ノート:楠町 (神戸市)
大倉山 (神戸市)について、楠町との重複項目であるから、削除して楠町に統合すべきとの意見があります。
しかしながら、論拠となる楠町の記載で不備と考えられる部分がありますので、編集前に意見を書きます。
楠町 (神戸市)の記載中の問題点、下記
(引用開始)
地理
[編集]旧・生田区東部、大倉山と呼ばれている一帯である。大部分が住宅地域。
東は北から順に中山手通・下山手通、南は東から順に北長狭通・橘通(多聞通により分断)・西は南から順に兵庫区西上橘通・荒田町、北は西から順に兵庫区下祇園町・馬場町。一~八丁目がある。
以前は広厳寺山と呼ばれていたが、尼崎藩主・青山幸利の菩提寺である浄土宗安養寺が尼崎より移された後は安養寺山と呼ばれ、明治に入り大倉善八郎が別荘を建て、明治44年(1911年)大倉山公園として解放されて以来大倉山と呼ばれる。
(引用終り)
の部分が、必ずしも正確ではなく、楠町=大倉山の印象を与えかつ分かり難いと思います。
<問題点>
1.大倉山と呼ばれている一帯:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00482079&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
新聞記事文庫 日本(4-027) 大阪朝日新聞 1916.5.9-1916.7.25(大正5) 神戸附録 町名由来記 (1~27) 会下山人
多聞通、橘通、楠町、楠谷町、以上は湊川神社の祭神大楠公に因縁を以て命名した事は勿論である、 楠町、名称の因縁は説明するまでもないが、此辺は元阪本村というで一村落あった、とあります。
そして、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/kobemap/index.html
神戸大学 神戸関係の資料と地図 神戸市細見全図 1891(明治24)年に、明確に「坂本村」と「安養寺山」=現在の大倉山が分けて画かれています。
ですから、「大倉山と呼ばれている一帯」などと楠町=大倉山と誤解を与える記載は修正されるべきです。「かつて坂本村と呼ばれていた地域の一部と安養寺山(現在の大倉山)から成る。大倉山は、楠町7丁目に属する。」とすべきです。
2.接する地名の列記では、最後に「~に接する。」と入れるべきです。神戸市民なら無くてもわかりますが、そうでなければ意味が分からない。
具体的には、「東は北から順に中山手通・・・馬場町に接する。」とすべきです。
3.「一~八丁目がある。」は、接する地域の前に移した方が分かりやすい。
4.「大部分が住宅地域。」については、地図を見れば、面積として大きな部分を公共施設が占めています(例えば、大倉山、神戸大学付属病院、神戸大楠キャンパス、神戸文化ホール、神戸市立中央体育館、中学校、小学校など)。
また、東の下山手通りに接するところは宇治川商店街(メルカロード宇治川)ですし、中央の地下鉄が通る道路に面したところは店舗や企業のビルが並んでいます。
昔は住宅地だったと思いますが、現在”住宅地域”と強調するのは違和感があります(記載のように人口減少していますし)。
むしろ、「面積として大きな部分を公共施設(例えば、大倉山、神戸大学付属病院、神戸大楠キャンパス、神戸文化ホール、神戸市立中央体育館、中学校、小学校など)が占めている。」とする方が客観的だと考えます。
追記
”歴史”の項についても、上記「多聞通、橘通、楠町、楠谷町、以上は湊川神社の祭神大楠公に因縁を以て命名した事は勿論である」とあるように、湊川神社に祭られる楠木正成に触れていないのは違和感があります。
多聞通:楠木正成の幼名 多聞丸、橘通:楠木正成が橘諸兄の子孫と伝えられ橘姓を名乗ったことから付けられたという、楠谷町:大楠公の最期の地とされるなど、明治政府が楠木正成を顕彰するために、坂本村に作った湊川神社を抜きにして町名の由来は語れないと思います。
もちろん、神戸市民にとって湊川神社の存在は当然でいわずもがなですが、神戸市民以外にはこれは記さなければ分からない事象です。広厳寺の記載が厚いが、バランスが悪いと思います。
例えば「町名は、楠木正成(楠町の南に隣接する湊川神社の祭神)に由来する。『西摂大観』によれば楠木正成の菩提寺・広厳寺があり、俗に楠寺と称していたことによるとも。」とする方が分かりやすいでしょう。
”沿革”については、明治33年(1900年)以前の楠町の成立経緯あたりを追加すべきと思います。例えば
1872(明治5)年 坂本村に湊川神社創建(町名の由来となった楠公が祭神として祭られる。)。
1879(明治12)年1月8日 - 郡区町村編制法に基づき、八部郡神戸町・兵庫町・坂本村が合併して神戸区となる。(神戸市行政区域の変遷より)
1889(明治22)年4月1日 - 市制施行、神戸区・八部郡荒田村・菟原郡葺合村が合併して神戸市が誕生する。 (神戸市行政区域の変遷より)
このときは、兵庫坂本村及び八部郡 荒田村(本)( http://uub.jp/upd/s_hyogo.html )。
1891(明治24)年 神戸市細見全図には、「坂本村」と「安養寺山」=現在の大倉山が分けて画かれている。
1895(明治28)年 兵庫坂本村・荒田村の一部から楠町成立。
”以前は広厳寺山と呼ばれていた・・”などの大倉山に関する記述は、下記に大倉山 (神戸市)へのリンクを作って移す方が分かりやすいと考えます。
関連項目
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ということで、特に異論が無ければ、後日この方針で編集したいと思います。--Kobeyamate(会話) 2013年7月27日 (土) 00:40 (UTC)
- コメント 削除依頼が出されている大倉山 (神戸市)の記事をこちらに統合するのはよいが、(著作権に充分注意した上で)まず大倉山に関する記事を充実し、それから分割提案を行って下さい。ただし、分割が必要なほど記事が肥大化していなければ提案は簡単には認められないでしょう。--KASEI(会話) 2013年7月27日 (土) 04:38 (UTC)
- コメント一つのご意見として、おうかがいしました。楠町の記事は上記方針で編集させた頂きます。なお、上記以外に大倉善八郎は大倉喜八郎の間違いですね。不思議な間違い方しています。--Kobeyamate(会話) 2013年8月2日 (金) 20:58 (UTC)
- 「大倉山と呼ばれている一帯である[要検証 – ノート]」について
編集合戦になっても仕方ないので、ここに書いておきます。
- 1.”大倉山と呼ばれている一帯である”の記載は、問題ありです。すでに上記( 2013年7月27日)に書いた通りです。
- 2.そもそも大倉山の周囲が、昔と今とでは変わってしまっています。詳しくは、大倉山 (神戸市)の項をご参照ください。ここに大倉山の写真(山側から見た(正確には諏訪山のビーナスブリッジ辺りから南西方向を))を載せています。写真で分かるように、大倉山の東西南北で、南と西は楠町ですが、手前の東側は宇治川で対岸は中山手通あるいは下山手通です。北側は兵庫区馬場町です。つまり現時点の写真で見る限り、一帯とは言えない。それは地図でも明白です。
- 3.古い文献で、”大倉山と呼ばれている一帯である”と書いてあるものがあるのかも知れません(私は見たことがありませんが。また仮に、もし出版が最近の本でも、古い本を典拠にした記述があるのかも。)。昔は(といっても明治大正時代)、北側とか東側は人があまり住んでいなかったようです。だから、人の多い南と西について書けばそれで通ったのかも。戦前は、すぐ南の神戸駅から大倉山、新開地(湊川)辺りが神戸の中心でした。しかし、戦後神戸の町の中心は元町や三宮方面に移りました。そういう古い文献を根拠にした、”大倉山と呼ばれている一帯である”の記載なら見直すべきと思います。--Kobeyamate(会話) 2013年9月22日 (日) 08:49 (UTC)
- 「『西摂大観』(出版年 1911(明44.1))によれば楠木正成の菩提寺・広厳寺があり、俗に楠寺と称していたことによる[要検証 – ノート]」について
本文を編集するほど確証がないので、以下に疑問を記します。
- 1.”楠木正成の菩提寺・広厳寺”について
- 1)wikipedia楠木正成では、楠妣庵観音寺の項に”楠木一族郎党の菩提を弔った”と記されている。(”菩提寺・広厳寺”に関連する記述は、湊川神社の項に「(廣厳寺本堂には正成とその一族の位牌が在る)」とあるのみ。うがった見方をすれば、位牌は後から製作可能。)
- 2)wikipedia広厳寺では、”『大清和尚語録』には、当寺は楠木正成戦死の翌年に赤松範資が建立し、その子光範が落成したとある”と記されている。『大清和尚語録』が正しければ、楠木正成の菩提寺説と矛盾する。
- 2.”俗に楠寺と称していたことによる”とする楠町の由来となったことについて
- 1)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/kobemap/htmls/lime/ezu_09.html 神戸大学附属図書館デジタルギャラリー に多数の地図がある。
- 2)”明治28年(1895年)・・楠町成立”以前の地図、例えば1880(明治13)年では広厳寺と表記されているのに対し、楠町成立以降の1912(明治45)年、1932(昭和7)年、1934(昭和9)年の地図の3つとも、”楠寺”と記載されている。とすれば、”楠寺”は俗称ではなく正式名称では?。とすれば、逆に楠町成立に合わせて名称を変えたとも考えられる。(補足:実際 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002697522.html 明治35年5月15日印刷、明治35年6月1日發行(楠町成立後で、『西摂大観』(出版年 1911(明44.1)より前)の 神戸市新圖でも、”楠寺”と記載されている。)
- 3.そう考えてくると、上記の『西摂大観』による記載は、さらなる裏付けがなければ、真実から外れている可能性がある。
( http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/043.html?list=3&block=ka 神戸市立図書館貴重資料デジタルアーカイブズ 神戸覧古 明治34年(1901)作者 若林秀岳氏の上巻 「廣厳寺」の絵 http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/pages/043/043_043.html?list=3 に”広厳寺 俗に楠寺という”とある。しかし、上記明治35年印刷の神戸市新圖からすれば、以前の広厳寺が改名したことを知らずこう表記したとも考えられる。)