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ノート:東方問題

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「『東方問題』における歴史学」について

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現在の文章を読むと、「歴史的展開」の章と「東方問題における歴史学」の章が、どちらも歴史の時系列の記述で、役割分担がわからずに戸惑います。「東方問題における歴史学」の役割を教えていただけませんか?私の想像ですが、「東方問題における歴史学」は、一般論というよりは特定の歴史学者の優れた意見なのでしょうか。それならば、「○×によると」のように出典が明記してあれば、混乱は避けられると思います。--Coleus 2006年10月11日 (水) 06:26 (UTC)[返信]

「『東方問題』における歴史学」は、現代歴史学で特に争点となるような点を特記したものです。ここは「東方問題」の一般例ではなくて、あくまで歴史学で「東方問題」が争点となるときに取り上げられるであろう点を指摘するものです。「『東方問題』史観」については特に、個々の歴史学者の意見としては外部リンク先の永田雄三によるものが参考になるよう示してあります。したがって特定の歴史学者の意見というわけではなく、研究動向から結論づけたものです。前二つの箇所については時系列を抜き出しているのではなくて、東方問題の契機と東方問題の相対的影響低下期について特記しているものであることに留意ください(すなわち「東方問題」について学問上の対立が起こる際に、注目される時期であるとお考えください。それは活期がクリミア戦争であることは諸家ほぼ一致するのに対し、東方問題の全体の定義、全体の時期についてはそれほど統一的な見解があるようには思えないことを鑑みると納得されるのではと思います)。--Kanbun 2006年10月11日 (水) 06:38 (UTC)[返信]
早速のご説明ありがとうございました。「現代歴史学で特に争点となるような点」とのことですが、だからこそ、「何がどんな争点になっているのか」を記述してあると、読者の理解を助けると思います。この点、「『東方問題』史観」については争点が記述してあり、よくわかります。前二つの箇所についてはその記述がないので、改めて教えてください。ここに書かれた「契機」と「相対的影響低下期」は、この記事の考えとは別の解釈を主張する研究者もいるのでしょうか?--Coleus 2006年10月11日 (水) 07:31 (UTC)[返信]
具体的に記載すると、契機の部分はそれぞれ成立の時期の問題になることは一目瞭然であると思います。これは「東方問題的」な事例と「東方問題固有」の事例の線引きをいつするかという問題で、鎌倉幕府成立がいつかという問題と似ていると思います。二番目の東方問題の安定期の問題は、ヨーロッパの勢力均衡のなかで東方問題がどこまで中心的であったかという問題につながります。東方問題ではどちらかとえばオーストリアを中心として見ているために、実際にそれほど重要であったかあるいは歴史認識において重要であるかについての疑問が当然わきます。例示した東方問題安定期を中心に事件をあげますと、最初のナポレオン戦争、1840~42年にはアヘン戦争、1851年~1864年には太平天国の乱、1856年~60年にはアロー戦争、1858年にムガル帝国滅亡、1869年にスエズ運河開通などがあります。これらはヨーロッパ外交体制の拡大という面だけでも、東方問題と同等かより重要と思われる点も否定できません。したがってこの時期のヨーロッパ政治の中での東方問題の位置づけというのは研究者によって当然ばらつきがでてくるもので、それによって主にその影響面をめぐって、東方問題の定義が争点となるわけです。クリミア戦争が各国政治に大きな影響を与えたことは事実ですし、ギリシャ独立運動も全ヨーロッパ規模での世論の喚起を促したことは事実ですが、この時期のヨーロッパ政治が東方問題中心にめぐっていたとは簡単に言えないわけで、その点に注意すると東方問題が問題にされなかった時期、すなわちこの問題が相対的に安定化していた時期のヨーロッパ政治の動向に注目することになります。--Kanbun 2006年10月11日 (水) 08:10 (UTC)[返信]
なお記事の記載は参照元の文献と英語版を元に主に日本の歴史学における東方問題の一般像を示したもので、英語版は解釈が異なりますし、外部リンク先を参照してもわかるように、日本国内でも解釈が分かれているようです。高校教科書では「東方問題」という用語もすでに死語になりつつあるようで(笑)、私の手許にある教科書を見ると、カルロヴィッツ条約に出発点をおくものと1768年からの露土戦争におくものに分裂しているように思われます。高校教科書では、詳しい説明もされていないばかりか、ギリシャ独立運動はむしろ国民主義・自由主義に結びつけられていて、オスマン帝国支配の動揺期の記述では出てこない感じで、東方問題とは全く関係ないかのようです(しかし東方問題という用語がギリシャ独立戦争を契機として市民権を得たらしいことを鑑みれば、これは微妙に思えます)。--Kanbun 2006年10月11日 (水) 08:23 (UTC)[返信]

ご説明ありがとうございました。本文に解説を加えてみましたので、ご確認いただけますでしょうか。--Coleus 2006年10月13日 (金) 00:05 (UTC)[返信]

画像について

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記事の見直しが一通り済みました。最後に、画像について整理させてください。当記事には豊富に画像が使われていて、それ自体は良いことだと感じています。しかし、一部の画像について、その項目の本文と釣りあわず、画像のためにかえって読者が混乱すると感じています。本文との関連がわかりやすいよう何箇所か修正しましたが、事前に意見をお伺いしたくて手をつけていない部分があります。次の画像について、省略・変更したほうが良いと思っていますが、いかがでしょうか?

  1. 「ヘルツェゴビナの反乱」の項のボスニア・ヘルツェゴビナの画像 → キャプションが「ボスニア危機」の内容なので、「ボスニア危機」の項に移動してはどうでしょう?
  2. 「ボスニア危機」のサライェボ事件の画像 → 本文には記載していない事件なので混乱します。本文記事を増やすか、画像を省略するか、どちらかが良いと思います。
  3. 「ドイツとオスマン帝国」のベルリン会議の画像 → ベルリン会議は「ヘルツェゴビナの反乱」の項に記載しているので、画像も前の項に移動してはどうでしょう?
  4. 「東方問題における歴史学」のビスマルクの画像 → 本文との関連が不明確です。「ドイツとオスマン帝国」の項に移動するか、省略するかしてはどうでしょう?--Coleus 2006年10月16日 (月) 04:36 (UTC)[返信]
画像は複数のブラウザを用いて、複数の画面設定を調整してバランスを見ながら、記事本文と関連すると思われる事項を元に配置しました。したがって基本的にはこれらは節について関連のあるものを重視していますが、最終的には記事と関連項目への理解と繋がりへの配慮から選定しています(好みはたぶんに影響していると思いますが)。以下説明します。
  1. 「ヘルツェゴビナの反乱」の項のボスニア・ヘルツェゴビナの画像については、一般の人にはボスニア・ヘルツェゴビナという地域がなじみ薄いと思うので、地図を示す必要があることからおいています。
  2. 「ボスニア危機」のサライェボ事件の画像について。本文中で第一次世界大戦とのつながりを意識しながら、意図的に直接第一次世界大戦まで言及するのを避けています。これは東方問題の記事であるという点に配慮し、東方問題の中心軸から逸脱しないようにということを意識しておこないましたが、当然どのように第一次世界大戦につながるのかという点には興味がわくと思います。そこで画像ではサライェヴォ事件を示し、そこにリンクをおくことで解決することとしました。サライェヴォ事件にとんでもらうとわかると思いますが、記事の背景部分は当記事の「ボスニア危機」のあとをぴったりうけたかたちになっていると思います。したがって「本文には記載していない事件なので混乱します」に対しては、むしろ逆で理解を深めるために配置しているとお考えください。私はサライェヴォ事件の画像は当然ここにあるべきと考えています。
  3. 「ドイツとオスマン帝国」のベルリン会議の画像については、基本的には前節におくつもりですが、バランスからここに配置しました。またこの節で述べられている列強の関係性の変化は直接的にはベルリン会議に由来するものですので、それほど不適切であるとも考えておりません。オスマン帝国がドイツに近づいたのもベルリン会議の結果であるといって良いと思いますから、ここはすなわちベルリン会議で形成されたビスマルク体制の東方問題における展開の説明箇所であるといってよいと思います。
  4. 「東方問題における歴史学」のビスマルクの画像のキャプションに「彼はオーストリアとロシアの間で「東方問題」に関する紛争が起こるのを嫌い、「公正な仲裁人」と称してベルリン会議を開いた。彼はこの会議で列強の利害を巧みに調整した」とあるように、ビスマルクは東方問題の歴史学に述べている列強外交中心的観点と東方問題の安定期の一例を兼ねています。ビスマルクの画像はどこかに是非配置したいと考えており、その際に適切と思ったのがこの箇所です。

総括しますと、とくにレイアウト上の配慮を優先しつつ、関連性を重視しています。画像は記事本文では省くのが適当と思われた側面を補強しようと考えて配置しました。また記事本文にはそれぞれの画像に関係する記述はあります。--Kanbun 2006年10月16日 (月) 05:44 (UTC)[返信]

いつも丁寧なご説明ありがとうございます。なるほど、Kanbunさんが十分に検討のうえで画像を挿入されていることが良くわかりました。しかし、東方問題の予備知識を持っていない人には、Kanbunさんの意図が伝わらないと危惧します。一般に多くの記事・書籍では、挿絵は本文中の代表的場面を描いています。そこで、話を簡単にするために「ボヘミア危機」に絞って説明しますと、私のような素人は、「ボヘミア危機」というタイトルの項に「サライェボ事件」の画像があると、「サライェボ事件はボヘミア危機の中の代表事件だ」と誤解しがちです。私は、誤解したまま本文を理解しようとしたので、誤解に気付くまで苦労しました。「ボヘミア危機」と「サライェボ事件」の関係について予備知識がある人か、本文を読んだ後で十分に理解した人だけが、現在の本文と画像の関係を理解できます。このような誤解を招くことはKanbunさんの意図ではないでしょうから、東方問題の予備知識が無い人が初めて本文を読んでも迷わないようにご配慮した改訂を検討いただけませんか?(ボヘミア危機以外の画像についても同様です。)--Coleus 2006年10月16日 (月) 23:57 (UTC)[返信]
具体的にはどのように対処すべきと考えておられるのでしょうか?もし、いまでも最初の提案とおりに整理するのを対処として考えておられるようでしたら、私は反対です。サライェヴォ事件については本文中で言及した方がよいということでしょうか?私自身はサライェヴォ事件は東方問題の後日談の一つとして、重要な帰結の一つであっても、一般に東方問題に含まれるものではないと考えています(これはあくまで文献において扱われていないという意味でです)し、画像のところにリンクが示されており、かつサライェヴォ事件の記事ではどのような関連があるかが説明されていると思われます。また「「サライェボ事件はボスニア危機の中の代表事件だ」と誤解しがちです。」というのに対しては、「ボスニア危機」というのがいつからいつまでのどういうボスニアの危機を指すのかで意味内容が変わると思われますが、もしこの記事の内容の限りでのボスニア危機という意味であれば、そのような誤解は以上の理由から充分回避されていると考えています。逆にサライェヴォ事件まで射程を広げてしまうと、第一次世界大戦そのものが東方問題の帰結であるような誤解を生む気がします。「ボスニア危機以外の画像についても同様です」ということについても具体的に説明してくださると編集の参考になります。--Kanbun 2006年10月17日 (火) 00:25 (UTC)[返信]
補足説明をしますと、画像と本文記事の当該部分だけ見たときに誤解を招きやすいのは承知しています。しかし画像のリンクと記事全体の記述でそれはまぬがれているものと考えています。リンク先においてすぐに確認できることですから、記事を読み込まなければ誤解してしまうというものでもないと思います。また繰り返しになりますが、英語版でここで終わっているためにそれをこの記事は継承しています(私も文献を調べた限りでそれが妥当だと思っています)。しかしながら、それでは第一次世界大戦につながる点が把握できません。そこで記事中で言及しないかわりに画像のキャプションで示唆するという方法をとりました。--Kanbun 2006年10月17日 (火) 00:47 (UTC)[返信]

再度のご説明ありがとうございました。私としては、現在の記事に混乱するので、最初の4点の提案が記事改善になると考えていますが、Kanbunさんの同意が得られないことがわかりましたので、特に気になる2点に絞って別の修正案を提案します。

  1. 「ヘルツェゴビナの反乱」の項のボスニア・ヘルツェゴビナの画像 → キャプションが後に記述するボスニア危機の内容になっていて混乱します。たしかに地図は有用ですから、画像の場所はこのままで、キャプションの内容を「ヘルツェゴビナの反乱」に書き換えてはどうでしょう?例えば、「1975年にヘルツェゴビナで発生した反乱はボスニアとブルガリアにも波及した」などです。
  2. 「ボスニア危機」のサライェボ事件の画像 → 本文との関係がわかりにくいので、「ボスニア危機の際にセルビア側に不満が残り、これが後のサラエボ事件となって第一次世界大戦の引き金を引くことになった。」と変えてはどうでしょう?なお、サライェボでなくてサラエボでもよければ、そちらの方がわかりやすいと感じます。--Coleus 2006年10月19日 (木) 23:53 (UTC)[返信]
ボスニア・ヘルツェゴビナの画像について。この地域がこうむった影響から考えますと、反乱したことよりも結果としてオーストリアに併合されたことが影響が大きいのではないかと思います。反乱の結果自体については「ベルリン会議で~」となっているように記載されているのですが、もし反乱したことまで記した方がよい(私はすぐ横の記事中に書かれてあるので、キャプションにないからといって混乱することはないと思いますが)とのことであれば、画像のキャプションのつけ方については人それぞれということもありますし、つけてもよいのではと思います。そこで記載を増やしてみました。
サライェヴォ事件の画像について。『「ボスニア危機の際にセルビア側に不満が残り、これが後のサラエボ事件となって第一次世界大戦の引き金を引くことになった。」と変えてはどうでしょう?』とのことですが、これは画像のキャプション中からテロリズムという言葉を排したいという意味でしょうか?(それ以外の主述関係も事実関係も変化がないので。サライェヴォ事件はテロリズムの代表例なので、テロリズムという言葉を消すべきという言葉には個人的にあまり賛成できません。)「サライェヴォ」については最近の文献でこの表記が目立つので、これを採用しました(最近の歴史学が原音主義を重視していることから考えると、原音に近いのかもしれません)が、原音に近いのかどうかは個人的に関知しませんし、私自身は原音主義に忠実であるべきとも考えていません。ので、「サラエボ」のほうがよいというのなら、べつにそれでもかまいません。--Kanbun 2006年10月21日 (土) 01:40 (UTC)[返信]
ヘルツェゴビナの反乱の画像のキャプション修正、ありがとうございました。
ボスニア危機の画像のキャプションについて、改めて提案の意図を説明します。私が解決したい問題は、「知識の少ない人が初めて記事を見たときに混乱する」という問題です。私は、初心者には、本文を読む前にタイトル(ボスニア危機)と画像(サライェボ事件)だけを見て大枠を掴もうとする人が多いと考えています。そのような人は、現在の記事では「ボスニア危機=サライェボ事件」と誤解し、混乱します。Kanbunさんのご説明のとおり、本文を読んで、サラィエボ事件のリンクも読めば誤解は解けますが、そこまでしなくても誤解しない記事が「秀逸な記事」ではないでしょうか?そこで改善案として、
  • 「ボスニア危機」という単語を使用する。なぜなら、「ボスニア危機」を知らない初心者は、現在のキャプションでは何がボスニア危機なのか分からず誤解してしまう。
  • 「不満が残り、後の」のように、前後関係を明記する単語を使用する。これは「ボスニア危機=サライェボ事件」と誤解しないための配慮です。
  • 「サラエボ事件となって第一次世界大戦の引き金を引く」と改訂しましたが、これは、「サラエボ事件=第一次世界大戦の引き金」と気付かない初心者に対する配慮です。
  • サライェボではなく「サラエボ」と表記する。これも初心者への配慮で、より慣れている単語を使用したいという意図です。
なお、ボスニア危機の定義は本文に従っています。テロリズムという単語の使用に異議はありません。提案で省略したのは、なるべくキャプションを長文にしたくなかったからです。以上が私の提案の意図ですので、どうぞご検討ください。--Coleus 2006年10月24日 (火) 00:07 (UTC)[返信]
誤ってウォッチリストから外してしまっていたようで、返事が遅れました。上のColeusさんの提案は非常に的を射ている気がします。ここまで記事の構成を考えてくださっていることに感動いたしました。私も上のような改訂であれば賛成ですので、ぜひ編集をしていただきたいと思います。--Kanbun 2006年10月25日 (水) 06:14 (UTC)[返信]