ノート:玉砕
玉砕は「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」で行われたものか
[編集]「捕虜になるよりも死ぬまで戦う」という事態は、ミクロ的には独ソ戦のミンスクの戦いなどでありましたし、守られはしませんでしたがヒトラーが部隊に対し「死守命令」を出したことは何度もありました。歴史上広く見渡せば「日本以外の国での「玉砕」」の節であがっているような例も見られます(今ぱっと出てこないのですが近代以前の日本でもいくつか例はあるでしょう)。このため、「玉砕が瓦全より高いとする価値判断」を「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」と断言してしまいますと、POVないしはJPOVとなってしまうと考えたこと、また、ちょっとそこからはずれるのですが、降伏の本義というのは敵に負担をかけることではないと考えたため[1]のように大幅に削除した次第です。
また、太平洋戦争の日本軍の場合でも、ガダルカナル島やキスカ島、コロンバンガラ島では劣勢となった守備部隊を撤退させていますので、単にファナティックなイデオロギーから玉砕を命じたと言いきるのも片面的かなと思います。もちろん合理性のない攻撃精神は大いに批判されるべきではあると思いますが。ただ、玉砕の悲惨さというのは、連合国軍の戦略に対応しきれず制海権・制空権を喪失して特に島嶼部への増援も撤退も不可能にしてしまい、ある戦域で敗北した場合の次の防衛線にを策定しきれず守備隊にどの程度の時間を稼げばいいのか示せない(=降伏のタイミングが一切示されない)という、日本軍上層部の無策と迷走が、現場の将兵に「とにかく戦って死ね」というかたちで押しつけられ、しかもそれが多発した点にあるのではないかと思います。が、こう書くと独自の研究なので本項目には書けないですね・・・。
後段はともかく、上段については合意形成の必要があると思いますので219.161.168.134氏他の皆さん(ないしは可変IPで編集されている方)の意見をお聞きしたいです。--Akitsumaru 2007年7月5日 (木) 13:50 (UTC)(一度追加編集しました)
>「捕虜になるよりも死ぬまで戦う」という事態は、ミクロ的には独ソ戦のミンスクの戦いなどでありましたし、守られはしませんでしたがヒトラーが部隊に対し「死守命令」を出したことは何度もありました。歴史上広く見渡せば「日本以外の国での「玉砕」」の節であがっているような例も見られます(今ぱっと出てこないのですが近代以前の日本でもいくつか例はあるでしょう)。このため、「玉砕が瓦全より高いとする価値判断」を「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」と断言(できない)
この段についてはその通りでしょう。ですから、「視野狭窄で独善的な昭和の軍人に特徴的な行動基準」とする記述について変更することは良いと思われます。但し、先の大戦において軍部上層部の官僚的責任回避姿勢などから現地将兵が玉砕という手段を最終的に採らざるを得ず、無駄に命を落とさざるを得なかった事例も多くあり、(インパール作戦における佐藤幸徳中将などは例外中の例外ですね)何らかの形で昭和の官僚軍人の欠点をエッセンスとして残せないかとは思います。例えば、「先の大戦では官僚化した軍部上層部が責任を現地将兵に押し付ける形で玉砕を最終的に選択せざるを得ない状況に陥らせた例も多い」などです。但し、おっしゃるとおり独自研究とされる可能性もあるかも知れません。(個人的には既に公知の事実とされており資料的にも十分証明可能と考えてはいますが)
>降伏の本義というのは敵に負担をかけることではないと考えたため
これについては確かに降伏ないし投降の意義は第一義的には敵に負担をかけることではないでしょう。しかし、玉砕という行為が行われる状況とは玉砕か投降かという二者択一の状況であり、降伏というオプションを選んでいた場合の軍事的な「効果」を、玉砕と比較対照することは軍事が詩的、文学的コンテキストとは無縁の戦闘主体間の総力の衝突である以上、意義のあることだと考えます。でありますから、降伏ないし投降と比較対照するため記述を残すべきと考えます。。
- 上記の記述は219.161.173.45さんと219.161.169.90さんによるものですが、同一の方のIPと考えてよろしいのでしょうか。なるべくならアカウントを、せめて何らかのハンドルを、そしてルールとしては署名をお願いしたいと思います。
- さて、、「先の大戦では官僚化した軍部上層部が責任を現地将兵に押し付ける形で玉砕を最終的に選択せざるを得ない状況に陥らせた例も多い」というのは大筋では良いのではないかと思いますが、官僚化という言葉が適切か少し考えさせていただければと思います。
- また、「降伏の効果」については、簡潔に「なお、降伏し捕虜として扱われると、相手の補給線をかえって圧迫するという副次的効果もある」という程度に記述すればよいのでは、と思いますがどうでしょうか。
- などと書いているうちに編集が進んでしまってますね。ううむ。--Akitsumaru 2007年7月10日 (火) 06:10 (UTC)
米軍による云々の件
[編集]- 米軍による捕虜虐殺は差し戻しました。少なくとも、「玉砕」の主な要因に「捕虜虐殺」があると取られかねない記述は、日本軍内部に主要因を持つ、玉砕の解説に甚だ不適切なものであると考えます。主でないのならば記載する必要が認められませんし、主であると主張なさるならば、その出典を求めます。--Los688 2007年7月10日 (火) 11:52 (UTC)
- 玉砕の主な要因と思われぬように書き直したつもりですが…玉砕と言われている数の中には米軍に虐殺されたものもある…という意味で十分通る文章だと思いますが。
218.227.227.161 2007年7月10日 (火) 12:41 (UTC)
- 「ある程度」では付加する意味が全く分かりません。それでは、”病気で死んだものもある””同士討ちにやられたものもある””洞穴で落盤にあい、生き埋めで死んだものもある””原住民におそわれたものもある””渡河中におぼれたものもある””餓死したもののある”も「ある程度」はあると思われるので、付加すべきでしょうか?私は付加すべきとは全く思いません。もし、虐殺されたものがゼロでないという理由だけをあげるのであれば、それこそ全く蛇足であり、事象の解説にとって、不適切な文章と判断いたします。あまりにも瑣末であり、本質を誤解させる文章は、必要ありません。また、「ある程度」とはどの程度のことでしょうか。例えば硫黄島の戦いでは、日本軍が2万人以上戦死しています。1%でも200人以上になります。米軍に虐殺されたものが200人以上ありますでしょうか、またそのような文献資料はありますでしょうか?200人もいないとすれば、戦死者の1%以下であれば、記載するほどの意味があるのでしょうか?「ある程度」と言う言葉をこの場合に使うことは、解釈の幅がありすぎ、全く不適切です。「ある程度」という言葉を使わざるを得ない文章は、削除すべきと考えます。--Los688 2007年7月10日 (火) 13:11 (UTC)
- この文は矛盾に満ちています。確かに、現在は米軍による捕虜の虐待がよく問題になりますが、それが最近問題になっているという事は、それまでは余り問題にされなかったことを意味するのではないですか。それに、日本軍が投降しなかった理由がそれであるためには、第2次世界大戦中、あるいはそれ以前にそれがひどく話題にのぼっていたことをしめさねばなりません。それをしめさないだけでなく、最近になって問題になっているのが根拠では、理由として余りにも無茶です。この文である限りは認められません。--Ks 2007年7月15日 (日) 14:01 (UTC)
- 「ある程度」では付加する意味が全く分かりません。それでは、”病気で死んだものもある””同士討ちにやられたものもある””洞穴で落盤にあい、生き埋めで死んだものもある””原住民におそわれたものもある””渡河中におぼれたものもある””餓死したもののある”も「ある程度」はあると思われるので、付加すべきでしょうか?私は付加すべきとは全く思いません。もし、虐殺されたものがゼロでないという理由だけをあげるのであれば、それこそ全く蛇足であり、事象の解説にとって、不適切な文章と判断いたします。あまりにも瑣末であり、本質を誤解させる文章は、必要ありません。また、「ある程度」とはどの程度のことでしょうか。例えば硫黄島の戦いでは、日本軍が2万人以上戦死しています。1%でも200人以上になります。米軍に虐殺されたものが200人以上ありますでしょうか、またそのような文献資料はありますでしょうか?200人もいないとすれば、戦死者の1%以下であれば、記載するほどの意味があるのでしょうか?「ある程度」と言う言葉をこの場合に使うことは、解釈の幅がありすぎ、全く不適切です。「ある程度」という言葉を使わざるを得ない文章は、削除すべきと考えます。--Los688 2007年7月10日 (火) 13:11 (UTC)
- 上記内容、『最近問題になっているという事は云々』『それまではあまり問題にされていなかった云々』に関してですが、第二次世界大戦以後、米軍が関係した大きな戦争全てで捕虜に対する虐待問題は発生していました。最近になって言われ始めたことではありません。単に戦勝国であったから裁かれることがなかったため目立たなかっただけです。ベトナム戦争は今さら言うまでもないでしょうし、ドイツ降伏後のドイツ兵捕虜に対する不当な扱い。さらにはドイツ人戦犯を裁く法廷で逆に米軍によるドイツ人捕虜虐殺が明らかになってしまった事もあります。
今日において米軍の捕虜に対する扱いに問題があったという見方のほうが主流だと思います。 むしろ虐待がなかったという事を証明するべきなのでは? 米国に限らず、有史以来の人類の戦争において、虐殺がなかった戦争など存在しないのではないでしょうか。 210.151.130.138 2007年7月15日 (日) 16:04 (UTC)
- 私は210.151.130.138様の文を問題にしています。昔からあって問題視されていたのであればそう書けばいいのではありませんか?また、どこにでも存在したのであれば、今度は日本人がそれを嫌った理由、少なくとも米軍を相手にそう判断する理由とはなり得ないでしょう。この文章自体が破綻しているので、それを直していただきたい。そうでなければ誰も納得しないでしょう。--Ks 2007年7月15日 (日) 16:09 (UTC)
- 私にはこの文章に何の問題もないと思います。破綻しているなどとはあまりに一方的な見方ではありませんか?
- この文を認めないとか、破綻しているとか、どう判断しようとも貴方の自由ですが、一方的に削除するのは、あなた個人の判断で削除しているということになります。あの記述がふさわしいか、そうでないか、もっと多くの人に判断を仰ごうではありませんか。編集合戦のような形は、私の望むところではありませんが、一方的に削除されてしまったのではそれが望めません。
210.151.130.138 2007年7月15日 (日) 16:43 (UTC)
インデント戻します。米軍による投降者殺害があったというのは十分に有り得ることではありますが、それが、個々の特異な事例ではないことを示せるような出典がない限り、未検証ないしは独自研究の記述となるかと思います。少なくとも「考えるべきだ」という記述は百科事典にはそぐわないでしょう。--Akitsumaru 2007年7月16日 (月) 04:45 (UTC)
- 1月経過、有効な出典が示されないので、カットしました。--Los688 2007年8月17日 (金) 15:39 (UTC)
- 米軍云々の話は出典の無い箇所を簡略化させ、項目も変更した形で復帰しました。立つのかよ 2007年8月21日 (火) 12:50 (UTC)
おじゃまいたします。「2007年9月10日 (月) 13:17」の私の編集は他の項目と混同していたので、すべて自分で取り消しました。お騒がせしましたm(__)m
ところで、「日本兵が玉砕する傾向にあること」「米軍捕虜虐待」がつながらないのですが…これはひょっとして「米軍による捕虜虐待」ということでしょうか。そうだとしたら、そう書くべきだと思います。また、米軍の捕虜虐待が日本兵の玉砕の要因になるということは、当時の日本兵が米軍による捕虜虐待を知らなければ成立しないと思います。あるいはそうした宣伝が当時の日本軍によってされていたとか。そこまで書けば、誰でも納得できる記述になるのではないでしょうか。門外漢のよけいな意見かもしれませんが、ご参考までに。--てら1971 2007年9月10日 (月) 13:28 (UTC)
> 「また民主主義国における自軍兵士の不合理な死は士気低下や厭戦ムードにつながり」に関して
[編集]まずは初めてWikiに登録して意見する不躾をご容赦ください。 記述されたweb pageの殆んどに、敬服をもって私は拝見しております。
上記の件名の場面で「民主主義」を引用するのは、その定義からみても 間違っていると思います。このwikiでも「民主主義」とは 「多数決を原則として意思を決定することにより、 人民による支配を実現する政治思想」とされています。
件名のことが正しいならば、王政や封建時代の人民は「自軍兵士の 不合理な死は士気低下や厭戦ムード」にはつながらないとお思いですか? 必然的な出来事が成りいく条件を、数学や論理学的には必要十分条件と いいますが、そこに「民主主義」という社会条件が必要とは思えません。 ここに「民主主義」という無関係な新たな単語を出現させること自体が 奇異ですらあります。あえて言いますと、そこには民主主義を至高とする 意図を感じざるを得ません。
率直に意見を述べますと「民主主義」云々という社会制度とは 無関係な、素直な人間の感情と思います。
したがって削除and/or訂正すべきと思っております。いかがでしょう。
- 「厭戦ムードが、政権の危機にもなる」という意味だと思います。--代言人(話/歴) 2008年5月29日 (木) 00:23 (UTC)
- もちろん長期的には非民主主義国家においても厭戦ムードが社会に広がれば、革命やクーデターなどの形で政治指導者の入れ替えが起こる可能性はあります。しかし、非民主主義国家の政治指導者は民主主義国家の政治指導者と異なり民主的で自由な選挙を通じて正当性を獲得している訳ではなく、また政策の失敗が次回の選挙結果を通じて審判される危険性がないので国民各層に広がる厭戦ムードに必ずしも注意を払う必要もないので、社会のムードに鈍感になりがちであるということです。またこれが最も重要ですが非民主主義国家において、表現の自由、報道の自由が保障されている国家はまずあり得ず、国民各層が政治に対して反戦や厭戦をアピールしたり抗議することが認められないことで、国民各層の団結が遅れたり、また政治指導者に国民の本音が伝わらないという致命的な欠陥があります。現在の北朝鮮の状況などは良い証明でしょう。民主主義国家において厭戦ムードがより直接的に政治指導者の政策決定過程に影響を与えるという意味でしょう。ですから、別に民主主義国家について価値判断をしているのではなく、単なる因果関係の問題に過ぎないと思います。--220.36.244.41 2008年6月8日 (日) 05:10 (UTC)