこととにペンネームすら名乗っておられません)またご意見を述べられているようにしか思えません(誤っていたらご免なさい)。貴殿のご意見のためか、結果的にそのご意見どおりに、本文が直されているのは大変残念に思います。

 hat2868様と61.209.160.219様(wikipediaの編集に深く関係されていると考えます)はほぼ同じ意見と思われますので、お二方に対して当方の意見を改めて述べさせていただきます。

 まず、hat2868様が指摘している、明智光安が道三側に付いて滅ぼされたという件ですが、「61.209.160.219様へ(その14)」のなかで、小栗信濃守と遠山景行・小里光忠とが戦い、後者が勝利したことを書きました。この小栗信濃守との戦いは、1552年のことで明智光安が齋藤勢と戦った1556年のすぐ前のことです。この戦いは、数多くの書物に記載されております。小栗信濃守の居城御嵩城は、1556年の戦いがあった明智城(可児長山城)のすぐ隣にあります。小栗信濃守を滅ぼして以降、可児郡までの東美濃は、武田氏を後ろ盾に(後に織田氏を後ろ盾にする)遠山景行と小里光忠が実質的に支配することになります。これらは、貴殿の言われるような世の中に流布されている通説といってよいものです。

 『明智軍記』や『美濃国諸旧記』には、この時代、明智光秀を補佐して叔父の光安。光久が東美濃のかなりの部分(7万5千貫)を領有していたように書いてありますが、上記の記述とは一見矛盾します。明智城攻防があったのは事実と判断できます。例えば『武功夜話』にもそのときの話が載っていますが、光安が死んだというようなことは書いてありません。また、光安の墓もありません。この矛盾は、明智光安=遠山景行、明智光久=小里光忠ということで解決できます。このほかの問題(このノートを改めてお読みください)も、同様に矛盾なく説明できるようになります。いずれにしても、東美濃のこの時代の歴史を認識いただければ、明智城(可児長山城)で光安・光安が死んだというのは後世の創作であることがわかります。

 次の秀満が坂本城で滅んだとする通説については、このノートの少し前に述べましたように明智の関係者でその際に確実に坂本城内で死んだことが明らかな者は一人もいないことからかなり疑わしいということです。その部分をもう一度お読みください。確かに、秀満とその妻についてははっきりしませんが、もし死んでいれば西教寺に墓があってもしかるべきですが、過去帳にも光秀や妻木冬広と違って名前もありません。

 先のノートで、貴殿が問題にされていた、『明智一族宮城家相伝系図書』の件ですが、光俊(光春)、光利について、景玄と景利に対応するのは正しい解釈として、光利が1582年戦死と書いてあるのが矛盾するという指摘は、何を述べられたいのかよくわかりません。まず、この『明智一族宮城家相伝系図書』を全面的正しいとされる方はほとんどいないと思います。『明智一族宮城家相伝系図書』だけでなく、『明智軍記』や『美濃国諸旧記』などにも共通して言えることですが、明智光秀の類縁は死滅したかのように書く傾向が見られます。「寛政重修諸家譜」などでも、例えば旗本遠山氏なども明智氏と無関係に装っています。そういう書き方になったのは、明智光秀と関係する旗本遠山氏とか譜代大名沼田土岐氏が幕府の要職にあったからだと思います。      江戸時代、例えば『仮名手本忠臣蔵』で、大石内蔵助を大星由良之助(別の歌舞伎で明智光秀は武智光秀でしたっけ)としたように、当時の書き手(戯作者たち)は微妙に名前や時代を変えて、幕府のお咎めを受けないようお話を作っていたのです。明智光春(ミツハル)というのも景玄(カゲハル)というのをベースに通字を変えて作られたもので、武智光秀と同じようなものです。歴史の本筋を理解されていれば、明智秀満と明智光春が別人などと目くじらをたてるようなものではないことは理解できるはずです。

 それにしても誰が最終的に書き換えたのか知りませんが、この本文にある明智秀満が三宅秀朝の子というのは少し酷すぎますね。三宅出雲(三宅長閑斎)の子というのは、義理の親子という意味で大きな間違いはないのですが、光秀の家臣に三宅秀朝という人物が見られるから、それが三宅出雲だということなのでしょうか。三宅姓の人物は、例えば遠山景行の婿(秀満の義兄弟)にもいますし妻方でもあり、多数の可能性が考えられます。いずれにしても、このような恥ずかしい説は、wikipediaに載せるべきではありません。

 hat2868様あるいは61.209.160.219様の場合は特に感じるのですが、論理的に議論して結論を出すということを好まれないように思います。hat2868様と同じく、多少歴史を調べればすぐに後世の作り話とわかるような類の話でも通説だから載せるというように考えられているのか、ほかのウィキペヂアンの方々にも聞いてみたいと思います。

 少し時間をかけて本文および関連する他のwikipediaの記事を見直していきたいと考えます。通説だからというのではなく、もう少し論理的に議論して結論を出していきたいと考えます。当方の意見に反論いただければ幸いです。Hironaga、2009年1月26日 --以上の署名のないコメントは、61.23.223.98会話/Whois)さんが 2009年1月26日 (月) 10:29 (UTC) に投稿したものです。


ずいぶん昔の議論でしたので大方忘れてる部分がありますがご了承下さい。まず最初にですが、私は上記の61.209.160.219さまとは全くの別人です。またペンネーム云々おっしゃいますが、IPユーザーでのノートページの発言のどこに問題があるのでしょうか。むしろあなたは未だに署名をなさりません。失礼かはわかりませんが、少なくともルールを守らないあなたがそのような発言をするのは好感を持てません。
私が最後に書いた事を読みましたか? 反論になっているとは思えません。Wikipediaは新説を発表する場所ではありません。いくら正しそうでも、それをあなたが正しそうに「考えたから」その説に帰結するというのは好ましくないのです。例えば「資料A」と「資料B」を組み合わせると「説」ができる場合、この説がWikipediaに記述されるには「資料C」(論文など)に掲載されてからになるのです。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないは読みましたでしょうか。「その説が有力である」という出典があるのなら話は別ですが、そのようには仰られていませんし、私も見た事がありません。斎藤道三の履歴や桶狭間の戦いの経過、直江兼続の生母など、近年力を持った説は多いです。あなたの仰る説が正しいのであれば、その説が流布してからWikipediaに反映させても遅くはないのです。まぁ私も論文などを読んでいないので、現在その説の立ち位置がわからないのですが。とりあえずあなたの説が載っている書籍、雑誌などを教えて下さい。--hat2867 2009年1月26日 (月) 15:25 (UTC)
追記します。私の「利用者ページ」になにやら長文を加えられたようですが、Fievarstyさまがノートにお移し下さいました。あなたの行いは悪意があれば「荒らし」に相当します。私はいいのですがFievarstyさまにお手数をお掛けしました。私がノートでお礼を申し上げますので、その項で構いません、あなたも一言お詫びするとよろしいかと思います。どういう理由で利用者ページに記述なさったのかは存じませんが、以後注意する事をおすすめします。--hat2867 2009年1月26日 (月) 15:33 (UTC)
私は歴史の詳しいことはわからないのですが、Hironaga氏(が全部同一の方だとして)、ご自分の研究の成果をここで披露されたいだけのように感じます。
さて、何度も上で言われていることなのですが、ノートでの発言の際は署名をして下さい。今書かれているものが署名だとお考えならそれは違います。また、61.209.160.219氏を、「失礼なこととにペンネームすら名乗っておられません」と非難されていますが、ウィキペディアにはペンネームというものが存在していませんので、見当違いであると存じます。余談ですが、ノートページの節見出しは、返答相手の名前にせず、あくまでも話の内容をあらわした節にするべきです。ここは公の場であるので、他の人が内容を把握しやすいようにして下さい。--春日椿 2009年1月26日 (月) 15:59 (UTC)


hat2868様

 いろいろと貴重なご意見ありがとうございます。当方の話について、独自の研究のように言われましたが、少なくとも遠山景行が明智光安と同一人物というのは、明治時代も『恵那叢書』(阿部直輔著)に載っています。阿部直輔は明智町と直接関係する人ではありません。明智町の関係者からは、それを補足資料が幾つか出版されています。

 遠山景行=明智光安がすでに流布された説であることは、wikipediaの「遠山景行」にそのとおり掲載されております。景行の長男が景玄、光安の長男が光春ですから、wikipediaの「遠山景行」に整合させれば、遠山景玄=明智光春ということで、別に新説というわけでもありません。Wikipediaの「遠山景行」の項、誰が書き換えたのか長男のところに明智光春とありますが、この世の中にある系図はすべて景玄です。

 Wikipediaの「明智光春」の項、貴殿が書かれたのかもしれませんが、wikipediaの「遠山景行」に合わせて修正したほうがよいでしょう。明智光安や明智光春というのは、先のノートに書きましたように、文書類(手紙等)に載るものではなく、『明智軍記』や『美濃国諸旧記』にあるだけで、正式な名前としてあったか極めて怪しい(造作された)ものなのです。今日においても、小説家が告訴をされないよう名前や設定を若干変えて創作することがありますが、それと同じ類のものと考えてよいでしょう。

 Wikioediaの「明智秀満」の項、秀満の父を三宅秀朝としているのは、これこそ世の中に流布していないまた学術的に証明できるとはとても思えないものです。貴殿が書かれたものではないと推察しますが、このようなものが平然と載るというのは、wikipediaそのものが不正常であることを示していると考えます。

 貴殿の場合、wikipediaにさまざまな記載をなされているようですが、特に光秀・秀満については十分な洞察のないまま通説を書かれておられるだけのように思われます。わが国の歴史は、旧石器捏造事件に示されるように、西欧の自然科学的な学問という視点から見て正常なものではありません。古代もそうですが、明智氏関連も相当歪んだ説が一方で流布されています。それは学者だけの問題ではなく、社会全体の体質といってもよいでしょう。

歴史については特に、通説だから記載するというのではなく、さまざまな知識を集めより科学的に実証できるかを十分検討されてから意見を書かれるなり、述べることを強く望みます。Hironaga 2009年1月27日 --以上の署名のないコメントは、61.23.223.98会話/Whois)さんが 2009年1月27日 (火) 07:55 (UTC) に投稿したものです。

根本的な質問ですが、何度も挙げられている『恵那叢書』というのはどこに行けば読める本でしょうか? もしくは別の題名の本に収録されているものなのでしょうか? 岐阜県内の図書館で検索しても該当する本が見当たらないため、ぜひ回答をお願いします。--丁度氷 2009年1月27日 (火) 11:44 (UTC)
ええと、Hironagaさん。あなたの発言を見ていると、ウィキペディアの編集のルールを理解されているのかを、疑問に思う部分があります。ご自分の考えがどのようにウィキペディアの方針にかなっていて、他の人の考えがどのようにウィキペディアの方針にかなってないのかを、具体的に挙げるべきではないでしょうか。
また最近のコメントであげられている資料は、国会図書館のデータベースにもないようです。--春日椿 2009年1月27日 (火) 12:37 (UTC)

丁度氷様、春日椿様

 当方、該当部分のコピーをある方から送ってもらいました。その方によると、名古屋市鶴舞図書館蔵、となっております。もし必要なら、そこにお問い合わせください。Hironaga 2009年1月27日 --以上の署名のないコメントは、61.23.223.98会話/Whois)さんが 2009年1月27日 (火) 12:54 (UTC) に投稿したものです。

HPで検索した限りでは、その図書館にはありませんでした。恵那叢書も阿部直輔もyahooなどで検索した限り、ほとんど結果が出ませんでした。
そして相変わらず署名をされないのですね。本筋とは関係ないことですが、しかしノートページでの署名というのは、ノートページで発言する際のマナーのようなものです。初心者ならば仕方ない部分ではありますが、ここまで何度も注意されているのに、署名をされないのはなぜなのでしょうか。--春日椿 2009年1月27日 (火) 13:14 (UTC)
検索しても見つからないので詳しく伺いたいのですが、『恵那叢書』とは活字本ですか、それとも硬筆や毛筆の類で書かれたものですか?--丁度氷 2009年1月27日 (火) 13:17 (UTC)

春日椿様

 『恵那叢書』は、活字本ではありません。漢字カナ混じり文です。お知りになりたいのは、明智光安と遠山景行の部分だろうと思います。その部分だけでよいなら、インターネット上に書き出します。ただし、それには多少時間が要りますのでご容赦ください。 Hironaga 2009年1月28日 --以上の署名のないコメントは、61.23.223.98会話/Whois)さんが 2009年1月28日 (水) 00:12 (UTC) に投稿したものです。

わたしの質問しているのは別の内容ですので、それについてお答えください。
また、その本に書かれているということが重要なのではなく、その本が検証可能性のある信頼できる情報源なのかということが重要なのです。なのでまずあなたは、「問い合わせてください」や「抜き書きする」というのではなくて、その本が実際にどこにあって一般の人はどうやったら閲覧できるのか、ということを示していただかねばなりません。少なくとも書かれている書名・著者名では、webの検索でも上にある図書館でも(国会図書館でも)有意な情報は出ませんので、あなたはまずその検証可能性を確立する義務があります。内容についての信頼性、妥当性はその後の話になります。--春日椿 2009年1月28日 (水) 05:44 (UTC)

春日椿

 『恵那叢書』を送付していただいた方の別の手紙に、次のように記されているのでご紹介いたします。 :『恵那叢書』はけっして江戸時代のものではなく、明治時代に阿部直輔(別名栄之介)により編纂されたものです。この『恵那叢書』の現物をご覧いただけきながら御説明できるなら、いちばんてっとり早く、明白なのが(名古屋市の鶴舞中央図書館所蔵・別置保管の市史料の内)。『恵那叢書』は、阿部直輔のまごの医師・阿部房吉氏所属の原本を明治四十四年に市史編纂係が謄写し、大正十一年に名古屋図書館へ移管、のち鶴舞図書館保管となったもので、現在は他に原本写本ともに見られないものです。(中略)阿部直輔については、愛知学院大学教授の林薫一(はやしとういち)先生による詳細な研究があります。・・・・以上。

 この手紙は、当方が明智町の方の資料をもとに『恵那叢書』を引用した書き物に対し、不正確なところがあるとしてご注意いただいたものです。その後、その方から『恵那叢書』の該当部分と阿部直輔についての研究書(『名古屋叢書三編 第三巻 尾藩世記 下)をお送りいただきました。『恵那叢書』は、いずれにしてもインターネットの検索で出てくるものではないようです。後者の『名古屋・・・』のほうは、鶴舞中央図書館の検索でも出てきます。

 この『恵那叢書』の考証については、林薫一先生も行っていないとのことです。当方がこの『恵那叢書』を肯定的に見ているのは、このノートにいろいろと書いている例証のほかに、後北条に仕えた遠山直景(武家家伝の武蔵遠山氏、あるいはwikipediaの遠山直景の項を参照のこと)の記述と整合するからです。当方からお話できることは以上です。Hironaga 2009年1月28日(親切に名前の部分を削除して板だかね九手も結構です)--以上の署名のないコメントは、61.23.223.98会話/Whois)さんが 2009年1月28日 (水) (UTC) に投稿したものです。

そうですか、では「恵那叢書」はウィキペディアでは信頼できる情報源として扱えません。他のものと整合しているかいないかは、それを情報源とできるかには関係がありません。あなたがここで主張しているような内容を、ウィキペディアで記述されたいなら、まずはそれを雑誌などに掲載してもらうか、出版するなどして、発表してください。それでなければ、あなたの研究はどれだけ妥当であってもウィキペディア上では独自研究とみなされます。
以前から質問している内容には答えていただけないのでしょうか。--春日椿 2009年1月28日 (水) 12:00 (UTC)

春日椿様

 貴殿が何を言いたいのか、正直言ってよくわかりません。例えば国会図書館で閲覧できないもの、雑誌や書籍になっていないものは参考資料としても利用してはいけないということなのでしょうか。例えば、明智光秀の研究者なら誰でも知っており、数多く引用されている『上野沼田土岐家譜』は、出版されておらずまた国会図書館では見られません。史料編纂所にあり、それなりにアクセスできまるようですが、そういう意味では『恵那叢書』も同様にアクセス可能で、少ないとはいえしかるべき研究者が読みこなしています。  貴殿の意見を読む限り、残念ながら全うな議論の相手とは見なせません。ノートを読んでいる読者に対して失礼であり、時間が無駄なだけです。以降、貴殿との議論は行わないことにいたします。Hironaga 2009年1月28日

ここまで言われてもノートへの署名をしようとしない方には言われたくないですね。私がお聞きしたいのは、何故ノートに署名をしないのか、Wikipediaの方針やガイドラインは読まれているのか、読まれているのならご自身の意見や出典としている材料がどのように方針(掲載基準)に合致しておりhat2867氏らの意見がどうのように合致していないのかを述べていただきたいということです。
『恵那叢書』について、何らかの研究をしている研究者がいるなら、その文献を資料にして下さい。『上野沼田土岐家譜』についても同様です。まずはWikipedia:五本の柱と、Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まりWikipedia:署名をご覧ください。--春日椿 2009年1月28日 (水) 14:02 (UTC)

「市史料の内」という情報をもとに探したところ鶴舞中央図書館特別集書の中に『恵那叢書』があることを確認しました。マイクロ化されているので、現地に行けば見れるし、おそらくコピーも可能でしょう。だからといって情報源として使えるかといったら、他の方々が上記で書いている通りです。--丁度氷 2009年1月28日 (水) 14:07 (UTC)

歴史人物の記載について

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何人かの方々から、wikipediaの「信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです」という原則に関して、意見が寄せられております。それらの方々の意見に従えば、例えば、

  • 朝日新聞にAという記事が出ていた。
  • 地方の雑誌にAと違うBという記事が出ていた。

というような場合は、Aをwikipediaに載せるべきだということのように思います。

 上記をここでの議論に当てはめますと、Aが明智光安は1562年に明智城で死んだ、Bが明智光安は遠山景行のことで1562年に死んでいない、ということになります。現在の情報量からすれば、確かにA>>Bです。しかし、重要なことはAの情報の元は、『明智軍記』や『美濃国諸旧記』といった物語であり、その物語自体どこまで信頼できるものかわからないことです(全くの偽物とまでは言いません)。明智光秀・明智光安について、その出自が定かでないとされるのは、それらの物語が信頼できないもののひとつの証左でもあります。

東美濃に残された歴史については、『恵那叢書』や『濃州小里記』のようなものだけでなく、出版物やインターネット上でも見ることができます。例えば、先のノートに述べた小栗信濃守と遠山景行・小里光忠が戦った話などは、『御嵩城』で検索すれば山のように出てきます。御嵩城を地図で確認いただけばわかるように、可児長山城のすぐ隣です。念のために言うと、遠山与助というのは遠山景行、小里出羽守は小里光信のことです。

この戦い以降、武田氏を後ろ盾に遠山景行・小里光忠が可児郡までの東美濃の実質的な支配者であったことがわかります。一方、『美濃国諸旧記』には、明智氏が7万5千石を領していたと書いてあります。これは。東美濃のかなりの部分を領していないと達成できないものです。

遠山景行が実在の人物であることは、その墓がありその後の一族が存在していることからも明らかです。しかし、明智光安のほうは、墓も不確かで関連氏族を不明(消された形)です。前にも述べましたが、江戸時代、物語の作者(今日の小説家でも同じですが)は、それらしく名前や設定を変えて事件を物語に仕立てていたのです。明智光安が入道宗宿、遠山景行が入道宗叔とあり、ほぼ同じ年代で同じような立場であれば、阿部直輔でなくても、明智光安は遠山景行と気づきます。一部とはいえ、そのような論議が起き、刊行物が出されているのは当然のことなのです。

東美濃に残る情報と矛盾するということ、物語にしか出てこない名前であるということは、wikipediaの冒頭に述べた原則に反するのです。明智光安・明智光春は、大星由良助・大石力弥と似たようなものです。wikipediaでは物語上の人物として書き込むことが必要です。このことはご理解いただけると考えます。

信頼できるソースというのは、例えば朝日新聞に載っているものなら載せてもよい、というようなものではないと考えます。その他の関連事象からその妥当性を実証できなくてはいけません。特にわが国の歴史については、旧石器捏造事件でもわかりますように、関連学会そのものが科学的に妥当な評価ができませんから、慎重に情報ソースの信頼性を明らかにし、実証できることが必要です。

Wikipediaは、当方が思いますに、というか一般にも言われていますように、歴史などの分野において異常な書き換えが繰り返されるだけでなく、まるで「ネット右翼」と呼ばれる人たちが書いたのではと思われるような内容的に偏った脆弱なものが少なくありません。 ウィキペヂアンと称する方々のなかにも、権威のある新聞や学者の書いたものが信頼できる情報に該当するかのように、安易に考えておられる方がいるように思われます。そういったものを基にすれば、確かに誰でもwikipediaに書き込みができるかもしれませんが、本当の意味での信頼ある記述にはなりません。わが国では、高名な論者でも科学的な推論に基づいているとは限りません。声が大きければ信頼できるというものではないのです。

Wikipediaは、百科事典として知の蓄積として、内容について良識ある態度で十分吟味し検討して載せることが必要です。この間、議論に加わっていただいた方々のご意見を聞くと、現在のwikipediaの危うさ、脆弱性を感ぜずにはおられません。若い世代の方が多いようで、自分たちの世界をwikipediaに展開されているのかもしれませんが、百科事典の基本を無視して、原則を自分たちに都合のように解釈して自らの世界を築こうとなされないように、強く希望いたします。当該部分は、wikipedia の編集に関わっておられる他の方がからもご意見をいただきたいと考えます。Hironaga 2009年1月29日

基本方針に背く主張を続けられても、ここでは受け入れられません。ここは独自の考えを発表する場ではないのです。
wikipediaでは、「信頼できる記述を載せる」のではなく「信頼できる情報源に記載された記述を載せる」のです。ここで重要なのは「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」ということにあります。内容の信頼性についてはWikipediaが保証するものではなく、その情報源が担うとお考えください。最初にあげられた新聞の例でいえば、AとBは両方載せて良いのです(中立的な観点より)。
こちらとしては、やはり方針などを理解されていないのではないかなと思うのです。もしあなたが正しいと思う内容を記載されたいのなら、別のネット百科事典を作られるか、Wikipediaの方針を変更するしかないでしょう。--春日椿 2009年1月29日 (木) 14:34 (UTC)
横槍失礼します。Hironagaさんが歴史学に対して詳しい方であると前提して話をさせていただきます。また以下は歴史記事においての一般論で、もしかしたらピントが外れているかもしれませんがご容赦ください。
歴史学において史料批判が必要不可欠であるということにはご同意いただけるかと思いますが、簡単に「史料批判」と言ってもそう容易いことではありません。他の史料や時代背景とつき合わせて総合的な判断を下すという行為は最早完全に専門家たる歴史学者の領分であり、素人がなすべきことではありません。
名の通った研究者だからといって必ずしも信用できるわけではないのは事実ですが、かといって専門家と素人を比べた場合は信頼すべきは専門家であることはこれは議論の余地のないことなのです。何故なら専門家はいい加減なことを言えばその立場も職業も失うことになりますが、素人にはそのような失う物はないからです。
そういう意味で専門家の意見であるならば「ある程度は信頼できる」と考えられます。
また更に言えば「百科事典」という本質を見れば、なおのこと専門家の意見しか取り入れてはいけないというのは自明です。
例えば紙媒体の百科事典の歴史項目において執筆者の専門家が自分の新説を学界の査読も経ずにそれをさも事実のように記述したならばその専門家は相当な顰蹙を買うでしょう。何故なら百科事典は「新説の発表の場ではない」からです。
新説を発表したいならば、論文の形にまとめ、学術雑誌に投稿し、査読を受けるという手続きを踏む必要があります。そしてそれが学界に広く認められたうえで初めて百科事典に記載するという行為が認められます。
専門家ですらそうなのですからウィキペディアンがそれを行うことははっきり不許可ということになるのです。Hironagaさんはもしかしたら専門家なのかもしれませんが、匿名である以上その担保がありません。Hironagaさんがどうしてもそれをウィキペディアに載せたいならば前述の「論文の形にまとめ・・・学界に広く認められたうえで」という手続きを踏んでください。
以上となります。らりた 2009年1月29日 (木) 15:13 (UTC)

明智秀満の末裔の家紋について(お願い)

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 らりた様が述べられているように、一般論としては、専門家の意見が正しいと考えます。もちろん、いずれの場合も厳密な史料批判が必要です(ただし、現在の一部の方のように公文書以外は認めないということではありません)。貴殿が詳しい中国史ではそのとおりであり、各種関連史料もそれなりに信頼できる(そうでないという人もいますが)と考えられます。

 しかしながら、わが国の歴史学・考古学においては、専門家(職業歴史家)の言うことが正しいとは言い切れないのです。このことは、本ノートでも繰り返して述べてきたとおりです。わが国の歴史学・考古学が問題を抱えていることは、例えば旧石器捏造事件をよく考えられればわかると思います。学会(考古学協会)は、藤村氏一人の問題のように扱っていますが、学会の幹部が批判を封じ、それを元に専門化が数多くの論文を書いたのです。これは氷山の一角です。

 当方は、日本の歴史の専門家といわれる職業歴史家を何人か知っています。そういった方々から、当方の著作に対し、タブーを書きすぎると忠告されたことがあります。一方で、当方の見解が正しと、そっと言ってくださる方もいます。どんなことがタブーになっているかといえば、

  • 酒呑童子は後醍醐天皇をモデルに作られた寓話であること
  • 古代の王統は、母系的に継承されていたこと
  • 巨大古墳(例えば大山仙古墳=伝仁徳天皇陵)の多くは、女性のために造られたこと 

このほかにも多数あります。聖徳太子や「本能寺の変」への天皇家の関与も、基本的にまだ_タブーなのですが、その周辺から部分的には語られだしています。

 旧石器捏造事件を起こしたからといって、わが国の考古学者が無能ということではありません。優れた見識を持たれている歴史学者、考古学者が多数おられることはよく承知しています。見識は素晴らしくても、広く国民により確からしい(科学的な推論に基づく)歴史事実を語るという意味では、残念ながらわが国では学者(専門家)の機能を十分に果たしていません。より確からしい事実を歴史学の周辺、例えば民俗学者や文化人類学者、非職業歴史研究者が語ることはあって、歴史学・考古学の中枢にいる方が特にタブーに関連する話は一切しません。そういう話をしなかったからこそ、学会の中枢になれたのです。親しい中国史が専門の方は、日本史を専攻しなくてよかったと、しみじみと述べられたのを聞いたことがあります。

 この問題は、わが国においては他分野でも少なからず見られるのでしょうが、自然科学あるいは同じ歴史分野でも中国史などではそれほど極端ではありません。ここであげたタブーは、今日においても政治的な影響があると思われるものですが、これらだけではなく、政治的な問題はwikipediaでも編集合戦が繰り返され、結果的百科事典とは言えないような内容で終結しているものが少なくありません。そういう雰囲気のなかで、職業歴史家は生活がかかっているために、下手なことは何もいえないのです。

 歴史だけでなく、さまざまな分野でこのような自由にものが言えない閉塞感を当方でも感じるのですから、若い人たちはなおさらのことではないかと思います。Wikipediaに参加されている方も(一部の方かもしれませんが)、そのような閉塞感を打ち破りたいという思いで、書き込みを行っておられるのかと思います。当方もここで試みているのは、わが国の歴史に関する閉塞感を打破して、もっと自由な議論の元に、本来の日本人の歴史を取り戻したいということです。例えば、記紀の怪しげな系譜から脱却して、古代の王家が母系的に継承されている、ということを明らかにすることは、世界に誇るべきことであって、恥じることは何もないと考えます。

 あまり一般論で議論をしても、話が拡散するので、明智秀満の問題に戻して議論を進めたいと思います。現在の本文、この間少し書き換えられていますが、秀満が三宅秀朝の子という基本は変わっていません。この説を公にされているのは、当方の知る限り室賀寿男さんだけだと思います。その記事をかつてインターネット上で読んだことがありますが、信頼できる情報ソースを基にしたものではなく、ひとつの推論に過ぎません。室賀正は、非職業歴史研究家(一般にはアマチュア研究家)です。当方もその範疇かもしれません。

 この時代の信頼できる情報ソースといえば、文書(手紙の類)、日記、次に公記的なもの(信長公記のようなもの)、私文書(家譜等)であり、『明智軍記』のような一般に読まれる物語類はあまり信頼は寄せられません。

 秀満の父が、「山崎の合戦」後に横山(福知山)で捕らえられ刑死した三宅出雲(三宅長閑斎)、というのは貴族の日記にあり、まだ説として取り上げる意味があります(高柳光寿先生が取り上げています)。ただし、秀満の妻(光秀の次女)は、「明智系図」(光秀の長男玄琳の書いたもの)との比較で、三宅長閑斎の娘の可能性が高くなり、正しくは義父とすべきものと考えられます(今日でも、義父・義母という表現は日常用いない)。なお、三宅長閑斎は『美濃国諸旧記』などの記述から、光秀の叔父(父の末弟)とされています。

 明智光春は物語上の人物として、光春のモデルと思われる遠山景玄が秀満だということを理解していただくのは難しいかもしれません。ただはっきりいえることは、通説となっている光秀関連の歴史は、地元とは随分と異なるということです。通説では通常出てこない、土岐明智氏本家(後の沼田土岐家)の話も、整合を持って語られています。当方は、この地域の歴史史料をもとに光秀等を論じている非職業専門家です。ずけずけとものを言うために、その筋からは嫌われていますが、光秀の専門家としては認知してもらっているつもりです。 それにしても通説でないことを、それもさまざまな情報を寄せ集めないとなかなか完結しない問題をどうわかりやすく理解してもらえるか。本当に難しい問題です。例えば、先に述べた室賀さんの資料に、三宅藤兵衛重利(秀満の子)の家紋が、丸に三つ引両と桔梗と書いてあります。このもとは、明智光秀公顕彰会の会誌に載っていたもので、地元天草の方が書かれたものです。丸に三つ引両というのは、丸に二つ引両(遠山氏の家紋)の間違いかもしれません。少し調べてみます。結果が出たら、このノートに報告したいと思います。三宅藤兵衛の家が丸に二つ引両を用いていれば、素直に当方の説明を理解してもらえるかもしれません。その家紋をもし知っている方がいたら、ここに記載いただければと思います。

 以下の数行は蛇足です。幕末の坂本龍馬は、秀満の末裔とされています(少なくとも坂本家ではそう考えていたようです)。龍馬の家紋が、「違枡桔梗紋」であることはよく知られています。遠山なら丸に二つ引両を使うべき、というご意見される方があるかもしれません。蛇足の蛇足たるところですが、龍馬はその海援隊旗として、赤白赤の「二曳」と呼ばれるものを用いています。その横2本線は、ダイエーホークスのユニフォームになっています。当方、龍馬に詳しくないのですが、その「二曳」の由来をご存知の方がおられたら教えてください。Hironaga 2009年1月30日

 熊本市立熊本博物館に問い合わせたところ、三宅藤兵衛の家系はやはり、九つ割三つ引両と桔梗 を用いているということです。桔梗は母方のものという解釈もできますが、九つ割三つ引両はどこからきたのしょうか。この家紋は、通常の丸に三つ引両とほとんど同じに見えるのですが、どう違うのかわかる方がおられたら教えてください。丸に三つ引両は、主に三浦(葦名)氏の用いた家紋。明智秀満は蘆名氏、などという悪い冗談が出てきそうで心配です。 Hironaga 2009年1月30日

Hironagaさま。「明智光安=遠山景行」が『恵那叢書』に書かれているというのはわかりました。同著には「明智秀満=遠山景玄」は載っていますでしょうか。または他の著作などにどなたかが書かれたのでしょうか。そうでないのでしたら、現在の所はあきらめて、この説が世間に流布してから改めて編集を考えるようにした方がよろしいかと思います。
これだけ多くの方が同じ事を仰っているので既にご理解なさったかと思いますが、あなたの説が正しくないからとか、通説に反しているからダメだ、と言われているわけではありません。仰る通り閉塞感の打破や自由な論述をお求めでしたら、残念ですがあなたはWikipediaとは相性が悪いと言わざるを得ません。またお返事の文章も私が感じる限りでは、我々の指摘の返答になっているように思えません。歴史学会の問題点や、(突き詰めますと)この説がいかに合理的かなどは、正直ここでは私にとっては蛇足に感じます。まずは出典を探す、ないし作る所から探してみて下さい。出典があれは記述に反対などしませんし、それが公に認められれば主文として紹介されても全く異論はありません。近年の例として「上杉景虎・北条氏秀別人説」があります。
最後になりますが、こちらは必ずご返答下さい。あなたはなぜ署名をしないのでしょうか。署名はWikipediaの数あるルールの中でも簡単なものなはずです。そのルールを長期間守らないで、遡ると個人に対する決めつけ(のようなものも含めて)、記述ルールについて上のような姿勢では、私たちも不審を抱いてしまいます。--hat2867 2009年1月30日 (金) 06:17 (UTC)

そろそろ議論の終結を

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 春日椿様より、AとB両方載せてよい、という回答をいただきましたが、hat2867様はいかがお考えですか。現状の本文にある秀満を三宅秀朝の子というのは、光秀の研究者なら皆知っているお一方の説ですが、春日椿様のそれでも良いという寛容なご意見には敬服いたします。hat2867様は、なお独自意見と心配されて『恵那叢書』について質問されているのだと思います。『恵那叢書』は、明智光安と遠山景行が同じ人物だということが書いてありますが、景玄にまでは言及していません。書いていなくても、景行の長男景玄(カゲハル)から光安の長男光春(ミツハル)が造られたものであることは自明のことです。

 hat2867様からは、wikipedeiaのマナーについてご意見をいただいております。解説を読むと、ログインは特に必要でなく、署名については、通常の署名かまたは右から2番目のボタンを押すように書いてあります。当方はペンエームと日付を必ず入れていますから、誰がいつ入力したということは、わかるようにしています。特にwikipediaのルールに反しているとは思っておりませんでした。2番目のボタンを必ず押せ、と書いてあればそうします。それをしろ、ということならそうします。

当方、正直言って現在のwikipediaの歴史分野の記述では、wikipedelianなどと名乗りたくないなと思い、ログインでの登録はいたしませんでした。登録しなければ利用するな、と言われたいのかもしれませんが、それが絶対的ルールだといわれるならそうします。

 貴殿の厳しいご意見は、他人が土足でwikipediaの家中を荒らしまわっている、ということのように感じ取られているためと思われます。当方最初、専門分野に関するwikipediaの記述が、利用者としてとても使えないレベルだったと考え、根本的に直さなければいけないと考えました。例えば項目は少ないですが「武家家伝」のレベルで整えられていれば、何も文句は言い出しませんでした。この間の議論で、専門家ならすぐ奇妙とわかる記述が平然と載っている理由がわかってきました。

 明智光秀関連の人物は、昔から事実を事実として書けなかったことから、さまざまに歪められています。その取り扱いは、きわめて慎重になされるべきものなのです。しかし、wikipediaの場合、例えば専門家なら誰でもおかしいというAさんの説でも、刊行してあればそのまま載ってしまうのです。公平にかつ良心的な姿勢を保つなら、せめてBさん、Cさん、Dさんの刊行物の内容を併記すべきなのですが、それさえ行われていないことが少なくありません。 今日、古事記・日本書紀あたりもそうですが、明智光秀関連も、職業歴史家でその専門家といえる人はいないのではないですか。発言が制約されるために、それらを避けて通っているように見えます。勢いそれらの著作には、アマヂュア研究者のものが多くなり、内容そのものが信頼できないものが少なくないのです。にもかかわらず、wikipediaではその怪しげな本が、出版されているということで信頼できる情報源となってしまうのです。

このようなwikipediaの考え方では、少なくともわが国では百科事典の体をなさない結果となります。百科事典の体をなさないだけでなく、wikipediaでは、幾つかのハンドルネームを使って自己主張される方がいるというような、何でもありの状態と聞きます。当方は、明智光秀関係の数少ない専門家と任じております。関連する情報の真偽を含め、この分野で誰が何を言っているのか、大方は承知しているつもりです。hat2867様は、当方のようなこの分野の専門家が現存するさまざまな情報をもとに、体系的に整理しようということに強く反対されているように思われます。多分に感情的なものが多く含まれるように思います。

 当方この間、本文を一切修正していないのですが、誰が直したのかどんどん変わっています。良い方向なら結構なのですが、必ずしもそうではありません。これまでにいただいた貴重なご意見を参考に、当方なりに本文および関係箇所をそろそろ専門家の立場でより客観的に修正していきたいと思います。 Hironaga 2009年1月30日 --61.23.223.98 2009年1月30日 (金) 11:18 (UTC)

ええと、私は例について地方新聞だからと言って信頼性が劣るわけではないと言っているのであって、この場合もそうであると言っているわけではありません。
また、ペンネームは署名ではありません。通常の署名というのは、チルダ4つを手動入力することであり、あなたのおっしゃるペンネームのみでは偽署名となります。またアカウントを取らなければならないわけではないのは、IPユーザーも編集に参加できることから自明となります。ただし、IPユーザーにはあまり良い印象を抱かない人もいるということは、ご認識下さい。まず、IPユーザーは同じIPでも「同一人物かわからない」という点があり、IPアドレスが変わる方もおります。特に記事の執筆に深く関わる場合や、このようにノートで主張をなさる場合には、同一性の確保や説明責任を果たすためにもぜひログインしてご利用頂きたいと思います(ペンネームとアカウントの何が違うのかはわかりませんが)。多数のアカウントについては、同じ場所での議論に使うことは禁じられています。
専門家である、と主張されるのは結構なのですが、「自分の考え」を執筆するのはおやめ下さい。--春日椿 2009年1月30日 (金) 12:06 (UTC)
Hironagaさま。それが正しい署名の仕方です。もしご存知でなかったのでしたら、これからは十分注意したほうがよろしいかと思いますよ。それと私は「ログインしないで参加するな」とか「他人がWikipediaを荒らしている」などとは微塵も思っておりません。どうかご理解下さい。
結局、「明智光安=遠山景行」の記述はあるが「明智秀満=遠山景玄」の出典はない、という事でよろしいでしょうか。「自明」かは問題ではありません。それを証明する必要も現在の時点ではないと追わざるを得ないと思います。あなたの仰る説は、『恵那叢書』を元に考えられた独自研究と、Wikipediaでは判断される可能性が高いものです。あなたの説の出典を求められた時、あなたはそれに応じる事ができなくなってしまいますよね。Wikipediaではそのような事態は望まれていないのです。ですので、今あなたにできる事は『恵那叢書』などに記述されている内容を元に編集を行う事で、『恵那叢書』などから「推定」「自明」な文章は極力記述されるべきではないのです。「明智秀満=遠山景玄」が出典提示できない(説明、証明でなく)のであれば、今の所は「明智光安=遠山景行」の記述に留まるべきです。そして、Wikipediaにそれ以上を望むのでしたら、その説の出典が世間に流布してからになります。「武家家伝」などとは運営の方針が全く違う事をご理解下さい。
と堂々巡りな気がしてきたのですが、私の発言は届いているでしょうか。「この分野の専門家が現存するさまざまな情報をもとに、体系的に整理しようということに強く反対されているように思われます」と仰りますが、ご安心下さい。そうではありません。あなたの説が書いてある出典があればそれでいいのです。「専門家の意見」は出典にはなりません。「専門家の書籍」など媒体化されてはじめて出典になりえます。--hat2867 2009年1月30日 (金) 13:29 (UTC)

Hat2867様

 刊行物について問われているのだと思います。光秀に関してはさまざまな書き物がありますが、人物叢書的に書かれたものとしては、高柳光寿氏、桑田忠親氏、小和田哲男氏、永井寛氏の著作があります。明智光安と遠山景行を詳細に記載しているのは、このなかでは最も新しい永井寛氏のものだけです。そこには、遠山景行の長男景玄について、『明智年譜』などで奇妙な扱いとなっており、それが光春だからであろう、といったことが述べてあります。この本では、その後光春ga一貫して用いられており,光春=秀満の立場で書かれています。どうしても疑われるなら、一度ご覧くださるのがよいかと思います。 Hironaga --61.23.223.98 2009年1月31日 (土) 02:21 (UTC)

Hironagaさま。ああ、それを早く言って下さればよかったのに。「永井寛氏の著作」にその説が書かれているのですよね?ではその著作名などを出典として明記した上で、あなたの仰る説を併記して差し支えないと思います。ただ「中立的な観点」という事もありますし、通説を述べた上で「近年このような説が浮上している」という書き方が、個人的には好ましく思います。また「永井寛氏の著作」などに書かれておらず、それを読んであなたが考えた記述はなさらないようにご注意下さい。--hat2867 2009年1月31日 (土) 05:15 (UTC)
議論を混ぜ返すようで申しわけないですが、永井寛氏の著作というのは、「信頼できる情報源」にあたりますか? 歴史学は実証科学なので、しっかりとした史料批判によったものであれば、説として載せて大丈夫でしょう。しかし、もし永井氏の推測・憶測のみに立脚したものなのであれば、歴史学の世界では出典と使用することができない=「信頼できる情報源」として扱われません。Hironagaさんの例えで言えば「地方の雑誌にAと違うBという記事が出ていた。」ではなく、「ゴシップ誌やタブロイド紙にAと違うBという記事が出ていた。」ということになり、載せることができなくなります。--彩華1226 2009年2月3日 (火) 16:03 (UTC)