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Wikipedia:秀逸な記事の選考/東方問題 20060918

賛成/条件付賛成/保留/反対 1/0/1/1 この項目の選考期間は、2006年12月20日 (水) 05:03 (UTC)(2006年12月20日 14:03 (JST))までです。

(ノート) 2006年8月度の月間新記事賞に選ばれた記事です。この問題の背景など詳しく書かれています。秀逸な記事に相応しいと思いました。Nalld 2006年9月18日 (月) 01:16 (UTC)[返信]

  • (保留):「東方問題」は元々込み入った内容なので難しいと思いますが、流れがうまく整理できてない感があります。例えば、冒頭の「広義には~オスマン帝国の圧迫を受けた問題。狭義においては~ヨーロッパ諸国間の国際問題。」とありますが、「広義」、「狭義」という場合には「広義」に「狭義」の内容が含まれるはずなのに、この文章ではそう読み取れません。また、その後の文章を読むと「狭義」についてしか書かれてなさそうです。全体として、色々盛り込もうと無理をして、却って読みにくくなったような気がします。さらに、最終的な帰結がどうなったか、よくわかりません。(私の理解では、第一次世界大戦→トルコ共和国成立によって終焉したと思ってますが、そのあたりの記述がほとんど無いです。)--日陰猫Joga 2006年9月20日 (水) 05:03 (UTC)[返信]
  • (コメント):執筆者です。補足説明をします。「東方問題」の広義は、コソヴォの戦い以降本格化したオスマン帝国のヨーロッパ圧迫問題およびその対処をめぐっての(対オスマン十字軍などが関係する)ヨーロッパ外交関係ですが、この用法は非常に少ない上文献を数種あたりましたが、歴史事典での示唆以外にこの用法で使用されている事例は発見できませんでした。狭義の意味での「東方問題」が今日一般的に歴史学用語として使用されるものだと思われます(記事内でも指摘しました)。ただし広義の用例でも使用される場合もあり得ることを考慮し、冒頭部でのみ示唆的に記述しました。また「東方問題」の終了時期ですが、ベルリン会議にてヨーロッパ列強の外交問題としては決着したとされているため、外交事案としての「東方問題」はこれで終結したと見るのが一般的なようです。ただしバルカンの民族問題がこれで解決したわけではなく、その影響が今日にまで続いているのは明白です。しかしながら、それは東方問題の後日談に含まれる部分であり、「東方問題」は基本的にはとくにロシアを中心としたトルコ領を巡る特殊な外交問題で、ただし場合によってはトルコ領外のイラン・アフガニスタンでの英露の綱引きも含めて論じられる場合もあるようです。したがって外交問題としての「東方問題」は最終的にベルリン会議で解決されたと当時考えられ、また現在でもその立場が一般的であるように思われますが、バルカンの民族問題としては今日まで続く問題です。また最狭義の東方問題とした場合、本文中でも示唆しましたが、ギリシャとトルコを中心とした民族問題を指すこともあるようです。この場合もやはりキプロス問題が今日まで影響を残していることを考えると、完結した問題ではないように思われますし、今日一般的な意味での「東方問題」の用例としては中心的な部分ではないように思われます。基本的に私個人としてはヘルツェゴビナの紛争部分は東方問題の後日談のように考えていますが、その部分は英語版の翻訳であるため、現状ではそのまま含めました。個人的にはビスマルクが当時主張し、列強が基本的に認めたようにベルリン会議をもって外交事案としての「東方問題」の最終的決着であるとみてよいと思っています。なぜならベルリン会議のあと二度のバルカン戦争が戦われますが、これについては私が参照した各文献「東方問題」としては扱っていないということが挙げられます。これは「東方問題」にとって重要なファクターであった列強の勢力均衡という観点がすでにバルカン戦争の交戦国の構図のなかには見いだせない(オーストリア・トルコ・ロシア三国間がこの戦争に関わっているにせよ、ヨーロッパの外交問題としては辺境にとどまる問題で核心ではなかった)ということなのでしょう。東方問題成立の契機部分にも記載しましたが、今日的な視点で東方問題という外交問題を捉える場合、ヨーロッパの勢力均衡と関わって本来は辺境の問題であるのがヨーロッパ全体の外交問題となっているという構図が必要なのであり、その活期はクリミア戦争に、終焉はベルリン会議におくというのが一番適切なのではないだろうかと考えています。
    盛り込みすぎとの指摘ですが、執筆者としてはバルカン半島の問題を中心に事例を絞っているつもりでしたので、具体的にどのあたりが盛り込みすぎなのか指摘していただけると記事の改善も容易だと思われます。また最終的な帰結についてはトルコ共和国成立ということですが、具体的にはバルカン戦争・第一次世界大戦を東方問題に含めた方がよいということでしょうか。(外部リンク先を参照していただけるとご理解いただけると思いますが、ベルリン会議もしくはヘルツェゴビナ併合をもって東方問題固有の事例の終焉としているのが一般的なように思われます。)--Kanbun 2006年9月20日 (水) 17:01 (UTC)[返信]
  • (保留)(賛成)非常に充実した良い記事だと感心して読ませていただきました。執筆者に敬意を表します。しかし、私が世界史に弱いことが一因ですが、多く盛り込んだ内容が整理されていないと感じましたので、保留とさせていただきます。記事全体に整理が必要と感じましたが、ここでは冒頭から「第1章:定義と特徴」までの間で感じた問題を例に挙げます:
  1. 冒頭では「広義」と「狭義」の定義がありましたが、第1章では「広義」の説明が無く混乱しました。
  2. 冒頭では東方問題を「オスマン帝国の解体過程にともなう外交問題」と定義していましたが、第1章の第1文節の定義にはオスマン帝国の解体の記述がなく、混乱しました。
  3. また、この第1文節の定義の「勢力均衡を調整する」という言葉が歴史的に何を意味するかわかりませんでした。
  4. 同じくこの第1文節について、「東方問題の定義」かと思って読んでいたら、東方問題による影響(第一次世界大戦が勃発する)まで急展開して戸惑いました。
  5. 第1章の第2文節では、『「東方問題」という形で…(中略)…捉えられる傾向にある。』とありますが、ここまでは東方問題は「外交問題」だと定義されていたのに、急に「外交問題の捉え方の一つ」に定義が変わったようで混乱しました。
  6. 定義に混乱している状態で、さらに続く文章では、『「東方問題」では…(中略)…を軸として語られることが多い』とありますが、日本語として「何が」語られるのかが省略されており、そこに新たな3つの対立軸の視点が加わったので、さらに戸惑いました。
  7. 第1章の第1文節を読んで東方問題が19世紀に終わったと理解していましたが、第1章の最後の文節では、重要度は減ったものの継続しているように書かれていて、混乱しました。Coleus 2006年9月21日 (木) 10:10 (UTC)[返信]
(コメント)執筆者の協力をいただき、記事全体にわたり整理ができました。このため、評価を賛成に変更しました。--Coleus 2006年10月25日 (水) 07:29 (UTC)[返信]
  • (コメント)Coleusさんの指摘を受けてやや編集対処してみました。またそれぞれの部分については編集が難しい箇所もあるため、改善点をより明確にできるよう、2,3補足説明をしたいと思います。
  1. 「広義」についての記述を導入してみました。
  2. 解体期の状況について概観記述を追加してみました。
  3. 勢力均衡について記述を追加してみました。
  4. これは「東方問題」が解決したとされたにも関わらず、そこで扱われた問題は決着しておらず、結局第一次世界大戦につながったという意味です。第一次世界大戦は「東方問題」ではなく、また東方問題の直接の結果でもないのですが、東方問題の遺産としての民族問題が主要な原因の一つであるという見方が一般的だと思われます。東方問題が民族問題の解決ではなくて、単なる外交上の解決に過ぎなかったことはバルカン戦争を通じて明らかになるところと思われますが、この部分は一般的に「東方問題」に含まれません。本文中にはあくまで示唆的な記述にとどめるべきと思いました。またバルカン戦争・第一次世界大戦の記事にはこの点についての十分な言及があると思われました。また列強の外交問題としては、この時期ファショダ事件・日露戦争などが主要な中心問題となっており、すでに東方問題は決着している、あるいは中心的な外交問題としてはもはやなくなっていることがあげられ、ヴェルサイユ体制は東方問題という視点はないというよりむしろ東方問題の素地自体がこの時すでに消滅していると思われます(バルカンにおける民族自決の原則の徹底、オーストリア・ハンガリーの解体、ソヴィエトの成立、オスマン帝国の解体)。また東方問題に関わりのない日本とアメリカが列強として台頭してきたことも東方問題を中心から外した原因であると思われます。したがって東方問題が外交問題という形で成立しつつ決着されたと見るためには、ベルリン会議もしくはヘルツェゴビナ併合とブルガリア独立あたりが限界ということになると考えていますし、一般的にこのころを終焉期としている見方が多いことは述べたとおりです。とりあえず記事内に補足説明を付け加えてみました。
  5. この部分は外部リンク先の永田雄三が指摘しているように、あくまで東方問題という外交問題の視点からオスマン帝国の解体を捉えた場合、ヨーロッパの外交秩序にオスマン帝国が取り入れられていく形として捉えられてしまうということです。オスマン帝国の側からは近代化へ向けての自己改革の視点があるのです。今日オリエンタリズムに結びつけて一番「東方問題」の問題点として語られる部分だと思います。東方問題自身はあくまで外交問題なのですが、歴史研究の視点の一つとして重要で有意義な部分なので東方問題的な視点からの歴史把握がおこなわれることがある、また以前はそれが支配的だったという意味です。本文中に補足説明を付け加えてみました。
  6. 東方問題で扱われている個々の問題は実は決して外交問題にとどまるものではなくて、民族問題につながっているものもたくさんあります。東方問題はあくまでこれらの問題を列強間の外交問題として扱っており、その際にバルカン諸民族の民族問題を中心に論じるのではなくて、列強間の政策の調整問題とされているということです。実際は東方問題で扱われた問題は、列強にとっては外交問題、バルカン諸民族にとっては民族問題、トルコにとっては領土問題であったという感じだと思います。若干改変してみました。
  7. 外交問題としては決着したのですが、民族問題としては最近のコソヴォ紛争にいたるまで東方問題の残滓といえるような問題は残っています。かといってしれらを具体的に記述に含めるのは難しい気がしましたので、あくまで示唆的にとどめる配慮をしてみました。外交問題としては19世紀に決着したと当時考えられていたのですが、その解決されたはずの東方問題に関わる民族問題で後日第一次世界大戦が起こったのは一つの皮肉なのかもしれません。しかしバルカン戦争以後については一般的に東方問題としては扱われていないようです。つまり外交問題として決着したにもかかわらず、その核心であった民族問題についてはこれといって重要な解決が棚上げされているのが東方問題の一つの特徴で、あくまで列強本位で終わっている話題という面があります。後日談的な話題についてはどのように記述に盛り込むかは少し検討してみようかと思います。
    以上多少改変を加え、補足説明しました。--Kanbun 2006年9月21日 (木) 11:22 (UTC)[返信]
  • (コメント)早速の見直しありがとうございました。秀逸レベルで考えると、今回の見直し範囲も含め、記事全般にわたって整理が必要と感じています。今すぐは無理ですが、後は記事のノートにコメントします。Coleus 2006年9月21日 (木) 23:58 (UTC)[返信]
  • (反対)保留にするか悩みましたが、いくつかひっかかる点があるので反対とします。
  1. 「定義と特徴」の節ではそれぞれの立場によって領土・民族・外交問題の側面を持つという旨の記述がありますが、そんな簡単には割り切れないからこそまとめて「東方問題」と呼ぶのではないかと思います。たしかに英仏にとっては「外交問題」だったかもしれませんが、少なくとも露・墺・土にとっては全ての側面が複雑に絡まり合った問題であったわけで、果たしてそんな単純に立場(側面)を割り振れるものだろうかという疑問があります。
  2. 「定義と特徴」の節や「「東方問題」における歴史学」の節でこの問題に関するオスマン帝国の主体性について触れられてはいるものの、「歴史的展開」の節で述べられている「展開」は正しく西洋から見たオスマン分割史に他ならないという点を挙げたいと思います。この節で記述されたオスマン帝国はそれこそ客体であって、なされるがままだったような印象を受けます。実際には「定義と特徴」の節にあるように「主体的に外交紛争に関わった」のであって、具体的事例を説明している「歴史的展開」の節にその具体例の記述がなければ、少々中立性を欠くように思われます。また、オスマン帝国の内政改革に関して「定義と特徴」の節に「自己改革的な側面は無視あるいは軽視される傾向が見られ」とありますが、だからといって内政改革に外交的影響がなかったかと言えば、それは違うはずです(改革勅令がいい例です)。当然ながら外交状況の過大視も戒めなければなりませんが、もし「歴史的展開」にオスマン側の具体例を入れるならば、内政改革と外交状況の相関をうまく入れられるとよいと思います。そうすれば、「「東方問題」史観」の節の記述(主体性の有無についての論争)がより生きてくるように思われます。

また、細かい点でいくつか事実と異なっている点があります。その他に語句のこと(例えば、全編にわたり「ダニューブ川」という表現を使っておられますが、これは何か理由があるのでしょうか?)や、東方問題はいつ終熄したか(これはノートでさらなる議論を重ねる必要があると思います)という問題もあるでしょうから、まだまだ議論と推敲を重ねる必要があると思います。故に一旦ここでは反対とし、しかるべき後に再推薦すべきと考えます。F.V.E 2006年9月25日 (月) 16:59 (UTC)[返信]

  • (コメント)補足説明をします。領土・民族・外交問題の側面を持つというのは「東方問題」で扱われる問題がそのような性格を持つということで「東方問題」自体は基本的には外交問題であると思われます。「東方問題」というのはヨーロッパから見て「東方」という意味で、ヨーロッパ政治に軸を据えた問題の設定がされているものです。「歴史的展開」部分が「正しく西洋から見たオスマン分割史に他ならない」というのは当初から私が意図したところで、これは「東方問題」がまさしくそのようなものだからです。これはつまり無数の歴史的事実の中で、「東方問題」というとらえ方をした場合に個々の事件がこのように取り上げられることを示したもので、これが当時の歴史状況の全てであったという意味ではありません。ここで述べられているのはまさしく西洋のオスマン分割史ですが、実際にはオスマン帝国の側にも、これに関わったそれぞれの国にもより主体的な視点があることは明白ですが、それは別の記事で記載されるべきではないでしょうか。「少々中立性を欠く」という指摘に対しては、東方問題自体が歴史事実を中立的に扱っていないことを十分に示したつもりですので、その上でこの偏った見方について説明することはウィキペディアの「中立性」にかなうものであると考えています。これは「歴史的展開」部分がまさしく「東方問題」的な意味での「歴史的展開」であって、歴史事実としてふさわしい、より事実に近い「歴史的展開」であるわけではないということです。そこには誤謬やより重要と思われる側面を見逃している部分もあるけれども、あくまで「東方問題」はこのようなとらえ方をしてきたのだという説明であると考えています。したがって私個人はあくまで「東方問題」の記事という面を中心的に扱い、オスマン側の「内政改革と外交状況の相関」についても別記事に譲るのがより適切であると考えています。細かい点でいくつか事実と異なっている点については指摘してくださると幸いです。とくに英語版からの翻訳部分は執筆者自身は(欧米の観点も示唆できるという有用性から)記事継承を重視すべきと思い、ほとんどそのまま使用しています。「ダニューブ川」については別にドナウ川でもかまわないと思いますが、参照元の歴史事典に従いました。--Kanbun 2006年9月25日 (月) 18:05 (UTC)[返信]
  • (選考終了)選考期間満了のため、今回は見送りとなりました。totti 2006年12月20日 (水) 12:02 (UTC)[返信]