ノート:滋賀大学
2006年からサンドボックスのように使われている下書き
[編集]官立彦根高等商業学校(創立大正十一年)を前身として、現在の滋賀大学経済学部は琵琶湖のほとりに立地しており、校地は新制大学となった今も変っていない。教育学部は少し離れた琵琶湖の宇治川ラインに近い大津市に立地、戦後ずっと教育学系は大津にて、経済学系は彦根でという別々のキャンパスで教育を行い、今日に至っている。 したがって教養課程から専門課程までを他の学部と接することなく過ごせる特異な単科大学として発展してきている。というのも、戦後の新制大学発足にあたっては、彦根高商は単科の経済大学(滋賀師範学校<現在の滋賀大学教育学部>を除く)としての移行を準備していたが、文部省の「1県1大学」の原則の前に、これを果たせぬまま今日に至っているのである。
新制大学への切り替えにあたって、GHQの意向を受けた文部省の壁は厚く、女子教育という点から例外とされた奈良女子大学を除いては、すべて県下の師範学校等他の国立学校と併合されており、彦根キャンパスとしては師範学校を併合するに当たり、他の大学では認められなかった教養課程の彦根キャンパス温存を勝ち取ってきたおかげで、独自の教育体制を築き上げ、本部は彦根キャンバスという様に主体的に学内機能の教育機能を拡充してきた。したがって、この様に旧高商系が主体的に動いてきたという伝統と慣習があるのか、旧高商系の伝統の継承は和歌山大学等の高商系大学よりも濃い。 彦根の文化的な景観は、キャンパスを覆う大きな魅力となり、旧市街の半分を占めるのが国宝彦根城。三重の堀に囲まれた優美な城郭のふもとに彦根高商(滋賀大学経済学部)はある。
幕末の大老井伊直弼を出したことが、三十五万石の大藩から県名も県庁も旧制高校も取り上げてしまった。しかし、吉田松陰の門下生たちは、会津と違って彦根に専門学校を置くことまでは反対しなかった。政府は第九高商を滋賀県に設立する条件として地元からの寄付87万円を要求し、当時まだ町であった彦根は、寄付金48万円と敷地1万6千坪を提供することで大津市と近江八幡町を退け「彦根高商」の誘致に成功した。彦根の場合は旧藩主は表に出ず、伊藤忠兵衛、弘世といった地元の実業家が中心になって募金を行ったのが特徴的である。
現在の名古屋大学経済学部の出身者らが、その頃は名古屋高商(一橋高商<一橋大学>で学んだもの達が赴任していた。)と呼ばれており、その高商の卒業生らが、彦根高商設立当初赴任して現在の経済学部の基礎を形成した。
滋賀大学の門前に象徴されうる礼拝堂の様な卒業式等に使用されている旧高商の建物は、ヴォーリス事務所によって建造され、他には関西地方で関西学院大学、神戸女学院大学などを残しているが、本拠地滋賀県でもこの小品を残した。
ヴォーリスは、もともと滋賀県立八幡商業学校の英語教師としてこの地に招かれ、布教活動によって学校を追われてからも近江兄弟社を設立し、さらに設計事務所を主宰するなど、多方面で活躍している。
又、彼が設計したもう一つの建築物としての陵水会館は戦後老朽化したが、滋賀大学経済学部の70周年事業としてリニューアルされた。小さいが卒業生のための宿泊設備も持ち、堂々とした建物。旧高商の同窓会館は、一橋の如水会館や高松の交友会館など、戦後老朽化により建て替えられてしまったところが多いが、ぜひこのまま動態保存してもらいたいと希望する周囲の声も多い。
卒業生には日本生命社長川瀬源太郎など近江系の企業トップが多い。彦根付近の五個荘村が近江商人のふるさととして知られ、ここを出身地とした東京、大阪の財界人が積極的に彦根高商OB(現在の滋賀大学経済学部の卒業生ら)を採用したためだ。 かつて近江商人養成学校として知られた県立八幡商業は、最上級生には夏休みに「行商」を課したというとんでもなくユニークな学校であり、地元出身の財界人の支持も厚かった。その名門「八商」が普通の商業高校になってしまった今、彦根高商の衣鉢を継ぐ滋賀大学経済学部の実業界での人気はまだまだ高いと呼ばれているが、現在も金融・証券・保険等には強い。又有名人には変わり種OBでは、短命内閣として有名な宇野宗佑首相もこの学校の出身。彦根高商から神戸商業大学に学んでいる。
そして、その様な木造校舎と桜並木と彦根城一帯は桜が美しい。
戦後の滋賀大学キャンパスは、彦根高商の建物は幸運であった。戦争中、空襲にも遭わず、山口や和歌山のような火事もなかった。戦後は定員こそ増えたものの、彦根市そのものが新幹線の停車駅から外れるなど、大して経済発展もしなかったため、大学や同窓会は近隣の土地を買い足し、第二運動場や駐車場ができるなど、比較的余裕があった。しかし、学園紛争の高まりのなか、劣悪な設備が問題視されるようになり、建築後半世紀経った木造校舎は卒業生の心の拠り所として講堂や陵水会館など一部の建物が保存されるほか、殆どが撤去・解体されることになった。しかし、大津の教育学部との統合移転については学部として反対の姿勢が終始一貫していたため、和歌山や高岡、福島などのように郊外の広大なキャンパスへの統合移転→旧校舎全部の解体・撤去とならなかったのは実に幸いである。彦根城から内堀越しに臨む 保存工事の終わった講堂 の殆どの旧校舎は撤去されたが、 まったくふざけた話だが、戦前官立の旧制高等商業学校が11校あった(東京と神戸の商大は除く)なかで、戦災で建物を失ったのは高松高商ただ1校である。原爆投下に遭遇した長崎高商でさえ、山の影になって爆風で痛めつけられたものの建物そのものの倒壊は免れている。しかし、平成11年2月現在、旧制時代の建物で生き残っているのはわずかに彦根高商旧講堂と長崎高商旧研究館しかない。戦後、国立大学に移行したなかで、キャンパスの統合移転が行われ、小樽、高松、彦根、長崎の4校以外は郊外に広大なキャンパスを確保してそちらへ移転した。上記4校にしても建物の更新により、木造の旧校舎は順次撤去されている。 経済性が先に立ったとしか言いようがないが、かつて私立大学以上に濃密な同窓意識を発揮していた官立高商の昔をしのぶ縁がそれだけというのは非常にさびしい。今の経済学部・教育学部の両学部はキャンパスとして、新旧キャンパスの織りあいが何とも言えないキャンパスの景観を作りだしている。
今・現在経済学部は21Cの学部形成の一環として大学改革を進めるに当たり「士魂商才」彦根高商の建学の理念に帰り、生かす努力をすると共に国立大学としては最大規模の陣容と教育レベルを兼ね備え、学部としては人文・社会・自然諸科学を学際的に研究教育をおこなう社会システム学科・国立大学では唯一の学科であるファイナンス学科を含め6学科・修士3・1博士課程を含む経済学系では有数の規模として存在している。実業界においても広範囲に有為な人材を輩出しており評価は高い。尚大学院も拡充され、主に今現在でも近代経済学が主力とし基礎的経済研究の理論と応用に力を置き研究に励んでいる。経営学系でも非常に優れた研究を行っている。
目次化もされずに大量表示されて議論が埋もれるので埋め込み表示式に直しました。そもそも、ノートページでサンドボックスみたいな使い方が許されるのでしょうか。--180.200.66.165 2020年11月29日 (日) 17:58 (UTC)
その他について
[編集]旧高商から新制大学(現在)に至るまで経済学部(のキャンパス)が移転ならびに統合していない例として、長崎大学の経済学部が該当すると思われ、唯一ではないような気がしますが、どうなんでしょう?--He21(会話) 2014年2月20日 (木) 08:51 (UTC)
長崎大学は教養課程は他学部と同じキャンパス、専門課程のみ旧高商のキャンパスだったと思います。滋賀大は教養から全て旧高商の彦根キャンパスで行われます。
使い捨てアカウントの横行
[編集]滋賀大学関連のページで、同一人物が多くの使い捨てアカウントを作成して編集されているのは明らかだと思います。--180.200.66.165 2020年11月29日 (日) 17:58 (UTC)
その後も変わっていないようですね。--夕焼けの贅肉2021(会話) 2021年4月12日 (月) 10:54 (UTC)