ノート:東方問題/過去ログ1
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「定義と特徴」の編集の説明
秀逸な記事の選考でもコメントしましたが、現在の記事は、情報が多くて充実しており素晴らしいと思いますが、一方では整理が不十分で、特に歴史に詳しく無い人(私もその一人です)には読みづらく感じます。 そこで、まずは「定義と特徴」について整理してみました。
- この節は、名前のとおり「定義と特徴」を記述するように整理しました。
- なるべく原文の内容から足し引きせず、順序や言葉遣いを直して整理することを心がけました。
- ただし、一部の内容(特に挿絵のキャプション)は省略しています。省略したのは「定義と特徴」の節に書くよりも、後の節に記述した方が良いと思える部分です。
Coleus 2006年9月25日 (月) 02:47 (UTC)
- 大変わかりやすく整理していただき、感謝しております。若干の箇所については修正しておきました。大ブルガリアのキャプションについては復帰させております。というのも、ブルガリアの問題においては外交問題としての解決と民族問題としての(ブルガリア側が望んだ)解決が矛盾しており、さらに当初の大ブルガリアの成立もロシア本位によるところが大きいという面でまさしく「東方問題」典型的であるからです。つまり民族問題としての側面部分を除いたキャプションは適当ではないと思われます。また東方問題の主役はどちらかといえばオーストリアとロシアで、各国は両国が中心となって起こる紛争に介入する形が一般的であるということが重要だと思われます(英語版は特にその面を重視しているようです)。イタリアはとくに国民国家形成が遅れたため、東方問題として捉える場合、その主役の一つとしてはおそらくほとんど影響を与えていないと思われます。また「東方問題」において列強側が必ずしもコントロールしきれずにクリミア戦争などのヨーロッパ諸国同士の大規模な戦争にいたるケースもあり、それについての記述が除かれていましたので復帰させました。--Kanbun 2006年9月25日 (月) 10:38 (UTC)
- Coleusです。いたらぬ点をフォローいただき、ありがとうございました。私自身にはKanbunさんのような歴史知識はありませんので、誤った解釈が無いか、今後も監視いただければ助かります。若干の箇所を修正しました。私は、Kanbunさんの言葉をよりわかりやすく伝えようと努力したいと思っています。例えば、「東方問題の決着はAである」ではなく、「東方問題の決着は見方によって一様ではなく、Aとする考えとBとする考えがる」などのように伝えたいとと考えました。大ブルガリアのキャプションですが、元の記述では「一般的な東方問題は第一次世界大戦も含む」と誤解(?)されると思います。私はKanbunさんの言葉からは、「一般的な東方問題はベルリン会議までとする文献が多い。第一次世界大戦を含めても間違いでは無いが、文献としては比較的少数派」と理解していました。私案として、どちらにも理解できるあいまいな文で書き直しましたが、誤解が無い表現で、より適切な表現があれば改訂をお願いします。Coleus 2006年9月26日 (火) 00:22 (UTC)
- 丁寧な修正ありがとうございます。ブルガリアについては東方問題の解決が民族問題の解決ではなかったことを示したかったのみですので、今の記述は適切であると思います。第一次世界大戦までの列強の勢力均衡は、東方問題的な見方では、イタリアでの勢力均衡→東方での勢力均衡→全世界規模での勢力均衡というように列強の世界分割の広がりとともに解釈されるようです。この東方での勢力均衡の時期に対応するのが「東方問題」だという考え方だと思います。ただ一点、気になる部分だけ修正しました。それは「このような状況に際し、ヨーロッパ列強はオスマン帝国などをめぐる紛争に介入して、一国が「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた」の部分で、ここは紛争へ介入するという構造が語られて以前より明確になりましたが、列強がオスマン帝国との条約内容において「一人勝ち」を排除する(戦争の結果だけを見ればロシアの一人勝ちという構造もあるが、サン・ステファノ条約のようにその講和条約によって一人勝ちするような場合には、列強はその利害を調節しようとする)のを基本姿勢としていたことが抜け落ちてしまったと思います。--Kanbun 2006年9月26日 (火) 10:04 (UTC)
- Coleusです。いたらぬ点をフォローいただき、ありがとうございました。私自身にはKanbunさんのような歴史知識はありませんので、誤った解釈が無いか、今後も監視いただければ助かります。若干の箇所を修正しました。私は、Kanbunさんの言葉をよりわかりやすく伝えようと努力したいと思っています。例えば、「東方問題の決着はAである」ではなく、「東方問題の決着は見方によって一様ではなく、Aとする考えとBとする考えがる」などのように伝えたいとと考えました。大ブルガリアのキャプションですが、元の記述では「一般的な東方問題は第一次世界大戦も含む」と誤解(?)されると思います。私はKanbunさんの言葉からは、「一般的な東方問題はベルリン会議までとする文献が多い。第一次世界大戦を含めても間違いでは無いが、文献としては比較的少数派」と理解していました。私案として、どちらにも理解できるあいまいな文で書き直しましたが、誤解が無い表現で、より適切な表現があれば改訂をお願いします。Coleus 2006年9月26日 (火) 00:22 (UTC)
歴史的展開の「問題の背景」までについて
歴史的展開の前半部分を読むと、どこまでが問題の背景で、どこからが問題そのものなのかわからず、戸惑います。記事を整理する参考に、次について教えていただけませんか?
- 狭義に「東方問題」というとき、1736年の露土戦争は含まれるのでしょうか?
- 狭義に「東方問題」というとき、1768年の露土戦争は含まれるのでしょうか?
- 狭義に「東方問題」というとき、1787年の露土戦争は含まれるのでしょうか?
Coleus 2006年9月25日 (月) 04:42 (UTC)
- 「東方問題」(これはこの記事で中心的に扱われている意味での18~19世紀固有の東方問題のことです)というのは一連の外交問題であり、その時々によってどの問題が「東方問題」であったかは異なります。さらに「東方問題」に対する歴史家それぞれの意味づけも多様ですので、その始まりについては後半部にある3つの契機がそれぞれ重要な時点ということができます。上の三つについては見方によって全てが含まれますが、見方によっては全てが含まれない場合もあるでしょう(キュチュク・カイナルジ条約以降からベルリン会議までと見る場合)。東方問題というのはどこからどこまでというのは必ずしも明確ではなく、あくまで東方問題というような統一的な性質(この性質自体も見方によって変わりうることは本文中冒頭部で説明しているつもりです)で捉え得る一連の問題があったということが重要なのです。なお「問題の背景」というのは英語版の「Background」節を継承しているためです。また東方問題のようなことは歴史的事実として、個人のように生没年や事件のように発生年がある程度明らかになるとは思えませんので、見方によってある程度時期は伸縮しうると思います。したがってどこからどこまでよりは問題の性質自体により関心が向くべきであり、それを踏まえれば自ずからその時期については論じうるものといえるでしょう。ここで示した時期については参照した文献が示している時期に基づいています。参照した中では1736年露土戦争を含んでいる(あるいはこの問題と密接な関係にあると考える)ものが多いと思います。英語版はキュチュク・カイナルジ条約以降ヘルツェゴビナの併合までと見ているようで、1736年露土戦争については全く関係性を論じていません。またベルリン会議が東方問題の最終的な列強間の解決であるのは、それが最後の事例であるからで、問題自体がそれによって(列強の間でさえ)全面的に解決されたわけではありませんが、東方問題自体に固有の意味設定をする場合に、ヴェルサイユ体制はすでにそれが失われているために論じられないということです。--Kanbun 2006年9月25日 (月) 08:45 (UTC)
丁寧な説明ありがとうございました。まずは、歴史的展開の初めの2節を整理したいと考えています。現在の文章は、第1節と第2節(問題の背景)の役割分担があいまいに感じます。改善案として、次のような整理が考えられますが、ご意見をお聞かせ下さい。
- 第1節は歴史的展開を総括する「概要」、第2節は歴史的に古い「東方問題の形成」
- 第1節は歴史的に最も古い「問題の背景」、第2節は歴史的に続く「東方問題の形成」
Coleus 2006年9月26日 (火) 00:32 (UTC)
- 私の記述意図は1.のスタイルです。歴史的展開部分の執筆意図は冒頭に通史概観→(「問題の背景」以降の)細部の記述というものを考えていました。もともと英語版で「問題の背景」とされているのは、おそらくあちらでは東方問題の成立条件にロシアのトルコ領内正教保護権の獲得による内政干渉を重視しているためと思います。現在の記事で第一の契機としている1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国が西洋の条約外交に参加する時点を含むならば、当然ここは初期東方問題の節あるいは東方問題の形成・顕在化の節にされるべきと考えています。--Kanbun 2006年9月26日 (火) 10:04 (UTC)
「概説」を、他の項に比べてかなり大きく編集しました。編集の意図は、「概説」によって「歴史的展開」を総括することです。そのために、簡単にですが、ギリシャ独立戦争やクリミア戦争など後の項の内容に触れました。それと、元の文章は時系列がわかりにくく感じたので、私なりに整理してみました。本来の意図を変更しないよう編集したつもりですが、変更点が多いので、不正確になった部分があるかもしれません。できればご確認をお願いします。--Coleus 2006年10月6日 (金) 01:26 (UTC)
- 概説部はもともと「各国の歴史状況→東方問題の概説」という形で記述しました。修正された文章では時系列にとらわれすぎて、歴史状況→歴史的展開という本来的な意図が損なわれてるように思われましたので、それを差し戻す形にしたうえで時系列に配慮した記述を追加しました。厳密な時系列的把握は歴史的展開全体で記述されている上に定義と特徴でも概略が提示されています。利用者の理解への便宜を考えると、ここではむしろ歴史的展開を把握しやすくするための前提状況により留意して記述すべきと考えておりました。--Kanbun 2006年10月6日 (金) 01:52 (UTC)
- というのも、この概説部は歴史的展開の本筋が時間軸を中心とした時系列的な経過を記述しているのに対し、その導入部として時系列的記述では把握されづらい空間的な歴史状況を記述することを重視しています。ここでは歴史学事典その他の概説書の説明を踏まえて各国の状況をやや強引に一般化して、空間的な性格付けをおこなうことで、この空間状況を手がかりに時間軸での各国の動きの理解に役立ててもらおうという意図があるからです。--Kanbun 2006年10月6日 (金) 02:00 (UTC)
- ご説明ありがとうございました。Kanbunさんの意図を意識しながら、もう一度編集を試みてみました。この後には歴史の時系列の詳細な説明がありますが、それらを読む前に概説を読みます。このとき、私は予備知識が無いので、概説の元の文を読んだときには時系列の理解にかなり混乱し、特に1871年のドイツ帝国成立の説明まで進んだ後に突然1736年露土戦争に飛ぶ部分で混乱しました。それと、空間的な説明がヨーロッパ→イタリア→ロシア→オーストリア(再びイタリアなど)→イギリスと東西を往復するので、これにも混乱しました。今回の編集ではそのあたりの修正を試みました。見出しを「背景と概説」に変更しましたが、これは、「概説」のままでは、読者が歴史の時系列な説明を期待してしまうと考えたからです。--Coleus 2006年10月6日 (金) 10:57 (UTC)
歴史的展開の「ナポレオンの時代」以降について
良い記事なので大きな変更は必要ないと思っていますが、順次整理していきます。今日は「ナポレオンの時代」を整理しました。Coleus 2006年9月26日 (火) 23:27 (UTC)
いくつかの修正点に関して
細かい点ではあるんですが、以前に秀逸な記事の選考で指摘した部分をいくつか直しました(メフメト5世については、「傀儡」という言葉には少々語弊があるので、多少柔らかく書き直しました)。私が投じた反対票へのKanbunさんのコメントは確かにその通りですし、あえてオスマン側の視点を排除した「歴史的展開」の記述で東方問題の本質を示唆するという手法もよくわかるのですが、それだと局面局面でオスマン側が取った態度が「なぜ」そのような態度だったのかというのがわかりにくいように思うのです。「なぜ」そのような態度をとったのかというのがわからないと、西欧列強が「なぜ」そうしたのかという点の理解もまた難しくなるように思います(もっとも、それをだらだら書いたら冗長になってしまうのも事実で、簡要にとなると難しいところではあるんですが・・・)。オスマン側も実は外交問題としての東方問題をちゃんと外交問題としての東方問題として理解しているのであって、選考のところで私が書いた内政・外交の相関とまではいかなくても、東方問題の記事ならばオスマン側の「東方問題」へのスタンスを簡単であっても一文入れる必要というのは、私はあると思います。「東方問題という枠組みを結果的に受け入れ、自らが欧州の勢力均衡に寄与する存在であることを強調する外交を行った」(ちょっと乱暴なまとめかたですけど)みたいなのをどこかに入れると、バランスの面ではよりよいと思います。F.V.E 2006年9月29日 (金) 17:00 (UTC)
- 大変丁寧な修正をありがとうございます。事実面で大きく前進したと思います。記事の内面についてですが、「それだと局面局面でオスマン側が取った態度が「なぜ」そのような態度だったのかというのがわかりにくいように思うのです。「なぜ」そのような態度をとったのかというのがわからないと、西欧列強が「なぜ」そうしたのかという点の理解もまた難しくなるように思います」という論点に関しましては、私自身はたとえばロシアについては南下政策の記事であったり、オスマン帝国にはタンジマートの記事やその外交を中心にした記事を用意することで、個別の視点についてはカヴァーできると思います。これはウィキペディアの特長であると思っていますし、そのようにすれば東方問題の問題点が、個別の立場からの批判を盛り込みすぎて曖昧にされてしまうことを防ぐことができると思います。これについてはたとえば正教徒の保護について記事内では繰り返し、それが本当の口実ではなくて介入の口実として使われている点を強調していますが、これも事実正教徒保護という口実が副次的であったかということについては明らかにできる問題ではありません。ではどうしてこういう記述がされるかといえば、あくまで「東方問題」ではロシアは汎スラヴ主義と南下政策を第一義的に追求した(仔細に研究すればおそらく実際全時代的にそうであったとはいえない)という解釈をするために、正教保護権については目的よりは手段として使われたのだという見方がされているということを示すためという感じです。ただこれはオスマン帝国側の「なぜ」が無視されてよいと言うわけではありませんし、そのほうが歴史的にはより重大な理由であるという点も否定できません。あくまで東方問題として記述するときに理由付けの取捨選択がおこなわれていることを示すのがよいと思われました(歴史的展開は冒頭部で述べた東方問題の問題のとらえ方の特徴をそのまま見ることができると思われます)。
- 私が「東方問題」をとくに重視しているのは、この問題が歴史において普遍的な価値を持つからではなくて、全く限られた、一方的な解釈を歴史に及ぼしているからです。東アジア史でもこの東方問題的視点、つまりヨーロッパの外交秩序に中国や日本が一方的に組み入れられていったという観点には疑問が提出され、研究においては今後むしろ反東方問題的な研究が主流となりはじめているとも思えます。一方でウォーラーステイン以後、中心と周縁という把握が主張され、ヨーロッパ中心主義として批判されてきた東方問題のように中心の側からの歴史認識を改めて重視する動きもあります。したがって「東方問題」を古いものとして無価値と断じ、一方的に否定する立場は中立的であるとも歴史に対して忠実であるとも思えませんし、かといってそれを全面的に認めるわけではありません。私自身はこの記事を「東方問題」で扱われる個々の問題について詳述する記事ではなく、「東方問題」自身を記述する記事とすべきと思いました。したがって個々の事件の相関関係はそれほど注意せずに、あくまでどのような事件が一般に「東方問題」として扱われ、そう扱われる根拠は何かという点を明らかにするスタンスで記事を構成しました。とはいえ「東方問題の記事ならばオスマン側の「東方問題」へのスタンスを簡単であっても一文入れる必要というのは、私はあると思います」という意見には全く賛成です。尊敬する永田の文章を外部リンクの筆頭にし、さらに「東方問題」史観という形で、オスマン帝国側の主体性・内在的発展も重視されるべきだという点は充分盛り込んだつもりだったのですが、私自身はオスマン帝国史はほとんど無知なので、もしかすると不徹底な面があるかと思います。その点については必要であれば盛り込むべきと思います。--Kanbun 2006年9月29日 (金) 23:24 (UTC)