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ノート:犬神家の一族

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犬神佐清との統合提案

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本作を登場人物である犬神佐清の項目は個別記事にする程の分量を満たさず、特筆性や発展性も感じません。また、現状として歴代キャストの羅列に留まり、解説内容も本項のものと同内容となっています。これらの点から本項への統合を提案いたします。ご意見をお願いいたします。--いいすく会話2014年10月7日 (火) 00:40 (UTC)[返信]

記入漏れや適切な表現ではなかったことから、提案文を一部変更しました--いいすく会話2014年10月11日 (土) 15:50 (UTC)[返信]
賛成。犬神家の一族の記事内で参照できる情報量のため、統合せずにリダイレクトでもいいかと思います。--MATHUOKA grows fat会話2014年10月8日 (水) 08:14 (UTC)[返信]
はじめまして。統合した後、再編集する予定ですし、情報量も同内容であることから引き継ぐ内容もそれほど多くはないと考えております。--いいすく会話2014年10月11日 (土) 15:48 (UTC)[返信]
  • 賛成 統合そのものには賛成します。ただし、単独記事であるかどうかは第一に「分量」ではなく「特筆性」の有無にて判断すべきです。さらに「この期の加筆も見込めない」とは何を根拠に判断しているのか不明瞭です。
国会図書館でサーチすると
  • キネマ旬報 1473号 巻頭特集 作品評「犬神家の一族」 新旧作が佐清と静馬ほどに似ている謎 樋口 尚文
という記事がヒットしたりします。そのほか、『なぜ犬神家の相続税は2割増しなのか』(書籍)、『「犬神家」に、何が起ったか--原作と映画の関係』(論文)、『ミステリーの現場を考える(最終回)八つ墓村/犬神家--非対称性の社会学』(記事)、『フランスにおける江戸川乱歩と横溝正史の受容』(論文)なども見つかります。まあなんか出典に基づいて加筆できる可能性はあると考えます。
しかし、現行の記事が主題そのものというよりは「テレビのキャストの羅列」に留まっていること、親記事といえる犬神家の一族の内容と変わらないこと、などはご指摘通りです。現段階では、仮に「犬神佐清」にいくばくかの特筆性が発見されたとしても、犬神家の一族の中で解説したほうが読者の助けになると考え、統合には賛成します。--柒月例祭会話2014年10月11日 (土) 12:23 (UTC)[返信]
はじめまして。単独記事が情報量よりも特筆性が重要であることは理解していましたが、これは単純に記入漏れでした。「この期の加筆も見込めない」は記事作成時から主題に関する記述がなく、その発展性のなさからこのような書き方になりましたが、これもまた早計だったと反省してます。誤解のないようここの提案文面を変更いたします。--いいすく会話2014年10月11日 (土) 15:48 (UTC)[返信]
報告 反対意見がないため、統合しました--いいすく会話2014年10月15日 (水) 12:23 (UTC)[返信]

コメントアウト部について

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いわゆる「ネタバレ」に関わる部分がかなりの分量でコメントアウトされたまま保持されています。

ウィキペディア日本語版ではネタバレを禁止していません(Wikipedia:ネタバレ)。一方、Wikipedia:あらすじの書き方#ネタバレの扱いでは単なる暴露を目的として瑣末な情報を列挙するのではなく、あらすじにおいて必要に応じて書くべきことは書く、そうでないものは書かない、ということが示されています。

コメントアウトされているとはいえ、現状のスタイルである登場人物節でのネタバレ列挙は、上記のガイドラインに反していると考えます。必要な情報はあらすじ節に明記し、登場人物説でのコメントアウト部は除去することを提案します。--柒月例祭会話2014年10月14日 (火) 02:40 (UTC)[返信]

賛成 提案に賛成します。--いいすく会話2014年10月15日 (水) 12:25 (UTC)[返信]

2018年版の原作からの変更点

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下記の変更履歴(時刻はUTC)に基づくノートです。

  • 2019年4月27日 (土) 13:22‎ シンラ →‎2018年版: 文章を整理
  • 2019年4月27日 (土) 23:43‎ Dakarananyanen →‎2018年版: 「孫ではない」ゆえに「男色や不倫が無い」ではストーリー構成としての因果関係が逆。この部分は概ね元に戻します。
  • 2019年4月28日 (日) 02:40‎ シンラ →‎2018年版: 事実としての因果関係でなく、あくまで制作としての視点から見たらまず「珠世を佐兵衛の孫であるという設定はやめる」としたあと、ゆえに「大弐との男色も晴世との不倫」もなくすことになったのです。そもそも「カットする」という表現では主語は「制作者」になります。ならば制作者視点からの表現にすべきで、作中の事実の因果関係順に並べるのは間違っています。いや、そう並べるほうが正しいというならもう私は何も言いませんが。

「ストーリー構成としての因果関係」とは「制作者視点からの表現」と同義です。制作側の発想として「まず珠世を佐兵衛の孫であるという設定はやめる」だったという見解には全く賛同する余地がありません。

ありそうな発想順序としては、「2時間ドラマの枠に収めるために、原作の設定要素の一部を削除したい」→「その一環として男色や不倫の設定をやめる、それによって男色や不倫自体の描写や言及はもちろん、大山神主の古文書探索や青沼静馬の行動原理中途変更の描写や言及が省ける」→「その結果、孫という設定も無くなってしまった(佐兵衛の動機が弱くなってしまうが、やむをえない)」というのが考えられます。

そうではなく、まず「孫という設定はやめる」という発想があって、それを実現するために「男色や不倫をやめる」という発想順序だったと考える根拠は何でしょうか。直接的な証拠があれば、それに越したことはありませんが、少なくともそういう発想順序だったと想定できる可能性を提示していただけませんか。いろいろ考えて見ましたが、荒唐無稽な可能性しか思い浮かびませんでした。

--Dakarananyanen会話2019年4月29日 (月) 09:15 (UTC)[返信]

下記の変更履歴(時刻はUTC)に基づくノートです。

  • 2019年4月27日 (土) 13:22‎ シンラ →‎2018年版: 文章を整理
  • 2019年4月27日 (土) 23:41‎ Dakarananyanen →‎2018年版: 松子は猿蔵を事実上脅したに等しいが、見かけ上は明白な脅しではない。また、猿蔵が見立てを発案したことは金田一の明示的な結論であり、単に「とれる」状況ではない。この部分は元に戻します。
  • 2019年4月28日 (日) 02:45‎ シンラ →‎2018年版: いや松子が猿蔵に仕向けたのは明らかに恫喝でしょう。それに猿蔵には知恵があったということを表現するのは、ほとんどどうでもいいことでしょう。これについてもあなたのほうが正しいと思うならもう一度直してください。私はもうこれ以上何も言いません。

確かに一般論としては「猿蔵が愚者かどうか」なんてどうでも良いことでしょう。しかし、こと2018年版に関する限り、このことは演出上不自然なまでに強調されています。私も個人的にはどうかと思いますが、強調されていることは事実です。

いずれにしても、2018年版の「ヨキケスの見立て」に関して最も重要なことは「猿蔵自身が発案したこと」つまり「猿蔵の主体性」です。それを表現するためにあえて直接的でなくしたと考えられる松子の間接的な恫喝を「脅し」という強い表現で記述すると「猿蔵の主体性」が曖昧になります。

--Dakarananyanen会話2019年4月29日 (月) 09:30 (UTC)[返信]

「斧」の原作への忠実性

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2004年版と2018年版に関して、見立て殺人の「斧」の原作への忠実性に関する記述は、一旦削除しました。そもそも「原作に忠実」というのが、どのような意味において忠実であるとするのか全く読み取れず、記述として意味を成さない状況になっているからです。直接的に全く記述されていないのみならず、出典が無いので典拠から導くこともできず、ページ内の他の記述で関連する可能性が考えられる「映画」セクション冒頭の記述からも何も導けません。

見立て殺人の「斧」すなわち佐清(実は静馬)死体の処理は、以下の点において1976年版から2018年版まで変わらず、この観点では2004年版や2018年版が他に比べて特に「原作に忠実」とはいえません。

  • 原作通り、死体を倒立させて下半分を隠すことによって「スケキヨ」→「ヨキケス」→「ヨキ」を表現していること。
  • 原作と違ってパジャマを着用しておらず素足であり、湖面は凍結しておらず胴体が水面上に露出していないこと。

また、「映画」セクション冒頭で記述されている「斧」が手元に無かったという原作の設定については、1976年版(および2006年のリメイク)と1977年版でこそ無視して斧を殺害手段としているものの、1994年版以降のテレビドラマではいずれも斧は使われておらず、この観点でも2004年版や2018年版が他に比べて特に「原作に忠実」とはいえません。

今後、この問題について加筆される場合は、「どの部分がどのように」原作に忠実なのか明示していただくようお願いします。

参考:編集履歴情報からの抽出

2004年版に対する記述

2013年4月5日 (金) 01:33 (UTC) Umitori による編集で追加された一連の内容記述に含まれていた
2015年3月19日 (木) 20:51 (UTC) エヴァンズの秘書 による編集で削除
2017年8月24日 (木) 10:58 (UTC) タクナワン による編集で、この内容だけを再度追加

2018年版に対する記述

2018年12月24日 (月) 13:44 (UTC) タクナワン による編集で、この内容だけを追加

--Dakarananyanen会話2020年10月5日 (月) 13:13 (UTC)[返信]

遺産相続に関する法律問題(特に「遺留分」の問題)

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2023年5月17日 (水) 05:38 (UTC)の編集を差し戻しましたが、これは修正後のテキストがあまりにも酷すぎることが理由であり、元の記述に問題が無いということではないことに注意してください。修正後テキストは

  • 「主に家督制度について改正されたもの」云々は修正前テキストの批判としては意味をなす文章だが、単独で提示すると意味不明である。
  • 「元々遺言状の効力には法的限界がある」から「事件発生年が問題となることはない」というのは論理的に誤りである(後述)。
  • 「問題となることはない」と書きながら、その後に事件発生年の話題が続くのは論理がつながらない。

というような意味で、あまりにも問題が大きいものです。

遺留分制度が本作の遺言状の効力に問題を起こすことは新民法でも旧民法でも同じですが、問題の起こり方が全く異なります。ですから「事件発生年が問題となる」状況であることに変わりはありません。具体的には、本作の状況は旧民法の「家督相続」に該当する状況(従って、旧民法1131条ではなく1130条の出番)なので、旧民法では推定家督相続人(例えば、関係者全員が戸籍上正式の子や孫である場合には静馬→松子→佐清→etc.の順)1人だけが遺留分を持つことになるのに対し、新民法では三姉妹、静馬、珠世が全員遺留分を持つことになるので、遺留分の効果が大きく違ってくるということです。

ちなみに、2023年版テレビドラマで三姉妹が戸籍上は親族でも何でもないという設定にしていたのは、この問題を回避するのが目的である可能性が高そうです。

もちろん、現行テキストが問題を「新民法下での遺留分」だけで説明し切ろうとしているのは問題なので、そこは改善する必要があるでしょう。ただ、生半可な知識で不適切な修正を行うことは厳に慎んでください。

参考までに、本作の状況を真剣に論じた法学の専門書が最近出版されたそうです。

--Dakarananyanen会話2023年5月19日 (金) 01:09 (UTC)[返信]

当該書籍を検索してみたところ「法学の専門書」というより「法律論や社会情勢を多面的に検討した評論」でした。近在の図書館で内容が確認できたので、その情報も加味して、関係する記述を修正してみました。
--Dakarananyanen会話2023年5月20日 (土) 09:15 (UTC)[返信]

横溝が1976年版の映画を「原作に忠実」と述べている件

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本件、1月21日の編集電流丸会話)さんが、1976年版映画の監督の市川崑が「時代設定を原作のままの昭和二二年にした」と映画のパンフレットで述べている旨の記載と、それに続けて「横溝自身もこの映画で「原作に忠実」としか述べていないが特に異論は述べてない」と、まるで横溝が市川の「時代設定を原作のままの昭和二二年にした」を容認しているかのように見える記載をされ(これは電流丸さんによる恣意的な記載ではなく、出典の『犬神家の戸籍』p. 49の記載「(横溝は)一九四七年という時代設定については異論はないようである」に基づくものです)、1月22日の編集で私、エヴァンズの秘書が「原作に忠実」について「市川の「時代設定を原作のままの昭和二十二年にした」に対するコメントではなく、映画についてのコメントである」として「特に異論は述べてない」を除去し、その後、Dakarananyanen会話)さんが1月23日の編集で横溝の発言について「年代設定も含めての言及かどうかは明らかでない」と追記されました。

ただ、これでも横溝の「原作に忠実」というコメントが1947年(昭和22年。書きづらいので以下、数字は漢数字ではなくアラビア数字で記載します)を含んでのことである可能性を否定しきれていないので、『犬神家の戸籍』p. 207に挙げられている大元の出典「横溝正史「映画の中の金田一耕助の思い出」『キネマ旬報』第692号、1976年10月、69頁」の記載を確認しました(幸い、近所の図書館に11月号・12月号と合本で蔵書されていました)。以下は「原作に忠実」というコメントの前後の記述です。

東映の金田一耕助シリーズは、ご存じですか、ストーリーが全部変えてあるのです。シナリオの比佐芳武君が、原作を読んだ人にも楽しんでもらえるよう、結末を変えたのです。これも私には悩みのタネでしたが、比佐君のシナリオ、それがミソだったんですね。原作者としては、もちろん、あまりいい気はしませんが、比佐君を信じて、おまかせしていました。でも、こんどの「犬神家の一族」は、原作に忠実な映画化です。あんまり忠実にシナリオ化されると、ちょっとテレくさいですが、自然に出るようなら、うれしいですね。 — 横溝正史「映画の中の金田一耕助の思い出」(『キネマ旬報』第692号、1976年10月、69頁)

上記の太字が『犬神家の戸籍』p. 49で引用されている箇所ですが、前後の文章から「原作に忠実」とは、ストーリーと結末を全部変えていた東映の映画作品に対するもので、年代設定とは無関係であることは明らかです。念のため、「映画の中の金田一耕助の思い出」が掲載されている『キネマ旬報』1976年10月、69頁の記載をすべて確認しましたが、どこにも原作の年代設定に関する記述はありません。

つきましては、1947年(昭和22年)という年代設定に無関係な現在の記述「なお、横溝はこの映画について「原作に忠実」と述べているが、年代設定も含めての言及かどうかは明らかでない」を削除します。ご承知のほど、お願いいたします。

なお、上記のとおり「原作に忠実」の意味がストーリーと結末を全部変えていた東映の映画作品に対するものであることを知りながら、市川崑が「時代設定を原作のままの昭和22年にした」と映画のパンフレットで述べており、市川はじめ製作者側が原作の時代設定が1947年であると理解していた旨の記載に続けて、「これについて、肝心の横溝正史はといえば、「こんどの『犬神家の一族」は、原作に忠実な映画化です」と語っており、1947年という時代設定については異論はないようである」と、原作の年代設定が1947年(昭和22年)であるという自説に合わせるために、いかにも年代設定について異論がないと述べているかのように見せかけて記載している『犬神家の戸籍』は、非常にたちが悪いというか悪質です。

他にも『犬神家の戸籍』を出典とされている箇所がありますが、果たしてこの書籍の記載がすべて信用・信頼に足るものなのか、そのまま真に受けて良いものなのでしょうか。今回『犬神家の戸籍』を出典として大幅な記載をされた電流丸会話)さんにおかれましては、責任をもって個々に吟味いただきたいと思います。

ちなみに、市川崑が「時代設定を原作のままの昭和二二年にした」と映画のパンフレットで述べている旨の記載については、実際にパンフレットで確認済みなので(「昭和二二年」ではなく「昭和二十二年」である点を除けば)、問題ありません。よろしくお願いいたします。--エヴァンズの秘書会話2024年1月23日 (火) 23:25 (UTC)--エヴァンズの秘書 2024年1月23日 (火) 23:05 (UTC) 取り消し線を追記。--エヴァンズの秘書会話2024年1月23日 (火) 23:27 (UTC)[返信]