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ノート:江戸三十三観音札所

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改名提案

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江戸三十三箇所江戸三十三観音札所に改名することを提案します。

「昭和新撰 江戸三十三観音札所」という名称があること、全札所で「江戸三十三観音札所 第〇番」という御朱印が押印されることが理由です。江戸札所会がある護国寺は「江戸三十三観音札所」[1]を使用していましたが、各寺院のサイトでは「江戸三十三観音霊場」[2]という名称も使用されています。

皆様のご意見をお聞かせください。--Tak1701d会話2024年5月24日 (金) 20:28 (UTC)[返信]

賛成 事実として「全札所で『江戸三十三観音札所 第〇番』という御朱印が押印される」 のであれば、ご提案の「江戸三十三観音札所」が記事名として妥当な気がします。(念のため参考: Category:三十三箇所巡礼
なお、改名先に“江戸三十三観音札所”を推す理由の一つを「「昭和新撰 江戸三十三観音札所」という名称があること」としておられるので、一点質問させてください。これは主ページ冒頭部に「現在ではもっぱら1976年(昭和51年)に改訂された「昭和新撰江戸三十三観音札所」のことを指す。」と記載し、節を立てて一覧表「昭和新撰 江戸三十三観音札所一覧」を掲載しているもの だと思います2024-05-25現行版。これは初版立項時の:2005-06-21 03:43:48 (UTC)の版から同様のようです)。この新たに設定(改訂)されたという「昭和新撰 江戸三十三観音札所」は、1976年当時の“正式名称”、公表の際に用いられた呼称、なのでしょうか?
主ページの脚注を見ると、関連しそうな典拠は田上善夫「地方霊場の開創とその巡拝路について」(2004)[3]となっていて、当該論文には「昭和51(1976)年に昭和新撰江戸三十三所として再興された(塚田芳雄, 1989)。/この江戸三十三観音札所の第1番は、[...](p. 162。下線は引用者。参照されている文献は 塚田芳雄『江戸・東京札所事典』下町タイムス、1989年[4]、p. 215)との記述が見えます。ここには「昭和新撰江戸三十三所」「江戸三十三観音札所」という2つの呼称が現れていて(この文章だけからすると、“新撰”当時の名称は「昭和新撰江戸三十三所」であったようにも読めます)、塚田芳雄『江戸・東京札所事典』も手許にないため、そもそも1976年当時にこの「昭和新撰〜」がどんな名称で発表されたのか、よくわかりませんでした(また、同著者の別論文「地方霊場の立地環境と展開について」(田上善夫, 2003)[5]では、「昭和新撰江戸三十三観音霊場」(p. 37)と表記されています)。だれが1976年に「改訂」して公表したのか? も主ページを読んでもよく分からず、不思議です。何かご存じのことありましたらご教示ください。 --Yumoriy会話2024年5月27日 (月) 10:45 (UTC)[返信]
返信 返答が遅くなり申し訳ありません。
改めて確認したところ、1976年当時の札所会で正式名称を決めていたのかは分かりませんでした。現在の札所会では、一般向けの刊行物には「江戸三十三観音札所」を使用しているそうです。本文中の「昭和新撰 江戸三十三観音札所」の出典元は、札所会発行の出版物と思われます。--Tak1701d会話2024年5月31日 (金) 07:34 (UTC)[返信]
返信 ありがとうございます(返信、まったく遅くありません!)。札所会では「一般向けの刊行物には「江戸三十三観音札所」を使用している」とのこと、改名先を「江戸三十三観音札所」とする有力な理由になりそうです。こちらは、「現在の札所会」(=“江戸札所会”、それとも別の札所会でしょうか?)に直接お問い合わせになったのでしょうか?
当記事の出典の源流と推定される「札所会発行の出版物」に相当する(と思われる)1976年(昭和51年)4月8日発行の奥付を持つ冊子『昭和新撰 江戸三十三観音札所案内』を実見しました(タイトルは表紙・標題紙・奥付、すべて同じ。タイトルのうち「昭和新撰」の部分は表紙では1行書きで改行、標題紙・奥付では2行分かち書き)。発行者は「江戸札所会」、住所は「東京都台東区浅草2-3-1(浅草寺内)」とあり、頒価300円(奥付に記載)、ノンブルは奥付がp. 81、B6判・並製(無線綴じ)となっています。巻頭はしがき(無題)は「浅草から巡り始め、目黒で打ち納めとなる「江戸三十三観音札所」は享保廿年刊「江戸砂子拾遺」に記載されているもので、のち天保九年の「東都歳時記」にも記録されている。」と書き起こされ、「このたびの「昭和新撰江戸札所」は、これらにゆかりの深い観音さまを中心として、神仏分離その他、時代の推移によって消長を余儀なくされた霊場を補うに、衆生縁ゆたかな観音霊場を以てした。」と閉じられています。はしがきに続く目次は「江戸三十三札所 目次」と題し、目次の次のページにある見開きの路線図の見出しは「昭和新撰 江戸札所道しるべ」となっています(下線はいずれも引用者)。以上、“江戸札所”・“江戸三十三札所”との呼称も見えますが(江戸三十三観音札所の略称にも見えます)、タイトルやはしがき冒頭には“江戸三十三観音札所”が用いられており、Tak1701dさんご提案のとおり改名先は「江戸三十三観音札所」が望ましいと感じます。--Yumoriy会話2024年6月2日 (日) 05:28 (UTC)[返信]
返信 『昭和新撰 江戸三十三観音札所案内』の情報ありがとうございます。特に正式名称(公式名称)は定まっていないため、名称に表記ゆれがあるようです。現在の江戸札所会は護国寺にあります。護国寺が使用している[6]こと、全札所で「江戸三十三観音札所 第〇番」という御朱印が押印されることを理由に「江戸三十三観音札所」に改名させていただこうと思います。--Tak1701d会話2024年6月2日 (日) 05:54 (UTC)[返信]

報告 改名作業が完了しました。ありがとうございました。--Tak1701d会話2024年6月2日 (日) 07:21 (UTC)[返信]

返信 改名移動作業ありがとうございます。ページが無事に移動されているのを確認できました。Wikipedia:改名提案#5月21日から25日にも改名済みの報告を入れておくのがよさそうです。 今回は適切な改名提案とページ移動、おつかれさまでした!
(「現在の札所会」=現在の江戸札所会 で了解いたしました。江戸札所会が現在は護国寺にあるとの情報、最初の改名提案投稿ですでに書いてくださっていますね。見落としていて申し訳ありませんでした。2024年(令和6年)現在、江戸札所会が事務所を置く護国寺のウェブサイトの「令和二年四月十日改定」の日付を持つ「護国寺からのお知らせ:御朱印料金改定のご案内」ページに、「江戸三十三観音札所 第十三番 護国寺/御府内八十八ヵ所 第八十七番 護国寺」と名称“江戸三十三観音札所”の表記が見られること、たしかに確認できています。)--Yumoriy会話2024年6月2日 (日) 09:12 (UTC)[返信]

元禄年間設定の「江都三十三所観音」と享保20年刊『江戸砂子拾遺』

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主ページの「江戸三十三観音札所の起源」節にコメントアウトで

現行の江戸札所もこうした江戸時代の観音巡礼の一つに起源を持つとされており、<!--ネット上ではしばしば『元禄年間に設定されたことが「江戸砂子拾遺」に記されている』とされるが、これは根拠も乏しく疑問である。-->元禄年間設定の観音巡礼には [...]

との記述があります2024-06-02 14:33:57 (UTC)の版。この「根拠も乏しく疑問である」という文言の主旨はどういうものなのでしょうか? “昭和新撰江戸三十三観音札所”の源流となった三十三観音が(1)「元禄年間に設定された」ことが疑わしいのか、(2)「『江戸砂子拾遺』に記されている」ことが疑わしいのか、あるいは(3)その両方なのでしょうか? いずれについても、なぜ「根拠も乏しく疑問である」と考えたのか分明せず、疑問を持ちました。このコメントアウト文を否定し除去すべき理由を以下に示してみます。

まず、現在通行する“江戸三十三観音札所”を最初に提示した冊子と推定される1976年(昭和51年)4月発行の『昭和新撰 江戸三十三観音札所案内』(江戸札所会 刊)を参照します。同書巻頭はしがきの冒頭は「浅草から巡り始め、目黒で打ち納めとなる「江戸三十三観音札所」は享保廿年〔20年〕刊「江戸砂子拾遺」に記載されているもので [...]」と始まっており、巻末には小活字の付録的な体裁で 江戸時代に存在した「江戸三十三ヵ所観音巡礼」を載せ、「この観音札所は享保20年(1735年)に発行された『江戸砂子拾遺』に載っているもので、現在の台東文京目黒の各区を廻るものである。『江戸歳時記』巻之四の付録を参考にした。[...]」と註して当該33札所を列記しています(同書巻末には他に江戸期の4つの三十三観音札所が掲載されています)。“昭和新撰~”がこの「享保廿年刊『江戸砂子拾遺』に記載されているもの」を下敷きに編成された点は疑いようがありません(“昭和新撰~”を編んだ江戸札所会がみずからそう述べているわけですから)。

次いで(1)「元禄年間に設定された」点について前掲書はしがきは、「この札所〔「江戸砂子拾遺」記載の札所〕は第3番の「三十三間堂」が巡拝の順序からみても浅草にあった頃に設定されたものと考えられる。すると三十三間堂が建立された寛永19年〔1642年〕以後のこと、そして元禄11年〔1698年〕消失(同14年深川に移転再建)以前に成立したことが知られる。」とその論拠を明確に述べています。巻末付録によれば『江戸砂子拾遺』に載せる江戸三十三観音は、札所が〈1番 浅草寺台東区浅草 →2番 駒形堂〔旧 浅草駒形 →3番 三十三間堂 →4番 清水寺〔台東区松が谷 →5番 安楽寺〔台東区根岸 →[...] →33番 瀧泉寺目黒区下目黒〉と並んでおり、三十三間堂(=江戸三十三間堂が浅草(=台東区浅草)から深川(=江東区富岡)に移転した元禄14年(1701年)以降に選定されたのであれば、現在の台東区の寺院を巡る並びの中に江東区の三十三間堂を挟んで再び台東区に戻るような順序構成にはしないはずだ、との議論は充分に説得力があり、根拠たりえている(「根拠も乏しく」とは言えない)ように見えます。

残るは、(2)『江戸砂子拾遺』なる書物に当該の江戸三十三所が本当に掲載されているのか、またそもそも「享保20年(1735年)に発行された『江戸砂子拾遺』」なる書物が実在するのか、ということになります。“江戸砂子拾遺”でWEB検索してみると、たとえば以下が見つかります。

どちらも享保20年刊、菊岡沾凉(沾涼)の著、本タイトルを『続江戸砂子温故名跡志』とし、別タイトルに「拾遺/續江戸砂子 しゅうい」「拾遺/續江戸すなこ しゅうい」「拾遺續江戸すな故」と“拾遺”の文字が見えます。刊年と別タイトルから、該本を『江戸砂子拾遺』と仮定すると、WEB上で閲覧できるデジタル画像データとして以下が得られます。

閲覧してみるといずれの画像データでも巻之4の後半部「霊仏類聚」章「観音霊場」節に「江都三十三所観音」「山の手三十三所観音」「近世三十三所観音」の3種を載せ、そのうち筆頭の「江都三十三所観音」として記す33札所が『昭和新撰 江戸三十三観音札所案内』巻末の「江戸三十三ヵ所観音巡礼」(「享保20年(1735年)に発行された『江戸砂子拾遺』に載っているもの」)の33札所と一致します。すなわち、『続江戸砂子温故名跡志(拾遺 続江戸砂子)』が『江戸砂子拾遺』であり、同書に記された「江都三十三所観音」が、“昭和新撰江戸三十三観音札所”の下敷きとなった「浅草から巡り始め、目黒で打ち納めとなる『江戸三十三観音札所』」であり、「『江戸砂子拾遺』に記されている」ことが疑わしいとは言えない、と思われます。

以上から、主ページに書き込まれている「ネット上ではしばしば『元禄年間に設定されたことが「江戸砂子拾遺」に記されている』とされるが、これは根拠も乏しく疑問である。」とのコメントアウト文は、(1)(2)(3)いずれについても根拠を欠く主張であり、除去すべきである、と考えます。いかがでしょうか。 --Yumoriy会話2024年6月4日 (火) 11:58 (UTC)[返信]

情報 主ページの履歴を遡ってみたところ、当該の記述は2015年3月14日の編集で、節「江戸三十三箇所の起源」の新設とともに、
 現行の江戸三十三箇所もこの江戸時代の観音巡礼の一つに起源を持つとされており、ネット上ではしばしば『元禄年間に設定されたことが「江戸砂子拾遺」に記されている』とされるが、これは根拠も乏しく疑問である。元禄年間設定の観音巡礼は「武蔵三十三箇所」「江都古来三十三箇所」の2つあり、現在のものがどちらを起源とするのかは良くわからない。田上善夫は現在の「昭和新撰江戸三十三観音札所」の前身を寛文8年(1668年)選定の「江都三十三所観音」とする。(田上『地方霊場の開創とその巡拝路について』富山大学教育学部紀要58、2004)
—とのかたちで記事本文に初めて登場していました差分/51613882/54722808、下線は引用者)。--Yumoriy会話2024年6月15日 (土) 14:14 (UTC)[返信]