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ノート:樺太朝鮮人虐殺事件/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

出典要求テンプレート剥がしについて

「ただし、朝鮮人による証言以外の確実な証拠はない」との記述に対し、出典要求したところ、テンプレートが剥がされたので、記述をコメントアウトします。この記述は、編纂者が単に知らないとの意味ですか。あるいは、編纂者が独自研究をして、世界中の資料を検討した結果、存在しないことを確認したとの意味でしょうか。それとも、どこかの学術論文等に、書かれているのでしょうか。編纂者の不勉強や独自研究ならば、記述を削除してください。出典に基づく記述であるならば、出典明示のうえコメントをはずしてください。

ところで、この文章、ちょっとおかしくありませんか?出典に書かれている内容の前後をはしょったために、おかしな文章になっている可能性はありませんか。「朝鮮人の証言以外確実な証拠は無い」と書くと、「確実な証拠には朝鮮人の証言がある」との意味にもとれますが、一般に、事件の証拠というものは、被害者の証言・物証・加害者の証言・目撃証言などを総合的に判断するものであって、特定のものが確実な証拠ということは、あまり無いと思いますが、「この事件では朝鮮人の証言が確実な証拠となった」との研究があるのでしょうか。「林えいだい」らの著書によれば、樺太朝鮮人虐殺事件では、グラスノスチ以降、KGB捜査記録や、ホルムスク裁判における被告人証言、などが明らかになった事件もあります。これらのものを総合的に判断した結果も、確実な証拠では無いとする研究があるならば、出典を示してください。

出典要求のテンプレートはずしに「証拠がないの出典って? 」とお書きです。「証拠が無い」と歴史教科書や学術論文に書いてあるならば、当然にそれが出典です。歴史的事件に対して、「証拠が無い」ことの証拠は無いかも知れないけれど、「証拠が無い」とする学術論文など、いくらでも有ります。出典を明示しないで「証拠が無い」と書くと、編纂者が不勉強なために証拠があることを知らないのか、学術研究成果なのか、読者に分らないので、出典の提示を願います。Lib 1964 2010年3月1日 (月) 02:35 (UTC)

ちょっと気になったもので横槍を入れさせていただきます。Lib 1964さんの主張はごもっともなのですが、「存在しないこと」の証明はいわゆる悪魔の証明となりますので、そこに出展を要求するのはいささか非建設的なのではないかと思います。それよりはLib 1964さんのおっしゃられる他の証拠を出典として該当の記述を否定された方が話が早いのではないでしょうか。ただ、"林えいだい"氏についてざっくり調べた印象では鵜呑みにするのが危うい作家のようには思えますが。--Griefwalker 2010年3月1日 (月) 05:42 (UTC)
まず、この記述を初めて書いた方は別の方なので、一体どのような意図で記述を書いたのかは私には分かりませんが、この事件があったという根拠は林えいだい氏と崔吉城氏の本で、その本も朝鮮人の証言という物が掲載されている以外に有力な証拠があって書かれているのではないようです。多分、記述を書いた方はこのことから「ただし、朝鮮人による証言以外の確実な証拠はない」と書いたのでしょう。
ここからは私の考えですが、証言を鵜呑みにしているだけの本ほどアホらしいものはないと思います。証言なんて、いくらでも捏造できるんですから。こういう事件の証拠というのは、状況証拠(いわゆる「動かぬ証拠」)がないと話にもなりません。で、その動かぬ証拠が今現在存在しないんですよ。動かぬ証拠がない中、あたかも「こんな事件があったんですよ〜」と言わんばかりの記事をほったらかしにしておくのは問題があります。本来だったら、大げさですが記事の本文全てに要出典を貼っても良いくらいです。私は、以上のことから呼んでいる人に誤解を与えないように記述を目立つようにしましたが、それに要出典を付けられてしまうというのは心外です。--Jisyoutetuota 2010年3月2日 (火) 11:36 (UTC)
Griefwalkerさまは、『「存在しないこと」の証明はいわゆる悪魔の証明となりますので、そこに出展を要求するのはいささか非建設的なのではないかと思います』とお書きですが、私が出典を要求したのは、Wikipediaの三大方針の一つである検証可能性の要件を満たすためです。もし、「存在しないとの記述は検証可能でなくても良い」とのご主張であるならば、検証可能性のところで議論の上、合意を取った後に記述を訂正してください。また、「"林えいだい"氏についてざっくり調べた印象では鵜呑みにするのが危うい作家のようには思えます」とお書きですが、ざっくり調べた印象は編纂の根拠にならないので、しっかり調べてその結果を学術論文等に執筆した後、それを根拠に議論くださいますようお願いします。Lib 1964 2010年3月3日 (水) 02:27 (UTC)
そう身構えられても困ります。別段「存在しないとの記述は検証可能でなくても良い」などと主張するつもりは無く、明確な根拠足り得る出典をご存知ならそれを提示して編集した方が方が手っ取り早い上に反論の余地も無いので楽ですよね、という提案です。Lib 1964さんとしては出典の無い記述は除去されて当然で反証を挙げるまでも無い、とお考えなのかもしれませんが、事実はご覧の通り単純な編集では片付かずノートでの議論にまで発展しています。どうも否定的な論調で口を挟んだせいで論敵のように見なされてしまっているようですが、私はこの記事の内容については門外漢ですので特段関与するつもりはありません。記事の内容以前の編集の手法について非合理的な所があるように見えましたので一言申し上げたまでです。--Griefwalker 2010年3月3日 (水) 04:22 (UTC)
検証可能性のところに、「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」と書かれているので、出典が無い記述は原則として削除しないといけないと思います。また、この基準は「すべての利用者が従うべきだと考えられています」とあるので、個人個人の賛否とは別に、執筆する以上、従わなくてはならないと思います。Lib 1964 2010年3月3日 (水) 05:28 (UTC)
Jisyoutetuotaさまご指摘のように、本文の記述では「この事件があったという根拠は林えいだい氏と崔吉城氏の本」が出典となっています。Wikipediaの記述で求められている信頼できる情報源に該当するので、これらの本を出典とすることは、Wikipediaの記述方針上、問題ありません。また、Jisyoutetuotaさまは、「その動かぬ証拠が今現在存在しないんですよ」とお書きですが、独自研究はWikipedia執筆の根拠になりません。もし、林・崔らと異なった研究成果をお持ちならば、学術論文等に執筆して、その論文を出典としてWikipediaの記述に追記してください。ウィキペディアの内容に関する三大方針に従った編纂をお願いします。Lib 1964 2010年3月3日 (水) 02:27 (UTC)
Lib 1964さんがおっしゃる「信頼できる情報源」ですが、林・崔両氏の本はそれには含まれません。林氏はあくまで「社会人類学者ノンフィクション作家」で、崔氏に至っては「ノンフィクション作家社会人類学者」であり、専門の学者ではありません。そのため、情報源として有効とされている一次資料から三次資料のいずれにも当てはまりません。ましてや一次資料や二次資料を要約したものでもありません。だから、両氏の本は信頼できる情報源とは言えないんです。いくら活字になったものとはいえ、専門知識があるわけでもないような人が書いたものを信用することはできないでしょう?--Jisyoutetuota 2010年3月3日 (水) 13:56 (UTC)何でこんなミスを・・・--Jisyoutetuota 2010年3月8日 (月) 11:04 (UTC)
林氏と崔氏の経歴を取り違えているようですがさておいて、素人が研究者を信頼できないと呼ばわっても検証可能性を満たしません。それこそ信頼できる情報源による批判を提示して下さい。johncapistrano 2010年3月3日 (水) 14:04 (UTC)

お邪魔します。主張は主張として曖昧に書かず正確に書きましょう(Wikipedia:言葉を濁さない#基本的ガイドライン)。訂正させていただきました。--220.147.34.194 2010年3月8日 (月) 05:09 (UTC)

訂正ご苦労様です。--Jisyoutetuota 2010年3月8日 (月) 05:49 (UTC)
初版作成者でないし文献そのものや関連する新聞記事を把握してませんが、報道により事実と認識されうる範囲と林氏の取材結果と崔氏の研究成果とを検証した結果として「言葉を濁さない」を適用したのであれば方針に従っているでしょうが、IP:220.147.34.194会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisによる編集内容を見る限り、根拠を示さないまま両氏が信頼できないかのように仄めかしただけで寧ろより言葉を濁しているように見えます。5w1hは関係が薄いので無視します。調べたければご自身で履歴を確認すれば済むでしょう。johncapistrano 2010年3月8日 (月) 08:12 (UTC)
利用者:Griefwalker会話 / 投稿記録 / 記録氏などの主張/編集を引継いだり林氏や崔氏が信頼できないと主張するのであれば方針文書を確認して出典を提示しては如何ですか? 人類学者でもマムダニがルワンダ紛争を扱ったり松田素二がケニアの紛争を扱って評価を受けています。研究次第でしょう。研究内容に問題があるというなら出典が必要です。信頼できる情報源の裏付けのない利用者個人の主張は不要です。ノートでごねれば主張が反映できるのであれば方針文書の意味がありません。また無駄な議論は除去やログ化でいいですが、問題の部分は打消し線で訂正を入れた方がいいでしょう。johncapistrano 2010年3月8日 (月) 10:57 (UTC)
※途中の元の議論と直接関係のない議論
一体何をもって取り違えていると判断なさったのでしょうか?林氏は、[1]に書かれているように、ノンフィクション作家です。崔氏はWikipediaの記事にもあるように、文学博士・社会人類学者です。本人のホームページ([2])でもほぼ同様に書かれています。社会人類学とは、人間の生活様式全体(生活や活動)の具体的なありかたを研究する人類学の一分野です。歴史上の事件の研究とは関係ありません。
私は確かに素人かも知れませんが、両氏も研究者というわけではありません。だから、両氏の本は信頼できる情報源に入らないと言っているんです。まあ、「何かしら研究をしている人全てが研究者」という素晴らしい論理が成り立つとおっしゃるのなら、話は別ですが・・・。--Jisyoutetuota 2010年3月4日 (木) 06:55 (UTC)
約3日経ちましたが皆さん議論に復帰していただけないため、とりあえず記述を復帰します。--Jisyoutetuota 2010年3月7日 (日) 00:34 (UTC)
何日経ったかと出典の有無は関係ありません。私に関してはご自身の編集を自覚されない、出典も挙げないということで議論の価値を感じません。johncapistrano 2010年3月7日 (日) 03:24 (UTC)
出典の有無とかそう言う問題以前に、議論に3日参加しないという時点でもう議論する気はないと判断せざるを得ません。そうなればページを元の状態に戻すのは当然のことです。
で、議論に戻っていただけましたので、話を戻します。まず、「ご自身の編集を自覚されない」、これは一体どういうことでしょうか。あなたの「林氏と崔氏の経歴を取り違えているようですが」とおっしゃるのでわざわざ両氏の経歴が載っているリンクを張ったのに、3日議論に参加せず、やっと参加したと思えば、その態度は何なんでしょう?一インターネットユーザーとしてのマナーが微塵も感じられません。はっきり言っておきますが、朝鮮人の証言しか証拠がないような事件をWikipediaに載っていたら、このページを見た人は洗脳されますよ。--Jisyoutetuota 2010年3月7日 (日) 04:55 (UTC)

林氏はあくまで「社会人類学者」で、崔氏に至っては「ノンフィクション作家」であり、Jisyoutetuota 2010年3月3日 (水) 13:56 (UTC)より

これのどこが取違えていないんですかね。信頼できないだとか、研究者でないとか、朝鮮人の証言しか証拠がない、洗脳だというのはあなた個人の主張ですから本文に記載する余地はありません。
現物は見ていませんがこちら[3]に問い合わせれば新聞記事のコピーも頂けるかも知れません。johncapistrano 2010年3月7日 (日) 05:18 (UTC)
>>これのどこが取違えていないんですかね。
どこが取り違えているんですか?
(以下、goo辞書より引用)
とりちがえる —ちがへる 【取(り)違える】
(動ア下一)[文]ハ下二 とりちが・ふ
(1)まちがえて他の物を手に取る。
「弟のかばんと—・えて持ってきてしまった」
(2)話の内容や意見をまちがえて理解する。誤解する。
「話の内容を—・える」
(3)たがいちがいにする。取りかわす。
「諏方五郎と播州とは手に手を—・へ/太平記 29」
(引用終わり)
>>「信頼できないだとか、研究者でないとか、朝鮮人の証言しか証拠がない、洗脳だというのはあなた個人の主張ですから本文に記載する余地はありません。」
はじめの2つと最後の1つについては誰も記載してほしいなんて言ってないんですがね・・・。「朝鮮人の証言しか証拠がない」については、私が太文字強調する以前から書かれてあったものなので私個人の主張ではありません。詳しいことはページの履歴をご覧下さい。
>>現物は見ていませんがこちら[4]に問い合わせれば新聞記事のコピーも頂けるかも知れません。
欲しいのであればご自分で問い合わせて下さい。私は欲しくはないので。
最後に。話をそらさないで私の質問にお答え下さい。一つ目、『一体何をもって取り違えていると判断なさったのでしょうか?』。二つ目、『「ご自身の編集を自覚されない」、これは一体どういうことでしょうか。』。--Jisyoutetuota 2010年3月7日 (日) 05:33 (UTC)
林えいだい氏はノンフィクション作家、崔吉城氏は社会人類学で13:56 (UTC)の編集では明らかに取違えてるでしょう。それすら認めないのでは議論が成立しなくても無理がないですね。出典を示す責任は掲載を希望する側にもどうぞ。johncapistrano 2010年3月7日 (日) 05:48 (UTC)
「明らか」のような曖昧な言葉で答えられても分かりません。5W1Hってご存じですか?それと、いい加減質問に答えていただけないでしょうか?人の質問に答えないのでは議論が成立しなくても無理がないですね(言葉をお借りしました)。--Jisyoutetuota 2010年3月7日 (日) 05:57 (UTC)
疑問の根拠を示さずに言葉を濁しているのはそちらですね。利用者:Kanbun会話 / 投稿記録 / 記録氏の初版と比べて根拠が示されないまま却って林氏や崔氏が前提としたものと取材・研究成果とを誤認させるような記述になっていると思います。johncapistrano 2010年3月8日 (月) 06:32 (UTC)
5W1Hが全く意識されていない文ですね。
誤認させるとは、どの記述が誰にどのような誤解をさせるということですか?今までに私が解答を求めている質問と一緒にお答え下さい。あと、根拠を示さずに「取り違えている」と言い張っておきながら、この場に及んで別の話題(誤認がどうたらこうたら)に勝手に移るのはおやめ下さい。--Jisyoutetuota 2010年3月8日 (月) 07:25 (UTC)
根拠は何度も示してますが[5][6]取違えでないと言い続けるので日本語が通じないんだとご自身で書いてましたね[7]
Jisyoutetuotaによる2010年3月3日 (水) 13:56 (UTC)の書込みで記録作家の林氏を「社会人類学者」人類学者[8]の「崔氏に至っては「ノンフィクション作家」」と書いてあるのを取違えでないとすれば「単なる書き間違い」だろうけど、書き間違いだとして脳内で経歴を取違えた以外にどう理解できますかね。これを指摘しても通じないので自身の編集を理解していないと書くことに何の問題があるんですかね…。johncapistrano 2010年3月8日 (月) 07:51 (UTC)ノートで強調を使うのは好みでないですが、強調が正、斜体がJisyoutetuota 2010年3月3日 (水) 13:56 (UTC)です。一部修正。johncapistrano 2010年3月8日 (月) 07:57 (UTC)
お答えいただきありがとうございます。疑問が解けて良かったです。本当は始めからこのくらい説明していただきたかったのですが・・・。--Jisyoutetuota 2010年3月8日 (月) 09:53 (UTC)

 記事のソースについて 

主張されている事件の重大性に比して、ソースが決定的に弱いです。主に二つの事件があげられていますが、一つ一つの論証が一つの論文しか参照されておらず、このケースの論証としては弱すぎます。崔吉城氏の主張についても林氏の主張についても別人による、一次ソースを検証したものがないかぎり、テンプレにあるとおり「単一の出典」であり、ソースとしてはPOVを内包せざるをえません。ソースを求めます。Nakata88 2011年1月20日 (木) 08:14 (UTC)

ソースが一つ、あるいは少ないからPOVだというのは意味不明です。複数の結論の異なる研究があって、意図的に一つのソースしか挙げていないのならば問題ですが。POVは出典の数を問題にする方針文書ではありません。現在の記事内容がPOVだというのなら、検証可能な文献を挙げて論じてください。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 12:44 (UTC)
また「この事件は、訴訟など公的な場での立証がまだなので、実際に主張の通りの立証があったと断定するのは未だ無理。」などと履歴コメントにありますが、これは著しく意味不明。そもそもこの問題は刑事裁判で問われている刑事事件ではありません。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 12:52 (UTC)
  • 主張してる人が一人しかいないならその人の名前を挙げるべきでしょう。それで事実がどちらにしろハッキリします。このケースは情報が必要なケースですから情報を集めるためにも現状をハッキリさせるべきです。Nakata88 2011年1月20日 (木) 13:26 (UTC)
この事件に関して日本政府を相手取り賠償請求がなされているのですから、主張している人は一人ではありません。論文を発表した研究者が一人なだけです。「このケースは情報が必要なケースですから情報を集めるためにも現状をハッキリさせるべきです。」というのは論理的に成り立っていません。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 13:37 (UTC)
  • 損害賠償請求の時効による棄却は本案請求ではなく形式的な棄却です。したがって、内容についての証明力はありません。また、請求自体は信頼できる二次ソースでもありません。そもそも請求は判決によって担保されない限り真実を担うとはいえないものです。このケースではソースはそれぞれ一つしかありません。Nakata88 2011年1月20日 (木) 13:46 (UTC)
請求が裁判で認められたかどうかは全く問題ではありません。請求した者がいた時点で主張している人は一人ではないことは明白です。また、ソースが一つしかないから信用性がないという論拠は単純におかしいです。本事件に関する論文は学術的な論文集に採録されているのですから、反証研究が挙げられないうちは事実として取り上げるのがまっとうな方法です。「そもそも請求は判決によって担保されない限り真実を担うとはいえないものです。」というのも論拠がおかしいし、また事実誤認を含んでいます。当該請求の棄却事由は時効ですから、事実認定は問題にされていません。つまり、裁判所は事件がなかったなどとは一言も言っていません。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 13:53 (UTC)
  • そもそも、歴史的事実の存否が問題なのですから、信頼できる二次ソースが一つあるかないかではその証明が緩いのは否定しようがありません。また、請求は認められなければ事実に対する証明力はありません。つまり、「反証研究が挙げられないうちは事実として取り上げるのがまっとうな方法」などではありません。その段階では単なる仮説の一つです。学会などのコミュニティなど信頼できるソースの元で事実と認められ学会誌に査読付きで載るなどの段階ではじめてソースの信頼性が揺るぎないものとなるのです。ですから、信頼できるソースが必要なのです。Kanbunさんはひとりでも主張している人間がいれば事実としてあつかえと行っていますが、それはウィキペディアのスタイルではありません。信頼できる情報源を読み直してみてください。
  • 時効判決について言えば、裁判所は「事件があった」とも「なかった」ともどちらも言っていないのです。時効とは時間の経過による証拠の散逸により訴訟を忌避する制度です。つまりどちらにも証明力はありません。Nakata88 2011年1月20日 (木) 14:00 (UTC)
本論文が掲載されている論文集は学術的なものであり、全く「信頼できる情報源」です。Nakata88さんはご自身の主張のソースを示しもしないで、ひたすら事件を「一人の人物が主張している」と繰り返していますが、そもそも何人がこの事件を真実として認めているかなどわかりはしません。したがって、情報源が信頼できるものであれば、まずはそれに基づいて記述するというのがウィキペディアの方針です。
時効判決については全くその通りですから、事件の真実性について、肯定の材料にも否定の材料にもなりませんから、問題にするのはナンセンスです。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 14:06 (UTC)
つまり、Nakata88さんが本事件が一人の人物によるねつ造であるとか、一人の人物による主張に過ぎないとか記事に書き加えたいのであれば、ちゃんとソースを示して論じてください。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 14:08 (UTC)
  • 歴史的事実の存在を証明する場合、それを論ずるものが一人しかいない場合は、一つの学説としか言いようがありません。したがって、その論者の名前を出すのが適切です。歴史学コミュニティからは周辺領域にある比較法制史の学会の一つの論文でそれが満たされているとはいえません。論者が一人しかいないのですからその名前を挙げて論ずるべきだというのが私の主張であり、それはそのような学説が一人説であることを明示しろという要求にすぎません。つまり事実を書けと言っているわけです。
  • 時効判決についてはKanbunさんのいうとおり取り上げる意味がありません。ですから、Kanbunさんのとりあげた請求も証明力がないということになります。それはわかっていますか?Nakata88 2011年1月20日 (木) 14:16 (UTC)
「信頼できる情報源」を完全に誤解しています。ウィキペディアはソースの数ではなく、ソースの信頼性を基本的に問題にしているのです。学会で編集されて刊行されている論文集は基本的に申し分なく「信頼できる情報源」です。そしてその「信頼できる情報源」に事実として書かれていれば、それに基づいて書かれた記述は一応ウィキペディア的には事実として扱われるのです。
「歴史的事実の存在を証明する場合、それを論ずるものが一人しかいない場合は、一つの学説としか言いようがありません。」私は一応歴史学の専門家の端くれですが、この主張は歴史学的に完全に意味不明です。まず歴史学において、歴史事実なるものはすべて歴史学者個人によって叙述されるもので、歴史学上のあらゆる発見、つまりあらゆる歴史事実は一つの学説であります。で、歴史学ではいちおう反証研究が出ない限り、先行する研究を真実として受け入れます。それを支持する人数で事実認定するのではありません。
次に、賠償請求を取り上げたのは、あくまでこの事件をあるものと考えている人物が一人ではないことを証明するためで、この事件が事実であるかどうかを証明するためではありません。後者であれば、賠償請求は肯定の材料にも否定の材料にもなりませんが、前者であれば、請求が棄却されようとも、請求者がいた時点で、少なくとも崔吉城以外に本事件があったと考えている人物が複数いることが明白になります。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 14:27 (UTC)
  • 「歴史学者個人によって叙述されるもので、歴史学上のあらゆる発見、つまりあらゆる歴史事実は一つの学説であります」とかかれていますが、それはあたりまえです。しかし、それが事実として受け入れられるかどうかはそれに賛同者がいるかどうかによります。
  • 一人説の段階では、それについて反論も同意もないのですから、一人説とわかるように書けと言っているのです。それいじょうでもそれいかでもありません。
  • つまり、「いちおう反証研究が出ない限り」という状況をありのままに書けと言っているのです。
  • そして、そのことにより、反証あるいは賛同研究が発見されあるいは書かれることを期待してるわけです。
  • Kanbunさんは研究者だと書かれていますが、この分野で十分な資料集めをされたということなのでしょうか?そうでないなら、Kanbunさんは研究者であろうとなんだろうと一般人と全く立場が同じです。
  • なお、裁判の請求は全く信頼できる二次ソースでないため、本事件があったと考えた人間が崔吉城と独立にいたという理由にはつかえてえも、事実を証明する信頼できる二次ソースには成り得ないことは前述の通りです。時間的には、むしろ崔吉城氏の論文が訴訟をするきっかけになったのではないですか?Nakata88 2011年1月20日 (木) 14:34 (UTC)
普通歴史学では、しかるべき学会誌や学会の編集する論文集に載った時点で、歴史学説を事実たりうるものとして認めていることになります。つまり、Nakata88さんのいう「賛同者」なるものは論文集に採録されている時点で、少なくともその編集者はかなり信頼できるものと保証しているわけです。そして反証研究が出ない限り、それは歴史事実として妥当であると一応みなされるわけです。
「一人説」などというわけのわからない、全く歴史学的でない概念は論じません。上で述べたことでわかると思います。
「つまり、『いちおう反証研究が出ない限り』という状況をありのままに書け」というわけのわからない主張については、それについてソースを示すことができるのか、と問えば済むと思います。
請求については、「本事件があったと考えた人間が崔吉城と独立にいたという理由に」つかえるだけで十分です。それを認めてくだされば、本事件が崔吉城一人の頭の中にあるものではないことだけはわかりますよね。「時間的には、むしろ崔吉城氏の論文が訴訟をするきっかけになったのではないですか?」については、私にはわからないので、知りたければ自分で調べてください。ただ、私には請求の年月日と論文の発表年月日をみると、明らかに請求が先にある気がしますが。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 14:43 (UTC)
  • 残念ながら、「普通歴史学では、しかるべき学会誌や学会の編集する論文集に載った時点で、歴史学説を事実たりうるものとして認めていることになります。」というのはウィキペディアの立場ではありません。反証がなければ事実だとあつかうというのもウィキペディアの立場でもありません。信頼できる情報源#複数の情報源を確認するを読んでください。
  • わたしは歴史学徒ではありませんがある分野の研究者です。しかし、説が一人の場合は説が一人であることを意識するのは、学問的な分野では当然にある習慣だと思っていました。歴史学がもしそうなら非常に特殊な学問空間だと思います。
  • 以上より、論者が一人であることを明示することは必要だと考えます。
  • なお、Kanbunさんがおっしゃる歴史学の分野で一人説が強固に事実と扱われているという論証を見せてもらえませんか?ちょっと信じられませんね。
  • なお、Kanbunさんが歴史学の一分野の研究者であることは、この分野について発言力があることを全く意味しません。社会学や歴史学などの分野は高度に細分化されているため、その分野について本当に調べたものでなければ、他に資料がないなどという断言ができないことは研究者の端くれなら当然知っていることだからです。そうであるにもかかわらず、研究者などという立場を持ち出してきた時点で逆に、Kanbunさんが研究者であることがちょっと信じられない感じがします。Nakata88 2011年1月20日 (木) 14:49 (UTC)
私にはあなたの言っていることは正直さっぱりわかりません。ウィキペディアの信頼できる情報源とは情報源の信頼性を問題にしているのであって、それによって情報の信頼性を担保しようということです。つまり、ウィキペディアの「信頼できる情報」とは公刊された、なるべくなら学術的な資料に基づく情報ということになります。で、本事件情報のソースは学術的な論文集ですから、全く問題ありません。以上です。
「説が一人の場合は説が一人であることを意識するのは、学問的な分野では当然にある習慣だと思っていました。」これはすでに日本語ではないと思うのですが。意をくんでお答えすれば、そもそも説が一人にしか受け入れられていないということはどのように証明するのか。それがそもそもわかりません。「崔吉城の論文に~とある」と言えても、「~という事実は崔吉城による主張である(にすぎない)」というのはしかるべき証明が必要です。その意味で、Nakata88さんの編集行為はソースの裏付けがない、いい加減なものになります。
「なお、Kanbunさんがおっしゃる歴史学の分野で一人説が強固に事実と扱われているという論証を見せてもらえませんか?」について。「一人説」という言葉が意味不明なので、すでに日本語として意味をなしていない気もしますが、これについては、一般的に歴史学の論文が歴史学者個人によって出されていると言えば済むでしょう。
なお、私の発言能力なるものを疑うのであれば、私はそもそもNakata88さんの日本語能力なるものに懸念を持っていることをお伝えします。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 15:01 (UTC)
  • 信頼できる情報源#複数の情報源を確認するで、「注意すべき論点 複数の独立した一次資料を使った二次資料がありますか? 」をよまれましたか?
  • 崔吉城以外に独立した情報源でそれを述べている事例がありますか?
  • 説が一人にしか受け入れられていないのではなく、そのような説を述べている人が一人であるということです。それは反証が可能でしょう。誰か述べてる人がいればあげればいいわけですから。
  • わたしが求めているのはその点です。つまり、同意する説あるいは、反証がない孤立した説であるということを記述からわかるようにするべきであると言うことです。
  • それは、信頼できる情報源#複数の情報源を確認するで、「注意すべき論点 複数の独立した一次資料を使った二次資料がありますか? 」で、求められていることでもあります。
  • 日本語能力、云々はばかばかしいから反論はしませんが、そもそも学問において畑違いであればその情報の欠如がどれだけ深刻であるかはやはり、意識せざるを得ないと思います。そのいみ畑が違えばで研究者と一般人は同じです。どれだけ言ってみたところでわからないものはわからないわけです。ぎゃくにいえばそこがわかっている人は多分研究者なんじゃないかと思えるわけですが、Kanbunさんはそこら辺の謙虚さが感じられないので疑いをもったわけです。調べてもいないのにわかるわけないじゃないですか。Nakata88 2011年1月20日 (木) 15:13 (UTC)
独立する複数の情報源としては、今回の場合、林えいだいと崔吉城、サハリンレポートの3つがあります。ただし、今回の場合相互に参照している可能性はあります。
そもそもこの事件が客観的事実か一人の説に過ぎないのかは、学術論文が一つであるということからは導き出せません。当たり前ですよね。(実際事件を事実として認識している人物は複数います。)
「反証がない孤立した説であるということを記述からわかるようにするべきである」というのは根拠がありません。ソースを示して論じてください。
「注意すべき論点 複数の独立した一次資料を使った二次資料がありますか? 」については、新たな資料が出ない限り何とも言えません。本文をよく見てください。この事件は事実であったとは記述されていません。あくまで、<ref>はどこに情報があるかを示しているのであり、本文はすべて崔吉城ほかの論文に「~という情報がある」という構造をとっており、そういう風に書かれているのです。
しかし、Nakata88さんが主張する、本事件の経過が崔吉城の主張だという記述を加えるためには、そのように論じる学術論文が必要です。
あと末尾の妄言については、Nakata88さん自らの身を顧みて謙虚さの意味を噛みしめてもらいたいと思います。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 15:29 (UTC)
  • Kanbunさんは、「本文はすべて崔吉城ほかの論文に「~という情報がある」という構造をとっており、そういう風に書かれているのです。」とおっしゃてますが、その情報を削除されてますよ?だからわたしはそれをリバートしてるわけです。確認してください。
  • わたしは、「本事件の経過が崔吉城の主張だという記述を加える」などのことはしてませんが?そもそも経過を「報告」したのが崔吉城氏の論文だからそのように書かれるべきだと主張して、リバートしてるわけです。そもそも経過を崔吉城氏以外に報告した人間がいてそれが信頼できるならならなんの問題もないでしょう。経過が主張なのではなく、一次情報を評価して報告した人が崔吉城氏なわけです。一次情報の評価についてはそれを「信頼できる(かどうかはさておいて)」人(つまり名前出して行動してる人)を一応信頼するというのがウィキペディアのスタイルなのです。そこら辺理解してください。
  • Kanbunさんは、この事件の経過について崔吉城氏以外に報告した人がいるとおっしゃってるみたいですがいませんよね。また、一次ソースは信頼できる二次ソースつまり研究者の目をへて信頼できるのであって崔吉城氏さんがそれを満たすとしても一次情報の方は彼の目を経た情報として評価されるのです。
  • ここらへんは、アメリカの裁判の証拠法のあり方とよく似てる気がしますが、ウィキペディアはそういう立場をとってるわけです。それで一定成功してるわけですね。
  • とりあえず、一次情報と二次情報の違い、ウィキペディアはどうそれを評価しているかを信頼できる情報源をもう一回読んで確かめておいてください。Nakata88 2011年1月20日 (木) 15:40 (UTC)
私が削除したのは「崔吉城によれば、~とされている」というソースのない記述です。これは「崔吉城が~と主張している」ということになります。この場合、「崔吉城の論文によれば~である」ならば、実情に近くなりますが、そもそも事件を起こったと考えているのは崔吉城だけではないので、この記述は「偽」です。
「この事件の経過について崔吉城氏以外に報告した人」はいます。記事を見てください。参考文献を。
「また、一次ソースは信頼できる二次ソースつまり研究者の目をへて信頼できるのであって崔吉城氏さんがそれを満たすとしても一次情報の方は彼の目を経た情報として評価されるのです。」……だから信頼できる情報だということです。
「ここらへんは、アメリカの裁判の証拠法のあり方とよく似てる気がしますが、ウィキペディアはそういう立場をとってるわけです。それで一定成功してるわけですね。」……意味不明。感想ですか?そもそもどこがどうアメリカの裁判と似ているのか。ちゃんとソース使って発言してください。
「とりあえず、一次情報と二次情報の違い、ウィキペディアはどうそれを評価しているかを信頼できる情報源をもう一回読んで確かめておいてください。」……Nakata88さんにそのまま返したいです。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 15:51 (UTC)
  • とりえあず、「崔吉城の論文によれば~である」というかたちでよいですから書き直してください。なお、この事件は少なくとも二つ以上の事件の総称であることは本文を見ればわかるわけですから、その一つ一つの事件経過について、論者が完全に一致しているというのでなければ、誰々が述べていると書くべきです。研究が不足している場合に、そうじゃなくみせるのは一種の大言壮語です。よろしくお願いします。
  • 「「崔吉城の論文によれば~である」ならば、実情実情に近くなりますが、そもそも事件を起こったと考えているのは崔吉城だけではないので、この記述は「偽」です。 」とかかれていますが、これは偽じゃないですよ。正です。独立事象でしょ。だいじょうぶなんでしょうか。なんかいろいろ心配です。Nakata88 2011年1月20日 (木) 15:58 (UTC)
事件経過については相違点を特記していない限り、参考文献の論者はすべて一致しています。なお、概要節を「崔吉城の論文によれば~である」とするのは事件を事実であると報告する書籍が複数あるので不適切であるということは前に述べました。
「これは偽じゃないですよ。正です。」云々は全く意味不明です。偽の反対は真です。っていうか、Nakata88さんは本当に研究者の端くれなんですか。私は本当にいろいろ心配しています。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 16:04 (UTC)
  • 「事件経過については相違点を特記していない限り、論者はすべて一致しています。」とかかれていますが、これはソースが必要ですし、そう書くべきです。逆に言うと、ソースがない場合は、かけないと言うことです。
  • 偽の反対は真でしたか。なんかごちゃごちゃしてますね。すみません。しかし、Kanbunさんの書かれてる事柄は真でしょう。ちょっと本当に頭痛がしました。
  • どっちにしろ、ソースがすべて一致してるならそれは特筆事項ですしそう書くべきです。そうじゃないならそう書くべきです。たった二人しかソースがないわけですから簡単だと思います。逆に言うと二人しかいないのですから、論者1、論者2、論者1+2以外の記述は、排除するのが妥当だと思います。二人しか論者がいないというのは非常に弱いソースですからそれを明示するべきですし、それは可能だからです。Nakata88 2011年1月20日 (木) 16:16 (UTC)
私には「非常に弱いソース」というのはソースが弱いとか強いとかそういう概念がわからないです。ソースは信頼できるかどうかの二択であって、強いとか弱いとかっていうのはなんですか。どこからそういう話が?
「論者1、論者2、論者1+2以外の記述は、排除する」のなら、出典のない記述がまず排除されるべきと思いますが、要出典が貼られている部分はなぜ消さないのです?消し忘れですか?
つまり、端からNakata88さんは、ソースを問題にしているのではなくて、結局自分から見て、気に食わない記述を改変しようとしているようにしか私には思えません。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 16:26 (UTC)
  • もちろん、出典のない記述はすべて排除が可能です。それはウィキペディアの原則です。信頼できる情報源などをよんでください。
  • この記事では情報源が二人しかいないケースですから、情報源を明示しない場合削除をしてしまうよりも、Kanbunさんが知っていると主張している論者の名前を書いてもらう方が妥当だと言うことです。
  • ウィキペディアでは原則、ソースがなければ削除なので、ソースがない記述は削除をした方がいいというならそうします。それがいいのですか?
  • 以上、まとめると、記述をするには、最低限、論者1のソースか論者2のソースがあげられている必要がある。両方ともないばあいは、削除するのがウィキペディアの原則である。
  • だれもソースがあげられていなければ、「論者1.2に共通した証言である」というルールはウィキペディアではありません。
  • つまり、Kanbunさんは、わたしが論者1の情報であることを明示する記述を残すことに反対しておられましたが、それはだれでも削除していい状態にあるということです。Kanbunさんがソースがあるというならそれは妥当でないとおもうので、きちんとそれを書いておいてくださいとお願いしてるわけです。
  • これは、ウィキペディアの記述では凄く当たり前の話です。Nakata88 2011年1月20日 (木) 16:30 (UTC)
ウィキペディアで出典を示す方法をご存知ですか?<ref>とか、参考文献について理解していますか?
「この記事では情報源が二人しかいないケースですから、情報源を明示しない場合削除をしてしまうよりも、Kanbunさんが知っていると主張している論者の名前を書いてもらう方が妥当だと言うことです。」……日本語勉強してください。「Kanbunさんが知っていると主張している論者」という箇所は意味不明。「参考文献」とかって意味わかってます?
「つまり、Kanbunさんは、わたしが論者1の情報であることを明示する記述を残すことに反対しておられましたが、それはだれでも削除していい状態にあるということです。」……日本語になってません。
まずは要出典箇所を削除してから、論じましょうか。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 16:42 (UTC)
  • なんで要出典を削除するって話になるんでしょうか?意味わかりません。ソースが足りないことは十分に述べているはずですが?複数の事件について、それぞれ独立した一次ソースに当たった二次ソースが十分にあるといえると言うことなんですか?
  • そもそも全体の事実経過自体が、この事例では二人の論者以外言ってないわけですよね。そしたら、ここの事実経過についてすべて、具体的に誰がいってるかを明示してくれといってるわけです。Kanbunさんによれば、二人で言ってるのか一人でいってるのかの違いですよね。
  • 参考文献は参考にする文献ですよね。二次ソースとなる引用とは違いますよ?Nakata88 2011年1月20日 (木) 16:50 (UTC)
Nakata88:「論者1、論者2、論者1+2以外の記述は、排除する」→出典のない記事は当然削除。
この記事では事件の情報源は参考文献に記載されています。
「参考文献は参考にする文献ですよね。二次ソースとなる引用とは違いますよ?」……Nakata88さん。あなた、研究者じゃないでしょ。参考文献っていうのは参考にした文献のことです。だから、記事を検証したりより深い知識を得る場合に参考にするんでしょ。
「二次ソースとなる引用とは違いますよ?」……引用って意味わかってますか。研究者ならこんなあほな日本語使わないですよね。そうですよね???--Kanbun 2011年1月20日 (木) 16:56 (UTC)
  • Kanbunさん。ここはウィキペディアで話しているのはウィキペディアの記述ルールの話です。論文の記述様式の話ではありません。
  • ウィキペディアで記述を維持するためには、参考文献であげるだけでは不十分で、信頼できる二次ソースによる引用などが必要だという話です。すべての記述についてです。
  • Kanbunさんは、わたしがのこそうとした論者1の記述であることを明示する記述を、せっせと削除されたので、その場合、いつでも誰でも削除していいという状態になっているよといってるわけです。
  • Kanbunさんが、まだわからないようなので、ソースがない記述は削除という方向で一応次回から対処しますがよろしいですか?Nakata88 2011年1月20日 (木) 17:05 (UTC)
「ここはウィキペディアで話しているのはウィキペディアの記述ルールの話です。論文の記述様式の話ではありません。」……ウィキペディアで参考文献というのは基本的に出典情報を指します。Wikipedia:出典を明記する#記事末尾に参考文献を記載するを見てくださいね。
「信頼できる二次ソースによる引用などが必要」……まともなウィキペディアンはこんなことは言いません。引用のガイドラインで揉めていること知っていますか?
「わたしが論者1の記述であることを明示する記述を、せっせと削除されたので、その場合、いつでも誰でも削除していいという状態になっているよといってるわけです。」出典のある記述がどうして削除してもいい状態にあるのか、私には理解できかねます。
はっきり言うと、Nakata88さんの脳内にあるウィキペディアのルールで話をされても困るんですよ。方針文書を少しかじって都合の良いところだけ拾ってきて、都合よく解釈するのはいい加減やめてくれませんかね。あと人の発言消さないでください。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 17:15 (UTC)
  • ここで言ってるのはそういう意味ではありません。各記事について、それぞれにどの部分が参照されているのかを明示しなければならないという要請です。
  • Kanbunさんは、二人の論者をあげておられるんですよね。そのどちらの、どの参考文献からの引用なのかを明示しなければならないという要請です。二人の論者が完全に一致することは無いわけですから当然必要になります。
  • それがない場合、「両方の論者が一致する」と読むルールはありません。したがって、もし一致してるならそう書いておいてください。よろしくお願いします。
  • なお、以上のように、ソースが明示されない場合、要引用から削除をする方向で、編集参加します。それが本来ですね。私が知らない分野ですから。
  • なお、なんか、編集競合の時、間違って削除してしまったみたいです。失礼しました。Nakata88 2011年1月20日 (木) 17:32 (UTC)

Nakata88 2011年1月20日 (木) 17:32 (UTC)

とりあえずNakata88さんの論理はわからないので、いろいろ編集を試してみてください。不適切なのはリバートしますから。--Kanbun 2011年1月20日 (木) 17:35 (UTC)
  • そんな訳のわからないことを言ってるつもりはないんですが。
  • 何も書かなければ、二人の論者が一致した見解だなんていう読み方は、ウィキペディアにはないということです。
  • これがわからないのはちょっとびっくりしますが、なんでわからないのかを理解するのは多分不可能なので、ふつうに要引用とかしていきます。よろしく。Nakata88 2011年1月20日 (木) 17:39 (UTC)

こちらの編集を拝見しました。これでは意見が事実になってしまっています。方針違反です。誰がそのように主張しているのかをはっきりと提示して記載してください。--211.133.61.77 2011年1月21日 (金) 17:06 (UTC)

本事件が一個人の意見ではないことは本ノートですでに証明されております。崔吉城氏の意見に過ぎないと言いたいのであれば、検証可能な文献を示して論じて下さい。--Kanbun 2011年1月22日 (土) 13:33 (UTC)
  • Kanbunさん。反証なきかぎり事実と扱うのはウィキペディアの立場ではありません。ウィキペディアはあらゆる物事がひとつの主張として処理されます。これ以上、特殊な主張をコミュニティに押し付けられないようにお願いします。Nakata88 2011年1月23日 (日) 06:18 (UTC)
>反証なきかぎり事実と扱うのはウィキペディアの立場ではありません。
つまり、すでに反証をあきらめたということですか。
>ウィキペディアはあらゆる物事がひとつの主張として処理されます。
これはすでに内容が理解不能です。--Kanbun 2011年1月23日 (日) 14:55 (UTC)
  • Kanbunさん。ウィキペディアは独自研究を書くところではありません。Kanbunさんが実名で何らかの研究をこれについて発表されても、即時にここで書くこともできなければ、Kanbunさんの研究を書くこともできません。反証をあきらめたのではなく、そのままを書くということです。反証があるならかく、ないならないで書かない。一人しか主張してないならそれがわかるようにかく、そういうことです。Nakata88 2011年1月23日 (日) 17:56 (UTC)
複数の文献で言及されており、インターネット上にも情報があり、賠償請求もなされており、ソ連による裁判記録もある。そういったことを一切無視して「一人しか主張していない」という主張を無根拠に繰り返すNakata88さんの独自研究を私は問題にしているのです。何らかの検証可能なソースを示していただかない限り、あなたの独自研究を記事に載せるわけにはいきません。--Kanbun 2011年1月23日 (日) 18:23 (UTC)
  • 複数の研究者が同一の事象についてかたっているならそれを書けばいいのです。また、ソ連による裁判記録は一次資料であって二次資料ではありません。二次資料と一次資料の区別をつけるようにしてください。Kanbunさんはウィキペディアの記述スタイルについての理解が不足しています。Nakata88 2011年1月24日 (月) 05:21 (UTC)
ウィキペディアは一次資料のみで記述するのを禁止しているのであって、二次資料によって一次資料を示すことは問題ありません。要は一次資料を勝手に解釈するなということです。こんな基本的なこともNakata88さんはご存じないのですか。ご自分の主張の根拠となる検証可能なソースを示して議論をしていただかない限り、Nakata88さんの編集行為を認めるわけにはいきません。--Kanbun 2011年1月24日 (月) 08:28 (UTC)
  • もちろん、一次資料を二次資料が参照している場合に、それを書くのは問題ありません。しかし、ソースの数は二次資料の数でカウントされるのであって、一次資料の数ではありません。Kanbunさんはウィキペディアの編集スタイルに対する理解が少し不足していると思います。あくまでも、二次資料の数なのです。その意味で、樺太朝鮮人虐殺事件については二次資料が不足しており、その状態にあることを記事中に明示することは、ウィキペディアの編集スタイルの要請です。信頼できる情報源などをお読みください。Nakata88 2011年1月24日 (月) 11:28 (UTC)
それで、樺太朝鮮人虐殺事件が崔吉城らの主張に過ぎないというあなたの意見について、いつになったら検証可能な文献を示して議論して下さるのでしょう?--Kanbun 2011年1月24日 (月) 13:27 (UTC)
  • Kanbunさんは、まだ、ウィキペディアの記述スタイルがわかっておられません。必要なのは各記事について、どのような二次ソースがあるのかがわかることです。この場合、二人しか、述べていないため、現在のところソースは二人とみなされます。それに基づいて記述するなら、だれがどれを述べているのかを明示する必要があります。それがソースの多寡をそのまま示すという意味です。
  • わたしは、「樺太朝鮮人虐殺事件が崔吉城らの主張に過ぎない」などとまったくいっていません。
  • いっているのは、「この事件の研究者は二人であり、そのソースはこれこれであり、そのソースに基づいてこれらのことが言える」ということです。これが研究者が3人になり100人になり常識になったらそれは記述の仕方が違ってくるでしょう。
  • 現状を「ありのままに」書くことを理解してください。Nakata88 2011年1月24日 (月) 14:57 (UTC)


Kanbun氏へ。意見を事実のように書かないでください。「一個人の意見ではないことは本ノートですでに証明されております」とのことですが、どこでしょう?どこでこの事件の説明が「事実」であると確定したのでしょう?まさか2名の者の意見と裁判から「事実」としたのではないでしょうね?誰がそのように主張したのか曖昧にせず、はっきりと記載してください。ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな)をしっかりお読みください。「意見」でなく記載内容が「事実」だとするなら、その確かな出典・根拠を求めます。それが出来ない限り保護解除後に戻させていただきます。--218.217.129.228 2011年1月24日 (月) 16:34 (UTC)
樺太朝鮮人虐殺事件は事実であり、意見ではありません。意見であるとする検証可能な文献を示して論じて下さい。--Kanbun 2011年1月24日 (月) 22:42 (UTC)
ヨークお読みください。ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな)。現在出ている出典から、林やら崔吉城の論しかないのが実情であり、それは彼らの意見として書くことで「事実」にできます。まさかこれらの研究者の意見で内容が事実に確定するなんて主張はしないですよね?意見であるとする根拠はWIKIPEDIAの方針です。現状では林やら崔吉城の論しかないですからね。学会だろうがなんだろうが意見は意見です。学会が事実を提供するものではありません。「事実であり、意見ではありません」とする根拠を聞いています。ご提示ください。どこでこの事件の内容が事実になったのかの根拠をお待ちしています。--218.217.129.228 2011年1月24日 (月) 23:38 (UTC)
この事件が崔吉城氏の意見に過ぎないという反証研究が検証可能な文献で示されるのなら、わかります。現状ではそのようなものは示されていませんから、崔吉城らの意見であるとする記述は事実に反します。wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなについては、樺太朝鮮人虐殺事件否定説があるならいざ知らず、これを否定する検証可能な文献がない以上、この場合全く関係ありません。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 00:33 (UTC)

(インデント戻す)「崔吉城氏の意見に過ぎないのではない」とするならばその出典を求めます。現在では崔吉城と林なる人物の論しかありません。--218.217.129.228 2011年1月25日 (火) 00:35 (UTC)

ないことを証明するのは「悪魔の証明」です。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 00:40 (UTC)
いや、現在出ている出典では林と崔吉城の論しかなく、それを持って事実と確定はできない。内容が事実としたいのならばがKanbunさんが証明しないと採用できません。wikipediaでは事実しか書くことはできない(wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな)。そして現在のところ意見はあるが内容が事実とする証明が無い。意見でなく、内容を事実としたいのならばKanbunさんが証明するしかありません。意見を事実のように書いてはなりません。それは事実ではなく嘘になってしまいますから。--218.217.129.228 2011年1月25日 (火) 00:51 (UTC)
内容が事実でないという検証可能な文献があれば、事実でないということは言えますが、ないので言えませんよね。事実であるものを意見に過ぎないとするのは事実に反します。そちらのほうが嘘をついていることになります。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 00:57 (UTC)
「内容が事実ではない」と本文で誰も書いていません。現在の出典から林と崔吉城の論しかなく、その主張として載せることで意見の事実として載せているのみです。「内容が事実だ」と書いているのはKanbunさんであり、ならばその立証が必要です。--218.217.129.228 2011年1月25日 (火) 01:03 (UTC)
言っていることがわかりません。結局樺太朝鮮人虐殺事件が崔吉城氏の主張に過ぎないという検証可能な文献はないのですから、それを崔吉城氏の個人的な意見として記すことはできません。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 07:46 (UTC)

つまり、その事件に関する文献が一つだから、その事件が事実として疑わしいなどという論は明らかにおかしいのですが、おわかりになりませんか。この場合、その事件が事実かどうか怪しいというならば、そのことを記した検証可能な文献が必要だということは明らかです。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 07:59 (UTC)

  • Kanbunさんは、「その事件に関する文献が一つだから、その事件が事実として疑わしいなどという論」など誰も言っていないのに、それを想定して叩いています。つまり、Kanbunさんの行為は、詭弁論理の一種の論点のすり替えです。
  • ここで、218.217.129.228さんや私が言っているのは、林と崔吉城しかソースがないということをわかるようにかけといているに過ぎません。それしか現状ないのはKanbunさんが提出できないからであり、ウィキペディアではその場合記述者にソース提出責任がありますから、提出されないものはないものとして扱われます。
  • ソースが二人しかないならそれがわかるように書くのは当然です。それは重要な情報だからです。Nakata88 2011年1月25日 (火) 08:31 (UTC)
樺太朝鮮人虐殺事件を事実だとNakata88さんが確認して下さったことに感謝します。ソースについては参考文献節に書いてあるのですから、一つだ二つだいくつだなどと本文に書く必要はないでしょう。それではソースが増えるたびに書き直すハメになりますしね。すぐに古くなる表現は使わない、というのがウィキペディアのスタンスです。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 11:05 (UTC)
つまり現在の記事内容はソースを意図的に隠しもしていないし、はっきり明示されているのに、それを本文中でわざわざ二つだいくつだなどと記す必要がないばかりか、Nakata88さんのよいと思ってらっしゃる「樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人が虐殺されたとされる事件。」は事件が崔吉城らの主張に過ぎないという含意があるために適切でなく、日本語表現としても「主張されている」と「されたとされる」が被っているなど不適切です。あくまで事件は事件として記すのが適切であり、そこに「崔吉城らによって主張されている」などという検証可能性のかけらもない記述を入れるべきではありません。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 11:15 (UTC)
  • どこをどう読んだら、わたしが事実を確認したことになるんですか?kanbunさんはウィキペディアがソースに基づかない編集者の意見を独自研究として排除するということがまだわかっておられないようです。
  • だれが、どの文章のソースであるかを明示する必要があります。どんな論文でも当たり前です。ウィキペディアでも例外ではありません。Nakata88 2011年1月25日 (火) 12:20 (UTC)
ソースは参考文献節に明示してあります。一方、Nakata88さんの主張される「崔吉城らによって主張されている」という内容には検証可能なソースは示されていません。まさかある事件について論文を書いた人が二人だから、その事件は二人によって主張されているに過ぎないなどという荒唐無稽な話をしはしませんよね。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 12:25 (UTC)
  • 論文で書くというのは主張されているということです。あなたは、事実と仮説の関係がわかっていないようですが、あらゆる歴史的事実は仮説のひとつです。それが支持されていって始めて「事実」といわれるのです。
  • 正直、Kanbunさんは歴史学研究者だそうですが、論文を書かれたことがありますか?失礼ですがとても信じられません。Nakata88 2011年1月25日 (火) 12:28 (UTC)
歴史学の論文はある事実に対して論文を書くことです。理科系の論文と勘違いされてませんか。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 12:32 (UTC)
  • 歴史学では事実と称されるものが複数ある場合、それぞれが仮説になります。あなたの言っている「事実」とは事実だという主張に過ぎません。こんな初歩的なことを何で説明しなければならないのかわかりませんが、失礼ですが大学生ですか?
  • 論文を書くとき、複数の参照文献をあげた場合、どこのソースはどのの何ページを参照しているかを明示するのは、どんな論文でも当たり前のことです。そんなことを否定しようとするKanbunさんが、歴史学研究者だと名乗っている時点で、まったく理解不能な事態です。
  • はっきりいって、Kanbunさんの論理は私の理解を超えてるのでコメント依頼に出したいと思います。Nakata88 2011年1月25日 (火) 12:28 (UTC)
どうぞコメント依頼を出されるのは自由ですから、お出し下さい。「歴史学では事実と称されるものが複数ある場合、それぞれが仮説になります。」とおっしゃりますが、普通歴史学は事実が複数あるなどという前提には立たないで、そのような意味不明な論は私の理解を超えています。樺太朝鮮人虐殺事件が事実でないという研究があるならいざ知らず、そのような研究もない現状で樺太朝鮮人虐殺事件を仮説として扱うことは事実に反しますし、たとえあったとしても南京大虐殺のように、否定説があるからといってないことにもできないでしょう。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 12:43 (UTC)
  • 「事実」ではなく「事実と称されるものです」。また置き換えによる詭弁をされていますが、Kanbunさんは、わざとでないならかなり論理力に難があると思います。学問である以上、ある争点について、邪馬台国でも、南京大虐殺でも、事実と称されるものが複数あるのは常態でしょう。
  • 正直、参照論文のあげ方にしても、個々の部分でどこを参照してるかを、あげる必要がないと言い張るなど、論文を書かれた経験があるとはとても思えません。わたしは、歴史学の分野でも論文を読みますが、複数の参照文献が挙がっている場合に、重要な部分でどこを参照しているかわからないような論文みたことがありません。そもそも、対立した参照文献ではどうするんですか?
  • はっきりいって、Kanbunさんが歴史学研究者だと私にはおもえません。まあ、その点は立証する必要はないですが、Kanbunさんが歴史学研究者ならあまりにも歴史学のレベルが低いということになりちょっとそれはそれで困った事態です。Nakata88 2011年1月25日 (火) 12:52 (UTC)
邪馬台国や南京大虐殺がなかったという研究があるからといって、「邪馬台国とは大多数の歴史学者の主張である日本にあったとされる国家である」とか、「南京大虐殺は大多数の肯定派の主張する南京で1937年に起こったとされる事件である」なんて書きますか?あなたの言っていることは反論するのもばかばかしい。仮にあなたが言うように、邪馬台国でも南京大虐殺でも、事実と称されるものが複数あったとしても、それをもって冒頭部を「~によって主張される」なんて編集はしませんよ。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 13:00 (UTC)
  • Kanbunさんは、また、論点の置き換えという詭弁をつかいました。ここで言っているのは主張をその多寡に応じてそのまま書けといっているのです。WP:RS
  • 『「邪馬台国とは大多数の歴史学者の主張である日本にあったとされる国家である」とか、「南京大虐殺は大多数の肯定派の主張する南京で1937年に起こったとされる事件である」』とかこんなことをいっていますが、それが、その論点についての学説状況ならそう書くべきですし、そうじゃないならそう書くべきじゃなりません。それだけのことです。Nakata88 2011年1月25日 (火) 13:08 (UTC)
その「学説状況」(この言葉がそもそも意味不明ですが)なるものが検証可能な文献で示せるのでしょうか。示せなければ、記述することはできません。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 13:12 (UTC)
ええ、検証可能な範囲で。あなたの「崔吉城らによって主張されている」という記述はその点検証可能ではないので、受け入れられません。だって、検証可能な文献の裏付けがないんですものね。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 13:23 (UTC)
  • 「崔吉城らによって主張されている」というのが検証可能でないなら、その文章全体が削除されます。次回からそうします。Nakata88 2011年1月25日 (火) 13:32 (UTC)
検証可能でないのは「崔吉城らによって主張されている」というあなたの加筆部分だけです。なんで、その一文全体が削除されることになるのか。意味不明です。せめて参考文献くらい確認しなさいよ(笑)。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 13:37 (UTC)
  • 参考文献が二人以上いて、その両者の主張が完全に一致しているとの言明がない場合、それはソースが不明になります。記述者がそれを記述できないなら削除するのが当然です。
  • なお、Kanbunさんは、その明示を「事実じゃない含意があるから」了承できないとかかれていますが、そんなことはまったくウィキペディアの立場ではありません。研究者が二人しかいないならそれをそのままわかるように書くことが必要なのです。そのようなゆがんだ考え方ではPOVだということになります。Nakata88 2011年1月25日 (火) 13:41 (UTC)
>その明示を「事実じゃない含意があるから」了承できないとかかれていますが、
こんなこと一言も申してません。
>参考文献が二人以上いて、その両者の主張が完全に一致しているとの言明がない場合、それはソースが不明になります。
ソースがなぜ不明になるのか。参考文献を見れば書いてありますよ。ソースは明らかです。「参考文献が二人以上」という日本語も明らかにおかしい。嘘だったとはいえ、一応研究者を自称していた方なのだから、日本語表現は正しく使っていただきたいものです。あなたと議論をしているとおかしな日本語によって理解に困難を感じる箇所が多々あります。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 13:49 (UTC)
  • 参考文献が複数ある場合、どれを参考にしてるのかわからないからです。
  • 「嘘だったとはいえ」?いやうそじゃないですよ。証明できないっていうのとうそというのは違います。Kanbunさんは本と論理が弱いですよね。Nakata88 2011年1月25日 (火) 14:53 (UTC)
[9]で少なくとも、ご自身は自称研究者であったことを認めておられますが。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 15:33 (UTC)
  • 自称研究者なのは私もあなたも同じです。私は自分が研究者だと知ってますがなたが研究者かわかりませんし、あなたも同様です。また、ほかの人から見たら両方とも自称研究者です。実名で行動されるならとめませんがそうじゃない場合は両方とも客観的には自称研究者ですよ。
  • 警察発表なんかも自称というのは証明不可能な場合を使うのであってうそだという断定は含まれていませんよ。Nakata88 2011年1月25日 (火) 15:39 (UTC)
客観的に見て、どんな学問領域においても基本タームである真偽という語彙を間違えるとかおかしな日本語表現とか歴史学における根本知識の無さを見ると、とてもあなたが研究者とは思えないのですが、そう言うのなら、これからは問題にしないことにします。あまりにもおかしかったもので、信じられませんが、まあ研究者といってもいろいろいるのだと思うことにします。--Kanbun 2011年1月25日 (火) 15:42 (UTC)
  • 論理学を専門にやってるわけではないので、用語を間違えることはあります。それは訂正すればすみます。しかし、Kanbunさんのように論理自体を誤るのはちょっと深刻です。議論がすごく難しくなります。Nakata88 2011年1月26日 (水) 20:11 (UTC)
「内容が事実ではない」と本文で誰も書いていません。「崔吉城氏の意見」として書いていますので本文に書かれていない「崔吉城氏の意見に過ぎないという反証研究」は必要ありません。現在の出典から崔吉城と林の主張しかなく、方針上、その主張として載せることで意見の事実として載せることができます。現在の本文で「内容が事実だ」と書いているのはKanbunさんであり、ならばその立証が必要です。またKanbunさんが主張している「反対意見が無ければ研究者の意見は事実になる」という主張の根拠を提示してください。初耳です。
wikipediaでは「事実」しか記載できません(wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな)。では「事実」とは何か?Wikipediaで「事実」とは「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです」とされています。Kanbunさんの主張する「反対意見が無い学者の論が事実」とはされていません。では歴史的なことについて「学者・専門家の同意」とはなんでしょうか?Wikipedia:信頼できる情報源#歴史をご覧ください。一流の歴史書や雑誌記事は、使われている情報源についての詳細を表す脚注や書籍リストを含みます。多くの雑誌には新刊本の品質を評価する学者の批評が含まれており、通常は新しい考え方が要約されています。 さて歴史的なことについて、イチ研究者の論を「事実」としたいのならば、この「品質を評価する学者の批評」を出し、それが「同意」していることを証明しなければ「学者や専門家の共通認識によって同意された記述」になりません。そもそもは崔吉城は歴史における専門家ではなく、文学博士・社会人類学者です。ただし百歩譲って国立大の教授ですし、それなりの機関に論文を提出しているのでこの件についての歴史学者として扱っても個人的には反対をしません(個人的には崔吉城は嫌いではない。なぜなら在日についての強制連行説を否定し、アイデンティティとしてそうなってしまっているだけであると事実を述べることのできる教授ですから(「これでは困る韓国」呉善花、崔吉城))。しかし朝鮮人強制連行説を唱える偏った「林えいだい」などという単なる作家を、この場面で学者・専門家とは言いません。
さて、崔吉城の論を意見記載ではなく内容を事実としたいのならば、学会などの専門家による「同意」を提示してください。それができなければwikipediaにおいて「事実」とすることはできず、「崔吉城の意見として事実に変える」という記載法にするしかありません。--218.217.129.99 2011年1月26日 (水) 19:58 (UTC)
  • 218.217.129.99さんの意見に大体同意します。
  • とりあえず、林氏のソース性がおとること、崔吉城氏も歴史の専門家とはいえないことについては、ありのままに書けばいいと思います。
  • Kanbunさんは個々の情報の発信元を隠蔽しようとしてますが、これはウィキペディアの方針には反します。
  • そのことは複数回のべているので、もういいでしょう。さらにKanbunさんが論争を続けるのであればコメント依頼にだして多数決をとればいいと思います。Nakata88 2011年1月26日 (水) 20:11 (UTC)
記事には個々の情報の発信源は明記されており、隠蔽されてはいません。218.217.129.99氏の「「内容が事実ではない」と本文で誰も書いていません。「崔吉城氏の意見」として書いていますので」というのは全くの事実誤認であり、事件は崔吉城氏の意見ではありません。事件が崔吉城氏の意見であるというのならば、その旨検証可能な論文に基づいて論じて下さい。--Kanbun 2011年1月26日 (水) 22:46 (UTC)

Nakata88氏による反論がないようですので、この議論はクローズとします。--Kanbun 2011年1月27日 (木) 22:42 (UTC)

  • 議論は私だけでなく、218.217.129.99さんも加わっておられますし、双方とも合意していないため議論は終了していません。
  • 記事のある部分についてどこの参照文献によるのかがわからない場合、それは情報源を明示しているとはいえません。参考文献が複数ある場合、それどれによるのかがわからなければ、情報源を明示していることになりません。
  • Kanbunさんは、そのことがどうしても理解していただけないようですので、コメント依頼から投票に進みたいと思います。Nakata88 2011年1月28日 (金) 05:57 (UTC)
コメントコメント依頼から。長く伸びていて話も少々複雑でしたので苦慮しましたがポイントとしては
  • 「出典が林えいだい、崔吉城によるもののみ」
  • 「両名は信頼できる情報源によるところの専門の学位の研究者ではない」
  • 「著者による検証であり一次資料的」
  • 「歴史的事実であるという記述となっている」
といった辺りなのだと思います。並べて見るとなるほどこれは難があるなと思えます。そういった説があるという検証可能性はあると思いますが、そういった事実があるという検証可能性は満たしていません。これを事実として記述するためにはさらなる信頼できる情報源が必要であると思います。
一日反論がないだけでクローズしようとするのは如何な物でしょうか。ウィキペディアでは一般的に一週間を目処とされています。--はぬまん 2011年1月28日 (金) 07:42 (UTC)

Kanbunによる議論のまとめ

コメント依頼が出されたようですので、改めてNakata88氏のこの編集について、当方の挙げる問題点を改めて列挙させていただきます。

  1. まず冒頭文の「樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人が虐殺されたとされる事件」という記述について。
    1. このような記述は事件が崔吉城氏らの主張に過ぎないという含意を含むので不適切。
    2. 本事件の事実性については崔吉城氏と林えいだい氏の検証可能な文献によってその情報が示されているのに対し、崔吉城氏の主張だとするNakata88氏の加筆には検証可能な文献による根拠づけがなく、しかもNakata88氏本人はこれら文献を読んだこともない。当該記述は全くの独自研究である。よって、検証可能なことのみ載せるというウィキペディアの方針に照らして、Nakata88氏のこの加筆は差し戻されるべきである。
    3. 韓国の社会人類学者」と特記する意図が不明。この記事は崔吉城の記事ではないし、崔吉城の記事はすでに立てられているので、リンク先を参照すれば崔吉城氏が何者かすぐにわかる。よって、これはこの記事で特記するに値しないと思われる。
    4. 「崔吉城らによって主張されている…一連の朝鮮人が虐殺されたとされる事件」という表現が冗語であり、そもそも日本語としておかしい
  2. 「概要」節に加えられる「韓国の社会人類学者の崔吉城の論文によれば、」という記述について。
    1. 単純に不適切。なぜなら、本事件について林えいだい氏やサハリンレポートなどが報告しており、崔吉城氏の論文だけに従ってこの記事が書かれたわけでもないため、これは検証可能性の問題からいっても全く不適切な編集である。
    2. そもそもNakata88氏は参考文献を全く参照していないことを本ノートで[ほぼ認めている]。そのうえ[]の発言に基づけば、Nakata88氏は参考文献節もほとんど確認していないであろうことがわかる。事件のことはどこに書いてあるのか明示してくれと言っているが、参考文献節を見れば一目瞭然。題名を見れば、挙げられている全ての文献が本事件のみを扱っているのが明白なのであるから、書籍全体が出典となっていることははっきりしている。
    3. 概要節はこの事件の概要を記すところであり、本事件の出典は崔吉城氏の論文だけではないので、「韓国の社会人類学者の崔吉城の論文によれば、」などと加筆するのは独自研究であり、事実の歪曲である。
  3. 17行目の「以上、」を「このように、」に変更していることについて。
    1. この部分の一文は全文を示せば、「このように樺太在住の朝鮮人に対する不信は日本側とソ連側双方にあり、このような不信感を背景として終戦直後、ソ連の樺太侵攻という混乱期に朝鮮人に対する虐殺が行われた。」と冗語表現があることによって不適切な日本語になっていることが分かる。そのため、「以上、」に直しているのだが、Nakata88氏はおかしな日本語によほど愛着があるらしい。これはなぜ戻しているのか恐ろしく不明。もしくは日本語の知識が足りないのかもしれない。
  4. 同じく17行目の「~とされている。」を加筆したがることについて。
    1. 「ソ連の樺太侵攻という混乱期に朝鮮人に対する虐殺が行われたとされている。」とすると、伝聞調であり崔吉城氏の論文がこの件について意見を保留にしているかのようである。しかし、事実はそうでなく、崔吉城氏の論文を見れば分かるが、氏は断定調でここを締めており、特にこの部分は氏の立論の核心部分である。それを好き勝手に伝聞調に変えるあたり、Nakata88氏は参考文献を全く読んでいないことが分かるばかりか、独自研究を出典もなしに平気で容認する傾向がよくわかる。ここは出典に忠実に変えるのが望ましく、「~とされている。」なる伝聞調の表現は取り除かれるべきである。
  5. 27行目の「崔吉城によると、~としている。」という文言の挿入について。
    1. これも不適切。まず末尾にある<ref>タグを見て、挿入したのだろう。だが参考文献の該当箇所を見れば、林などを参考にしつつ崔吉城が事件を記述している部分であることがわかる。不適切な表現である。
    2. また、この部分に「崔吉城によると、~としている。」と入れると、日本語的におかしなことになる。
      1. 「崔吉城によると、」は「労働者として働いていた。」にかかることになる。しかし、この事実は林えいだいの著作にも言及がある。
      2. 「8月20日から8月23日にわたって27人の朝鮮人が惨殺されたとしている。」とすると、やはり殺された朝鮮人は27人ではないかのように感じるが、これは伝聞調のせいである。論文の記述は断定調なのだから、ここは断定調にして末尾に<ref>タグを用いて出典を示すのが正しい。
    3. 以上の問題からこれも日本語の記述上、明らかに独自研究を指し示す内容となるから、不適切な表現である。よって、削除されるのが望ましい。

Nakata88氏には、これ以上独自研究によって記事破壊行為を行うのは自粛していただきたい。記事を編集したいと思うのであれば、検証可能な文献を示して加筆したり削除したりするのが筋である。以上。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 09:57 (UTC)

議論の続き

すいません、強調がされすぎて逆に何が重要なのか分かりません。編集内容を糾弾されるよりも何故そういった編集となるのか理由を踏まえて議論すべきなのではないでしょうか?--はぬまん 2011年1月28日 (金) 10:17 (UTC)
私が問題にしているのはNakata88氏のこの編集で、記事内容ではありません。だから私が編集内容を糾弾するのは、当然ですし、「何故そういった編集となるのか」については、Nakata88氏が検証可能な文献を示して下さらないので、彼の主張の客観的な根拠が全くわからず、おそらくないのだと私は思っています。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 10:35 (UTC)
つまり、彼はなぜだか現在の記述が中立的でないと考えているそうなのですが、じゃあ現在の記事内容とは異なる観点の検証可能な文献があるのかと聞くと、その名前を挙げません。参考文献も読まず、他の観点を示している文献も示さずに、なぜに中立的な観点が問題にできるのでしょうか。甚だ疑問です。あるいはただの主観に過ぎないのであれば、それは独自研究ですから、言うのは勝手ですが、記事の編集には反映させられません。彼に不足しているのは彼の主張を補強する検証可能な文献、それだけです。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 10:43 (UTC)
えーとまず第一に。KanbunさんはNakata88さんの編集を問題とされていらっしゃいますがNakata88さんは記述内容を問題とされて議論をなさっているように見受けられます。第二に。検証可能性に疑問符が付いた場合には疑問の根拠となる検証可能な文献と言うのは必要がありません、出典は記述を望む側に求められる物であり、記事に疑問を持つ側に相反する文献を求められる事はありません。Nakata88さんの主張内容を読んでも信頼できる情報源に基づいておりその運用にも間違いがあるようには見受けられません。こう言っては何ですが参考文献を読んでいるかどうかはあまり関係がありません。
要約しますと、信頼できる情報源に基づいて本記事の出典を精査しますと両名の文献は一次資料と見なされるのです。両名のような文献を元に権威ある学者が精査した二次資料でなければ、本記事のように事実として書くのはウィキペディアの検証可能性を満たさないものとなってしまうのです。--はぬまん 2011年1月28日 (金) 10:49 (UTC)
>「検証可能性に疑問符が付いた場合には疑問の根拠となる検証可能な文献と言うのは必要がありません」?
信頼できる情報源とは、しかるべき出版社から出された広く知れ渡った刊行物のことですよ。(「ウィキペディアの記事は、信頼できる公刊された情報源を使うべきです。」)Nakata88さんは一度もご自身の主張に合致する刊行物の名など挙げていませんよ。それに検証可能性とはその文献において情報が確認できるかどうかで、その情報が真実かどうかという意味ではないことは知っていますよね?つまり、あなたは風媒社だとか未來社だとか第一書房なんて出版社は信頼できないと言っているということですか?
>「両名の文献は一次資料と見なされる」?
はぬまんさんは参考文献を読んでいっているのですか?両名の文献は明らかに、当時の一次史料(ソ連の裁判記録や朝鮮人の生き残りの証言)を元にした二次資料ですよ。
Wikipediaには検証可能なことしか載せないというルールがあります。記事内容について主観で語るのは結構ですが、それを記事に加筆したいという場合、検証可能な文献に基づいて示す必要があります。つまりノートでNakata88さんは記述内容を問題にするのは結構ですが、検証可能な文献がないと、それを記事に加筆できません。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 11:01 (UTC)
まず落ち着いて、一括投稿して下さい。連投されるとお返事もままなりません。両名の文献が疑わしいと申したのではなく、両名の文献では信頼できる情報源の二次資料の言うところの「学者によって書かれ」という部分を満たさないために問題だ、という話なのです。この学者と言うのは「偽の権威に注意」を参照しますが専門の学位でなければなりません。崔吉城は文学博士で本記事の内容から考えると門外漢で専門の学位はお持ちではありません。つまり、説としての文献の証明とはなりえますが学位をお持ちでないため事実としての信頼性はあまりないということです。これを事実として記述したいのであれば更なる補強する文献をKanbunさんが用意せねばならないのです。事実としての記述には難がある、とするNakata88さん側に事実ではないという文献を用意する必要はありません。
そういった理由から、Kanbunさんのご主張する「事件が事実である」とするには検証が不可能なのです。検証可能なことしか載せないというルールに則れば事実であるという記述は問題であり、そう考えたためNakata88さんは「崔吉城の説では」という記述の仕方をしたのでしょう。この行為に物言いをつけるのならばそれ相応の検証可能性をKanbunさんがお示しください、というお話です。--はぬまん 2011年1月28日 (金) 11:24 (UTC)
両名の文献が疑わしいと申したのではなく、
あなたはついさっき「検証可能性に疑問符が付いた」などとおっしゃったではありませんか?それはつまり両名の文献の出版元が信頼できない、もしくはその文献が絶版なうえに稀少で国会図書館にもなく、手に入れることが困難だという意味ですよ。検証可能でないとはそういうことです。
両名の文献では信頼できる情報源の二次資料の言うところの「学者によって書かれ」という部分を満たさないために問題だ、という話なのです。
崔吉城は文学博士で本記事の内容から考えると門外漢で専門の学位はお持ちではありません。つまり、説としての文献の証明とはなりえますが学位をお持ちでないため事実としての信頼性はあまりないということです。
なるほど。では、崔吉城氏の論文を査読して採録した比較法史学会はこうした国際法史の問題には門外漢である(笑)から、その査読は信頼できないとおっしゃっているのですか。正気ですか。
Wikipediaは真実性を問題にするところではありません。検証可能性が問題なのです。検証可能かどうかに学位は全く関係ありません。
Kanbunさんのご主張する「事件が事実である」とするには検証が不可能なのです。
参考文献を読めば、事件のことは書いてあります。検証可能です。
また、私は「事件が事実である」という主張などしていません。したがって、
>そう考えたためNakata88さんは「崔吉城の説では」という記述の仕方をしたのでしょう。
というのは事実誤認であるということは何度も申しており、「「崔吉城の説では」という記述の仕方」なるものがいかに誤ったものであるかは#Kanbunによる議論のまとめ以下でまとめて示したとおりです。参照下さりますよう。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 11:35 (UTC)
言葉尻だけを捉えて論ぜられたのでは出来る話も出来なくなります。冷静な対応を望みます。Nakata88さんに対して反対の文献を求める言動を繰り返していたため出典要求はそういったものではありませんよ、という説明の為に「検証可能性に疑問符が付いた場合には」という言い回しをしたのです。何も両名の文献そのものが疑わしいなどとは申しておりません。
比較法史学会というのがどこから出てきたのか理解しかねますが…。こちらとしてはウィキペディアのルールに則った発言をしているだけです。どこそこの権威がどう判断したなどという事も本記事にはどこにも書いてありませんし、専門家とは言えない人物の出典ではそのまま信頼できるとは言えない、それ以上も以下もありません。
>「事件が事実である」という主張などしていません。
>樺太朝鮮人虐殺事件は事実であり、意見ではありません
両方ともKanbunさんの発言です。どういうことでしょう?--はぬまん 2011年1月28日 (金) 12:22 (UTC)

えーとまず、自称研究者のNakata88氏が本当に"自称"だってことがわかってしまうので、あまり言いたくなかったのですが、我々歴史学に関する学位はいちおう文学博士(歴史学)です。で、もう本当にはぬまんさんの言ってることもNakata88氏の自惚れた妄言も見当外れなんですけど、歴史学の一流の研究者で文学博士(歴史学)じゃない人なんてたくさんいますし、そもそも文学博士(歴史学)がないと歴史学の専門家になれないわけではないです(一例を挙げれば、日本における唐宋女性史研究の権威は農学博士です)。なぜなら、歴史学は優れて学際的な研究分野ですから。これは検証可能なことじゃないのでこれ以上言っても伝わらないかもしれませんが、学界の人から見るとお二人の根本認識が完全に誤っていることは一目瞭然なので、恥ずかしいことはされない方が良いと思います。
>「事件が事実である」という主張などしていません。
>樺太朝鮮人虐殺事件は事実であり、意見ではありません。
両方ともKanbunさんの発言です。どういうことでしょう?
樺太朝鮮人虐殺事件は事実であることは参考文献があることによってわかるということです。私は「事件が事実である」という主張をしているのではありません。そうではなく、「事件が事実である」という記載が崔吉城らの文献によって示されているから、事実だということは検証可能である。しかるに崔吉城は樺太朝鮮虐殺事件を意見だとは記していないから、検証可能ではない。そして、現状崔吉城ら以外の検証可能な文献は示されていない。したがって、事実として記すべきで、意見として記すべきではない。略して、事実であり、意見ではありませんとなります。意見を意見として記すためには、そのための出典が必要なのですよ。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 13:20 (UTC)

著書をみるに崔吉城氏は民俗学に関係するものばかりですし、博士 (文学)を参考にすると1991年以前では一緒くたに文学博士とされていた事を考えるとKanbunさんが研究者を自称されてもそのまま信じる事は出来ません。何より、話の展開として随分と今更な気がしてなりません。この主張が通るのならもっと以前からしていて当然ですし全て一蹴できるでしょうに。さらに言えば、あれだけ検証可能性を繰り返されていた方が検証できる事ではないとおっしゃる。随分と矛盾しませんか?
崔吉城氏の学説があるのはいいでしょう、それはいいんです。学説をそのままウィキペディアとして事実と書いてよいのか?という話なのですよ。その学説内で事実として書かれている、そりゃあまあ学説を書く以上は真実調べた事として書かれるでしょう、当然の事です。これまで問題とされてきた事はその出典となるものの数が少ないが為にそのまま事実としての記述がよいものか?という話であったと思います。つまり、崔吉城氏の学説において事実として書かれている事と参考文献が少ないゆえに事実と断じて良いのか?という話は全く関連性がないのですよ。記事としては「参考文献が少ない」という問題指摘がされていると言えます。事実としての記述を望むKanbunさんに更なる補強となる出典を要求されている、と。ウィキペディアの検証可能性としてはなんらおかしな話の流れではないと思いますが。
蛇足的な話で失礼しますが…Kanbunさんの態度が少々気になってなりません。ご自身のノートページで掲げられてるご自身執筆の「論争と対話」を遵守いただければと思います。--はぬまん 2011年1月28日 (金) 14:09 (UTC)
今まで言及しなかったのは、自称研究者であるNakata88氏の知識の無さはわかる人にはわかることでしたから、あえて指摘する必要を感じなかっただけです。いつでも言えますから。しかしはぬまんさんのような一般の方が誤解されて訳のわからない自称研究者に振り回されてしまうのはかわいそうですから、教えて差し上げました。さて、はぬまんさん、崔吉城氏が専門家でないなどという根拠不明の論は何か検証可能な文献で示せるのですか?あと我ながら「論争と対話」はよくできていると思いますのではぬまんさんにも熟読をお勧めしますよ。
>記事としては「参考文献が少ない」という問題指摘がされている
というのは成り立ちうるとして、じゃあその少ないというのは検証可能ですか。そしてたとえ数が検証可能だったとして、それを根拠に事件を崔吉城らの主張であるとすることができるか。できません。それは独自研究というのです。だから、事件が崔吉城らの意見に過ぎないという検証可能な文献を示さない限り、結局そのような加筆は不可能です。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 15:04 (UTC)
あと根本的なことですが、「記事としては「参考文献が少ない」という問題指摘がされていると言えます。事実としての記述を望むKanbunさんに更なる補強となる出典を要求されている、と。ウィキペディアの検証可能性としてはなんらおかしな話の流れではないと思いますが。」については、検証可能性な文献に基づかない加筆をNakata88氏がしている時点でおかしな流れになっているということをお忘れなきよう。彼の加筆には裏付けとなる出典が一つもないのです(笑)。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 15:11 (UTC)
ちょっと私の説明がわかりにくかったかもしれませんので、念のためもう一度補足しますと、出典の数が問題だとかそういうことを言うのは自由ですが、だからこの記事に検証可能性がないとか少ない(?)などとは言えませんし、事件が崔吉城らの主張であるというような珍奇な記述を付け加える根拠にもならないということです。だから私は件の記述を差し戻し、その記述の出典を求めているのです。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 15:19 (UTC)
崔吉城氏の専門性に関してはこれ以上は言及を避ける事にします、まさしく私自身が門外漢で判断不能な面でもありますし。
繰り返されるから余計そう思うのかもしれませんが、そこで独自研究が出てくる辺りに論理の飛躍があるように思われるのですが。「少ないという検証性」を求められるのが検証可能性に対しての理解に乏しい、と言う事なのではないでしょうか?検証可能性はそういった運用のされる方針ではありませんし。なにより、検証性は多いに越した事はないのです。記事への信頼性が高まるのですから少ないと指摘されるのに対し何故そこまで頑ななリアクションをされるのか今一つ分かりません。
全く蛇足なのですが「論争と対話」について。当事者でなくとも他者に、今回で言えばNakata88さんにですが「自惚れた妄言」などという発言を見るとあまりいい気持ちはしません。私としては「意見派」なのですが、「論争と対話」によるところの「意見を見ない、相手を見る」として考えると、少々疑問を抱いてしまったもので。全く以って蛇足ですみません、個人のノートページでする話だったかもしれません。
(ここから補足を読んで)崔吉城氏の論文によれば、という記述そのものは間違いではない様に思いますが。崔吉城氏の論文において事件が書かれている訳ですし、論文に対してどのように記述するかという点の違いに過ぎないように思います。論文通りに事件があるとしても、論文ではこのように書かれているとしても、どちらも検証性は損なわれず中立性は損なわれていません。そういった面から考えると事件があると断定するためには参考文献が少ない、こう主張される事はなんらおかしな事ではありません。出典の補強が必要となるのはこの点なのです。--はぬまん 2011年1月28日 (金) 15:42 (UTC)
>崔吉城氏の専門性に関してはこれ以上は言及を避ける事にします、まさしく私自身が門外漢で判断不能な面でもありますし。
賢明な判断と思います。
>「少ないという検証性」を求められるのが検証可能性に対しての理解に乏しい、と言う事なのではないでしょうか?
日本語が不分明でわかりませんでした。
>なにより、検証性は多いに越した事はないのです。
検証可能性は多くなったり少なくなったりするものではありません。検証可能な文献の数は個々の文献の検証可能性を高めたり低めたりするものではありません。そういうことが起こるのは、一方の検証可能な文献がその文献を検証可能な形で批判している場合のみです。
>記事への信頼性が高まるのですから少ないと指摘されるのに対し何故そこまで頑ななリアクションをされるのか今一つ分かりません。
ここは核心に関わるので強くもう一度言っておきます。検証可能な文献の数が少ないから、検証可能でない「韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている」を付け加えることができるとNakata88氏は主張しているのです。これは検証可能性の問題から、どう逆立ちしても無理な主張です。飛躍があるとすれば、彼の頭の中にあるのでしょう。
>当事者でなくとも他者に、今回で言えばNakata88さんにですが「自惚れた妄言」などという発言を見るとあまりいい気持ちはしません。
私は以前彼に「レベルが低い」とか「頭が悪い」などと根拠もなく上から目線でののしられたので、そういった彼の態度を鑑みて「自惚れた妄言」と言っているのです。何も知らずに研究者を自称し、暴言を吐くような方でなければ、このようなことは言いません。しかし、「論争と対話」はなかなかいいでしょう。Nakata88氏にも是非読んでもらいたいですね。
>崔吉城氏の論文によれば、という記述そのものは間違いではない様に思いますが。崔吉城氏の論文において事件が書かれている訳ですし、論文に対してどのように記述するかという点の違いに過ぎないように思います。
大違いです。#Kanbunによる議論のまとめを参照ください。--Kanbun 2011年1月28日 (金) 16:02 (UTC)
検証可能性についてお話したいと思います。本記事にある参考文献は崔氏、林氏によるもののみです。林氏についてはこれまでの議論で作家に過ぎないと指摘されているため、信頼性においては大変微妙な所です。でと。崔氏に対して信頼性があるとして、崔氏の論文で本記事の内容の事が書かれている、ここまでは検証性にまったく揺らぎのない事実です。崔氏の論文で事件に関して書かれている、これに対してそのまま事件があるとしても崔氏の論文ではこのように書かれているとしてもどちらも検証性は満たします。林氏の記述を参考に崔氏が書かれた部分であるとしても林氏を一次資料として捉え、それを崔氏が書いたものが二次資料になる、と考えればなんら不自然なところはなく、むしろ二次資料の流れとしては作家の記述内容が専門家の検証を経たという風に言えます。
林氏の信頼性が疑われるとなると、参考文献からも除かねばならないのではないでしょうか?崔氏が林氏の文献を参考に著書したとしてもそれは崔氏の専門性から問題ありませんが、林氏単体で信頼性を担保するものではなく、二次資料が参考にした一次資料を書かねばならないものでもありません。
大分脱線しましたが検証可能性について戻ります。Kanbunさんは「崔氏による主張」に対し検証可能性を要求されますが、上記の通り、信頼できる参考文献は崔氏による論文のみとなります。論文が他にない以上崔氏が主張している、というのは間違っている事ではありません。ここでポイントとなるのが別に「事件がない」という風には書いてない事です。これがない以上独自研究と断ぜられません。崔氏による論文、著書が発表されている。それ以上でも以下でもないのです。論理的な付け入る隙とでもいいましょうか、他の信頼できる参考文献がない以上は崔氏以外事件に対しての指摘をしている方がいないという話の流れになるのです。理屈からいえば捉えようによっては卑怯にもなりましょうが、参考文献が少ない以上は「崔氏による論文」以上のものがありません。検証可能性から逸脱した文章ではない、と判断せざるを得ません。
書きながら整理してみると変な言い方ですが感心してしまいました。私個人としては記事に対しての関心より論争の主張内容からどちらが論理的に正当性があるのかを考えるのですが(そういう意味では「論争と対話」でいうところのディベート的な人間です)、今回の件は意図する方向性は見えますが論理的には矛盾していません。ウィキペディアの方針を考えても間違った主張にはなっていません。去年の議論もありますが、論争の余地を残している記事と言えます。Kanbunさんには記事の充実、信頼性の向上と言った面でさらなる参考文献を望みます。--はぬまん 2011年1月28日 (金) 17:17 (UTC)
林えいだい氏を「ノンフィクション作家」だというから、その情報が怪しいとおっしゃっりたいようですが、そういうのはレッテル貼りというのですよ。彼の文献が信頼できないという検証可能な文献を読んでそう言っているならいざ知らず、主観で言われても何の議論の足しにもなりません。
後半部についてはもはやあきれるばかりです。「理屈からいえば捉えようによっては卑怯にもなりましょうが、参考文献が少ない以上は「崔氏による論文」以上のものがありません。」という箇所はもはや日本語ですらありません。「検証可能性から逸脱した文章ではない、と判断せざるを得ません。」については、検証可能性を逸脱するという表現がおかしいですよ。検証可能性はあるかないかで、その意味は出典あるかないかです。件の記述には出典がないから問題だと言っているのです。--Kanbun 2011年1月29日 (土) 00:37 (UTC)
  • 崔氏による論文と林氏著述が参考文献として、あがっているこのケースでは、個々の文章について、誰が述べたかをわかるように記述するのが複数の文献が挙がっている論文では必要になります。したがって、崔氏による論文であることを明示する必要があります。
  • はぬまんさんの主張とはちょっと逆なのです。そもそも、Kanbunさんが「崔氏による主張」であることが明示されない場合、その文章自体が維持できなくなります。複数の文献が挙がっている場合、ソースが不明になるからです。ましてや、林氏は研究者とは評価できないということであれば、ソースどちらによるかは非常に重要な意味を持ちます。
  • なお、Kanbunさんは、自称研究者と、いうことばに過剰に反応されていて、あるいみちょっとこまった事態なんですが、わたしは、研究者であることの立証がない以上、「第三者からみれば」、Kanbunさん「も」自称研究者だと言っているのです。ただ、べつに実名出されてもかまいません。その場合は自称をもちろんとります。
  • 私は別の領域の研究者です。したがって、いろんな文献を読みますし、歴史学の分野でも読みます。しかし、Kanbunさんの議論の持っていきかたについてはちょっと驚いてます。個々のキイとなる記述について、その参照文献のどれを参照しているのかを明示しない論文など見たことがないからです。そのいみで、Kanbunさんが研究者であるのかどうかはかなり疑問ですし、そのような習慣が歴史学の一部コミュニティにあるのならそれはそれでびっくりする事態です。
  • しかし、そんなことはウィキペディアでは本質的ではないので、とりあえず、少数の主張によって事実だと主張する以上、どこに載っているかをわかるように書かなければならないという一般的なウィキペディアの原則を満たすようにするべきだと思っています。Nakata88 2011年1月28日 (金) 17:33 (UTC)
ウィキペディアの記事には検証可能なことしか載せることができません。そして、「崔吉城らによって主張されている」という記述には出典がありません。崔吉城氏・林えいだい氏は本事件を事実として文献に記しているので、「本事件が事実であること」の出典となっているのです。逆にこれらの文献は「本事件が主張であること」は書いていませんから、「崔吉城らによって主張されている」という記述には出典がありません。したがって、この箇所は検証可能でないので記事に記載すべきではありません。またウィキペディアでは(論文でもいっしょですが)、出典は脚注や参考文献節によって示すのであり、いちいち「~によれば」などと本文中に記しません。詳しくは#Kanbunによる議論のまとめを参照ください。--Kanbun 2011年1月29日 (土) 00:28 (UTC)
正直に申しまして、Kanbunさんは検証可能性についてあまり正しくご理解なされていないと思われます。林氏が作家であるから記事そのものの信頼性とするには問題があるという事です。記述内容の細かい部分の出典程度になら問題はないと思いますが、本記事で言うと山本中山氏の著書による注釈と同程度が許容範囲でしょう。レッテル張りなどではなく林氏は信頼できる情報源としては適さないため記事の参考文献とする事は出来ないのです。崔氏が専門家であるという事は譲りましょう、しかし林氏は明らかに専門家とする根拠に欠けます、これもまた私の不勉強を根拠に鼻で笑いますか?林氏はどのような学位をお持ちだというのでしょうか?林氏についてはそもそも論ずる以前の問題だったので話に出していなかったのですが、まさかレッテル張りだなどという主張が出てくるとは思いませんでした。
「検証可能性はあるかないか」ですが、考えてみてください。崔氏の論文が事実として書かれている記事。崔氏の論文を読めば事実と検証が可能でしょう。「崔氏の論文によると」という形の記事。崔氏の論文を読むとそのような記述となっていて検証が可能でしょう。どちらも検証可能な文章なのです。ここがKanbunさんの検証可能性について大きな誤りとなっているところです。どちらとも検証は可能なのです。検証性は他にある独自研究、中立性と補完しあうものですし検証性ばかり振り回されるのはそもそも言動として妙な印象を拭えないのですが、今回の争点から考えると中立性が問題となるでしょう。昨日までうっかり読みこぼしていたのですが、山本中山氏による反証となる文章がある以上崔氏の論文の記述では、という記述方法の方がより中立的です。Kanbunさんは独自研究と仰られますが、崔氏の論文によるところの記述という事にはなんら変わりありえませんし独自研究にはなりません。三大方針についてもう少しご理解いただきたく思います。--はぬまん 2011年1月29日 (土) 05:53 (UTC)
  • はぬまんさん。山本氏による反証というのはどこに上がっているのでしょうか。明示してくださるとありがたいですが。(中山氏のことでしょうか?)
  • 信頼できるソースが必要なのは「AがBであると」「崔吉城氏が述べている」。という文章で言えば、「AがBであると」のほうです。「崔吉城氏が述べている」の方はソースの明示です。もし、「崔吉城氏が述べている」がなければ、信頼できる二次ソースが不明として「AがBであると」自体がかけなくなります。
  • Kanbunさんは、参考文献があがっているのだから「AがBであると」というのはかけるのだといっていますが、それは無理です。なぜなら、その参考文献は明らかに価値が違うからです。どちらにかかれているかがわからない場合、その信頼性が異なります。また、反証となる文章が存在する場合はなおさらです。中山氏の書かれているものでも一種の反証になると思います。その場合、「AがBである」と書くこと自体が、二次ソース同士の矛盾となります。
  • その意味で、kanbunさんの編集参加のやりかたはウィキペディアの根幹に触れるところなので、問題は大きくならざるを得ません。Kanubnさんが納得されない場合は、投票をやることになると思います。よろしくお願いします。Nakata88 2011年1月29日 (土) 10:53 (UTC)
あーすいませんお恥ずかしい、ご指摘ありがとうございます、中山氏でしたね、失礼しました。--はぬまん 2011年1月29日 (土) 11:23 (UTC)
中山氏の著作は「樺太朝鮮人逆事件はなかった」とか「樺太朝鮮人虐殺事件は事実ではない」ということは書いておらず、そもそも樺太朝鮮人虐殺事件を反証している文献では全くありません。「林氏が作家であるから記事そのものの信頼性とするには問題があるという事です。」についても、林氏が「ノンフィクション作家であること」は記事の信頼性に何ら問題ないと思いますし、あるいは「林えいだい」氏が信頼できない文献を今まで書いてきた人物だと言っているのならば、検証可能な文献を示していただきたい。「林氏が作家であるから記事そのものの信頼性とするには問題がある」というのは作家という職業の多様性から見ても端的に根拠のない意見です。またウィキペディアでは(論文でもいっしょですが)、出典は脚注や参考文献節によって示すのであり、特記する必要がない限り、いちいち「~によれば」などと本文中に記しません。今回の場合「樺太朝鮮人虐殺事件がなかった」とする反証研究があれば、まだわかりますが、ないのですから「崔吉城氏が述べている」とか「崔吉城らによって主張されている」などという文言は付けくわえるべきではないし、これらの記述を厳密に解釈すると「事件が崔吉城らの主張に過ぎない」という検証可能でない含意が生じますから不適切です。詳しくは#Kanbunによる議論のまとめを参照ください。--Kanbun 2011年1月29日 (土) 23:21 (UTC)
信頼できる情報源を読んでください、林氏は「情報源」の「二次資料」の項目にある「学者によって書かれ」という部分を満たす方ではいらっしゃいません。また、この問題と『「樺太朝鮮人虐殺事件がなかった」とする反証研究』という事とはまったく関わりがない事なのです。検証可能性を議論理由に掲げられるのにその運用基準をご存知ではない。主張される検証可能性も不可解な要求をされる。これでは議論に支障をきたします、今一度申しますが方針に対してのご理解を頂きたい。
このように林氏の参考文献を情報源として記述するには信頼性に問題があるため、崔氏による情報源のみとなってしまいます。再び信頼できる情報源によりますと「複数の情報源を確認する」の点で「1つだけの情報源では不十分」であり、崔氏の論文によるところ、という記述の必要性に繋がります。こういった問題点から私は何度も更なる文献をご用意ください、と申しているのです。事実としての記述をするには信頼性のある情報源が少ないのです。
また#Kanbunによる議論のまとめの内容の中でも検証性に対して問題があるのが「林などを参考にしつつ崔吉城が事件を記述している部分であることがわかる」というのが事実であれば例え林氏の文献が信頼性があるとしても両者の文献は独立性が保たれていない事になります。これもまた問題です。崔氏が林氏の文献を参考することは問題ありません。がしかし、ウィキペディアとしては崔氏が参考にした林氏の文献まで情報源にすると、二重に情報源の根拠を重ねている事になるのです。崔氏の論文がベースとなる記事に崔氏の論文のベースとなったものをさらに重ねる、といえば分かりやすいでしょうか。無理のある構造となってしまいます。--はぬまん 2011年1月30日 (日) 00:59 (UTC)
  1. 信頼できる情報源の「情報源」の「二次資料」の項目は「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。」です。これは学者による二次資料は好ましいと書いてあるのですが、だからそれ以外の二次資料は信頼できないと書いてあるわけではありません。またWikipediaでは学者による二次資料以外は二次資料と見なさないと書かれているわけでもありません。あるいは、はぬまんさんには自己公表された情報源との混同があるのかもしれません。自己公表された情報源は著者の信頼性が大きく問題となりますが、信頼できる情報源にある通り、公刊されている情報源においてまず第一に問題となるのはそれを公刊した出版社が信頼できるかどうかです。
  2. 林氏が作家だから信頼できないという論は全く主観的で、客観的に検証可能な文献も示されていないので、これも論ずるに値しません。
  3. 「がしかし、ウィキペディアとしては崔氏が参考にした林氏の文献まで情報源にすると、二重に情報源の根拠を重ねている事になるのです。」これは単純に意味不明です。ウィキペディアの参考文献とは情報がどこに書いてあるか(すなわち出典)を示すもので、たとえばAという事実の出典は、Aについて書いたBの論文があればそれが出典となりますし、Bを参照してCが書いた論文も同様に出典とすることができます。Cが一部でBを参照しているからといって、どちらかに出典の優位があったりなかったりするという話はおかしいですし、両者ともに情報を検証可能という意味で、出典としてどちらかに遜色があるはずもありません。むしろ今回の場合は林えいだい氏の事件についてのルポが学術的な学会が出している査読を経た機関刊行物に載っている論文に取り上げられたという意味で、林えいだい氏の情報の信頼性を高めていると言えます。
  4. 「崔氏の論文がベースとなる記事に崔氏の論文のベースとなったものをさらに重ねる、といえば分かりやすいでしょうか。無理のある構造となってしまいます。」この考えは飛躍しすぎて全く分かりません。検証可能性とはどこに情報があるかという問題ですから、崔氏の論文とその根拠となる文献の双方に事件についての記述があり、それに基づいて記事が書かれたのであれば、それを示すのは当然です。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 01:48 (UTC)
  5. また、信頼できる情報源には「どの情報源についても、複数の独立した立証の存在は信頼性へのよきガイドラインであり、もしある事実や主張が複数の情報源により個別に確認されているならば、それは確認されていない情報源よりも信頼できます。」とあります。つまり、独立した情報源が存在するならば、それを考慮に入れなければなりませんが、今回は事件に関する他の独立した情報源はいまだ示されていないので、「情報源が偏っている」という情報源の確認できない意見は考慮すべきではありませんし、それを論じるならば、検証可能な反証研究を出して論じて下さい。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 01:52 (UTC)
  1. 正直に言いまして二次資料の文章を全文引用してまでいるのになぜその論理展開となるのかまったく理解できません…。信頼できる情報源という、何が信頼できるかという基準について書かれているものにおいて信頼できるという対象に含まれないもの、それだけで根拠としては十分です。林氏は学位をお持ちですか?YESかNOで言えば「NO」でしょう?本記事のように広く知られておらず学説も乏しいものは慎重に扱わねばなりません。ウィキペディアのルールに則って考えれば学位のない専門家とする事ができない林氏の著書を根拠とするには問題があります。
  2. 「林氏が作家だから信頼できないという論は全く主観的で、客観的に検証可能な文献も示されていないので」こういった物言いがですね…そもそもウィキペディアの議論をする上でトンデモ論的な論法なのですよ。こちらとしてはルールに則って主張してる事に対して、客観的な検証可能な文献を求められるのがもはや行動として意味不明です。研究家を自称されるのですから異なる学説なりを持って来いという事なんでしょうが、ウィキペディアにはそれ以前のルールというものがございます。ここは研究し説に対し討論する場でもありませんし、このような発言は場を弁えていないと言えます。
  3. 林えいだい氏の事件についてのルポが学術的な学会が出している査読を経た機関刊行物に載っている論文に取り上げられたという意味で、林えいだい氏の情報の信頼性を高めている」こういう主張が出てくる事自体が信じがたいレベルです。これこそまさしく独自研究というものです。
  4. 「崔氏の論文とその根拠となる文献の双方に事件についての記述があり」そりゃああって当然でしょう…。論文の根拠となる文献に記述がなかったらむしろ驚きです。専門家の崔氏が林氏の文献を検証し参考とする分には問題はありませんが、ウィキペディアが検証し参考にする文献には林氏のものは適さないのです。
  5. まったく別の節の都合のいい文章を引用しないでください、WP:悪用に当たります。その文章より以前に「複数の情報源を確認する」に「1つだけの情報源では不十分です」となっています。--はぬまん 2011年1月30日 (日) 04:24 (UTC)
  1. まず、信頼できる情報源は草案段階の方針文書であり、いまだWikipediaで拘束力を持ちません。したがって、その内容に基づいてここで議論しても現状、あまり意味はありません。
  2. そのうえで、まず件の文を読めば、「二次資料」とは「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。」で、「学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます。」ので、学者による二次資料は信頼できると書いているのです。日本語の方針文書は日本語訳が原文をはしょっているせいで意味が明確でないので、はぬまんさんのような主張を許容しているように思えそうですが、元になった英語版の現在の記述を全文示せば、「Secondary sources are second-hand accounts, at least one step removed from an event. They rely on primary sources for their material, often making analytic or evaluative claims about them. For example, a review article that analyzes research papers in a field is a secondary source for the research. Whether a source is primary or secondary depends on context. A book by a military historian about the Second World War might be a secondary source about the war, but if it includes details of the author's own war experiences, it would be a primary source about those experiences.」であり、直後に「Policy: Wikipedia articles usually rely on material from secondary sources. Articles may make analytic or evaluative claims only if these have been published by a reliable secondary source.」と記されているので、学術的かどうかに関わらず、「二次資料」であればウィキペディアに載せて良いと書かれていることが分かり、二次資料であれば、とりあえずそれは基本的に「信頼できる情報源」なのです。
  3. したがって、林氏が作家だから信頼できないという論は全く主観的で、「信頼できる情報源」をたとえ援用できたとしてもその立証は不可能です。彼の情報が信頼できないというためには彼が信頼できないと論じる客観的に検証可能な文献に基づいて議論しなければいけません。
  4. したがって、まず林氏が作家だから信頼できないなどというトンデモ見解はウィキペディア上のどのルールによっても正当化されないのだということを理解すべきです。同様のことは崔氏論文の評価についても言えます。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 08:22 (UTC)
  5. 該当箇所は「A secondary source summarizes one or more primary or secondary sources. Secondary sources produced by scholars and published by scholarly presses are carefully vetted for quality control and can be considered authoritative.」という英語ですが、訳すと「二次資料とは一つもしくはそれ以上の一次資料や二次資料の概要を示したものです。学者によって提供され学術的な出版社によって公刊された二次資料は、品質管理のために慎重に精査されており、権威があると見なすことができるでしょう。」→現在の日本語訳は「権威がある(authoritative)」を「信頼できる(reliable)」と訳しているために、はぬまんさんのような誤解が生じているのです。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 08:49 (UTC)
とうとう法律家ごっこが本格化した感が否めません。信頼できる情報源検証可能性の「情報源」節の細かい解説を目的としたもので検証可能性からリンクもついているものです。草案だからと仰るなら検証可能性の方で根拠としましょう、「学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです」本記事はまさしく学術的な主題であり、作家による著書は査読を経たものではありません。「なるべく」とあるのだから査読されてなくとも良いではないか、と思われるかもしれませんが著書にあるから事実だという主張を鑑みると非常に望ましくないでしょう。信頼できる情報源はこういった精神を細かく解説しているのであり、方針の精神から逸脱しないものです。訳されたのが権威か信頼かといった問題ではありません。敢えてKanbunさん的な言い回しをすれば林氏が権威があるという検証性もありません。さらに言えば検証可能性の「但し書き」を考えると殊更に検証可能性だけを繰り返すKanbunさんの姿勢は非常に危うい物です。今回のように法律家ごっこ的な主張が飛び出てくるとなると危惧というレベルでは済みません。--はぬまん 2011年1月30日 (日) 09:28 (UTC)
「とうとう法律家ごっこが本格化した感が否めません。」→レッテル貼りはおやめください。信頼できる情報源は草案段階にある上、原文を確認すれば訳文はまだはぬまんさんが陥ってしまったような誤解の余地があり、それに基づいて議論をするのは危険です。まあ、喜んで草案の方針を無批判に原文を確認もせずに解釈しているところを見るとはぬまんさんがwikipediaの方針にもいろいろなレベルがあるのだということを知らなかったのかもしれませんが。公式な方針である独自研究は載せないに基づいて議論すべきです。そこには「「信頼できる」という語に明確な定義はありませんが、大部分の人は直感的に判断できます。一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。自己出版されたものは、紙媒体であれオンラインのものであれ、一般的には信頼できるとはみなされません。ただし例外についてWikipedia:検証可能性を参照してください。」とあります。
「本記事はまさしく学術的な主題であり、作家による著書は査読を経たものではありません。」→何を以て学術的とするかがまず明確でない時点でこの主張はおかしいのですが、本事件が学術的であるとして、崔氏の論文は学会の査読を経た定期刊行物に載っているものですから文句なく信頼が置け、次に崔氏は林氏の文献をその論文内で引用しているのですから、林氏の文献も学術的には問題ないと判断されているということがわかります。林氏の文献が信頼できないという検証可能な文献があるならいざ知らず、それがない状態で林氏が作家だからその文献は信頼できないというのは全く根拠がありません。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 09:43 (UTC)
Kanbunさんが法律家ごっこ的だという根本的な点としてはですね、独自研究にしても検証可能性にしても公式の方針として詳細は草案であろうと信頼できる情報源を参照しているんです。両方針ともにノートでも信頼できる情報源を根拠に交えられて議論されています。方針の精神に沿っているからです。さらに原文が権威だったとしても「林氏が権威がある」という答えには全くなっていません。
崔氏は林氏の文献をその論文内で引用しているのですから、林氏の文献も学術的には問題ないと判断されている」これが根拠に欠くというのですよ。まさしく「崔氏の論文がベースとなる記事に崔氏の論文のベースとなったものをさらに重ねる」という事ですよ。結局のところ崔氏の専門性に依存しきっていて林氏の文献は論文として発表されたものでもない。検証可能であればなんでもよいというものではありません。--はぬまん 2011年1月30日 (日) 11:43 (UTC)
「Kanbunさんが法律家ごっこ的だという根本的な点としてはですね、独自研究にしても検証可能性にしても公式の方針として詳細は草案であろうと信頼できる情報源を参照しているんです。両方針ともにノートでも信頼できる情報源を根拠に交えられて議論されています。方針の精神に沿っているからです。さらに原文が権威だったとしても「林氏が権威がある」という答えには全くなっていません。」→そもそもWikipediaの方針文書がどのようにできてきたのかを無視した議論をしないでいただきたいですね。「信頼できる情報源を参照している」というのはリンクが貼られていることを以て参照しているとしているのでしょうか。そういう意味ならば、信頼できる情報源の英語版は「二次資料」の詳細は独自研究は載せないに詳細が載っており参照せよと言っているわけですが。公式な方針どころか考慮すべき方針でもなく、またはぬまんさんが根拠とされる個所は誤解を助長する表現が残っている箇所であり、それを原文も確認しないでななめ読みして勝手に意味を取り違えて解釈しているにもかかわらず、なおそれを信頼しろというあなたの主張が意味不明です。
「さらに原文が権威だったとしても「林氏が権威がある」という答えには全くなっていません。」→崔氏の論文は検証可能であり、かつ出版元も学術的な出版社でその記載されている先も学会の査読された定期刊行物です。林氏の論文が権威ある崔氏の論文で引用されているならば、林氏のルポはとりあえず信頼できるものとされていると思いますが。繰り返しますが、林氏の文献が信頼できないという検証可能な文献があるならいざ知らず、それがない状態で何の権威もない一ウィキペディアンである匿名のはぬまん何某が「林氏が作家だからその文献は信頼できない」というのは全く根拠がありません。
「結局のところ崔氏の専門性に依存しきっていて林氏の文献は論文として発表されたものでもない。」→崔氏の専門性を認めてくだされば十分です。
「まさしく「崔氏の論文がベースとなる記事に崔氏の論文のベースとなったものをさらに重ねる」」→何がまさしくなのかわかりませんが、この日本語表現は明確性に欠け、議論をかく乱しています。前のベースの意味はウィキペディアのいわゆる「出典」であり、後ろのベースの意味は論文の「参照元」で、次元が異なる話です。それを「ベース」と一括りにし、違いを明確にしないのは現在争われているのが「出典」に関する問題であることからも大変いい加減な議論態度と言えます。この場合日本語にすれば「基礎」とか「基本」という意味でしょうか。ベースの代わりにこれらの語を入れてみると意味内容があいまいな文だというのが明確になります。すなわち、「ベース」などと不明確な日本語を用いて議論をせずに、用語を明確に使い分けていただけないといつまでたっても、議論があいまいなままになります。崔氏が論文内で林氏の文献を参照し引用していることと、ウィキペディアのこの記事が崔氏と林氏の文献を出典にしていることは同じレベルの話ではありません。
「検証可能であればなんでもよいというものではありません。」→崔氏・林氏の文献に基づく情報が検証可能であるということは明確に認められましたね。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 12:21 (UTC)
こうも同じ事を繰り返されると徒労感が否めませんね…。いつからウィキペディア日本語版は英語版のルールに従わねばならなくなったのでしょう?英語版で議論がされているルールだからそのまま日本語版に持ってこられたルールもあるでしょうが、それとは別に今従うべきは日本語版としてルールとなっているものです。元を辿って英語版ではどうだったからとか物事の順序を穿き違えているとしか思えません。「原文も確認しないで~」と言った発言は前にも指摘しましたがウィキペディア上ではない別の場所の、研究者的な観念を持ち込まれていらっしゃるようにしか見えません。
「林氏の論文が権威ある崔氏の論文で引用されているならば、林氏のルポはとりあえず信頼できるものとされていると思いますが」繰り返されても困るのですがね?まず第一に崔氏の論文の引用とされるのは崔氏が専門家であるから問題ないのですよ。しかし、崔氏の論文に引用されたからといって引用された文献そのもの全てが信頼できるものとできる根拠がないというのですよ。引用した部分は崔氏による査読を受けているとしても、崔氏が林氏の文献の全文に全面的な信頼性の担保になるような査読、お墨付きを与えられているのでしょうか?現在の記事を読んでもKanbunさんの発言からもそのような事は一切ないように見受けられるのですが。「何の権威もない一ウィキペディアンである匿名のはぬまん何某が」こういった発言は対論者を軽視しKanbunさん自身の「対話と論争」の「5 挑発しない、挑発に乗らない」に反するように見受けられます、こういった発言が何度も繰り返される。自身に対するルールを守れない人が何のルールを守るというのか、そんな風にすら思えてしまいます。もはや挑発されたと腹を立てる気もしませんが。
「検証可能であればなんでもよいというものではありません。」→崔氏・林氏の文献に基づく情報が検証可能であるということは明確に認められましたね。』こういう意味不明の揚げ足取りらしき事をされるとますます議論意欲に削がれます。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないに当たるのではないでしょうか。ベース云々はまさしくこのガイドラインの問題とするところですね。--はぬまん 2011年1月30日 (日) 14:51 (UTC)
(インデント戻します)
「いつからウィキペディア日本語版は英語版のルールに従わねばならなくなったのでしょう?」→誰もそのようなことは言っていません。日本語版では信頼できる情報源は草案段階です。日本語版のルールを本当に重視されているのであれば、個々の方針の日本語版での信頼性・適用範囲などについて考慮するのは当然です。また方針文書本文の解釈が問題になったときに、その本文の原文が英語版にあって日本語版はそれをそのまま訳したのだとわかる場合、原文を確認してその本来の意味を確認するのは当然です。
「林氏の論文が権威ある崔氏の論文で引用されているならば、林氏のルポはとりあえず信頼できるものとされていると思います。」→これはそのまま繰り返します。Wikipediaの独自研究は載せないにあるように、Wikipediaには検証可能なことのみ載せるのですから、林氏のルポの信頼性などという検証可能な文献で問題になっていないことを問題にしてもまず始まりません。そのうえで敢えて問題にするならば、状況証拠として上のことが言えるということです。学術的に権威のある査読された定期刊行物に載っている崔氏の論文が林氏の文献を参照し、該当箇所を事実として認め、それに基づいて論文を書いているのに、何の権威もない一ウィキペディアンである匿名のはぬまん何某が「林氏は作家だからその文献は信頼できない」と繰り返しても、私にはそれでどうして林氏の文献の信頼性が損なわれるのか全く分かりません。検証可能な文献で批判されているならわかりますが。ちなみに「はぬまん何某」というのは匿名性を明確にするためにつけているものです。もしはぬまんさんが何かしらの権威を持っているとおっしゃられるのなら、教えていただけると幸いです。ちなみに私の行為を「法律家ごっこ」だと根拠もなく断じるはぬまんさんの発言のほうが私には挑発行為のように思えますが。お互いクールダウンすべきと思います。
「『「検証可能であればなんでもよいというものではありません。」→崔氏・林氏の文献に基づく情報が検証可能であるということは明確に認められましたね。』こういう意味不明の揚げ足取りらしき事をされるとますます議論意欲に削がれます。」→意味不明なのに「揚げ足取りらしい」と認識しているということはやはり、「揚げ足を取られた」と思ったということですか。そうであれば、「揚げ足を取られる」というのは言葉尻を捉えられて失敗につけ込まれるという意味ですから、失敗したという認識があるということになる。つまり、この場合「揚げ足を取られた」ことを認めることになるのですから、私の発言が正しかったことになる。逆に、「揚げ足を取られた」と思っていないのであれば、私ははぬまんさんの意見や名誉に何のダメージを与えていないのであるし、意味不明だったというのであれば、それをもって「揚げ足取りらしい」と言い、私の側が何らかの圧力を加えて議論を強行しているというのははぬまんさんの認識はおかしいと思いますが。つまり「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないに当たるのではないでしょうか。」には根拠がありません。さらに「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないに当たるのではないでしょうか。ベース云々はまさしくこのガイドラインの問題とするところですね。」という発言は、私が「揚げ足を取ったらしい」発言と「ベース」云々についての発言は関連性がないので、それを根拠もなく唐突に並べられて「ベース云々はまさしくこのガイドラインの問題とするところですね。」と言われても、やはり根拠がなくこれではただの捨て台詞で意味がありません。とりあえず「ベース」という語があいまいだということは確認できたでしょうから、ウィキペディアの記事に関することであれば「出典」、論文であれば「参照元」とそれぞれ用語を正しく使ってください。そうしないと議論の論点があいまいになるだけです。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 15:26 (UTC)

Kanbunの提案する冒頭文

だいたい論点がわかってきましたから、現在の冒頭文を以下のように変えるのなら、私は許容できると思います。
(現在の冒頭文)樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人虐殺事件。
(提案する記述)樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人虐殺事件で、これに関しては崔吉城らの文献がある
※下線部を新たに挿入
この記述は文献が増えたりするとそれに合わせて変える必要が生じるため、すぐに古くなる表現ですから、明らかにWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないからすると不適切な気がしますが、出所を明記するのであれば、これが最も適切です。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 12:47 (UTC)


  • やっと趣旨が理解いただけましたか。しょうじき疲れました。
  • 文献はおっしゃるとおり動くので、これのほうがいいでしょう。最初に、「とされる」といれておけば今の学説状況が少数にとどまるか、あるいは、対立が生じているかがわかります。
樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたとされる日本人による一連の朝鮮人虐殺事件である。
  • あとは、個々の文章で具体的な論述点で、要出展に答えていただければ十分です。要出展は事件が起こったと言う主張について満たしていればいいと思います。Nakata88 2011年1月30日 (日) 16:16 (UTC)
「される」は行為者の存在が前提とされてしまうので、作為の意味合いが強くなりますから、「いう」のままがよいと思います。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 16:28 (UTC)
  • 「いう」とは第三者がいうわけですから、ようするに「いわれる」のことでですから、両方とも作為性がありますし「いう」とかくとなんか古代の文献みたいでそぐわないと思います。されるのほうが自然だとおもいます。主張者もいまだ少数だといいうこともニュアンスで表示されてますし現状として妥当でしょう。増えてきて常識になったりしたらそういう表現になっていけばいいと思います。Nakata88 2011年1月30日 (日) 16:45 (UTC)
この場合の「いう」は「~ということである」という意味の、情報であることを明示する表現で、「言う」という行為を言っているのではありません。「~とされる」は誰かが判断して「~としている」という意味が含まれますから、こちらは作為性が含まれます。意味が異なりますし、「~ということである」という表現のほうが中立的です。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 16:50 (UTC)
  • もちろん、作為性が前提です。私は、ある歴史的事実は多くの説の集合体が「常識」となったものだと思っています。超越的存在がいないこと前提として学問が組み立てられるならそれ以外に表現の仕方はないはずです。ウィキペディアでも一次情報=情報が存在するということ、は信頼されず、信頼できる二次ソースが存在することが記載条件です。したがって、二次ソースによる証言をいみする「~とされる」が記述ができる場合の要件の原則なのです。それをストレートにそのままかくべきです。一次情報は二次情報を媒介にしてウィキペディアでは記述できるに過ぎません。Nakata88 2011年1月30日 (日) 17:12 (UTC)
「私は、ある歴史的事実は多くの説の集合体が「常識」となったものだと思っています。超越的存在がいないこと前提として学問が組み立てられるならそれ以外に表現の仕方はないはずです。」は個人的見解に過ぎないので、そのような判断を記事に加筆することは中立的な観点からみると端的に問題です。「ウィキペディアでも一次情報=情報が存在するということ、は信頼されず、信頼できる二次ソースが存在することが記載条件です。したがって、二次ソースによる証言をいみする「~とされる」が記述ができる場合の要件の原則なのです。」というのは方針文書の裏付けがありませんし、出典は文末に明記してあるのですから、「~とされる」という中立性に問題のある記述を使う意味が分かりません。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 17:18 (UTC)
  • その一連の文章は、ウィキペディアが記述要件とする「信頼できる二次情報」を書けという要請の背景を説明したものです。要するに、原則として、ウィキペディアは「だれだれが~といっている」と書くのが原則なのです。それは信頼できる情報源に繰り返し出ていることです。したがって、「~とされる」という二次ソースの存在を背景にした表現が原則だということです。「いう」というかきかたは神話などの一次ソースあるいは常識を前提としたかき方になりますのでそぐわないということです。Nakata88 2011年1月30日 (日) 17:28 (UTC)
「それは信頼できる情報源に繰り返し出ていることです。したがって、「~とされる」という二次ソースの存在を背景にした表現が原則だということです。」→まず信頼できる情報源は草案段階であり、拘束力を持ちません。次に信頼できる情報源のどこに「二次ソースの存在を背景にするときは『~とされる』と書く」ということが書かれているのですか?
「「いう」というかきかたは神話などの一次ソースあるいは常識を前提としたかき方になりますのでそぐわないということです。」→どの方針文書に基づいて話をしているのですか?--Kanbun 2011年1月30日 (日) 17:33 (UTC)
  • それでしたら、ウィキペディアの方針であるWikipedia:独自研究は載せないを読んでください。「ウィキペディアは真実性ではなく検証可能性を基準に情報を掲載します。つまりウィキペディアでは、情報それ自体が正確であると認められるかどうかに拘わらず、他の信頼できる情報源によって発表された事柄のみを発信します。独自の調査を避けるためには、そしてウィキペディアの記事の質を向上させるためには、あらゆる一次資料、さらには既存の情報やデータの一般化、分析、総合、解釈、評価もすべて、評判の良い第三者による(つまり自費出版ではない)発行物として発表され、ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です。この際、適切に出典を明記する事はとても重要です。そうすることにより、閲覧者はあなたの依拠した情報源を見つけだし、ウィキペディアが情報源を正しく使用していることを納得できるからです。」とかいてありますね。ここで書いてあるとおり、ウィキペディアの記述原則は、「(信頼できる二次情報によれば)~といわれている」が原則なのです。ですから、冒頭の文でもそういう表現が原則となります。
  • これは、「この文書はウィキペディア日本語版の方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。必要に応じて編集することは可能ですが、その変更はコミュニティーの合意を反映している必要があります。大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。」とあるように、強制されています。Nakata88 2011年1月30日 (日) 17:46 (UTC)
Wikipedia:独自研究は載せないのその箇所は検証可能性なことのみ載せろということを言っているだけで、「ウィキペディアの記述原則は、「(信頼できる二次情報によれば)~といわれている」が原則」ということはどこにも書いてません。もし、そういう方針があるのなら、なぜウィキペディアの記事の大部分の文章は「~といわれている」という形で書かれていないのかという単純な疑問が生じます。--Kanbun 2011年1月30日 (日) 17:53 (UTC)
提案文に反対しておきます。まず、「~らの文献がある」というのは言葉を濁しているものであり(リンク先を参照[誰?])、wikipediaで使用するものではありません。はっきりと誰が主張しているのかを書くことがwikipediaでは求められています。歴史的なことについて専門家ではない文学博士の教授と作家の林が主張していると事実をはっきりと示すことが必要です。wkipediaは事実のみ記載できるのであり、事実の証明ができなければ記載できません。そして事実の証明は記載を希望する側にあります。--218.217.157.29 2011年1月31日 (月) 16:38 (UTC)
「~らの文献がある」というのは言葉を濁しているものであり、というのは日本語的に不適切です。当該文は英語で言えばThere is/are構文にあたるものであり、主語と述語が明示されています。{{誰}}はこの場合問題になりません。「歴史的なことについて専門家ではない文学博士の教授」以下は検証可能な文献を示して論じて下さい。この事件について崔氏と林氏の文献が信頼できないという検証可能な文献がない限り、218.217.157.29さんのような主張は記事に反映できません。また、218.217.157.29さんは以前にも別IPで議論に参加されているように思えるのですが、変動IPなのであれば意図せず議論の攪乱につながることもありますから、アカウントを取得されてお話下さるようお願いします。こういう議論では、とかくソックパペットの問題もありますから、議論をわかりやすくするためにもご協力をお願いします。--Kanbun 2011年2月1日 (火) 05:34 (UTC)

太字文

  • 218.217.157.29さんのいうとおり、現状二人であり歴史学者と呼べるのは一人ですから、名前をはっきり出して書く必要があります。
  • Kanbunさんは、ウィキペディアにおいて争われていない事実として挙げられたものと、新たに提出された学説、あるいは露文とを区別されているのを理解されていないと思います。この事件はこの二人が提起した前は歴史的な事象であると言う主張がなかったわけですから、それは二人によって提出されたということをはっきり書く必要があるわけです。
  • ウィキペディアの方針であるWikipedia:独自研究は載せないであるとおり、「(信頼できる二次情報によれば)~といわれている」が原則なのです。かってに、事実に類するような表現は学説に対しては使うことはできません。したがって、「~といわれている」が現状基本となります。Nakata88 2011年2月1日 (火) 15:28 (UTC)
Kanbunさんへ。まず現在こちらにはip(東京ニフティ)は私しかおらず、混乱は無いと思われます。他にもipの方が出てくれば混乱を避けるためにこちら専用のアカウントを作成してもかまいません。
さて、「~ら」というのは完全に言葉を濁しており、ほかは誰なのか不明です。しかもそれが何人なのか?「~ら」では多くの研究者がそのような論を唱えているように読者に誤解を与える可能性があり、正確性がありません。なぜあなたは「林と文学博士が主張している」という事実を書きたくないのでしょうか?そこにはアナタが「内容を事実とさせたい」という独自研究が入り込んでいるからでしょう。お願いですから読者に誤解を与える記載法はお止めいただきたい。
崔と林の文献が信頼できるか否かの問題ではなく、前にも申しましたが「内容を事実」とするには複数の学者・専門家の同意が必要なのです。文学博士の崔と作家の林の文献ではその条件を満たしておりません。アナタが提示している出典では「内容が事実」とする出典にはなっていないのです。この「内容が事実」とする根拠の提示ができないのならば、彼らの「意見としての事実」として記載することがwikipediaのルールなのです。これ以上、反対をするならば、それは反対のための反対でしかなく、方針無理解で方針熟読期間が必要な方と言わざるを得ません。
「崔氏と林氏の文献が信頼できないという検証可能な文献がない限り」などと意味不明な文献をこちらに求めていますが、こちらは「崔氏と林氏の文献が信頼できない」とか、「崔氏と林氏の言っている内容が事実ではない」と本文に記載するつもりは無いので、あなたの求めているものは必要ないのです。あなたは本分で「内容が事実」と書いており、ならば「内容が事実」とする「学者の合意」を提示する必要があるのです。Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にに則り、内容を事実として本文に書きたいのならば、内容が事実である根拠の提示をしてください。それができない限り現在の本文は方針から逸脱しており、保護解除後に即時修正させていただきます。--219.116.181.130 2011年2月1日 (火) 17:48 (UTC)
(Nakata88氏へ)
  1. 「この事件はこの二人が提起した前は歴史的な事象であると言う主張がなかった」→事実誤認です。ソ連でこの事件に関する軍事裁判が行われており、二人が提起した前に歴史的な事象であるとされていたことは明らかです。
  2. Wikipedia:独自研究は載せないには、「(信頼できる二次情報によれば)~といわれている」という文体で書くのが原則であるなどという文言はどこにもありません。
219.116.181.130氏へ)
  1. 変動ipですと、投稿記録が分断されますので、どれがあなたの発言なのか確認するのが面倒になるので、アカウントを取得することが推奨されています。変動ipでは、あなたの前の発言が別IPで行われている場合、それがあなたの発言だと違うIPで発言しても、そう認められないことがあります。Wikipedia:説明責任を果たされることを望みます。
  2. 「崔と林の文献が信頼できるか否かの問題ではなく、前にも申しましたが「内容を事実」とするには複数の学者・専門家の同意が必要なのです。」→この発言はWikipediaの方針文書に根拠がなく、そもそもWikipediaは事実性ではなく、検証可能性を問題とするため、しかるべき出典があれば情報を記載することは可能なのです。Wikipediaに「樺太朝鮮人虐殺事件は~である。」と書かれていても、それは「樺太朝鮮人虐殺事件」が事実であるということを示しているのではなく、「樺太朝鮮人虐殺事件」についての情報は検証可能であるということなのです。なので、樺太朝鮮人虐殺事件の事実性を問題にするあなたの主張は、検証不可能なので考慮するに当たらないのです。「内容を事実」だとはこの記事は主張しようとしていないのですし、そうも書かれていないのですから。誤解なきよう。
  3. 「内容を事実として本文に書きたいのならば、内容が事実である根拠の提示をしてください。」私は内容を事実として書きたいとは思っていませんし、そんなことを言ったこともないので、この要求にはお応えできかねます。Nakata88氏やあなたは私が樺太朝鮮人虐殺事件を事実として扱っているとあらぬ誤解をしているようなのですが、私は検証可能なことしか本文に載せていません。--Kanbun 2011年2月2日 (水) 01:01 (UTC)
  • Wikipedia:独自研究は載せないに「あらゆる一次資料、さらには既存の情報やデータの一般化、分析、総合、解釈、評価もすべて、評判の良い第三者による(つまり自費出版ではない)発行物として発表され、ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です。」こう書かれているとおり、ウィキペディアではあらゆる事象は信頼できる二次資料によって評価されます。つまり、「~にれば、○○である」が記述原則なのです。
  • 裁判資料は、基本的にソースが明示されておらず、このケースではソースとして提出されていません。明らかになっているのは、この論文によって紹介された裁判です。直接、裁判資料が参照されても、それが信頼できる二次資料となるかは裁判の内容によります。かなり評価が難しいでしょう。したがって、裁判は直接現在のところ二次資料になっておらず、それを根拠に歴史的事実の存在を主張することはできません。
  • このようなケースで報告者の名前をはっきりとあげて書くのはウィキペディアの信頼性がその人物にかかっていることを明らかにする上で望ましい行為です。
  • したがって、名前を隠してかくよりはっきりと、「~にれば、○○である」とかくべきだと考えます。Nakata88 2011年2月4日 (金) 14:48 (UTC)
「こう書かれているとおり、ウィキペディアではあらゆる事象は信頼できる二次資料によって評価されます。つまり、「~にれば、○○である」が記述原則なのです。」
→何が「つまり」なのか意味不明です。前後の文がつながっていません。どの方針文書に「~にれば、○○である」(←日本語ではない)が「記述原則」(←これは造語か?)だと書かれているのですか?Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方によれば、出典の示し方は、「本文中に注釈を挿入する」か「記事末尾に参考文献を記載する」かのいずれかであり、「~にれば、○○である」などというおかしな日本語を使えとは書いてません。
「裁判資料は、基本的にソースが明示されておらず、このケースではソースとして提出されていません。明らかになっているのは、この論文によって紹介された裁判です。直接、裁判資料が参照されても、それが信頼できる二次資料となるかは裁判の内容によります。かなり評価が難しいでしょう。したがって、裁判は直接現在のところ二次資料になっておらず、それを根拠に歴史的事実の存在を主張することはできません。」
→裁判資料など出典のどこにも示されていないので、これは何に反論したいのか不明です。あるいは林氏や崔氏がソ連の軍事裁判に言及しているのを反駁したいのでしょうが、それは林氏や崔氏が著述した検証可能な文献によって知られるのであり、裁判記録によって知られるのではありません。
「このようなケースで報告者の名前をはっきりとあげて書くのはウィキペディアの信頼性がその人物にかかっていることを明らかにする上で望ましい行為です。」
→文献の著者を「報告者」などと言っている時点で事実誤認も甚だしいです。なぜなら、崔氏や林氏は事件の報告者ではなく、事件の報告者の証言(一次資料)を元に著作(二次資料)を書いた人々だからです。ウィキペディアの信頼性は特定の人物に由来するのではなく、あくまでその文献を出版した出版社なり査読した学会なりに帰せられるべきで、たとえばある二次資料の信頼性は、直接的にはその著者に由来するのではなく、その出版元とその発表された媒体です。詳しくはWikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源を見れば、信頼できる/できないは、第一義的には、その文献を出した出版社と情報媒体の種類が問題とされているという事が分かります。--Kanbun 2011年2月4日 (金) 16:24 (UTC)
上記IPの者です。アカウントを取ってほしいとのことで、議論と関係ない意味不明な突っ込みも面倒なので、こちらのみのアカウントを作成いたしました。
>2.「崔と林の文献が信頼できるか否かの問題ではなく、前にも申しましたが「内容を事実」とするには複数の学者・専門家の同意が必要なのです。」→この発言はWikipediaの方針文書に根拠がなく、そもそもWikipediaは事実性ではなく、検証可能性を問題とするため、しかるべき出典があれば情報を記載することは可能なのです。
それについてはすでに根拠を提示して説明しております。しっかりお読みになっていますか?改めて記載しておきます。
wikipediaでは「事実」しか記載できませんwikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな)。では「事実」とは何か?Wikipediaで「事実」とは「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです」とされています。Kanbunさんの主張する「反対意見が無い学者の論が事実」とはされていません。では歴史的なことについて「学者・専門家の同意」とはなんでしょうか?Wikipedia:信頼できる情報源#歴史をご覧ください。一流の歴史書や雑誌記事は、使われている情報源についての詳細を表す脚注や書籍リストを含みます。多くの雑誌には新刊本の品質を評価する学者の批評が含まれており、通常は新しい考え方が要約されています。 さて歴史的なことについて、イチ研究者の論を「事実」としたいのならば、この「品質を評価する学者の批評」を出し、それが「同意」していることを証明しなければ「学者や専門家の共通認識によって同意された記述」になりません。そもそもは崔吉城は歴史における専門家ではなく、文学博士・社会人類学者です。ただし百歩譲って国立大の教授ですし、それなりの機関に論文を提出しているのでこの件についての歴史学者として扱っても個人的には反対をしません(個人的には崔吉城は嫌いではない。なぜなら在日についての強制連行説を否定し、アイデンティティとしてそうなってしまっているだけであると事実を述べることのできる教授ですから(「これでは困る韓国」呉善花、崔吉城))。しかし朝鮮人強制連行説を唱える偏った「林えいだい」などという単なる作家を、この場面で学者・専門家とは言いません。
あなたは「真実か否かではなく検証可能か否か」の名文を読み間違えています。現在のあなたがこの事件の「内容が事実である」と「真実」を勝手に判断してしまっているのです。現在本文では内容が事実とする「検証可能性」を満たしていないのです。
さて、崔吉城の論を意見記載ではなく内容を事実としたいのならば、学会などの専門家による「同意」を提示してください。それができなければwikipediaにおいて「事実」とすることはできず、「崔吉城の意見として事実に変える」という記載法にするしかありません。
>私は内容を事実として書きたいとは思っていません
とのことで「内容が事実」である根拠の提示をされませんでしたが、あなたが執筆した現在の本文を見れば一目瞭然[10]。意見ではなく断定表現とし、事件内容が事実であった記載となっています。根拠が出ないのならば方針に則り「意見としての事実」とするしかありません。
必要な出典をわかりやすくまとめましょう。
  1. 本文に「内容が事実」と書きたい、「意見として書きたくない」場合。→必要な出典は→歴史的な事柄ですので「歴史学者・歴史学会等においての複数の同意が認められる文献」これにより意見ではなく事実として表現できる。
  2. 本文に「意見としての事実」として記載したい場合→必要な出典は→「現在出ている出典(文学博士と林)」でOK。文学博士や林の論の内容が「事実ではない」とする文献は本文にそのようなことは記載しないため、必要ない。
方針に則り、どちらかを選ぶしかありません。--樺太ニフティ 2011年2月4日 (金) 20:15 (UTC)修正・追記--樺太ニフティ 2011年2月4日 (金) 20:24 (UTC)
「多くの雑誌には新刊本の品質を評価する学者の批評が含まれており、通常は新しい考え方が要約されています。」
Wikipedia:信頼できる情報源は草案段階の方針文書であり、拘束力を持ちません。そのうえで本文を確認するならば、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史の件の記述は書評のことを言っています。原文箇所を全て示すと「Scholars doing research publish their results in books and journal articles. The books are usually published by university presses or by commercial houses like W.W. Norton and Greenwood which emulate the university press standards. Reputable history books and journal articles always include footnotes and bibliographies giving the sources used in great detail. Most journals contain book reviews by scholars that evaluate the quality of new books, and usually summarize some of their new ideas. The American Historical Review (all fields of history) and Journal of American History (US history) each publish 1000 or more full-length reviews a year. Many of the major journals are online, as far back as 1885, especially through JSTOR.org. A good book or article will spell out the historiographical debates that are ongoing, and alert readers to other major studies.」で、明らかにアメリカの内容を言っています。日本でも歴史学の雑誌に書評が載りますが、アメリカほど網羅的に扱われるわけではないので、状況が異なります。また、書評がないからと言って「信頼性がない」などとはこの文は言ってません。あくまで「信頼できる情報源」を探すのに、「書評を参考にして探すのがよい」と言っているだけであって、「書評がない書籍は信頼できない」とは一言も言ってません。またその書籍が検証可能であるためには書評が必要だとも言ってませんので、「書評を出せ」という樺太ニフティ氏という要求には応じかねます。ciniiでざっと検索してみましたが、おそらく崔氏の著書に関する書評がないのではないかと思います。
「現在のあなたがこの事件の「内容が事実である」と「真実」を勝手に判断してしまっているのです。現在本文では内容が事実とする「検証可能性」を満たしていないのです。」
→私は内容が事実だと入っておらず、内容は検証可能だと言っているだけです。また「内容が事実とする「検証可能性」」という日本語が私には意味不明なのですが、本事件についての情報は出典が示されており、検証可能です。
さて、崔吉城の論を意見記載ではなく内容を事実としたいのならば、学会などの専門家による「同意」を提示してください。それができなければwikipediaにおいて「事実」とすることはできず、「崔吉城の意見として事実に変える」という記載法にするしかありません。
→Wikipediaにおいて情報を記載できるかどうかは検証可能かどうかです。事件を崔吉城氏の意見だとするためには、それを記載する検証可能な文献が必要です。さらに事件が崔吉城氏の意見であると冒頭文に記すためには、その意見がマジョリティであることを示す検証可能な文献が必要です。
必要な出典をわかりやすくまとめましょう。
  1. 「樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人虐殺事件。」→必要な出典は樺太朝鮮人虐殺事件について記載した検証可能な文献のみ。
  2. 「樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人が虐殺されたとされる事件。」→必要な出典は樺太朝鮮人虐殺事件について記載した崔氏の検証可能な文献と事件が崔氏の主張であるとする検証可能な文献、また後者の記述が正当であるとする検証可能な文献の3つが必要。
方針に則れば、上のようになります。--Kanbun 2011年2月5日 (土) 00:17 (UTC)
  • Kanbunさんは出展についての理解がまったくおかしいです。
2 「樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人が虐殺されたとされる事件。」→必要な出典は樺太朝鮮人虐殺事件について記載した崔氏の検証可能な文献と事件が崔氏の主張であるとする検証可能な文献、また後者の記述が正当であるとする検証可能な文献の3つが必要。
とかかれていますが、これ自体がまちがいです。なぜなら、「事件」の有効な二次ソースとしては、信頼できる第三者による著書、論文などが必要なのでそれを提出した段階で崔氏が主張していることの証明も同時に満たされているからです。それは論文を提出した時点で著者がわかるから当然のことです。逆にそうじゃなければ、最初の事件についての二次ソースにそもそもなりえません。つまり、ソースのソースは不要なのです。なぜなら、ある「記述」について信頼できる第三者の言を信頼して記述するのがウィキペディアの記述原則の趣旨ですからその第三者の記述が最終的な根拠だからです。その人がその言葉を言っていることの信頼性は、二次ソースの発表のされ方を吟味する際にすでになされています。
  • ですから、この事件についての記述もそのようなソースがあるという時点でそれを信頼して事件と認識するのですから、そのソースには崔氏の名前は当然明示する必要があります。そしてそれが崔氏が述べているのだという点についてはすでにソースの発表先などで確認されていることになるわけです。
  • 樺太ニフティさんの「事実」という記載に必要な要件の議論は、「事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです」というWikipedia:信頼できる情報源のガイドラインの草案に沿ったものですが、これは、ウィキペディアにおいて事実とされることの要件を述べたものであり、かつkanbunさんの言うとおり草案です。そして、事実といわれてもそのほかの命題と、呼び方が変わるだけです。kanbunさんのいうとおり草案であることを重視するなら、ウィキペディアの公式文書であるWikipedia:独自研究は載せないにもとづいて、主張についてはすべて、原則とおり信頼できる第三者の「見解」として提出することが原則となります。したがって、kanbunさんの主張のようなある重要な事実についてソースを記載しない記述が許容される余地はありません。
  • Kanbunさんにはこのことをずっと説明していたのですが、二次ソースの提出の仕方についての理解をされたと私は誤認してました。しかし、そもそもがわかっていなかったということになると議論は振り出しに戻ってしまいます。上記のことをよく考えてみてください。Nakata88 2011年2月5日 (土) 08:46 (UTC)
>「事件」の有効な二次ソースとしては、信頼できる第三者による著書、論文などが必要なのでそれを提出した段階で崔氏が主張していることの証明も同時に満たされているからです。
崔氏と林氏の著作は「事件」についての検証可能な二次資料です。後半部は言ってることが分かりません。
>それは論文を提出した時点で著者がわかるから当然のことです。逆にそうじゃなければ、最初の事件についての二次ソースにそもそもなりえません。つまり、ソースのソースは不要なのです。
検証可能な論文の著者が崔氏であったり林氏でるということがわかるからといって、その内容を崔氏や林氏の主張に過ぎないということはできません。「樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人が虐殺されたとされる事件。」という記述をするためにはそう書かれている検証可能な文献が必要です。
>その人がその言葉を言っていることの信頼性は、二次ソースの発表のされ方を吟味する際にすでになされています。
つまり、樺太朝鮮人虐殺事件について事実関係を記載している崔氏と林氏の文献の情報は信頼できるということですね。これらの著作は信頼できる出版社から公刊されており、崔氏の論文は学会の査読を経ています。次に林氏の著作も崔氏の論文によって引用されており、妥当性を認められているのですから、信頼できるということでしょう。
>kanbunさんのいうとおり草案であることを重視するなら、ウィキペディアの公式文書であるWikipedia:独自研究は載せないにもとづいて、主張についてはすべて、原則とおり信頼できる第三者の「見解」として提出することが原則となります。
そもそも事件が崔氏の主張だという根拠はないのだから、「意見」として記述するのは不適切、検証可能な文献による裏付けが必要です。「信頼できる第三者の「見解」として提出することが原則」という部分は意味不明だが、方針文書のどこを引用しているのか明記して下さい。
したがって、kanbunさんの主張のようなある重要な事実についてソースを記載しない記述が許容される余地はありません。
本記事の内容の出典は参考文献に記してあるとおり、検証可能な崔氏と林氏の文献であります。出典は明記されているのですから、「重要な事実についてソースを記載しない記述」というのは事実誤認です。
>二次ソースの提出の仕方についての理解をされたと私は誤認してました。
「提出の仕方」というのが意味不明で、何をおっしゃっているのか分かりませんが、記事にはWikipedia:出典を明記する#出典の示し方に基づいて、「本文中に注釈を挿入する」および「記事末尾に参考文献を記載する」という形で出典が明記されています。他の記述の仕方があるというのなら、どの方針文書に明記されているのか、該当箇所を引用していただきたいです。--Kanbun 2011年2月5日 (土) 13:38 (UTC)
  • 「そもそも事件が崔氏の主張だという根拠はない」のなら、この事件自体が掲載できません。林氏のソースだけでは不十分です。ソースとは「その事件があった」という主張について必要なのです。
  • 参考文献に挙げているという場合でも、聞かれた場合、その参考文献のどれから「この事実が言える」といえなければ、その記述を維持する主張はできないのです。つまり、私や樺太ニフティさんが、この記述は誰のソースに基づくかと質問をした場合(私はそれをしているのです)kanbunさんなどこの記載を記載する主張をする側の人間は「だれだれのソースに基づく記載だ」と明示しなければなりません。したがって、誰の主張なのかはっきり書けといわれてかかないならその記載は削除することになります。
  • kaubunさんは、どうしてもそこを理解できないようですので、コメント依頼出しておきました。Nakata88 2011年2月5日 (土) 14:34 (UTC)

(コメント)コメント依頼から参りました。日曜なので読みふけってしまいましたが、気のついた点を述べます。ソースは基本的に全て信頼性がないものと理解すべきです。査読を受けていたり、その分野で権威ある出版社から出版されたものであったりすれば、辛うじて信頼性がちょっとだけ上がるという程度のものです(多くの専門的な教科書に載っているものであれば更に信頼できるでしょう)。これこれの文献があり、「これ以外にない」からといって、「これで間違いない」ということにはなりません。次に歴史学界の習慣についてです。私もたまに歴史学の論文を読むことがありますが、まるでウィキペディアかと思うくらいに一つ一つの記述にソースを明記した、膨大な注をもった論文は珍しくありません。にもかかわらず、本文では実にあっさりと、事実そうであったかのように断言してしまう傾向も見受けられます。プロの教授ですらそうですから、そうした叙述スタイルが学界の習慣なのだろうと思います。歴史は物理学や化学と違い、別の研究者が何度も実験を繰り返して追試できるというものでもないので、所詮「事実」などわかりっこない、かといって「かもしれない」「可能性がある」を一々つけていたのでは読みにくくてしょうがない、そのためこのような叙述スタイルになっているのではないかと邪推します。ではどう書いたらよいかという点ですが、「とされる」と書くのもよいように思えますが、あえて「とされる」と書くと、「真実はそうでないにちがいない、とこの記事の執筆者は読者に伝えたいと思っている」というニュアンスを醸し出してしまいます。こう書くためには、明確に疑義を述べているソースが必要でしょう(本文中に書く必要はないかもしれませんが、ノートでの議論では提示すべきです)。従って、Kanbunさんの「という日本人による一連の朝鮮人虐殺事件で、これに関しては崔吉城らの文献がある。」が比較的よいように思います。それからKanbunさんは科学哲学と、歴史叙述の理論を勉強する必要があります。そうでないとノートでの議論についていけません。--КОЛЯ 会話 2011年2月6日 (日) 01:41 (UTC)

  • КОЛЯさんへ。「「とされる」と書くのもよいように思えますが、あえて「とされる」と書くと、「真実はそうでないにちがいない、とこの記事の執筆者は読者に伝えたいと思っている」というニュアンスを醸し出してしまいます。こう書くためには、明確に疑義を述べているソースが必要でしょう」と書かれていますが、現状、報告者が少数ですのでそれをニュアンスに出す必要があります。したがって、「とされる」が適切だと思います。
  • 歴史論文における断定的記述スタイルを背景としてその関係者が断定的な記述に流れやすい傾向があるというのはkanbunさんの書き込みを見ていればなんとなくわかるわけですが、そういうのはКОЛЯさんや私のような歴史学コミュニティの外部にいる人間にとっては関係ないことですので、ウィキペディアの原則とおり、そのまま普通に扱うべきだと思います。Nakata88 2011年2月6日 (日) 07:12 (UTC)
КОЛЯです。報告者の限られる歴史的事件というのは数え切れないほどあるものでして、報告者の少なさをもって「真実は違う」というニュアンスを出すことは問題だと思います。それを許すと、まともな学者の研究に対しても大変失礼な記述になってしまいます。それが許されるのは、報告者が「トンデモ」に属する言論者として批判されているとか、そういうソースが必要です。ですから真実か否かはともかくとしてこういう人が報告している、という記述にとどめるべきです。--КОЛЯ 会話 2011年2月6日 (日) 07:45 (UTC)
КОЛЯさんへ
>Kanbunさんは科学哲学と、歴史叙述の理論を勉強する必要があります。
こういうことは大森荘蔵の過去および時間論やイブン・ハルドゥーンの歴史の真実性に関する議論、あるいはE・H・カーの『歴史とは何か』を参照された上でおっしゃっているのでしょうか。少なくとも私は科学哲学についても歴史叙述法についても専門教育を受けており、根拠もなく「勉強する必要があります。」などと言われる筋合いはありません。
>私もたまに歴史学の論文を読むことがありますが、まるでウィキペディアかと思うくらいに一つ一つの記述にソースを明記した、膨大な注をもった論文は珍しくありません。にもかかわらず、本文では実にあっさりと、事実そうであったかのように断言してしまう傾向も見受けられます。プロの教授ですらそうですから、そうした叙述スタイルが学界の習慣なのだろうと思います。
これは歴史学にとって最も主要な、先行研究批判とか史料批判という叙述スタイルに理解がない発言と思われます。歴史学を何か他の学問と勘違いされているのではないでしょうか。--Kanbun 2011年2月6日 (日) 04:56 (UTC)
>ではどう書いたらよいかという点ですが、「とされる」と書くのもよいように思えますが、あえて「とされる」と書くと、「真実はそうでないにちがいない、とこの記事の執筆者は読者に伝えたいと思っている」というニュアンスを醸し出してしまいます。こう書くためには、明確に疑義を述べているソースが必要でしょう。
この点は私が主張している通りであるので、わかりやすく述べていただき、感謝します。--Kanbun 2011年2月6日 (日) 05:24 (UTC)
>科学哲学についても歴史叙述法についても専門教育を受けており
考えられる可能性は2つあります。1. 教育を受けても身についていない。2. わかっててやってるなら勘弁してもらいたい。
>先行研究批判とか史料批判という叙述スタイル
そのことを言っているのではありません。歴史をストーリーとして示す叙述スタイルのことです。--КОЛЯ 会話 2011年2月6日 (日) 05:41 (UTC)
>考えられる可能性は2つあります。1. 教育を受けても身についていない。2. わかっててやってるなら勘弁してもらいたい。
もう一つの可能性がありますよ。3.КОЛЯ氏が科学哲学や歴史学に対して正しい理解がないので、誤謬に陥っているから見当外れな批判をしている。
>歴史をストーリーとして示す叙述スタイルのことです。
だとすれば、なおさらなぜ大森荘蔵の「過去物語り」に関する議論を踏まえていないのか疑問です。--Kanbun 2011年2月6日 (日) 05:53 (UTC)
КОЛЯ氏が科学哲学や歴史学に対して、いかにいい加減な認識を持っているか。問題点を具体的に詳しく指摘しましょう。「歴史は物理学や化学と違い、別の研究者が何度も実験を繰り返して追試できるというものでもないので、所詮「事実」などわかりっこない、かといって「かもしれない」「可能性がある」を一々つけていたのでは読みにくくてしょうがない、そのためこのような叙述スタイルになっているのではないかと邪推します。」などという発言はたとえばヒラリー・パトナムの合理性と科学、歴史についての議論を踏まえれば、全く科学哲学的な議論になっていないことは明白ですし、日本でもすでに大森荘蔵がこの点については「過去物語り」論を展開して問題を提起しています。「物理学や化学と違い、別の研究者が何度も実験を繰り返して追試できるというものでもないので、所詮「事実」などわかりっこない、」などというカール・ポパー流の発言は明らかにパトナムが「非形式的な問題」として排除し、大森荘蔵が「科学信仰」として排撃するところで、全く今日の科学哲学の土台に乗っ取っていないものです。--Kanbun 2011年2月6日 (日) 06:57 (UTC)
  • КОЛЯさん。Kanbunさんはとりあえずいろいろなところが、ちょっと変だとはおもいます。歴史哲学での無理解もありそうですが、私はそこはお二人の議論に任せます。
  • ただ、この記述では、ウィキペディアの記述原則への理解が足りないのがこのケースでは問題になってます。この問題は放置できません。それは、上記であげた、この部分です。
    • 参考文献に挙げているという場合でも、聞かれた場合、その参考文献のどれから「この事実が言える」といえなければ、その記述を維持する主張はできないのです。つまり、私や樺太ニフティさんが、この記述は誰のソースに基づくかと質問をした場合(私はそれをしているのです)kanbunさんなどこの記載を記載する主張をする側の人間は「だれだれのソースに基づく記載だ」と明示しなければなりません。したがって、誰の主張なのかはっきり書けといわれてかかないならその記載は削除することになります。
  • これについては、ウィキペディアの記述では最低限守られていなければならないルールですので、この点についての記述には内するKanbunさんにはその点について理解してもらわないといけないと思ってます。複数の人間の複数の参考文献をあげられている場合、ウィキペディアの信頼できる情報源を明示するという要求は満たされていません。それは、論理的に言ってどれがソースなのかが確定しないからです(ここが理解できないKanbunさんが論理学をやっているとはとっても思えないのですがそこはさておいて)。このてんについてのКОЛЯさんのコメントもできたらお願いします。Nakata88 2011年2月6日 (日) 07:36 (UTC)
出典の示し方として、巻末注でよいか、逐次脚注機能で示すべきかということでしょうか(もしや出典を巻末や脚注で示すのではなく本文で示すべきだということでしたら、そんな方針はないと思います)。この記事は参考文献が限られていますので、巻末注で「十分」だというのが私の意見です。もちろん、逐次注なら「完璧」なことは確かですし、逐次注でなければいけないという意見のウィキペディアンも多数いらっしゃることは存じています。しかし現状、両方の方式が認められていますし、結局同じ出典ばかり逐次注で示すというのは執筆する立場としては負担が大きく、労が大きい割に読者にとっての報いが少ないように感じています。もちろん、記述に疑義が提示されたならば「ほらちゃんとこの文献のこのページに書いてある」と(記述を残したい立場の人は)提示する必要が出てきます。--КОЛЯ 会話 2011年2月6日 (日) 08:29 (UTC)
  • 林氏と崔氏ではソースの信頼度にかなり開きがありますので、記述を残したい人がいたら提示するというのではなく、ウィキペディアのソース提示の要求として、「どちらの参照文献か」を書く必要があると考えます。どちらに載っているかで信頼度が違うわけです。林氏は学会誌などに掲載されたわけではなく、また、査読を経た文章ではありませんから。
  • とくに、このケースでは報告者が二人しかいないた、個々のソースの信頼性は非常に大事です。このケースの現状をそのまま伝える必要があります。要するに真実は究明過程だということをです。
  • 上かかれたことに対する、反論もこちらでしておきます。私が言っているのは「真実は違う」というニュアンスをだすといういうことではなく、「報告者が二人だ」というニュアンスをだせといっているのです。
  • 歴史が科学であるなら検証可能性が必要だと考えられます。そして歴史学はКОЛЯさんの立場とは多分違うと思いますが、実は科学なのです。歴史学における検証可能性は、歴史的事実に対する複数者の繰り返された検証によって(つまりこういう報告のことです)みたされます。したがって、報告者が一人であるということはいわば追試がなされていない状態なわけです。したがって、その状態をそのまま書くべきだということです。Nakata88 2011年2月6日 (日) 08:44 (UTC)
何度も言っているように、Wikipediaの言っている情報源の信頼性とはまず第一義的に信頼できる出版社から公刊されているかどうかで、信頼できる著者かどうかはとりあえず検証可能性には影響を与えないので出典として示す場合には問題になりません。ただし内容を検討する際には問題になりますので、個々の文脈で内容の検証を行う必要が生じた際に論じられることはあるでしょう。
Wikipediaの検証可能性とは「検証できるかどうか」であって、「実際にどうなのか」という真実性を問題にしているわけではありません。たとえNakata88氏のいう「このケースの現状」が真実であったとしても、現状それを記述した文献がないので検証不可能です。したがって、それを「そのまま伝える」のはWikipediaの方針に反する行為です。さらに「真実は究明過程だということ」というのは、どのような学問のどのような命題、どのような事実も「究明過程にある」のは共通なので、これを記載するのは意味がありません。Wikipediaに書かれていることで「真実」が「究明過程」にない記事はありません。
「「報告者が二人だ」というニュアンスをだせといっているのです。」については、報告者という用語の使い方がまず不適切です。理系の論文ならばある実験に対する論文の著者はそのまま実験の報告者となりますが、今回の論文の場合、事件の報告者はこの論文の著者ではありません。論文の著者はあくまで事件の報告を元に事件を検証しているのであり、報告者ではなく検証者です。「事件に関する自説の報告者」ならば成り立ちますが、Nakata88さんのいう「事件の報告者が二人だ」という主張は検証可能でないばかりか、明らかに事実に反するので顧慮するに値しません。
>「「真実は違う」というニュアンスをだすといういうことではなく、「報告者が二人だ」というニュアンスをだせといっているのです。」
これについては私もКОЛЯ氏も指摘しているように、意図しなくても「「真実は違う」というニュアンス」は出てしまう表現なのですから、適切に直すべきです。あるいは本事件に「明確に疑義を述べているソース」があれば別ですが。繰り返しますが、「「報告者が二人だ」というニュアンスをだせ」については報告者という日本語の使い方が適切でなく、またこの事件に関する文献の著者は参考文献で明記されていますから、誰が事件について検証しているかは検証可能です。冒頭文にNakata88氏の主張する文言を入れることは、検証不可能な事実を付けくわえるという意味でWikipediaの方針に反するばかりか、「報告者が二人だ」という認識でNakata88氏がこのような主張をしているならば、それは明らかに事実誤認なので顧慮するに値しません。--Kanbun 2011年2月7日 (月) 01:54 (UTC)

КОЛЯ氏の再コメントとそれについての議論

(再コメント)理系論文の著者も検証者であり、文系論文の著者も検証者です。「報告者」とは学界その他広く社会に知らしめた者というほどの意味で用いられていることは、賢明な読み手なら誰でも推察できることです。別の概念のものを「報告者」と呼び換えたところで、それは議論を攪乱するのみであってなんら有益ではないと思います。ではKanbun氏は賢明でないのかというとそうではありません。何しろ科学哲学に大変詳しい方ですから、わかっていて意図的にやっているわけです。加えて当方会話ページにおいて明らかになったように、執筆者としての氏の資質を疑う人であれば誰でも、氏の執筆した文章に対して検証する必要が出てきました。これは氏自身がいくら説明責任を果たしても仕方がありません。資質が疑われているのですから、他のウィキペディアンは本人の説明を信用することができないからです。

以上述べました点により、Kanbun氏の執筆活動は他のウィキペディアンにとって多大な労力を必要とし、コミュニティを疲弊させるものです。--КОЛЯ 会話 2011年2月7日 (月) 18:30 (UTC)

  • КОЛЯさんへ。多分、同じことを言っていると思いますが、わたしは、歴史論文の報告者は基本的に「事実」を検証する研究者である点で、検証者であるという意味で使ってます。上でわたしが使った「報告者」とはそういう意味です。その意味で、ウィキペディアにおける歴史的記述のソースは第一義的にはそのような「検証者」(研究者)間のコミュニティである歴史学界での通説的な地位を占めているということが確認できるソースが必要になります。わたしがいいたいのは、いまだ、この事件の検証者は少なく、この事件にはまだそこまでは至っていないという趣旨です。事件の研究状況がそのような状況ならそのように書くべきだというのがウィキペディアの要請だと思います。Nakata88 2011年2月9日 (水) 10:31 (UTC)
(КОЛЯさんへ)
>理系論文の著者も検証者であり、文系論文の著者も検証者です。「報告者」とは学界その他広く社会に知らしめた者というほどの意味で用いられていることは、賢明な読み手なら誰でも推察できることです。
この主張は明らかに問題を攪乱するものです。なぜなら、今回は事件の報告者が問題にされているのであり、化学や物理の論文では実験の報告者=事象の報告者ですが、直接その実験を行った人を実験の検証者というのは直接的には不可で、その実験の追試実験を行った人が実験の検証者であるというのが適切でしょう。もちろん実験には予め合理性に基づいた見込みがあるという科学哲学の考え方を持ち込めば、最初の実験を行った者も実験の検証者であるという見方は十分に成り立ちますが。しかし、文系の論文では、事件の報告者と事件の検証者は別です。文系の論文では事件の報告者はつねに事件についての一次資料であり、それを検証して事件を裏づけたり、事件の示唆する事象を報告するのが文系論文の著者ですから、文系論文の著者は事件の検証者であっても事件の報告者ではありません。КОЛЯさんの「報告者」とは学界その他広く社会に知らしめた者というほどの意味というのは報告者の概念を拡大解釈しているもので、これでは議論は成り立ちません(この拡大解釈を許せば、テレビ番組そのものもテレビのレポーターも新聞も新聞記者でも何でも、ある事件の報告者になってしまう。だが、裁判を考えてみればどのような者が事件の報告者、つまり証人になりうるかは明白である。さらにこの拡大解釈を許した場合でも、Nakata88氏の「報告者は二人」という認識は成り立たない。この場合の報告者は、事件の直接の報告者+崔氏+林氏となるから、二人以上いることは明白である。)。事件の報告者というのは、直接の目撃者・体験者を言うのであって、崔氏や林氏はその報告を検証して二次資料を著した、二次資料の著者です。二次資料の報告者あるいは事件についての検証結果の報告者とは言えるでしょうが、事件の報告者とするのは直接的には偽です。Nakata88氏は「事件の報告者は二人」ということを明確にしたいなどと言っていますが、事件の直接の報告者は二人ではないのですから、報告者が二人というのは明らかにおかしな主張です。事件に関する文献の著者が二人ならわかりますと私は何度も言っています。そこらへんの用語を厳密にしないと記事内容についてしっかりした議論は出来ません。Nakata88氏の「報告者は二人」という認識は明らかにおかしいのです。さらにたとえ「報告者」とは学界その他広く社会に知らしめた者というほどの意味というあなたの拡大解釈が許容されたとしても、本事件をググればわかるように、本事件を「社会的に広く知らしめ」ているWEBサイトは複数存在するのであり、この意味でも報告者は二人に限られないことになります。あなたの拡大解釈した「報告者」という概念は非常に曖昧なので、検証可能性が問題となっているこの議論には向かないのです。それをちゃんと理解して下さい。
>これは氏自身がいくら説明責任を果たしても仕方がありません。資質が疑われているのですから、他のウィキペディアンは本人の説明を信用することができないからです。
こういうふざけた主張はどこから出てくるのですか。これは誹謗中傷と思います。撤回と謝罪を求めます。あなたの不勉強や無理解を私は明確に指摘し、その部分についてあなたは事実誤認をしており、間違った判断をしていたと認めたはずです。このうえさらに誤謬を重ねてご自身の不徳を重ねる行為は自重なさったほうがよろしいかと思います。私の執筆者としての資質を問いたいのであれば、この記事のノートは不適切ですから、コメント依頼を出して下さい。議論の本筋に関係ない無根拠な主張を入れないでいただきたい。
>以上述べました点により、Kanbun氏の執筆活動は他のウィキペディアンにとって多大な労力を必要とし、コミュニティを疲弊させるものです。
冷静になって下さい。このような発言はレッテル貼りであり、誹謗中傷にあたりますし、私の行為が問題だと思うのであれば、私の会話ページやコメント依頼でおこなうことです。ここは記事内容についての議論をするところです。場をわきまえて下さい。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 01:46 (UTC)
記事内容の信憑性に連動する議論です。謝罪も撤回も致しません。--КОЛЯ 会話 2011年2月8日 (火) 01:53 (UTC)
Wikipediaでは、記事内容の信憑性は記事を書いたウィキペディアンに帰属するのではなく、検証可能性を満たしているかどうかです。ウィキペディアンの資質云々などという主観的な基準ではなく、ちゃんと検証可能性を踏まえた客観的な議論をして下さい。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 02:01 (UTC)
Kanbun氏はКОЛЯの会話ページにおいて、E.H.カーらの歴史論の話題に関連して次のような発言をしています。
  • 「他の執筆者は、歴史家としてのあなたの記述に関して、悉く「要検証」を貼る権利が出てきます。この意味はわかりますね?」→どうぞ。むしろウィキペディアでは推奨されている行為ですから、おやりになればよろしいと思います。
正直意外に思いました。記事を書いたウィキペディアンに帰属するのではないと思っているのならこのような発言は出てこないわけです。つまり、記述は執筆者に依存する、そして執筆者の資質に対して疑問を感じたら要検証を貼ってもよい、との見解についてKanbun氏は同意されています。しかし、このように、要検証がベタベタ貼られるような事態をウィキペディアに引き起こすのは、勘弁して頂きたいと思います。--КОЛЯ 会話 2011年2月8日 (火) 02:34 (UTC)
ウィキペディアンが検証が必要と思うところに「要検証」タグを貼るのは正当な理由があれば許されることです。だから、やればよいと言ったのです。その権利はどのウィキペディアンにもあります。もちろん「執筆者の資質」だけを理由にすればそれは当然正当な理由ではありませんが。「つまり、記述は執筆者に依存する、そして執筆者の資質に対して疑問を感じたら要検証を貼ってもよい、との見解についてKanbun氏は同意されています。」→これは明らかに私の見解とは異なるので、このようなことは言ってません。КОЛЯ氏にこのような誤解が生じたのだとすれば、歴史家としてのあなたの記述に関して、という部分の理解に私との見解の相違があったのでしょう。この表現はあいまいで様々な解釈を許容します。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 02:40 (UTC)
正直この執筆者の資質云々は記事内容と全く関わりない話題のように思うので、続けるなら、私の会話ページかКОЛЯ氏の会話ページに場所を移すべきです。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 02:50 (UTC)
たとえば、記事の信頼性が執筆者に帰属するのであれば、記事の編集を行う画面に出てくる「もしあなたが自身の文章を勝手に編集や再配布してほしくないのなら、ここに投稿しないでください。文章があなた自身で書いたものでない場合、その文章はこの利用規約と整合する条件のもとで利用可能である必要があります。また、その場合、あなたは全ての関係するライセンス要件に従うことに同意しなければなりません。」という記述に明らかに反することになりますし、利用者が匿名で編集していることを考え合わせると、ウィキペディアの信頼性を大きく損なうものになります。こんなことはまともなウィキペディアンなら十分承知していることで、КОЛЯ氏がそこに疑いを持っていたのであれば、私はむしろКОЛЯ氏のウィキペディアンとしての資質を疑わざるをえなくなります。だから、この議論の決着は火を見るより明らかであり、記事内容とも関わりがないのですからこれ以上ここですべきではないと思いますが、いかがですか。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 03:02 (UTC)
あるいは記事執筆者が記事の事実性に何らかの関与をしているという主張も方針に反するもので、「Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」」にある「この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。」という一言を見れば明らかです。Nakata88氏の「学説状況」を記載しなければいけないという主張は、その「学説状況」なるものが検証可能な文献に載っておらず、検証可能な文献の数からそれを推し量るのは検証不可能な独自研究に属するのですから、全く顧慮するに値しない主張です。そのうえ私の執筆者としての資質をもって記事内容の是非を問うのは全くウィキペディアの精神に反するので、これ以上続けても無意味どころか、КОЛЯ氏の方針文書に対する無知・無理解をさらけ出す結果になってしまいます。だからこれ以上ここでは続けられないほうがよろしいと申し上げているのです。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 03:11 (UTC)
КОЛЯさんが記事内容について検証可能性に基づいた客観的な議論が出来ず、議論相手のウィキペディアンを貶めるような発言をここで繰り返し、さらにウィキペディアンとしての資質などという主観的な基準で記事の信頼性を量っているのであれば、それは検証可能性と議論による合意を重要視するウィキペディアの基本精神に反するものです。むしろあなたのほうがウィキペディアンとしての資質を疑われてしまいますよ。冷静に議論なさって下さいますよう重ねてお願い申し上げます。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 02:10 (UTC)
議論から手を引く発言をしましたが相変わらずなようなので率直に。「冷静に」と発言しながらこれだけ長文連投されていては説得力がありません。--はぬまん 2011年2月8日 (火) 11:49 (UTC)
このはぬまん氏のコメントは単なる揶揄であり、記事内容とは関係ないので、続きは利用者‐会話:はぬまんでやりましょう。--Kanbun 2011年2月8日 (火) 12:09 (UTC)
  • Kanbunさんは、検証可能かどうかが問題であり、誰がいったかという信頼できるソースの提示は二次的であるという趣旨だと理解しますが、これは、検証可能性と信頼できるソースの提示を両輪としているウィキペディアの方針とは整合しません。「要引用」のタグの貼り付けは推奨されますが、なければ削除していいのがウィキペディアの原則です。
  • 二つのソースがあって一方がウィキペディアにおけるソース性に劣る場合、重要な事象についてどちらか述べられていなければ、要引用を要求し、それが満たされなければ削除していいのです。
  • なお、歴史学の科学性について、非常に長い文章をかかれてますがKanbunさんの立場は全く支持できません。研究者が二人ならそれは二人しか検証していることがわからないのであって、それ以外の潜在的検証者は存在が不明だということです。それをカウントすることはできません。これは実際に検証実験をしてないのに検証実験できる可能性があるから検証実験はなされたのと同じだというものです。こんな立場は、どの分野でも成り立ちません。
  • 歴史とは過去の事象を、研究者の視点から見て解釈しとらえる行為ですが、物理的に起こった事象を捉えるという点では、それ自体ほかの科学と同じ行為です。そこに特殊性はないのです。いわば超新星爆発の痕跡を探る天文学と行為的にその本質は変わりません。変わるとすればそこに社会科学の価値的要素が加わるだけです。そのいみで、研究者が二人しかいないのに「「事件の報告者は二人」ということを明確にしたいなどと言っていますが、事件の直接の報告者は二人ではないのですから、報告者が二人というのは明らかにおかしな主張です」」などといっているのは、歴史研究の意味が全くわかっていないことになります。一次資料は、それが事件の裁判記録であろうとそれ自体は、裁判に焦点が当たってますので一次資料なのです。信頼できる資料とは、事件の存否その構造に焦点を当てた、「研究報告」やそれに類する資料のことです。
  • わたしは、КОЛЯさんとはちがって、Kanbunさんはやはり研究と資料の関係、科学的ということの意味がきちんと理解できてない人なんだと思います。いわば知識はあるが理解できてない人だといえるとおもいます。彼の知識は付け焼刃みたいになってます。そのいみで、Kanbunさんが混乱の元になっていることには同意せざるを得ません。Nakata88 2011年2月9日 (水) 09:15 (UTC)
「わたしは、КОЛЯさんとはちがって、Kanbunさんはやはり研究と資料の関係、科学的ということの意味がきちんと理解できてない人なんだと思います。いわば知識はあるが理解できてない人だといえるとおもいます。彼の知識は付け焼刃みたいになってます。そのいみで、Kanbunさんが混乱の元になっていることには同意せざるを得ません。」という発言は客観的根拠がなく主観的判断で相手を貶める発言です。こういう誹謗中傷をされては冷静な議論は出来ません。この発言は個人攻撃であり、礼儀をわきまえない発言です。Nakata88氏には撤回と謝罪を求めます。もし謝罪と撤回がいただけないようでしたら、管理者伝言板に報告させていただきます。--Kanbun 2011年2月9日 (水) 09:36 (UTC)
  • 根拠は上記にかいた、「「事件の報告者は二人」ということを明確にしたいなどと言っていますが、事件の直接の報告者は二人ではないのですから、報告者が二人というのは明らかにおかしな主張です」」という記述です。これは資料と報告者(研究者)の関係が理解できていない記述です。たとえば一次資料としてのさまざまな文献と研究とは目的が違いますから、事件が起こったという点について向けられていない資料なら、それは事件の報告者(研究者)ではないということになります。
  • これについて明確に反論していただく必要があります。それが、Kanbunさんの今までの発言とあわせて整合的な合理的反論になっているなら謝罪は当然行います。しかし、それができないのであれば、誹謗中傷ではなく上に書いたことは事実だということになります。Nakata88 2011年2月9日 (水) 09:57 (UTC)
よくわかりました。これでは冷静な議論は望めないので、管理者伝言板に報告させていただきます。--Kanbun 2011年2月9日 (水) 10:00 (UTC)
  • Kanbunさんがこのような議論で向けられた批判を個人攻撃と反論すること自体が本来の意味での個人攻撃です。このような行為は推奨されません。実際に、Kanbunさんが、議論の中で突きつけられた問題点ついて真摯に答えるつもりがないのなら議論に参加する資格はないと考えます。
  • なお、Kanbunさんはこうかかれていますが、「Nakata88氏の「学説状況」を記載しなければいけないという主張は、その「学説状況」なるものが検証可能な文献に載っておらず、検証可能な文献の数からそれを推し量るのは検証不可能な独自研究に属するのですから、全く顧慮するに値しない主張です」、これはわたしの発言を正確に捉えていない、発言です。また、これはウィキペディアの方針に合致しません。どのような種類のソースに基づいてそれが述べられているかまでウィキペディアは審査し、より信頼性の高いソースを用いることをウィキペディアは求めています。したがって、「誰がのべているか」は当然書く必要があります。そのようなことを否定しようとするkanbunさんの立場がウィキペディアの趣旨からみてはずれていることは自明です。Nakata88 2011年2月9日 (水) 10:07 (UTC)
  • なお、Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められるでも述べられているとおり、「広く知られてはいない、驚くべきまたは重要な主張」にあたるこの事件では、「編集者は寄せられた主張を念入りかつ懐疑的に調べるべきです。」だとされています。
  • このような事件について、Kanbunさんのようにこの事件があったとする「主張」を具体的に誰が述べたかをいあいまいにすることは、ウィキペディアの方針に真っ向から対立すると考えます。Nakata88 2011年2月9日 (水) 13:48 (UTC)
  1. 冒頭文に「韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている」と文言を入れるのは検証可能性に根拠がなく、また中立的な観点から見て偏った記述なので不適切。なぜなら、崔氏が事件を初めて主唱した人物でもないし、事件がなかったという文献もなく、事件が崔氏らの主張に過ぎないという主張の載った検証可能な文献もないので、この加筆には検証可能な裏付けがありません。
  2. Nakata88氏は「報告者が二人」だから、崔氏らによって主張されているということができると言っているが、これも不適切。なぜなら、事件の報告者は参考文献を見ても分かるとおり多数いるのであり、事件について知らせるWEBサイトは多数ある。さらにこのドキュメントによれば、樺太朝鮮人虐殺事件に肯定的な文献も崔氏・林氏のものに限られるわけではない。したがって、そもそも樺太朝鮮人虐殺事件についての文献を調べ尽くさなければ、上のようなことは言えないし、それを行ったとしても独自研究であることは明白であります。
  3. Nakata88は私が「この事件があったとする「主張」を具体的に誰が述べたかをいあいまいに」しているとおっしゃるが、ウィキペディアのルールに従って、脚注と「参考文献」節に出典は示してあり、検証可能性は満たしている。また本記事は「主張」や「学説」についての記事ではなく、「事件」についての記事なので、出典は「事件」についての二次資料で十分である。そもそも客観的に検証可能な形で存在する「事件」を誰かの主観的な「主張」と読み替えるNakata88氏の言い分は全く理解できない。本記事の扱っている「事件」は検証可能な文献の裏付けがあるのであり、誰かが「主張」していることではありません。--Kanbun 2011年2月9日 (水) 15:40 (UTC)
  • この事件の参考文献として挙げられているのは、崔吉城、林えいだいの二人です。裁判記録などについては伝聞です。いつのどの裁判かその記録が検証できないソースの不確かな情報は「信頼できる情報源」ではありません。そのことをまず確認してください。
  • また、崔吉城と林えいだいの情報の信頼性には大きな差異があることは上記のとおりです。したがって、個々の情報について誰の資料によるかを明示する必要があります。
  • そのことは、Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められるでも述べられているとおり、「広く知られてはいない、驚くべきまたは重要な主張」にあたるこの事件では、「編集者は寄せられた主張を念入りかつ懐疑的に調べるべきです。」だとされていることからも、要請されます。
  • このような事件について、Kanbunさんのようにこの事件があったとする「主張」を具体的に誰が述べたかをいあいまいにすることは、ウィキペディアの方針に真っ向から対立すると考えます。Nakata88 2011年2月9日 (水) 16:41 (UTC)
  1. 「この事件の参考文献として挙げられているのは、崔吉城、林えいだいの二人です。裁判記録などについては伝聞です。」→裁判記録は「伝聞」ではありません。林氏や崔氏の著作に記載されているのですから、事件を扱った裁判記録があることについて検証可能性は満たされています。
  2. 「個々の情報について誰の資料によるかを明示する必要があります。」→記事本文内では脚注や「参考文献」節で適宜示されています。出典がわからないと思う箇所があるならば、一般化して話すのではなく、具体的にどこがわからないのか指摘して下さい。議論が進みません。さらにこの議論は冒頭文とは全く関係ない話です。
  3. Nakata88は私が「この事件があったとする「主張」を具体的に誰が述べたかをいあいまいに」しているとおっしゃるが、ウィキペディアのルールに従って、脚注と「参考文献」節に出典は示してあり、検証可能性は満たしています。また本記事は「主張」や「学説」についての記事ではなく、「事件」についての記事なので、出典は「事件」についての二次資料で十分です。そもそも客観的に検証可能な形で存在する「事件」を誰かの主観的な「主張」と読み替えるNakata88氏の言い分は全く理解できません。本記事の扱っている「事件」は検証可能な文献の裏付けがあるのであり、誰かが「主張」していることではありません。--Kanbun 2011年2月9日 (水) 16:49 (UTC)
  • 「伝聞」とは、直接の資料ではなく、ある資料の中に載っているという意味です。刑事裁判などでいう「伝聞」と同じ意味で使ってます。その意味では、裁判記録は伝聞そのものです。
  • また、いつのどの記録かを明示していないなら、それは検証可能性を満たしていません。そもそも、この裁判記録がどこに載っているのかもわからないではないですか。ウィキペディアの検証可能性を熟読してください。
  • 具体的に、ここの事件が起こったという主張のすべてについて、どこに記載があるかを明示しろというのがわたしが言っていることです。これは、検証可能性のあるソースを提示しているものが二人しかおらず、かつ、その一方の信頼度が一方より落ちるため不可欠です。また、Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められるでも述べられているとおり、「広く知られてはいない、驚くべきまたは重要な主張」にあたるこの事件では、「編集者は寄せられた主張を念入りかつ懐疑的に調べるべきです。」だとされていることからも、要請されます。
  • Kanbunさんの、「そもそも客観的に検証可能な形で存在する「事件」を誰かの主観的な「主張」と読み替える」というのは、まったく、信じられないくらいにむちゃくちゃな主張です。事件があるかどうかは、信頼できる情報源があるかどうかに還元されるのであり、このようにソースが二つしかない事例では、信頼できるソースが乏しい事例なのです。
  • また、Kanbunさんの「そもそも客観的に検証可能な形で存在する」という主張は、それをささえる信頼できる情報源がない場合、Kanbunさんの独自研究を前提とするか、単なる独断ということになります。独断はもちろん、独自研究はもちろんウィキペディアでは排除されます。
  • ウィキペディアの原則から明白に反する、このような論文など信頼できる情報源としての研究などを離れて、過去の歴史事象が「客観的に存在する」などと、言い切ってしまうKanbunさんは、やはり独自研究の禁止や信頼できる情報源の要求される意味をわかっておられないのではないかと思います。
  • さらに、歴史的事実が主観を離れて、「客観的に検証可能な形で存在する」という言い切りは、研究者(あるいは各人)が過去の事物の痕跡などをもとに過去の歴史的「事実」を構成するという歴史学の基本的なスタイルとは明白に異なる主張です。そもそも歴史的事実は現在存在していません。したがって、歴史的事実が存在「した」という主張は何らかの論理つまり、科学者の主観を働かせた結果でてくるものです。また、当然ながら歴史は誰かに「こういうものだ」と与えられるものでもありません。少なくとも第一線にたつ研究者なら、歴史認識が主観的な研究者の論理的な営為をはなれて存在し得ないのは、当然に肌身でわかるはずです。Kanbunさんのこのような発言は誰かの著述に依拠しているものなのでしょうか?それともKanbun自身の意見なのでしょうか?どちらにしろ科学的な研究スタイルとは明らかに異質な考えだとおもいます。Nakata88 2011年2月9日 (水) 19:09 (UTC)
「さらに、歴史的事実が主観を離れて、「客観的に検証可能な形で存在する」という言い切りは、研究者(あるいは各人)が過去の事物の痕跡などをもとに過去の歴史的「事実」を構成するという歴史学の基本的なスタイルとは明白に異なる主張です。」→今日の科学哲学ではいかなる事実も個人の主観的な合理性についての判断無しには基本的には成り立たないという見方が有力であり、また田中美知太郎が指摘するように、過去が客観的に存在しないなどという前提に立った議論は学問レベルとしては成り立たないのであって、たとえば過去は体験できないのだから、歴史的事実は主観的なのだという主張はあれども、ある種の暫定的な事実らしきものを十分に合理性があれば客観的なものとして認めるのです。そうでなければあらゆる学問はその成立基盤を失うのであり、歴史学では構成された「史実」は一定の妥当性がある限り、客観的なものと考えるのです。だから歴史事実が主観的だという主張は、学問の実際のレベルではそもそも議論の前提として全く成り立たないのです。おのおのの学問が持つ価値中立的でない合理性というものを前提に、いちおうの客観性というものが前提されなければ、どんな事実も成り立たないのであり、あなたの言っている極論は全く学問的ではないのです。で、ウィキペディアではそういった事実性は問題とせず、検証可能なことは記載できるという前提をもってその記事を担保しているのですから、その内容が主観的であれ客観的であれ、検証可能な形で文献で示されていれば、それは客観的に検証可能なので、客観的に存在しているとし、記載可能であるとしているのです。これは自然科学でも同様であって、たとえば実験による再現可能性というのはじつは極めて限定的なもので科学性の根拠にはなりえず、じつは科学理論の選択における合理性というのは最終的には主観的なものです。極論して議論をするのであれば、そういうことをしっかり理解して話をしないといけないのです。そのうえ「あらゆる事実が主観的だ」という科学哲学の一つの結論を振りかざしてみたところで、この議論に対して役立つとも思えないので、事実は検証可能な限りで客観的であるというウィキペディアの原点に戻るべきなのです。歴史事実を特殊化して主観的なものとする根拠は全くありませんし、そのような主張に何の利点もありません。
そして歴史学の基本スタイルの話をすれば、歴史家個人が責任を持って先行研究と史料批判によって歴史的事実を示すことによって客観性が担保されるのであり、イブン・ハルドゥーンやE・H・カーが述べるごとく、歴史学においては歴史家が自らの枠組みを示して歴史的事実を語ることが直接的には主観的でも、客観性の担保になるのであり、そういう意味で歴史的事実に客観性を認め、また議論しているのです。客観的な歴史的事実が存在しないという考えは常識的なレベルでは過去を確認する直接の手段がないという意味で真ですが、学問的には偽です。客観的な歴史事実という前提がなければ、人間は明日を生きていくことも出来ないのであって、またこの世に存在するあらゆる社会制度の成立根拠も失われるのです。それには科学の根拠も当然含まれています。科学というのは一つの歴史的産物であり、制度なのですから。
だから私が何を言いたいかというと、Nakata88氏はまず検証可能なことのみ記載するというウィキペディアの原則に立ち返って下さい。樺太朝鮮人虐殺事件は文献で確認できるのであり、検証可能です。それを検証可能でないとすることはできません。そして、「樺太朝鮮人虐殺事件が崔氏ら一部の主張である」というあなたの主張は検証可能な文献の裏付けがありません。だから検証不可能です。したがって、冒頭文に関する限り「崔氏らの主張している事件である」とするあなたの加筆行為は全く認めることが出来ません。加筆したいのであれば、出典を示して議論して下さい。「出典を示す責任は掲載を希望する側に」あるのです。--Kanbun 2011年2月9日 (水) 20:31 (UTC)
それとあなたの科学や歴史学についての見方は誰の説に基づいて話をしているのかわからないので、ちゃんと論者や出典を示して話をして下さい。あなたの頭の中にある科学観や歴史学観を語られましても、現実世界に根拠がなければ合意点を見いだせようはずもありません。あなたの科学の話や歴史学の話はどこの誰の説に基づいて行われているのですか。少なくとも科学哲学や歴史叙述論を受けて話していませんよね?--Kanbun 2011年2月9日 (水) 20:58 (UTC)
検証可能ならば何でも書いてよいとはなっていません。Wikipedia:検証可能性をよく読んで理解してから議論に加わって下さい。--КОЛЯ 会話 2011年2月10日 (木) 00:45 (UTC)
私は検証不可能なことを書こうとしているNakata88氏の加筆を問題にしているのです。検証可能ならば何でも書いてよいということではないということは、検証不可能なことは書いて良いということにはなりません。ウィキペディアは「検証可能なことのみ書く」のです。КОЛЯ氏は今回の場合どちらが記述を加えようとしているのかわかってらっしゃらないのですか。--Kanbun 2011年2月10日 (木) 03:17 (UTC)

(インデント戻します)「韓国の社会人類学者の崔吉城らによって主張されている」というNakata88氏の加筆は検証可能ではないので、加筆は認められません。この加筆を加えたいとおっしゃるならば、検証可能な文献を示してどこにそういう記述があるのかちゃんと提示して下さい。林氏や崔氏の文献が中立的かどうかというのはこの場合何ら関係ない問題で、あくまで問題なのはこの加筆が検証不可能なことです。崔氏と林氏の著作にいくら問題があると主観的に論じても検証可能な文献の裏付けがなければ意味がありませんし、疑わしい疑わしいと連呼してもそれによって検証不可能な記述をウィキペディアに加える根拠には全くなりません。全体的な雰囲気だけで崔氏や林氏の記述が疑わしいというのは議論としてナンセンスなのであって、たとえばその記述が疑わしい点は検証可能性と中立的な観点に基づいて記事の記述を具体的に検討すべきです。崔氏と林氏の文献を疑うのは結構ですが、その検証可能となる文献も示さずに「ノンフィクション作家だから」とか「文化人類学者だから」とか甚だ主観的な理由を述べられましても全く議論にならず、今まで崔氏や林氏を「疑わしい」とする検証可能な文献は一つも示されていません。しかるべき出版社から出されている文献を検証可能な根拠もなく主観的に疑い貶めることは中立的な観点にも反しています。ウィキペディアでは事実ではなく検証可能かどうかが問題なのであって、たとえNakata88氏のいうことが事実であったとしても、彼はそれを検証可能な形で示せていないので、それはウィキペディアに受け入れるべき性質のものではありません。Nakata88氏が今すべきことはご自身の主張となる検証可能な文献を探してくることで、崔氏や林氏にここでいくら疑義を挟んでも自身の加筆行為を正当化することは出来ないのです。Nakata88氏の加筆は文献に基づいていない個人的な見解を加筆しているという点で検証不可能であり、検証可能な根拠もなく一方的にその経歴などから類推して林氏や崔氏を信頼できないとする独自研究をしているという点でも明らかに方針に反し、加えて検証不可能なことに基づいて加筆し自身の観点を広めようとする行為は中立的な観点に照らしても不適切な行為です。--Kanbun 2011年2月10日 (木) 03:38 (UTC)

出典が限られており、客観的な検証が難しい事象について、何人もそれを確からしいと主張することはできないと思います。そのような場合、出典を本文中に明示し、Wikipediaとしては事象の真贋について関知しない書き方にとどめるのはWikipediaの信頼性を担保するものと考えます。ガイドラインでも今回のケースはWikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の「事実確認の機能を欠く情報源」にあたるものと考えられ情報源の明示が求められるケースと考えます。--Truesight 2011年2月14日 (月) 16:08 (UTC)
しかるべき出版社から出され学会の査読を受けている文献は「事実確認の機能を欠く情報源」にはあたりません。方針文書をよく確認して下さい。--Kanbun 2011年2月15日 (火) 14:05 (UTC)
  • Kanbunさんは当初から指摘しているとおり、ソースの記述を提出することが記述者にあるということの意味を十分理解されていません。この事件の主要事実、つまり、いつ事件が起こったか、だれが被害者かなどについての記述を、「だれだがいったわからない状態」で記述することは、それ自体が、ソースにかけることで記述が維持できないのです。そのことは文献の提出を複数していたとしても治癒されません。また、この事件はそもそもが複数の事件の総称として記載されている記事ですから、誰が言ったかはは本質的に重要です。したがって、誰が言ったかを明確にできない場合はその記述は維持できないということになります。
  • もしかすると、Kanbunさんは、このソースを二つとも利用できる状態にない編集者なのかもしれません(もし利用できるなら、ソースを明確にすれば済む話ですからそうなんだろうと強く類推されます)。そうであるなら、該当箇所にTemplate:要引用タブを当面つけることによって、時間稼ぎをすることについては妥協できます。ただし、報告者が少ない事件で、かつ、その報告者の信用度に大きな違いがあるわけですから、いつまでも放置するのは妥当でないと考えられます。
  • 新規に報告された世に知られていない事実については慎重に、検討するべきであるというのは上記のとおりウィキペディアの原則に掲げられていることです。
  • 以上より、要引用についてソースを求めることについては特に、反対を聞く必要はないので(ソースの提示は記述者の側の責任になりますから)、上記の部分について要引用を明示しておきます。よろしくご対処ください。Nakata88 2011年2月16日 (水) 00:12 (UTC)
まず「要引用」タブなるものについてですが、タブとはなんでしょうか。また「要引用」などというタグはありませんし、ウィキペディアでは引用は必ずしも推奨されません。そのうえで、樺太朝鮮人虐殺事件については3冊以上これについて述べた文献が世に出されており、それもここ数年のことではありません。「新規に報告された世に知られていない事実」というのはNakata88さんが知らなかっただけと言えます。本当に新規に主張されたものだというのなら、検証可能な文献を示してそのことを立証して下さい。WEB検索すれば、WEB上にも数多くこの事件を話題としたサイトがあることは明白ですから、新規な事実ということはできません。また事件の報告者は少なくありません。そして報告者の証言は学会の査読を受けた論文で検証されたものであり、十分学術的な価値が認められます。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 00:27 (UTC)
  • 本文をよく読んでみたら、すべての事件で誰が言ってるか明白になってました。したがって、それを概要にまとめました。
  • この編集で、誰が言ってるかを概要の段階でわかるようにできてるので異論ありません。要するに、わたしが求めていたことは、すでに書かれていたことになります。
  • なお、「裁判の原告側の証言」「ソースのない捜査記録」の記述は両者とも削除しました。これは両方とも信頼できる二次ソースではありません。Nakata88 2011年2月16日 (水) 00:48 (UTC)

Nakata88の意図的な出典誤記およびそれに対するKanbunの警告について

ウィキペディアを自己参照して記事を改変しないで下さい。あなたの独自研究は差し戻しました。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 03:32 (UTC)
Nakata88氏には記事本文を読んで、勝手に他の箇所に出典を付けくわえるなどの出典の捏造行為と記事破壊行為を以後行わないよう強く警告します。参考文献をちゃんと確認すれば、ご自身の付けくわえた出典情報がなぜ差し戻されるのか理解できるはずです。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 05:03 (UTC)
  • kanbunさんは、本文内容のまとめである概要を本文にあげられているソースとともに記述することを自己参照といい非難されてますが、そもそも「概要」とは、本文内容をまとめるものでなければなりません。kanbunさんは自己参照の意味と、ソースが上げられていること、そして、概要の日本語としての意味がわかっておられないと思います。
  • kanbunさんの編集能力に疑いを強くしました。コメント依頼をKanbunさんの編集について行いたいと思います。Nakata88 2011年2月16日 (水) 08:57 (UTC)
概要は事件の概要であって、記事の概要ではありません。どちらにせよ検証可能な文献を確認もせずに出典を加える行為は出典の捏造です。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 09:39 (UTC)
  • 概要が事件の概要であることは当然です。そして、概要が事件ついて書かれている本文のまとめ的内容になることも、そこから当然でてきます。
  • Kanbunさんはわたしのノートに「おこったとされる」[11]として独自研究だとかかれていますが、「される」というのは、報告者を明示する表現です。これはウィキペディアが「信頼できる情報源」を明示する必要があるということから直接でてくる要請です。
  • kanbunさんの編集能力に強い疑問を持ちました。コメント依頼をしたいと思います。Nakata88 2011年2月16日 (水) 09:50 (UTC)

出典に書いてないことを記事内容から再構成して出典を捏造して記載する行為は明らかにウィキペディアの方針に反する行為です。これ以上無益な編集合戦を招く行為を招く行為を続けないで下さい。記事内容に自分の観点を付け加えて、元々の記事の出典に書いてあるかのように記載するのは到底認められません。あなたの加筆が出典にあるというのなら、私は今手許に出典がありますので、具体的な記述を引用して下さい。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 13:29 (UTC)


  • だれだれによれば~だ「とされる」と書いた場合、「とされる」の部分は出展を明示する部分であり、捏造でも再構成でもありません。Kanbunさんの編集についての理解には強い疑問が残ります。コメント依頼で反論願います。Nakata88 2011年2月16日 (水) 13:34 (UTC)
「~とされる」という記述は特定の観点を含んでいます。特定の観点を含んだ記述には出典が必要とされます。あなたが出典として追加した文献にはあなたの観点を支持する記述は一つもありません。もしあるというなら、具体的に文献を引用してあげてみて下さい。文献も確認しないで勝手に出典情報を追加しないでください。それは捏造です。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 13:38 (UTC)
  • 「とされる」というのは明らかに、出展の明示です。捏造などではありえません。
  • 特定の視点というのはいったいなんなのでしょうか? 捏造言葉を使った以上はっきり説明願います。
  • 本文に挙げられていることをうけて、概容をかくのは捏造行為ではなく、まとめ、要約です。また、本文とまったく同じ内容であることもあきらかです。Nakata88 2011年2月16日 (水) 14:07 (UTC)
「とされる」というのは出典にその事件が事実性をもって記載されていない可能性を示唆します。出典は事件を事実として扱ってますから、「とされる」とか「とされている」という記述は出典の記載とは明らかに異なるのです。実際私が出典に基づいて書いた初版はあくまで出典に基づいて事実性のあるものとして記述しています。「とされる」というのは「そうでないかもしれない」という仮定を含むのですが、その仮定は検証不可能なので、現状検証可能な文献に基づけば事実性を重視して書くのが適切です。また文末にrefタグをつけているのですから、「~によれば」と書くと逆に不適切となります。なぜならrefタグが「~によれば」という働きを持っているので、たとえば「林氏によれば、~である」という記述にrefタグで崔氏の文献が記述されていれば、それは崔氏の文献によれば、「林氏によれば、~である」という意味です。
そのうえ概要節は事件の概要を検証可能な文献に基づいて述べた節であって、記事内容を要約した箇所ではありません。これは自己参照を避けるという意味でも大事なことです。
そういう議論を越えて、私が一番問題だと思うのは、あなたが出典を確認せずに記事内容から判断して記述を加筆した上、それに出典情報を追記していることです。出典情報は加筆した人がそれをちゃんと参照しているという信頼の元に行われているのですから、それに違反することはウィキペディアにおける検証可能性そのものを否定する大変問題のある行為です。あなたは私がそのことを再三再四指摘してもなお編集を強行しようとしました。この件には是非猛省を求めます。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 14:22 (UTC)
  • 「とされる」というのは、一般に知られていない事柄について、少数の報告者が報告するという状態で使われる表現です。したがって、そこで背景に仮定されているのは、「真実ではない可能性」ではなく、一般に知られていないということです。
  • ウィキペディアでは「一般に知られていない重要な事実」について報告がなされる場合、そのことを注意深くあつかうことが求められています。つまり、「一般に知られていない重要な事実」であることがわかるように編集することが妥当だということになります。
  • さらに、「とされる」という文体はKanbunさんの編集における概要でもつかわれおり、また文中でも類似表現があります。その点で完全に主張が矛盾します。Kanbunさんが自己の編集をよく読んでいないのではないかと考えます。
  • また、そもそも、概要は本文のまとめがかかれるのが通常です。したがって、Kanbunさんの批判はあたらないと考えます。Kanbunさんの立場に寄れば、編集者はすべての参照文献について目を通していなければ、それをまとめて書くこともできないということになりますが、そのようなことはどこで求められているのでしょうか?必要に応じて検証可能であることが満たされていれば追記はできるというのがウィキペディアの検証可能性のルールだと思います。Nakata88 2011年2月16日 (水) 14:57 (UTC)
事件記事の概要節は事件の概要を記している検証可能な文献の記述に基づいて、あるいは事件の全体像を記している検証可能な文献の内容を要約して記すものであって、本文内容を要約したものではありません。もし概要節が本文内容を要約したものであれば、理論上本文が改編されるたびに手直しはしなくてはいけなくなります。あくまで概要は結果的に記事内容の要約の役目を果たしますが、記事本文を要約したものではありません。どちらにせよ、出典の捏造はいけません。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 14:50 (UTC)
  • 「捏造」とは、なにを示しているのかはっきり書いてもらえませんか?「とされる」というのは捏造ではありえないこと、Kanbunさん自身がその表現を使っていることは上記のとおりです。
  • 概要は、事件についての要約をいいますから、本文内容が変われば、当然変えるべき場合が多いと思います。そして、記事のソースに依拠していても直接の検証可能性が満たされるなら書いて問題がないこと上述のとおりです。Nakata88 2011年2月16日 (水) 14:57 (UTC)
捏造とはあなたが出典を確認せずにテキトーな記述にテキトーに加筆して、テキトーに出典情報を加えたことです。これを出典の捏造といいます。そして私は「~とされる」とか「~とされている」という記述は用いておらず、現に私が書いた初版ではそれを用いていません。だから現状「~とされる」と「~とされている」という部分には出典がないのですが、それにあなたがテキトーに出典を加えていることが捏造なのです。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 15:02 (UTC)
  • なんかいもいいますが、「とされる」というのは、一般に知られていない場合に用いる表現であって、この事件の場合は報告者が少数だからそういう表現になっているのです。
  • また、あなたが実際に編集した文章においては、あなたが文責を負います。したがって、最初はそうでなかったといわれても、あなたがそれを書いたいじょう、あなたの文章です。「とされる」という文体をそのようにながながと使用していながら、この場合には、だめだというのは完全に矛盾した行為です。
  • さらにいうと、とされるというのは引用を示す場合の表現で、適当な表現ではありません。それを「テキトー」などと書くのは的はずれです。
  • 本文と全く同じ情報を、概容にかいても、適当などではありません。単なるまとめです。また検証可能性も満たされています。そのとこを否定するウィキペディにおける根拠はなんなのでしょうか?お答えねがいます。Nakata88 2011年2月16日 (水) 15:12 (UTC)
「とされる」というのは「伝聞」の表現であって、事実性が薄いことを示唆します。報告者が少数という意味ではありません。なぜなら「社会の大多数の者によれば、~とされる」ともいえるからです。日本語の問題として「される」が少数意見を指すというのはおかしいです。
わたしは「~とされる」とか「~とされている」とかいう記述を加筆してはいませんし、まだ議論してなかったので放置していただけです。またその箇所に出典がないことはちゃんと記事の出典を確認していれば当然分かることです。
本文を読んで、出典も確認せずに勝手に出典情報を付けくわえる行為が「テキトー」に行われたのでなければ、明らかに悪意を持ってやっていたということですか。出典に根拠のない記述は検証可能とは言いません。確信的に出典情報を偽ったのであれば、捏造どころではなく、方針文書に対する造反・背信と言っていいでしょう。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 15:23 (UTC)
あるいは「~とされる」は「~と見なされている」という意味でも使いますが、これも特定の根拠によってそうされているという含意があるので、特定の観点に基づく記述です。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 15:32 (UTC)
  • 社会の大多数によれば~とされる。というのは、社会の大多数がそういうことを言っていることを示しています。
  • 同様に、「山田太郎(仮名)」によれば~とされるというのは、山田太郎がそういっていることを示しています。
  • Kanbunさんが最初にのべていたようにそこに虚偽の要素はありません。その点でkanbunさんの論旨はすでに話が変わってきています。
  • 本文に述べられている出典情報をまとめて、その範囲で概容に書いてもそれはなんら、出典情報の捏造にはあたらないことは上記のとおりです。検証可能性は完全に満たされているからです。
  • すべての情報を自分で参照して書かないといけないというようなことは、ウィキペディアでは求められていません。そのようなことをもとめるなら、追記ができるひとが大幅に少なくなります。なぜなら、編集した時点で上に書いたように「Kanbunさんが意識してなくても」Kanbunさんの文責になってしまうからです。それは、概要にかこうと、一部追記しようと同じです。
  • したがって、ウィキペディアで求められているのは、検証可能性だということになります。
  • 自己ソースとはそのような検証可能性の満たされない文章をソースとした場合の問題の話です。Nakata88 2011年2月16日 (水) 15:36 (UTC)
「Aによれば、~である。」というのが「Aが~と言っている」という意味の正しい日本語です。
「Aによれば、~とされる。」というのは「Aは~と見なしている」あるいは「Aは~と言っているという話である」という意味です。そして、この文章には特定の観点が介在しています。
それとWikipediaは匿名なので、文責を利用者が果たすことは出来ません。せいぜい出来て説明責任です。だから検証可能性が問題になるのです。「なぜなら、編集した時点で上に書いたように「Kanbunさんが意識してなくても」Kanbunさんの文責になってしまうからです。」という面白い理論はどの方針文書から出てくるのですか。教えて下さい。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 15:42 (UTC)
迷えるNakata88氏にはWikipedia:中立的な観点の「もしも「ページを保存」するボタンを押す時、そのユーザーが記事の全文に責任を負っているのだとしたら、そのユーザーが自分の賛同する立場だけを説明したり、対立する立場をフェアに説明しなかったり、不完全な形で説明したりしているような場合には、その人はウィキペディアに偏った見方を付け加えていることになります。このように記事の全文に責任を負うと考えることは意味が通るでしょうか? それとも、文章の一部だけに限定して、「この部分は自分の文責だ」と考えることの方が意味が通るでしょうか? あるいはそう言うこともあるかも知れません。ですが、中立性の追及を強く、明白に掲げるこのウィキペディアのプロジェクトには、そういう態度はふさわしくないように見えます。」という文章が道を示してくれるのではないでしょうか。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 15:48 (UTC)
  • 「Aによれば、~である。」というのは、「Aが~と言っている」といっているという意味ではありません。むしろ、Kanbunさんのいうところの文章外の要素をあきらかに負っている表現です。なぜなら、「~である」というのは断定表現だからです。背景には権威があることが暗示されます。これは権威性にかける幼稚園児による「幼稚園児Aによれば、~である。」という文章が明らかに、信用できないという意味をもつことからも明らかです。それは、「Aによれば、~とされる。」場合は、そのような権威性を帯びない表現になってることがわかります。それは、「幼稚園児Aによれば、~とされる。」というのが、別におかしくないことからもわかります。
  • この文章でKanbunさんが求めているのはそのような権威性なんだろうとおもいます。しかし、報告者が少ないことは権威が権威として固まっていない状態です。そのような「広く知られていない重要な事実について注意深く編集すること」はウィキペディアで求められていることです。つまりこれは、「権威ある学界の常識」となっているのか「報告者が少ない状態」かの違いを区別するということです。したがって、権威化している文体よりも、「Aによれば、~とされる。」のほうが現時点で妥当だと考えます。
  • Kanbunさんがあげられている「このように記事の全文に責任を負うと考えることは意味が通るでしょうか? それとも、文章の一部だけに限定して、「この部分は自分の文責だ」と考えることの方が意味が通るでしょうか? あるいはそう言うこともあるかも知れません。ですが、中立性の追及を強く、明白に掲げるこのウィキペディアのプロジェクトには、そういう態度はふさわしくないように見えます。」という文章は、記事の全体についてKanbunさんをふくめ編集者が責任を負う。したがって中立的に書くというのはそのような反対論者の記述も紹介することをもとめているのだ、という文章です。[12]したがって、全体について文責を負うことは前提になってます。論理関係が逆です。Nakata88 2011年2月16日 (水) 16:09 (UTC)
あと「~である」という文章に権威性があるというのは私には不可解なので、その点については議論しません。そもそもウィキペディアのルールに反した記述は認められないのですから。ウィキペディアのルールでは出典の明記の仕方は参考文献節に記すかrefタグを用いるのです。
私の立場は「~によれば、~である」あるいは「~である<ref>~</ref>」が適切であるというものです。
それと私に文責があるというのなら、私は「~とされる」と「~とされている」という部分には出典がないので、保護解除されたらただちに検証可能な文献に基づいた初版の状態に戻すことを約束します。また私が文責を負いたくない部分については削除させていただきます。私には理解できませんが、あなたによると私にはこの記事に文責があるそうですから、私は文責を果たす必要があります。--Kanbun 2011年2月16日 (水) 16:26 (UTC)
  • Kanbunさんが、編集された過去の版については「二次著作物として」全体についてKanbunさんの文責が及ぶことになることについては、Wikipedia:著作権をお読みください。また、ウィキペディアの記事の各版はそれぞれ独立しており、あとで編集を変えたとしても、その版についての文責は存在し続けます。
  • わたしがここでいっているのは、「~とされる」とかくのは捏造ではないという当たり前のことですが、Kanbunさんがもし捏造だとするなら、Kanbunさんも捏造を行うことに加担したということになります。そして、そのページは最新版で訂正しても残りますので、責任は残り続けるわけです。もしその責任があるとしてそれを法的に取るならそのような手段では足りません。
  • また、まとめ、概要についても、ウィキペディアでは相互の版の二次著作権を相互に利用することができることを宣言しているため、その版における、「まとめ」「概要」は、自明に、相互の著作権利用の範疇に入るため(その項目のまとめと宣言してるわけですから要約していることが自明です)、ウィキペディアにおける編集として全く問題がないばかりか、ウィキペディアの従うGFDL的にも問題がないということです。
  • したがって、kanbunさんがわたしに対してした、「概要」についていの批判は、Kanbunさんを含むすべての編集者がGFDLに従って投稿していることになるため、不当な批判になります。
  • 以上の二点について、御理解いただけるのでしたなら、わたしに対する批判を撤回願います。Nakata88 2011年2月17日 (木) 17:55 (UTC)
あなたは出典を確認せずに出典情報を捏造しました。この編集であなたは出典を確認せずに出典情報を書き加えています。出典には一切このような記述はありません。--Kanbun 2011年2月17日 (木) 19:11 (UTC)
  • 本文に書かれている内容を、まとめとして、書くのは、ウィキペディアでは相互の版の二次著作権を相互に利用することができることを宣言しているため、その版における、「まとめ」「概要」は、自明に、相互の著作権利用の範疇に入るため(その項目のまとめと宣言してるわけですから要約していることが自明です)、ウィキペディアにおける編集として全く問題がないばかりか、ウィキペディアの従うGFDL的にも問題がありません。
  • GDFLWikipedia:著作権の項目をお読みください。要するにまとめは二次引用だということです。Nakata88 2011年2月17日 (木) 19:33 (UTC)
出典を確認しないで本文を引用したのであれば、それは明らかにウィキペディアの自己参照です。さらに出典を確認せずに記事の本文をまとめた情報に、確認してもいない出典を加えるのは、出典の捏造です。出典情報を捏造しないで下さい。--Kanbun 2011年2月17日 (木) 19:42 (UTC)
  • Kanbunさんの主張は、ウィキペディアの編集の根幹にかかわるため、全面的に反論したいと思います。まず、「出典を確認せずに、本文を参考にまとめを書く行為」、ですが、ウィキペディアではGFDLにより、相互に、二次著作権をみとめあっています。したがって、本文に書かれていることを「まとめ」に書くことは、出典が明示されており(なにしろそのページのまとめ・概要)なのですから、本文を書いた人との間で問題ありません。
  • さらに、まとめが自己参照であるという批判ですが、そもそも「まとめ」なのですから、これはそのページを参照していることが必要になります。そして、その根拠としては、信頼できるソースが本文、あるいはまとめで挙げられています。本文の内容をまとめることはそもそもまとめの目的ですから、ウィキペディアはその記述様式でまとめ部分を当然に記述している以上、問題ないことになります。さらに、信頼できる情報源を本文を参考にあげている場合、それはその情報源自体がソースとしてあがっているのであって自己参照ではありません。
  • さらに、まとめが本文と同様の内容である場合、原典との関係で本文が捏造であれば、本文もまとめも捏造になりますし、原典との関係で本文が捏造でなければ本文もまとめも捏造ではなくなります。これは「事実のみで決定」され、二次引用かどうかでは決定されません。
  • したがって、Kanbunさんが本文を参照にまとめているという理由だけで「捏造」だというのは全く根拠がありません。
  • さらにいうと、Kanbnnさんは出典を確認せずに引用したとおっしゃいますが、Kanbunさんもふくめて、ウィキペディアの編集は二次編集と自分の加筆の連続ですので、Kanbunさんも常に二次編集=つまり大規模な引用をやりながら、ご自分の編集をしていることになります。したがって、自分が加筆している以外のところは、すべて引用してることになるのです。しがたって、わたしが、まとめで原典を確認せず引用したということが捏造なら、Kanbunさんが編集されたすぺてのページのすべての原点について確認しつつ書いていない限り捏造だということになります。
  • もちろんそんなことは不可能です。なぜなら、原典が手に入らない場合もあるからです。しがって、構造上、ウィキペディアの編集は加筆者を信頼して書かざるを得ないことになっているのです。
  • わたしは、Kanbunさんが編集されたすべてのページで原典を確認することをされているとはとても思えませんが、もししておられるのだとしても、そのようなことはウィキペディアでは求められていないのです。

Nakata88 2011年2月17日 (木) 20:24 (UTC)

加筆するのに記事のすべての出典を確認しなければいけないなどとは誰も述べてません。加筆するときに自分の記述の出典を偽るのは出典の捏造です。記事を参照して書いたのなら、出典は記事になります。他の文献を出典であるかのように書かないでください。--Kanbun 2011年2月17日 (木) 20:51 (UTC)
  • そのページのまとめ、概要はそのページのまとめであることから本文が出典なのは明らかです。それ以上に全く論証がいらないことは、ほかのウィキペディの記事のまとめに本文を参照したなどとまったく書かれていないことからも明らかです。Nakata88 2011年2月17日 (木) 20:57 (UTC)
refタグというのは何を参照してその記述を書いたかを表しているんです。あなたは本文を見てまとめただけなのに、崔氏や林氏の文献を参照したと嘘をついていることになるのです。ちゃんと出典を確認しているというのなら、あなたはそれぞれの出典のどのページのどの記述を見て加筆したのか引用して教えてください。refタグはちゃんと文献を参照して書きましたという意味なので、具体的にどういう風に記述されていたかわかりますよね?崔吉城 「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」のp.291の冒頭には何と書いてありますか?--Kanbun 2011年2月17日 (木) 21:06 (UTC)
私は記事を加筆する際にその記事の出典をすべて調べてから加筆しなければいけないなどとは述べていないので、そのことをしっかり確認して議論してください。--Kanbun 2011年2月17日 (木) 21:14 (UTC)
  • まだよくわかっておられないようですが、本文のまとめは、著作者が違う場合、本文の引用の一種なのです。そこはおわかりですね?そして、Kanbunさんが、すべての既存のウィキペディアに加筆される場合も、加筆部分以外は全部引用になります。したがって、まとめであろうと、加筆であろうと、引用であることは同じなのです。
  • その場合、Kanbunさんはすべての引用(まとめ)について、原点を参照しろといっておられますが、それが必要なら、あらゆるぺじで加筆する場合、すべての引用について原典を確認しなければならなくなります。
  • もちろん、ウィキペディアではそのようなことは求められていません。元加筆者を信用して記事が作られていくからです。Nakata88 2011年2月17日 (木) 21:38 (UTC)

出典を確認しないで、ある情報に出典を記載することは出典情報の捏造です。--Kanbun 2011年2月17日 (木) 21:41 (UTC)

  • Kanbunさんに対するコメント依頼でも説明しましたが、Kanbunさんの書き込みを読んで誤解される方がでると困るので、こちらでも説明しておきます。
  • 誰かの書き込みに基づいて、要約を書くのはGDFLに基づく正当な引用行為の一種です。したがって、書き込みについての要約を書くことは、出典情報の捏造でもなく、また著作権違反もありません。
  • さらに、ウィキペディアの編集行為とは、前の編集を大規模に引用しつつ(自分が編集していないところはすべて引用になります)、自らの書き込みを加えていくことですから、もし、出典情報を全部確認しないといけないなら、Kanbunさんもどのようなウィキペディアの加筆をした場合にも、全部の出典を確認しなければならないことになります。そんなことはウィキペディアで求められていません。前の人の文章を一応信頼して加筆するのが原則です。したがってKanbunさんに対するコメント依頼でも書きましたが、上記のKanbunさんの書き込みは誤りです。Nakata88 2011年2月24日 (木) 01:00 (UTC)
「私は記事を加筆する際にその記事の出典をすべて調べてから加筆しなければいけないなどとは述べていない」と私は既に申し上げているにもかかわらず、まだおわかりになっていないようです。問題はそういうことではありません。ウィキペディアでは検証可能なことのみ書くというルールがあり、出典を確認して検証可能だと立証できるものだけが載せられるのです。GFDLによる継承関係があれば記述を移す、あるいは改変するということはライセンス上認められるのですが、だからといってウィキペディア内で出典に基づかない検証不可能な記述が認められるわけではありません。今回の場合、
  1. Nakata88氏が付けくわえた情報は出典とは異なっており、検証不可能であったこと。
  2. Nakata88氏は出典を確認せずに、誤った記述を付けくわえたこと。
  3. Nakata88氏はその誤った記述に、さらに確認してもいない出典の情報を付けくわえたこと。
  4. 結果として、検証不可能な記述を検証可能であるかのように偽装したこと。
が問題となっており、これを総称して「出典情報の捏造」と私は言っているのです。--Kanbun 2011年2月25日 (金) 03:06 (UTC)
  • 要約を出典と異なると主張しているのは、Kanbun氏しかいません。
  • 出典を確認せず要約をしても問題ないのはGDFLに基づきます。ウィキペディアは前の版に加筆した時点で加筆部分以外は引用していることになります。Kanbun氏は全部の出典を確認して書いているのですかと聞いたら明確な返答をされませんが、ウィキペディアではそれは普通、期待されてません。その部分を加筆した人の原著作権があるわけですからその人に帰責されるからです。
  • 引用を示す「とされる」という文末を新しい情報と判断しているのは、kanbunさん以外にいません。
  • 要約に、原典の引用が載せられていれば、検証可能です。
  • 上記のように、kanbunさんは非常に、偏った視点で編集をされて、議論を混乱させています。多くの方にそれを指摘されても訂正されません。コメント依頼も効果がなかったようです。Nakata88 2011年2月25日 (金) 12:07 (UTC)
Nakata88氏が要約した内容が出典と異なることはすでに私がWikipedia:コメント依頼/Kanbun 20110216で詳しく説明したところですが、もう一度改めて指摘します。
  1. まず初版の記述は崔吉城「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」pp.288-289の「はじめに」節とp.291の記述に基づいて書かれています。Nakata88氏のこの編集は出典を誤って上敷香の事例を林氏のみにしています。
  2. また出典では脚注に示されている朴亨柱の報告が反映されておらず、出典を確認すれば間違えるはずのない細かい事実関係を無視して彼が言う客観的な根拠のない「報告者二人」説に必要以上に近づけた記述になっています。
  3. とくに問題なのは「林えいだいによると、虐殺事件は、まず、1945年[[8月18日]](もしくは17日)に[[敷香郡]][[敷香町]]上敷香(ポロナイスク)でおきたとされる<ref>林えいだい、p.41。</ref>。」という記述です。これは出典を見ていれば間違いようがないのですが、林氏の文献 p.41 は上敷香事件の報告者が朝鮮人の中田何某氏であった事実の出典部分であって、上敷香事件については当然もっと長大な範囲で語られており、明らかに不適です。記事内容を走り読みして早とちりした典型的な誤解でしょう。
以上のように、Nakata88氏の記事内容の要約なるものは事実を不正確にするきわめて不適切なものであり、全く出典情報と内容が合っていない検証不可能な記述です。この編集は認められません。
なお、「出典を確認せず要約をしても問題ないのはGDFLに基づきます。ウィキペディアは前の版に加筆した時点で加筆部分以外は引用していることになります。」という見解はWikipediaの方針と相容れぬものと私は思っており、たびたびそれを主張していました。Wikipedia:井戸端/subj/Wikipediaの記事を要約して記事に加筆してよいかで意見を募っていますが、今のところNakata88氏のGFDL理解はやはりおかしいようです。GFDLは今回の件には関係なく、要約が適切かどうかを争点にすべきと思いますので、上のような誤ったGFDL理解に基づいた意見は以後訂正されるようお願いいたします。--Kanbun 2011年2月25日 (金) 16:00 (UTC)

崔吉城氏の文献の信頼性についての議論

Kanbunさん、断定的に記述したいのならもっと出典を追加してください。崔吉城と林えいだいしか出典がない状況では事実であるかどうかわかりません。言いたくないのですが、韓国の学者の出す著作などは多分に反日的色彩をおびいており、客観性に欠けていることが往々にしてあるのが事実です。もし実際に起こったことがあきらかであり、断定的に書くに問題ないというのであればもっと出典をお願いします。非常に出典の限られている現状では、「~とされる」などと伝聞調での記述となるのはやむを得ないでしょう。--Truesight 2011年2月21日 (月) 15:38 (UTC)
いろいろ勘違いされているようです。崔吉城氏は韓国人ですが、日本の学者であり、崔吉城氏の論文は2004年度の日本国の科学研究費補助金を受けた調査に基づいて日本の学会で発表されたものです。反日云々は非常に主観的かつ事実誤認に基づく判断と思われますが、出典を確認されましたか?それ以上に語るべき所がありますでしょうか。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 15:43 (UTC)
なお、科研費について知りたければこちらをどうぞ。根拠もなく韓国人だからという理由で反日的研究云々と語るのは同じ日本人として大変恥ずかしいです。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 15:51 (UTC)
文系の学会の多くは査読までは行われず要旨の審査のみで発表に至ります。科学研究費も同様です。補助金を受けた後に発表された研究について、委員から査読されるなどということはありません。--КОЛЯ 会話 2011年2月21日 (月) 16:02 (UTC)
事実に反することを言わないで下さい。科研費は事前に研究調書を提出して研究内容を申請し、それに基づいて専門家によって審査が行われます。文系でも全く変わりません。どこからそういう根も葉もない情報を手に入れてくるのですか。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 16:08 (UTC)
研究調書のレベルの話ではありません。論証過程の話です。「査読」という言葉を知りませんか。しかも科研費は必ずしもそのテーマの専門家ではない人が審査に当たることが少なくありませんし、1人で大量の申請書を審査します。--КОЛЯ 会話 2011年2月21日 (月) 16:16 (UTC)
論証過程というのが何を指しているのかわかりませんが、科研費では研究実績報告書と研究成果報告書の提出が求められます。また分野ごとに審査の実態は異なるので、КОЛЯ氏のように文系をひとくくりにして一般化して話すのは不適切です。文系では同業の研究者が審査に当たることが多く、そのテーマというのがどういうレベルでの話をしているのか分かりませんが、その分野の専門家が審査に当たります。またこの研究は崔氏個人で行われたのではなく、また申請は広島大学を通して行われています。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 16:29 (UTC)
Kanbunさん、崔吉城の研究についてどのレベルの査読が行われ、どういった専門家のもとで審査が行われたか詳細をご存知でしたらここに書いていただけませんでしょうか。--Truesight 2011年2月21日 (月) 16:38 (UTC)
果たしてウィキペディアでそこまで調べて議論をする必要があるとは私は思えません。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 16:47 (UTC)
科学研究費補助金の外部リンク節に資料ページへのリンクがありますから、知りたいのであればいろいろお調べになればよろしいと思います。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 16:50 (UTC)

私が言いたいのは科研費の審査について特に文系の学問の審査の難しさは以前から言われていることであるが、それをもってその研究の学術性が疑われると言うことは先ずありえませんし、科研費の審査をパスしているのですから、同分野の専門家からは少なくともその調査計画と調査方法と研究意義について学術的価値が認められていることは明白と思われます。並の文献よりよっぽど信頼できると思いますが。科研費をもらっている時点で学問的価値はかなり認められていると見なすべきだと私は思います。私にはКОЛЯ氏やTruesight氏がどうして崔氏の学術的意義をそんなにも貶めたいのかわかりません。そもそも科研費をもらっている研究が学術的でないという論理が私には理解できません。--Kanbun 2011年2月21日 (月) 17:07 (UTC)

ご説明ありがとうございます。ただ上のように力説されても出典に乏しい事象であることに変わりありません。あなたがすべきことは他の出典を提示することです。嘘であるとまでは申しませんが、これだけの事件であれば良質な資料が他にもみつかるはずです。現在のように非常に限定された出典のみに立脚し断定調で書くのはやはり賛成できません。この状況では伝聞調での記載がベストであると考えます。--Truesight 2011年2月22日 (火) 12:29 (UTC)
出典に乏しいとはどういう事でしょう。崔吉城氏の文献は専門家の審査(ピアレビュー)を受けて科研費をとった研究で、その報告も学会で行われ、査読の存在する学会の定期刊行物に掲載されました。「非常に限定された出典」という意味が分からないので、具体的にどう出典として問題があるのか、方針文書に則って話をして下さい。崔氏の文献は明らかにWikipedia:信頼できる情報源であることは確認されたと思いましたが、それに異議を唱えているのですか?--Kanbun 2011年2月22日 (火) 13:59 (UTC)
ソースの異なる別の出典がない、ということを言っています。--Truesight 2011年2月22日 (火) 14:06 (UTC)
実際に他の文献があって言っているのなら分かりますが、何か心当たりがあるのですか。
また、ちゃんとした学術論文に検証可能な形で掲載されている事実を、なぜ伝聞調で書く必要があるのかわからないので、出典に問題があるというなら、方針に基づいて指摘して下さい。崔吉城氏はこの事件に関して調査研究をおこない、論文と関連文献を出しており、この事件に関して第一人者ということができかつ学術的にも信頼できると思いますが。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 14:10 (UTC)
他の文献に何も心当たりがないから聞いているのです。情報ソースが崔吉城(&林えいだい)のみという状況ですよね。方針にも客観性を担保するため、情報源の異なる複数出典が望ましい旨記載があると思います。--Truesight 2011年2月22日 (火) 14:22 (UTC)
他の文献がないなら、今の文献が最も信頼できると見るべきでは?他の文献が見つからないのであれば、今の記事内容以外の観点は検証不可能でしょう。記載する必要もないし、考慮する必要もないと思いますが。実際に文献を見つけてからそういう話をするのが筋では?「情報源の異なる複数出典が望ましい」としても現状ないのであれば、書きようがないでしょう。崔氏の文献が不適切かもしれないというのは誰だって言えるでしょうが、崔氏の文献が不適切だとする文献がないのですから、検証不可能であって記載できません。学術的に問題のない記述は文句なく信頼できる情報源であると信頼できる情報源には記されているのですから、それに依拠して書かれた事件を疑うのは、根拠がない以上、単なるTruesight氏の感想です。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 14:28 (UTC)
ここでわたしがいっていることは、たとえば、プトレマイオスの『アルマゲスト』しか出典がないのであれば、「太陽は地球の周りを回っている。」と書くよりも「プトレマイオスの『アルマゲスト』によると太陽は地球の周りを回っているとされる。」と書くべきでしょう、ということです。文献がそれしかないからそれを信じるしかないという考えには賛成できません。--Truesight 2011年2月22日 (火) 14:42 (UTC)
それについては以前別で回答済みですので、コピペ引用します。
最後に細かい日本語表現の問題ですが、例として挙げられた「ニュートンの運動方程式では力が質量と加速度の積に等しいとされる」を使って「~とされる」という記述の説明します。「ニュートンの運動方程式によれば、力が質量と加速度の積に等しい」と「「ニュートンの運動方程式では力が質量と加速度の積に等しいとされる」の違いを考えてみてください。前者はニュートンの運動法則が妥当であるという表明をしており、後者はニュートンの運動法則を相対化しています。今回のケースの場合、「崔氏によれば、1945年8月18日(もしくは17日)に敷香郡敷香町上敷香(ポロナイスク)と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂(ホルムスク)で事件が起こった」と「崔氏によれば、1945年8月18日(もしくは17日)に敷香郡敷香町上敷香(ポロナイスク)と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂(ホルムスク)で事件が起こったとされる」を比べてみれば、後者は崔氏あるいは加筆者は事件がなかった可能性を考えて相対化していることになりますが、事件がなかったとか事件が疑わしいと述べる検証可能な文献は一つもないので、検証可能な文献に基づく限り、事件は100%あったものとして「崔氏によれば、1945年8月18日(もしくは17日)に敷香郡敷香町上敷香(ポロナイスク)と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂(ホルムスク)で事件が起こった」と記述するのが適当です。なぜなら、後者の「崔氏によれば、1945年8月18日(もしくは17日)に敷香郡敷香町上敷香(ポロナイスク)と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂(ホルムスク)で事件が起こったとされる」という記述は崔氏自身が事件に疑念を持っていると記しているか、あるいは別の検証可能な文献で事件の可能性が疑われない限り、検証不可能な観点を含むので中立的ではないからです。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 14:45 (UTC)

ですから、文献がそれしかないからそれを信じるしかないという考えには賛成できません。実際、わたしにはこの事件がまごうことなき事実であるのか、捏造されたものであるのかわかりません。わからない以上、判断はしません。したがって伝聞調の記述にするしかないと考えています。--Truesight 2011年2月22日 (火) 15:02 (UTC)

私にはよくわからないのですが、ウィキペディアは検証可能なもののみ載せる場であって、事実を載せる場ではないです。信じる信じないは個人の問題であって、ウィキペディアの問題ではないですし、事件が事実であるかないかもウィキペディアの問題ではありません。そして、どうして伝聞調でなくちゃならないかさっぱりわかりません(Truesight氏が脳内で伝聞調に変えて記事を読めば問題ない気がします)。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 15:06 (UTC)
ウィキペディアの狙っているところは信頼される百科事典であると思いますよ。事実か否かにかかわらず検証可能なものを載せろという方針は何が事実かわからない人が思い込みで執筆するのを抑止するための方針だと思います。ここで、わたしもKanbunさんもこの事件が真実なのかどうかはわからない訳です。わからない以上、閲覧者に事実だよとも嘘だよともいえない訳です。知ってることは崔吉城がそういってるということだけです。であるなら伝聞調の文章にならざるを得ないと思います。全てを閲覧者側の責任に帰すのはちと無責任な気がします。--Truesight 2011年2月22日 (火) 15:25 (UTC)
Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」を確認されましたか?ウィキペディアンは閲覧者であると同時に検証者であるということはお分かりでしょうか。「分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。」
あなたの主観的な判断と感想は検証不可能な事実を根拠にしているという意味で読者に有益ではありません。検証可能な文献を示しているのですから、閲覧者はおかしいなと思えば、文献でもっと調べることもでき、より詳しい内容を確認出来ます。それに対し、「~とされる」などという出展内容に対して検証不可能で不正確な記述は閲覧者に検証不可能な観点を提供してしまうという意味で有害なのです。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 15:32 (UTC)
伝聞調で書くことは検証不可能な観点を提供することにはなりません。出典が極限されてる状況で出典を100%妄信し断定調で記述、読者に誤った観点を提供する方が余程有害です。--Truesight 2011年2月22日 (火) 15:50 (UTC)
出典には断定調で書いてあります。なぜ伝聞調にするのでしょう。また出典に100%基づくことは出典を100%妄信することではない上、それによって読者に誤った観点を提供することになるというのもどうしてそうなるのか意味不明で、むしろ伝聞調にするほうが誤った観点を提供することになるのは、別の検証可能な文献で事件の可能性が疑われない限り、検証可能な文献に載っていない観点を提供することになるからだということは既に申し上げました。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 15:59 (UTC)
その考え方は複数出典を挙げ記述の客観性を担保すべしとする方針に反するものです。--Truesight 2011年2月22日 (火) 16:15 (UTC)
記述の客観性というのはウィキペディアの方針文書にはないので、あるいは中立的な観点を誤解されているのではないかと思います。それに何が客観的な記述かというのは難しい問題です。どちらにせよ、少なくとも「~とされる」とするのが客観的と言うことはないでしょう。なぜならその記述は事実を伝聞調で表現することによって一つの主観を含んでいるからです。さて、本記事の検証可能性は満たされていますから、それによって情報の信頼性は担保されています。この点は全く疑いない点であると思われますが、それを疑ってらっしゃるのですか?--Kanbun 2011年2月22日 (火) 16:25 (UTC)--Kanbun 2011年2月22日 (火) 16:25 (UTC)
まず事実であるかどうか、そこは判断できません。そのようなものを断定調で記述する方こそ一つの主観を含んでいます。検証可能性によって出典との整合性は担保されますが、記事の信頼性が担保されるわけではありません。断定調での記述に拘るのであれば現在のようなほぼ単一の出典に頼るのではなく、独立した別出典を提示してください。複数の情報源は方針の信頼できる情報源で求められています。--Truesight 2011年2月22日 (火) 16:58 (UTC)
事実であるか判断する必要はないので、検証可能な文献に書いてあることを書けばよいのです。記事の信頼性は検証可能な文献との整合性で担保されるのであり、記事の信頼性はそれによって担保されています。「分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。」また、断定調で記載することは文献が断定調で記載しているのですから検証可能です。ところが、それを伝聞調で書くと、元の文献は伝聞調で書いていないのですから、検証不可能になります。
「同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。しかしながら、わたしたちは、当然編集者はもっとも権威のある情報源を探すべきだとしても、「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。
現状、事件が事実でないかもしれないなどという推測には検証可能な裏付けがないので、「わたしたちは自身の意見を追加することはできません」から、それに基づく編集の判断は不適切でありかつ不可能でしょう。「信頼できる」出版社が出している文献では、今まで事件がなかったとか疑わしいというものは一つも挙げられていません。--Kanbun 2011年2月22日 (火) 17:33 (UTC)
Truesight氏は方針文書の言う「同意の先入見」を疑っておられるようです。さて、崔氏の論文はピアレビューを受けた調査に基づいて学会発表され、ピアレビューのある学会の定期刊行物に記載されているのですから、現状でこの事件についてもっとも学術的な出典と考えられます。崔氏がたとえ同意の先入見に基づいて研究を開始したとしても、その研究計画も研究報告も専門家によってピアレビューを受けていることから、この文献の成立過程でそのような先入見はかなり排除されていると見なすべきです。そもそも学術的な文献が文句なく信頼できる情報源として認められるというのは、そういう前提に立った議論なのであり、崔氏の文献がこうしたピアレビューに支えられた信頼性を持っている以上、同意の先入見を持ち出すのはナンセンスでしょう。問題なのはむしろTruesight氏の「不同意の先入見」のほうです。氏は検証可能な文献で確認されたわけでもないのに、崔氏の研究に一方的に不同意を表明し、それを記事に反映させようとしています。これは明らかに「不同意の先入見」という方針違反をおかす行為です。氏は検証可能で学術的にも信頼できる崔氏の「同意の先入見」を根拠もなく疑い、その記述に根拠のない「不同意の先入見」をしてしまっているので、私にはとても同意できないものなのです。氏はさらに崔氏が韓国出身だからその文献は信頼できないという非常に人種差別的なものを感じさせる発言をしていることも、ますますその意見の適切性を疑わせます。--Kanbun 2011年2月23日 (水) 07:28 (UTC)
ピアレビューがどうだとかそんな話をしているのではありません(Kanbunさんだって実際はどのレベルのレビューが行われたかご存知ないわけでしょ)。ここで問題視しているのは出典が崔氏のみということです。それとわたしは人種差別的な発言は一切していません。しているというのであれば該当箇所を具体的に示してください。--Truesight 2011年2月23日 (水) 12:42 (UTC)

(インデント戻します)どのレベルって、少なくとも学術的なレベルのレビューが行われたのは確実です。学者のピアレビューを受けているかいないかはWikipedia:信頼できる情報源にあるように大きな評価基準です。それだけで文句なく「信頼できる情報源」と見なされることは御承知の通りです。私は出典が崔氏だけでもこれだけ学術的なのだから問題ないと言っているのです。逆に、検証不可能なTruesightさんの「出典が一つだから捏造かもしれない」という意見は私には受け入れがたいです。客観的に言って、全く根拠がないので。あと出典が少ない場合、「~とされる」と書かなければいけないという論理も私が前に示したように方針に根拠がなく、意味内容的にも今回の場合不適切であるので、全く議論になりません。それと、人種差別的な発言とは、「韓国の学者の出す著作などは多分に反日的色彩をおびいており、客観性に欠けていることが往々にしてあるのが事実です。」のことですよ。--Kanbun 2011年2月23日 (水) 14:02 (UTC)

参考として、Wikipedia:信頼できる情報源では、「一般的には査読された公表物はもっとも信頼できると考えられ、権威づけられた専門家による公表物がそれに次ぎます。政府の公表物は信頼できることも多くあります。」とあり、崔氏の論文は、査読された学会の定期刊行物に記載されており、専門家による査読制度のある科研費を通過しているため、全く問題ないと思われます。Wikipedia:検証可能性では、「学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。また、主張する内容に応じて適切な情報源を選ぶべきです(珍奇な主張には強固な情報源が必要です)。」ということが述べられています。上記によれば、崔氏の文献は学術的な主題を扱うのに推奨されている文献と見なすことが出来ます。一方、Truesight氏の主張はこのように信頼できる崔氏の文献に載っている事件が「事実誤認である、あるいは捏造である」ということを前提にした珍奇な主張と思われますから、同等程度の強固な出典が必要でしょう。そして今まで、Truesight氏の主張を裏づける文献は一つも示されていないのです。Truesight氏は「これだけの事件であれば良質な資料が他にもみつかるはずです。」とご自分でおっしゃっているのですから、自分でそういう「良好な資料」を探し出してから話をされるべきでしょう。一方でTruesight氏は「他の文献に何も心当たりがない」とおっしゃっています。果たしてそういう認識レベルでこの事件の何がおわかりになって、何を問題にしたいのか、私にはさっぱりわかりません。--Kanbun 2011年2月23日 (水) 14:23 (UTC)

その発言は別に人種差別発言ではありません。事実を述べたのみです。それとわたしは出典が限られている状況(かつ、その出典のみによって断定調で記事を執筆しようとするKanbunさんの姿勢)を問題視しているのです。(崔氏以外の)良質な資料の提示が求められているのは、それを問題ないとかたくなに主張しているKanbunさんの方ですよ。--Truesight 2011年2月23日 (水) 15:00 (UTC)
「出典を示す責任は掲載を希望する側に」あります。今回の場合、私の記述には学術的な出典がありますし、出典に基づかない初版以降の出典不明な加筆については、保護解除後内容を確認して適宜是正することを約束します。さて、「~とされる」という加筆を希望されているのはTruesight氏ですから、まずご自身の出典を示して下さい。出典を求められているのはTruesight氏の側です。以下、Truesight氏の主張のおかしな点を指摘します。
  1. Wikipedia:信頼できる情報源はたしかに出典は観点が違うものが複数あるとよいということが書かれていますが、それ以上に信頼性の高い学術的な文献に基づいた検証可能な記述が推奨されることが述べられています。「同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。しかしながら、わたしたちは、当然編集者はもっとも権威のある情報源を探すべきだとしても、「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。
  2. Truesight氏は、政府の科研費審査をパスし、学会で発表された調査を元に査読のある学会の定期刊行物に載った完全に学術的な崔氏の研究の信頼性を疑っておられますが、これはその検証可能な根拠が一つも示されておらず、極めて珍奇な主張であると思われます。
  3. Truesight氏の崔氏を疑う主観的な根拠の一つは「韓国の学者の出す著作などは多分に反日的色彩をおびいており、客観性に欠けていることが往々にしてあるのが事実です。」などという人種差別的な観点を含むものです。韓国の研究すべてが反日的だということは言えないことは明らかですし、客観性に欠けているのはこのTruesight氏の人種差別的な発言のほうです。
  4. また仮に崔氏の文献が信頼できないとしても、ウィキペディアにはそういう出典の情報を伝聞調で書けなどという方針文書は一切ありません。Wikipedia:検証可能性では、そのような場合、「~によれば」と書くと明記されていますが、「~とされる」と書くとは書かれていません。これは日本語表現として当然の話です。「~とされる」と書かれねばならないという主張には、ウィキペディアの方針文書に根拠がないのです。
以上のように、Truesight氏の主張は明らかに私には正当性が見いだせません。--Kanbun 2011年2月24日 (木) 11:51 (UTC)
1.「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。とあるようにわれわれには出典の内容について真実であるか虚構であるかの判断は求められていません。ここでKanbunさんが崔氏の出典にみに依って断定調の記述にこだわるのは明らかに行きすぎです。断定調の記載にこだわるのであれば別の独立した情報源を提示してください。崔氏の出典にかかわらず、ほぼ全ての情報ソースは断定調で記載されているものです。ソースが断定調であるから断定調で記述するというKanbunさんの主張こそは極めて珍奇なものです。
2.既に述べていますが、わたしは崔氏の出典について真贋を判断しません。それほど信頼性の高い事象であるならば別出典も容易にみつかるでしょう。提示を求めます。
3.わたしは往々にして存在する、とのべているだけで全てとはいってません。そして往々に存在するのは事実です。人種差別的観点ではいっさいかたっておりません。なんでもかんでも人種差別に安易にむすびつけるのはやめてください。
4.「~よれば」は良くて「~される」はだめということですか?ふつう「~よれば」ではじまれば「~される」で終わるものだと思いますが。
--Truesight 2011年2月24日 (木) 13:00 (UTC)
  1. ウィキペディアで断定調で書いてあるからと言って、それは事実であることを指しているわけではありません。あくまで元の文献にはそのように書いてあるということです。
  2. 別出典を見つけてから言って下さい。また、出典の真贋はこの議論で一度も問題になっていません。問題になっているのは学術的かどうかです。
  3. 「往々にして存在する」という表現で言っているとしても、根拠が挙げられておらず、客観的ではありません。またこの発言はTruesight氏が仮にそう意図していないとしても、韓国の研究に限定している時点で、その学問的価値を一方的に貶めており、人種差別的観点を含んでしまっています。
  4. 「~によれば」は良くて、「~とされる」はだめということです。そして、「~によれば、~である」と「~によれば、~とされる」では別の意味内容を指してしまうことはすでに示しました。さらに、Truesight氏は方針文書によると「~とされる」とするのが正しいからそうするのだと主張していましたが、方針文書にそんな文言はありません。
以上、改めてTruesight氏の発言のおかしな点を指摘いたします。--Kanbun 2011年2月24日 (木) 13:11 (UTC)
  1. 既に述べたように出典に断定調で記載されているからといってWikipediaで断定調で書かなければいけないというのは理由になりません。「事実であることを指しているわけでは」ないのであればなぜミスリードを誘発する断定調にこだわるのでしょうか。
  2. 既に述べているように別出典を提示すべきは断定調で記述すべきとしているKanbunさんの方です。
  3. 根拠としてとりあえず、広開土王碑の韓国学会での解釈や英語版の[13]を挙げておきます。英語版での韓国に関する記事の内には他にもおかしな記事が存在しますがそれらはほとんど韓国ソースが出典として用いられています。あと韓国起源説からの引用ですが、歴史学者の朴炳植(パク・ピョンシク)が韓国語の「イルボン」が日本語の「ニッポン」の起源であると主張していたり、韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授の洪潤基(ホン・ユンギ)が「くだらない」の語源は「百済ない」で、「優秀な百済の文物がないことはみすぼらしいこと=百済・ない」が「くだらない」の起源であると主張していたりするようですね。わたしはこのような状況から韓国の学者の著作などには客観性に欠けることがあると評しているのですが、それが人種差別であるとするならどう表現すればいいのでしょうか。訂正させていただきたいので是非お教えください。
  4. ふつうは、「~によれば」とくれば、「~とされる」でしょう。別の意味内容を指してしまうというのはKanbunさん独自の主張じゃないでしょうか。あと「Truesight氏は方針文書によると「~とされる」とするのが正しいからそうするのだと主張していました」とありますが、わたしはそんなこと言いましたでしょうか。具体的な箇所を示してください。
--Truesight 2011年2月24日 (木) 14:02 (UTC)

(インデント戻します)やはりおかしい点を指摘いたします。

  1. 断定調であるとミスリードするというのは根拠がありません。ウィキペディアは事実を記載する場所ではないことは方針で明記されており、お互い確認済みなのですから、断定調で書いてあるからと言って事実と誤認するようなことはありません。もちろん事実でないと言っているわけでもありません。あくまで検証可能なのです。
  2. 記事は出典に基づいて本来断定調で書かれていました。それに「~とされる」という記述を認めようとしているのはTruesight氏です。記事は断定調で書かれ、その状態で検証可能だったのであり、逆ではありません。
  3. 本記事と全く関係ない話題であり、そもそも学術的なものだったのかもわからない特殊な事例一つ二つで、韓国の研究一般が学問的でないかのような誤解を招く発言は不適切です。さらに崔氏が以前そういう誤りをしているならわかりますが、その話題は崔氏とは全く関係なく、根拠として不十分であります。つまるところ崔氏とそのいかがわしい研究との共通点は「韓国に関わる」という一点だけであり、それだけで「事実誤認かもしれない」と思ったとおっしゃっているのですから、これは韓国の学術研究に対する偏見であり、人種差別的なものです。
  4. 「~によれば」とくれば「~とされる」と結ぶのが普通に行われることだとしても、それでは逆にミスリードが生じることはすでに説明しました。また、方針文書に根拠がないことを確認できれば私には十分なので、「~とされる」は方針に基づくという認識でないのでしたら、それで結構です。

以上。--Kanbun 2011年2月24日 (木) 14:19 (UTC)

(補足)4.については私の言っていることがよく理解できないのであれば、たとえばКОЛЯ氏が「ではどう書いたらよいかという点ですが、「とされる」と書くのもよいように思えますが、あえて「とされる」と書くと、「真実はそうでないにちがいない、とこの記事の執筆者は読者に伝えたいと思っている」というニュアンスを醸し出してしまいます。こう書くためには、明確に疑義を述べているソースが必要でしょう(本文中に書く必要はないかもしれませんが、ノートでの議論では提示すべきです)。従って、Kanbunさんの「という日本人による一連の朝鮮人虐殺事件で、これに関しては崔吉城らの文献がある。」が比較的よいように思います。」と言っているのがわかりやすいのではないでしょうか。--Kanbun 2011年2月24日 (木) 14:26 (UTC)

  1. 詭弁ですね。ここであなたのいってる検証可能は方針の検証可能性とは全くの別物です。
  2. そういう検証可能はWikipedia方針の検証可能性とは別物です。ここで適用されるべき方針は中立的観点です。
  3. 本記事と直接関係あるものではありませんが、傾向としてご紹介したのみです。ちょっと思い当たるだけで上に書いただけあるのです。それに広開土王碑の特殊な解釈は韓国学会での主流派です。これがいかがわしいというのであれば韓国学会主流派がいかがわしいということになってしまいます。他にも韓国学会で主流の韓国併合不法論なんかもそうなんじゃないでしょうか、国際学術会議で欧米の権威に否定されてますが、これなぞは韓国の学術研究には、非常に政治と親和性の高い恣意的なものが存在する証左でしょう。こういった指摘が人種差別といわれてしまうのであれば、韓国学会に対する否定的な見解は一切書けなくなってしまいます。なんでもかんでも人種差別、偏見に帰するあなたの見解は合理性を欠いたものです。
  4. (わたしはあなたに具体的な箇所を示してくださいとお願いしていたのですが、見つからなかったということでしょうか。今後、ご指摘の際はご確認の上お願いします。)全くの賛成ではありませんが、逆ミスリードについてのご心配については理解できなくもありません。
恐らく、お互い、意見は出尽くしたのではないでしょうか。ここらで少し他の方のご意見を待ってみませんか。--Truesight 2011年2月24日 (木) 16:37 (UTC)
  1. 方針の検証可能性です。ウィキペディアは検証可能なことのみ載せているのであって、事実を載せているのではないと書かれていることは御承知のはずです。どこが詭弁か具体的に論じて下さいませんか。
  2. 中立的な観点に基づいても、検証可能な文献において事件を否定するものは一つもないので、断定調で書くのが中立的でしょう。
  3. 統計学的な考えを用いれば、たとえば韓国の研究の数といえばすでに数万、数十万のレベルであろう事が予測できるのに、そのうちの10に満たないものを挙げて論じても一般的な傾向などは論じられません。そのような状況で「韓国の研究は客観的でない」などと一般化するのはやはり差別的表現であるといえるでしょう。
  4. 私はTruesight氏が「~とされる」という記述が良いという意見を方針文書に基づいて議論されているものと思ってました。どうやらそうではなかったようです。これは失礼しました。ただの主観的な見解だったのですね。
検証可能な文献において最も信頼できるのは崔氏の文献であることは明白です。現状それに添って編集するのがよいことは同意されますよね。別の文献があるというのなら、示していただければよいのですが、ないのであればそれに基づいて書くのが適切であることは了解されてくださることと思います。意見を待つというのであれば、どうぞお待ちになっているとよろしいと思います。私としてはTruesight氏が何か新しい文献でも発掘してきてくれることを望みます。--Kanbun 2011年2月24日 (木) 17:09 (UTC)

意見だけではウィキペディアの記述に反映できないので、Truesight氏にはまずご自分の主張を裏づけられる出典を探してきてください。また、方針にないことを話されても困りますので、議論をする際にはちゃんと方針を踏まえて話してください。そもそも崔氏の論文も読んでいないのに、一方的に疑うのは不適切です。この記事は検証可能なのですから、文献に基づいて検証して話をして下さい。そうでなければいつまでたっても非生産的な議論に終始するように思われます。--Kanbun 2011年2月24日 (木) 17:16 (UTC)

  • TruesightさんのKanbunさんに対する批判に同意します。Kanbunさんは「~とされる」という文末を強硬に否定したうえで、断定を用いるべきだとかいてますが、それこそが、記事の信頼度を不当に上げれる記述でソースがいるでしょう。学界の少数の人間が発表している事実を断定口調で書くのは、学問的な議論では、断定が一般に定説に用いられるくらいであまり、論争のある分野では使われないことを考えれば明らかに、例外的な主張です。Kanbunさんはそれに異様にこだわってるわけですがそれこそソースが必要だというTruesightさんの主張には同意できます。
  • Kanbunさんはこの記事の第一執筆者だそうですが、その点でこの記事を自らの所有物であるかの用に振舞いたくなっているのかもしれません。しかし、ウィキペディアは誰かの所有物ではないことは当然です。そのいみでKanbunさんには少し冷静になってほしいと思います。Nakata88 2011年2月25日 (金) 12:15 (UTC)
何か名前が出てきたので横入りしますが、現時点では「論争」の存在が示されていません。Kanbunさんの肩を持つつもりは毛頭ございませんが、現時点では、崔氏(および林氏、あるいはガポネンコ氏や朴氏)の著作を利用するしかありません。これらの著作に対するネガティブな書評が存在するとか、これらの著者に対するネガティブな評判が存在するとかであれば話が別になりますが、もしそうであればそれを示す必要があります。一般的に韓国人は〜、人類学者は〜のような観点から論じるのは、著者に対して失礼というものです(但し、個人的な感想としては、崔氏の事実検証の態度には甘いところがある、とは感じました)。よって、現時点では、どんなに怪しくとも、これらの出典を尊重することが望まれます。もっとも、いかなる出典を利用するかには、記事執筆者の力量というか矜恃が試されますが。--КОЛЯ 会話 2011年2月25日 (金) 16:24 (UTC)
  • КОЛЯさんへ。著書の引用についてはもちろん、「それしかない」のですから、それを引用するしかありません。そこは別に異論はないわけです。
  • Kanbunさんがこだわってられるのは、「それしかない」ということがはっきりわかる記述を書かせないということなわけです。Truesightさんの議論の根拠については、わたしも、КОЛЯさんのいう批判の趣旨は理解しますが、КОЛЯさんもおっしゃるとおり、ソースがそれしかないという現状をわかるように書くのもウィキペディアでは要請されています。ですから、Truesightさんの「断定」こそソースがいるというのはその意味で、同意できるわけです。そこが、Kanbunはそれについて反対されているわけですから、議論はウィキペディアの根幹にかかわるわけなのです。Nakata88 2011年2月25日 (金) 21:58 (UTC)

すでに感傷論になってしまっているかと思います。学術的な査読を複数回経ている崔氏の研究に何か問題があると言いたいのでしたら、検証可能な文献に基づいて論じていただきたく思います。以前の出典捏造事件における記事内容の誤読は大変稚拙なレベルであり、議論をする前に文献などを確認されることを強くお薦めします。--Kanbun 2011年2月25日 (金) 16:04 (UTC)

  • 感情論になっているのは、Kanbunさんだけだろうと思います。わたしも含めてほかのKanbunさんを批判している人はこの記事に深い思い入れはほとんどないだろうと思います。ただ、この記事の記述が、ほかの記事と比べて浮いているから問題になるのです。なぜ浮いて見えるかというと、少数の報告者がいっていることなのに、「断定」口調になっていしまっていたり、それが少数だとわからないような記述になっているからです。
  • Kanbunさんがこの記事の最初の編集を行った人であることから特殊な感情を抱いているのかもしれませんが、ある記事はウィキペディアでは理由なく維持できません。また、ある記事に所有的感覚を抱くのは、ウィキペディアではよくあることみたいで、ウィキペディアの編集のやり方を書いた文章でも触れられているのですが、そこではよくない効果をうむことが憂慮されています。ウィキペディアは編集に対して開かれていなければいけないからです。そのいみで、Kanbunさんはほかの記事がどうかかれているかを参照されることをお勧めします。Nakata88 2011年2月25日 (金) 21:58 (UTC)
まず、КОЛЯさんの「これらの出典を尊重することが望まれます」ですが、これに異を唱えている人はいないのです。「韓国人学者~往々にして~」は別に韓国人学者をすべからく非難しているわけではありません。注意を喚起しているのです。方針でも無批判に出典をうのみするのは戒められているところでもあります。尊重はしますが、わたしが言いたいのは、たとえ査読を経ていたとしても単一のソースに全幅の信頼を置くことはできない、ということです。ここでは方針に即し件の出典の存在を報告するにとどめ、断定調での記載は避けるべきです。Kanbunさんは出典は断定調であるからこれを伝聞調で記載するのは検証可能性にもとるというご意見ですが、そんな方針はWikipediaにはございませんので反論の根拠とはなりえません。あとWikipedia:信頼できる情報源#注意すべき論点を熟読して欲しいところです。--Truesight 2011年2月26日 (土) 02:20 (UTC)

(インデント戻します)出典の数が少ないと、なぜ「報告する」にとどめなければいけないのか、そして伝聞調だとなぜ「報告する」ことになるのか。「報告する」というのが何を意味しているのか方針文書にないため、よくわかりませんが「~によれば」と書けば出典を明示することは可能です。Wikipedia:信頼できる情報源#注意すべき論点は私には今回の件には全く関係ないと思います。それはあくまで出典が妥当かどうかの判断基準であって、今回のように出典が信頼できるものであると明らかな場合は、とりあえず問題ではありません。別観点の文献が実際にあるなら分かりますが。--Kanbun 2011年2月26日 (土) 12:08 (UTC)

>なぜ「報告する」にとどめなければいけないのか
上に、ご自分で方針から引用した文章を貼ってますよね。「報告」でサーチしてみてください。
>伝聞調だとなぜ「報告する」ことになるのか。
出典の存在を知らしめ、出典内容の真贋については言及しないことにあるからです。
>今回のように出典が信頼できるものであると明らか
何故そういうことがいえるのですか。そういう主張にあなたの主観が介入していませんか。
--Truesight 2011年3月2日 (水) 16:04 (UTC)
なるほど。方針文書をそうやって斜め読みしているのですね。
  1. まず最初の論点については、私が言っているのは「出典の数が少ないと、なぜ「報告する」にとどめなければいけないのか」というTruesight氏の意見に問題提起しているのです。方針文書に書かれているのは、「「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。」ということであって、出典の数とは関係ないにもかかわらず、Truesight氏の意見は出典の数を問題にしているが、それはどうしてですかということです。
  2. 次に「伝聞調だとなぜ「報告する」ことになるのか。」についても結局は同じ事で、ウィキペディアで断定調で書いてあっても、それは検証可能だと言っているだけで事実だと言っているわけではありません。つまり「Aである<ref>B</ref>。」という文はBという出典にAということが載っているという報告をしているだけです。伝聞調だと「報告する」ことで断定調だとそうではないというTruesight氏の意見は方針文書に根拠がないどころか、常識的に考えてもおかしな主張です。なぜなら、報告する行為が伝聞調で行われるならば、一般的な報告書の書式はすべて伝聞調でなくてはならないはずだが、そんなことはありえません。報告することと伝聞調の間には関係性はないのです。
  3. 信頼できる情報源を見てもわかるように、信頼できる情報源とはまず信頼できる「出版社」から出されているかどうかで、学術的な内容では学者のピアレビューを受けているかどうかが重要な判断基準になります。「学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。」(Wikipedia:検証可能性)崔氏の論文がピアレビューを複数回受けていることは既に示しました。これは客観的な事実です。それでも韓国人だから信頼できないというTruesight氏の意見はすでにウィキペディアの方針に根拠のない、ただの独善的な偏見でしょう。--Kanbun 2011年3月3日 (木) 00:46 (UTC)

Kanbunさんはまだやってたんですか・・・。wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなとされている以上、WKIPEDIAにおいて事件が事実であると証明できる出典が無い限り、事実とする断定表現はできません。歴史について専門家ではない崔吉城や林の意見(主張)として書くしかありません。それが方針です。方針を守ってください。--樺太ニフティ 2011年3月4日 (金) 23:19 (UTC)

樺太ニフティさんには誤解があるようです。出典を確認されることをお薦めします。--Kanbun 2011年3月4日 (金) 23:35 (UTC)
出典はどこでしょうか?現在の出典では検証可能性を満たしていません。あなたは事件を事実として断定表現で記載しました。ならば意見ではなく事実であるとする証明(出典)が必要です。歴史的な事柄について事実であるとするには「学者や専門家の共通認識によって同意された記述」である必要があります(Wikipedia:信頼できる情報源#歴史)。それを提示してください。歴史の専門家ではない文学博士の崔吉城や林なる作家では話になりません。専門家の同意を見せてください。それができないのであれば方針を逸脱した書き方をあなたはしていることになります。読者に嘘をつかないよう、お願いいたします。--樺太ニフティ 2011年3月4日 (金) 23:44 (UTC)
ウィキペディアの記述方式について誤解があるようです。現在の記事の一部には「要出典」タグが貼られ、出典が不明確な部分がありますが、それ以外は検証可能性を満たしています。また事件を事実として断定表現で記載したというのは、そういうことが検証可能であると言うことを示しているだけに過ぎず、ウィキペディアの方針文書に完全に依拠したものです。崔氏の論文は専門家によるピアレビューを複数回経ており、完全に「信頼できる情報源」です。(Wikipedia:信頼できる情報源#歴史)ここまで完全に方針に依拠していて、なにをもって方針に逸脱した書き方をしているというのか、全く理解不能なのですが、具体的に何を問題になされたいのですか。主観的な意見を述べられても困りますので、検証可能な文献を示すなりして現在の記事内容の問題点を具体的に指摘して下さい。--Kanbun 2011年3月5日 (土) 02:16 (UTC)
まず、Kanbun氏に苦言を一つ。「韓国人だから信頼できない」とはわたしは述べていません。注意を受けながら意図的なミスリードを何度も何度も繰り返すKanbun氏には真摯な議論態度がみられません。これ以上繰り返すことのないよう強く注意しておきます。それとこれも繰り返しですが出典に断定調で書かれているからといって断定調でかかなければ検証可能性にもとるということはありません。Wikipediaの方針ではそのような「検証可能性」はありません。また、崔氏の論文はピアレビューを複数回受けており信頼できる情報源であるとしても、その妄信はWikipediaでは忌避されるところのものです。下記に方針を引用しますので良く読んでください。
複数の情報源を確認する
同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。

しかしながら、わたしたちは、当然編集者はもっとも権威のある情報源を探すべきだとしても、「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。

注意すべき論点

  • 複数の独立した一次資料を使った二次資料がありますか?
  • 底意や関係者間の対立、強硬な見解、そのほか報告に影響する先入観はありますか?関係者間の議論は常に明白に公表されるわけではなく、先入観は常に自明ではないことを憶えておいてください。しかしながら、情報源に強硬な見解が含まれているということは、必ずしもそれを使ってはならないならない理由にはなりません。ただし、編集者は一般にはStormfrontやアル・カイダ、イギリスの社会主義労働者党のように広く過激派として知られている政治団体を使うことは避けるべきです。こうした団体は、一次資料、すなわち彼ら自身の情報源や独自の活動や視点の情報源としてしか使えませんし、そうした場合でも注意深く慎重でなければなりません。
  • 彼らは本当にそこに実在しましたか?出来事の目撃者による説明と解説者によるものを注意深く分けて考えるようにしてください。前者は一次資料で、後者は二次資料です。どちらも信頼できます。
  • あなたの情報源についてほかの人がどのように言っているか探し出してください。
  • ほかの事実を報告している情報源は、別分野の場合も含めて信頼できますか?あなたがすでに知っていることについて照合してください。
  • ほかの編集者が確認するのに使えますか?わたしたちは読者のために情報源を提供するため、原則として読者は情報源にアクセスできるはずです。もしそうでなければ、おそらく引用の仕方が不適切なのでしょう。ただし、オンラインである必要はありません。図書館で利用できれば十分です。

--Truesight 2011年3月5日 (土) 08:48 (UTC)

さて、「複数の情報源を確認する」をよく読んで下さい。「同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。しかしながら、わたしたちは、当然編集者はもっとも権威のある情報源を探すべきだとしても、「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。」。つまるところ崔氏の文献は客観的な「信頼できる情報源」としての条件を満たしており、かつその文献と相反する「信頼できる情報源」は一つも出されていないにもかかわらず、一方的に崔氏の記述を疑うTruesight氏の意見はこの方針文書の「「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということ」という記述に明らかに反しています。この方針文書では「複数の独立した観点」よりも「信頼できる」という条件が明らかに上位として示されているのはおわかりでしょうか。私が現状崔氏の記述に則って検証可能な形で書くべきと言っているのはそういう意味であるということをご理解下さい。
そして、Truesight氏の示した方針文書のどこにも「伝聞調で書け」などという文言は入っていません。検索してみて下さいな。
苦言についてですが、「韓国人だから信頼できない」ということをTruesight氏が述べていないのならば、「言いたくないのですが、韓国の学者の出す著作などは多分に反日的色彩をおびいており、客観性に欠けていることが往々にしてあるのが事実です。」という発言や「わたしはこのような状況から韓国の学者の著作などには客観性に欠けることがあると評しているのです」というのは何だったのでしょう?議論と関係ない横道にそれた話だったのなら、以降は勘弁願います。そして、「韓国人だから信用できない」ということを述べていないのなら、私が示したように、崔氏の論文は科研費を受けた調査に基づいて学会発表されたものであり、信頼性に文句を言う余地はウィキペディアレベルではないと思われますが。結局何を理由に方針文書に根拠のない「伝聞調」などという表現にこだわるのかわかりかねます。--Kanbun 2011年3月5日 (土) 09:05 (UTC)
その方針文書は、次のように解釈します。
同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。
その上で
しかしながら、わたしたちは、当然編集者はもっとも権威のある情報源を探すべきだとしても、「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。
それと注意すべき論点の第一点では、複数の独立した一次資料を使った二次資料がありますか? と問われており、第二点では、底意や関係者間の対立、強硬な見解、そのほか報告に影響する先入観はありますか?関係者間の議論は常に明白に公表されるわけではなく、先入観は常に自明ではないことを憶えておいてください。とありますが、この点はクリアできてますか?
それと、あなたがあげている2つの発言は「韓国人だから信用できない」といっているわけではありません。学術研究であっても妄信できないと注意を喚起しているだけです。既に、根拠として、韓国学会で主流派の広開土王碑の解釈や韓国併合不法論争、[14]などなどをあげています。特にわたしの2つ目の発言は根拠とともに述べているもので一部のみを切り取って根拠なく述べているように見せかけるのはやめてください。--Truesight 2011年3月5日 (土) 09:43 (UTC)
まず最初の解釈は明らかに間違っています。ウィキペディア三大方針の一つであるWikipedia:検証可能性を確認して下さい。「記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあり、これを根拠に考えるならば、上記の文は「その上で」などという勝手な解釈を許すものではありません。検証可能性は何よりも優先される三大方針の一つなのですから、他の方針文書もそれを踏まえていると見るのが正しい理解です。ウィキペディアの方針文書はそれぞれの文書を総合的に判断してその精神を理解して運用されるべきもので、個々の方針文書の字面だけを追って自分に都合の良い解釈だけを取ろうとするTruesight氏の見解は方針の誤用あるいは悪用であり、不適切なものです。
また崔氏の論文はソ連のKGBによる報告書や林氏の文献、朴氏の文献など複数の一次史料・二次史料に基づいており、そのうえで複数回のピアレビューも受けているので問題ないと思われます。逆にこういうことを主観的に疑っているTruesight氏は検証可能であるにもかかわらず、出典を確認していないことが明白で、はっきり言うと内容について議論する資格は全くないと思われます。内容を確認せずに憶測だけで話をされても困ります。この点についてはNakata88氏と全く同じ問題点があると私は思います。
崔氏は日本の学会に所属しており、日本の学会で研究発表を行ったので、韓国の学会の話は正直わたしにはどう関係するのかさっぱりわかりません。また、以前にも申しましたように、事実はどうだかわかりもしないのに2,3の例を挙げて韓国の学会事情を決めつけるようなことは客観的な議論とは全く思えません。
はっきり申し上げれば、Truesight氏の発言は出典も確認しない、独りよがりな観点からくる暴論で、検証可能な文献の裏づけもなく、「記述を伝聞調で書かなければいけない」などという珍妙な説に至っては方針文書に根拠もなく、何ら方針に基づくところがありません。上での「信頼できる情報源」の方針文書を好き勝手に解釈している例からわかるように、方針文書の一部だけを切り取って都合良く解釈し、ウィキペディアの方針文書全体の整合性を全く考えない乱暴な議論は、方針文書に対する無理解をさらけ出しています。このうえさらにおかしな立論を続けるならば、その方針文書の理解についてコメント依頼を出さざるを得ません。--Kanbun 2011年3月5日 (土) 11:51 (UTC)
補足として英語の原文を挙げれば、明らかにTruesight氏のような解釈は成り立たないことが分かります。「Because conscious and unconscious biases are not always self-evident, you shouldn't necessarily be satisfied with a single source. Find another one and cross-check. If multiple independent sources agree and they have either no strong reason to be biased, or their biases are at cross purposes, then you may have a reliable account. However, bear in mind that we only report what reliable publications publish, although of course editors should seek to use the most authoritative sources. In accordance with Wikipedia's No original research policy, we do not add our own opinion.」たとえ「authoritative sources」であっても「what reliable publications publish」に匹敵するものはないことが明記されています。「bear in mind」という強い表現もそれを裏づけています。--Kanbun 2011年3月5日 (土) 12:05 (UTC)
また補足ですが、日本語版の「同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。」という訳はちょっと意味を間違いやすい訳になっています。「Because conscious and unconscious biases are not always self-evident, you shouldn't necessarily be satisfied with a single source. Find another one and cross-check. If multiple independent sources agree and they have either no strong reason to be biased, or their biases are at cross purposes, then you may have a reliable account. 」は「意識的なあるいは無意識的な偏見というものは常に自明であるとは限らないので、単一の情報源に必ずしも満足すべきではありません。別の情報源を見つけて照合しましょう。複数の独立した情報源が同意しており、それらが各々、偏見に基づいているという強い理由がない場合、あるいはそれらの偏見が互いに食い違っている場合は、あなたは信頼できる記述に基づいているとすることができるでしょう。」現在の日本語訳はaccountを可算名詞で使われているのに不可算で解釈し明らかに誤訳していますし、原文にあるnot necessarilyの解釈が間違っています。--Kanbun 2011年3月5日 (土) 12:26 (UTC)

Wikipedia:信頼できる情報源でのKanbunさんの改変を、争点部分の不適切改変と判断しリバートしました。先ずは合意形成をお願いします。--118.4.150.123 2011年3月5日 (土) 19:47 (UTC)

>出典が不明確な部分がありますが、それ以外は検証可能性を満たしています。
何度も申しますが満たしていません。意見ではなく事実として記載したいのならば、専門家の同意が必要です。それを示してください。強引な言い訳で逃げないようにお願いします。
>崔氏の論文は専門家によるピアレビューを複数回経ており、完全に「信頼できる情報源」です。
えっと、専門家が読んだと言う証拠と、専門家の同意を見せてください。あなたの主張からすると書店で売っていれば「専門家が読んでるはずだ!その反論も無いから同意だ」となってしまいます。それは独自研究です。文学博士の論について歴史学者(専門家)の同意を示してください。それができれば断定表現に反対はしませんから。示すことができないのであれば、独自研究ですので表現を改めさせていただくことになります。追記;勝手に合意も無くルール関係の記事を改変しないこと。英語版のルールに則りたいのであれば、英語版に行ってください。--樺太ニフティ 2011年3月6日 (日) 19:00 (UTC)
>意見ではなく事実として記載したいのならば、専門家の同意が必要です。
専門家である崔氏によって同意がされています。
>えっと、専門家が読んだと言う証拠と、専門家の同意を見せてください。
科研費を受ける際に崔氏の調査は専門家による同意を受けています。また崔氏の論文は学会の定期刊行物に記載されたものであり、学会の同意を経ています。
>追記;勝手に合意も無くルール関係の記事を改変しないこと。英語版のルールに則りたいのであれば、英語版に行ってください。
意味不明。同方針文書は草案であり、英語版からの訳出です。私は誤訳を直しただけです。樺太ニフティ氏の以上のコメントはウィキペディアの方針文書の仕組みを理解していないように思われます。--Kanbun 2011年3月6日 (日) 19:35 (UTC)
>専門家である崔氏によって同意がされています。
えっと、歴史的な事件について文学博士の崔は専門家でないことは、あなたでもおわかりになるでしょう。日本語において専門家とはある特定の学問・事柄を専門に研究・担当している者のことです。イチレポートを書いたからと専門家とは日本語的にいえません。歴史的事柄ですから歴史学者の同意を示してください。
>科研費を受ける際に崔氏の調査は専門家による同意を受けています。
どのような同意だったのか、見せていただけますでしょうか?
>同方針文書は草案であり、英語版からの訳出です。私は誤訳を直しただけです
草案であろうが、コミュニティーで相談されて出来上がったものです。それをアナタ個人でいじることはできません。コミュニティーを無視するならばご退場願います。--樺太ニフティ 2011年3月6日 (日) 23:26 (UTC)
>えっと、歴史的な事件について文学博士の崔は専門家でないことは、あなたでもおわかりになるでしょう。
学位は学位請求した論文の分野に基づくのであり、その研究者の研究分野と一致するとは限りません。また崔氏の調査が科研費審査を通過している事実は、専門家によるピアレビューによってその専門性が十分に立証されている証拠と思われます。
>どのような同意だったのか、見せていただけますでしょうか?
[15]を御覧下さい。科研費審査を通過しています。科研費の趣旨を考えれば、その学問が「科学的」であるということが国によって認められているということは分かりますね。
>草案であろうが、コミュニティーで相談されて出来上がったものです。それをアナタ個人でいじることはできません。
Wikipedia:ページの編集は大胆にをご存知ないようです。草案段階の方針文書はウィキペディア内で効力を持ちませんし、草案段階ということはそういう誤訳修正などを受け付けている状態であるということです。明らかに間違っている箇所を修正するのは方針文書に照らしても正しい行動です。--Kanbun 2011年3月7日 (月) 04:15 (UTC)
わたしには正しい行動に思えません。詳細はコメント依頼のほうに書きました。--Truesight 2011年3月7日 (月) 12:05 (UTC)
>その研究者の研究分野と一致するとは限りません。
一致しない時点で「専門家」とは日本語的に言いません。あなたの論からすると博士の学号を取得したものは、どんな分野でもレポートを書けば「専門家」と言えることになってしまいます。
>崔氏の調査が科研費審査を通過している事実は、専門家によるピアレビューによってその専門性が十分に立証されている証拠と思われます。
「専門家が見た」ことが同意の証拠にはなりません。「思われます」というあなた独自の判断は必要ありません。異論が出ているのですから、専門家の同意をはっきりと見せてください。
現在出典からわかる事実は崔と林が主張していると言うことのみです。ならば、読者にもそのまま彼らがそのように論じていると正確に書けばよいのです。なぜ、事実を隠そうとするのか?そこにはあなたの個人的な思いが入り込んでいるのではないですか?独自研究はお止めいただきたい。
>Wikipedia:ページの編集は大胆にをご存知ないようです。
アナタが提示したガイドラインをしっかりお読みください。論争になりそうな主題を扱った項目を編集する前に、ノートページのコメントに目を通してください。なぜ、現在のような記述になっているのか、その経緯を理解してください。論争の種となる項目を編集する前に、ノートに、編集したいところを抜き出して、どのように変更するかを提示してください。 あなたはそれができていません。wikipediaは共同作業の場であり、あなたが正しいと思うことを強行する場ではないのです。提案して合意を得てから行動してください。--樺太ニフティ 2011年3月7日 (月) 16:25 (UTC)

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  • >一致しない時点で「専門家」とは日本語的に言いません。
これは明らかに学界の実情を知らない発言です。さらにそもそも、専門家というのはその研究をしている人を指しているのであり、今回の場合崔氏は樺太朝鮮人虐殺事件について学術的に扱っている唯一の人なのですから、専門家と見て何が問題あるのでしょうか。学会発表をおこなっているくらいですから、現状では他の学術的な批判研究がないかぎり、専門家と見てまず間違いないでしょう。
  • >「専門家が見た」ことが同意の証拠にはなりません。
これについては査読やピアレビューの意味が分かっていないようです。私は「専門家が見た」といったのではなく、「専門家が審査した」「専門家がピアレビューをおこなった」と言っているのです。
  • >現在出典からわかる事実は崔と林が主張していると言うことのみです。ならば、読者にもそのまま彼らがそのように論じていると正確に書けばよいのです。なぜ、事実を隠そうとするのか?
出典はウィキペディアの方針通り参考文献節に明記されているのですから、隠しているという意味が分かりません。
  • >:アナタが提示したガイドラインをしっかりお読みください。論争になりそうな主題を扱った項目を編集する前に、ノートページのコメントに目を通してください。なぜ、現在のような記述になっているのか、その経緯を理解してください。論争の種となる項目を編集する前に、ノートに、編集したいところを抜き出して、どのように変更するかを提示してください。 あなたはそれができていません。
私は明らかな誤訳の修正をおこなっただけです。それが「論争になりそうな主題」というのはオーバーだと思います。--Kanbun 2011年3月9日 (水) 05:18 (UTC)


>専門家というのはその研究をしている人を指しているのであり

「専門家」とは特定分野を専門的に研究している人のことです[16]。何度も申しますが、あなたの論だと経済学の教授が歴史学の発表をしても「専門家」としてokとなってしまいます。こんな低レベル主張はいい加減にしてください。

>「専門家が審査した」「専門家がピアレビューをおこなった」と言っているのです。

「査読までは行われず要旨の審査のみで発表に至ります。科学研究費も同様です。補助金を受けた後に発表された研究について、委員から査読されるなどということはありません。」 という意見が上記でも第三者から出ております。専門家による同意があったと主張するならば、この事件に関するどんな専門家が同意したのかはっきりと提示していただけませんか?

>出典はウィキペディアの方針通り参考文献節に明記されているのですから、隠しているという意味が分かりません。

事実を本文で書きたがらないというのは「隠している」と思われても仕方がありません。主張しているのは誰かという事実をはっきりと示したくないというあなたの考え方がよくわかりません。そこには個人的な「何か」があるのではないですか?事実を事実のまま書きましょうよ。

>私は明らかな誤訳の修正をおこなっただけです。それが「論争になりそうな主題」というのはオーバーだと思います。

いいえ。どんな場合でも合意を得て行動することが基本でしょう。特にコミュニティー全体に関わるルールに関する記事をいじるならばなおさらです。 「正しい(と思う)から強引に編集してok」は通用しません。肝に銘じてください。--樺太ニフティ 2011年3月13日 (日) 00:42 (UTC)

だよねぇ、右系の某も英文学が専門で歴史学が専門でも何でもないけど、専門家面してるし(歴史学査読雑誌に掲載されたこと無いのに)。あ、でも秦郁彦氏は法学系の出身なのに歴史学への発表論文あるし、歴史学出身の学者からも著書を引用されてるか。結局どの査読雑誌に論文が掲載されたかということか。自己納得。じゃ。--118.105.212.2 2011年3月13日 (日) 01:44 (UTC)