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ノート:生物学/log20101006

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生物学の現在: 還元主義から複雑系へ (自然科学を参照))。分子生物学周辺の分野では、一つの遺伝子・タンパク質の機能に注目していたこれまでの還元的なアプローチから、複雑な系そのものとしてとらえるアプローチが隆盛している。具体的には、ゲノミクスプロテオミクスといった研究分野が開拓され、ゲノムプロテオーム発現プロファイルなどのデータを効率良く網羅的に収集し、コンピュータによって解析するという手法がとられる (バイオインフォマティックスを参照)。これはある意味、生物学は博物学に立ち返っているとみることもできる。

この段落、ふと悩む段落。 「これはある意味、生物学は博物学に立ち返っているとみることもできる」うむ。そんな感じする。 「ある意味」とはどんな意味か。データを収集することに重点が置かれて、生物の本質が何であるかを探究することがおろそかにされ(ているよーに見え)るという意味。 バイオインフォマティクスは収集(検索?)と解析両方に渡るわけで、 「解析」までゆくと自然史学的ではなくなってゆくが、情報と現象の相関が解析されても原理までわからなければ結局博物学からあまり離れたとは言えない(でも、もしかしたらとんでもないことがわかるかもしれないけど)。ツールとしては有効。あるいは現代の生物学の研究がそういうフェイズにあるということかな。(怒られそ)

あと、でだしが複雑系っぽいのに最後が博物学だから誤解されそう(「複雑系」とは言ってないけど)。 --HarpyHumming 17:48 2004年3月5日 (UTC)

すみません、単に書きかけのままあげているのが正直なところです。よろしければ直してやってください。Electric goat 17:57 2004年3月5日 (UTC)

ありゃ、そうでしたか、ごめんなさい。急かすつもりはないです^^ --HarpyHumming 18:37 2004年3月5日 (UTC)

「生物学」と「生命科学」の項、第二段第二文、“普遍性を重視し、(略)ヒトを中心とした理解をしようと”のつながりがすっきりしないような気もします。Kdfj 19:04 2004年6月20日 (UTC)

ご指摘ありがとうございます。なぜ「普遍性→人中心」なのか。。確かに漠然としたイメージのまま書いてしまった文章で、良くないです。私の理解も少しあやふやな所がありますので、もう一度よく考えて文献をあたってみます。もしよろしければ適切な表現に改めていただけると幸いです。他にバランスの悪い所などありましたらご指摘くださいませ。電気山羊 21:16 2004年6月20日 (UTC)

秀逸な記事の候補に挙がっていたので少し読んでみました。素人目にどう映るかという感想ですが参考になればと思い書いてみます。執筆・編集の意図を汲み取れていない部分、背景知識がないために誤解している部分などもあるかと思いますが。

  • 第2段落は何となく改稿の余地があるように思いました。生物学の目的や生物学的な研究の心理的な動機を説明していますが、具体的にどのような疑問を追求する学問なのかについての説明の方がいいかな、と思いました。
  • キーワードのセクションは、各種の説明のセクションの後に持ってきた方が体裁としてわかりやすいのではないかと思いました。
  • 生物学の「記載」は記述とか描写とか言われるような社会科学の手法(文化人類学者が使うようなもの)と似て非なるもので、簡単な言い換えがあってもいいかな、と思いました。「生物種の特徴について定性的に記録すること」でしょうか? 種の特徴だけではなく特定のプロセスなどについても記載を行う場合があるような気もしますが、ちょっと門外漢なのでよくわかりません。。
  • 動物行動学は、生態学の一分野なんでしょうか? 大学だと進化研究や生態学とセットになっている気がするんですが。。(門外漢なのでやはりよくわかりません。)
  • 関連分野についての記述は少し手を入れてみようと思います。チェックをお願いします。

Tomos 11:24 2004年6月22日 (UTC)

コメントありがとうございます。とりあえず秀逸に移行させましたが、ご指摘の点についてはきちんと反映させるつもりです。
  • 序文第二段落: 具体例を考えてみます。
  • 「記載」の言い換え: 記載は種の形態的な記述以外に、発生の過程や細胞内の構造など実験操作を経ない自然の状態での観察のことも含むと思います。ある事象についての基準を明らかにしておくこと、という位置づけだと考えています。
  • キーワードのセクションを前にもってきたのはアクセスの容易さを考えています。あと最後におくとサブセクションができたときに落ち着かない感じがしたというのもあります。「*」を使っているのが不自然な感じを与えているように感じました。体裁についてもう少し考えてみます。
  • 動物行動学は、生態学の一分野か: 実のところあまり詳しくないのですが、Yes and No かなと思っています。というのもフィールドにでて観察する行動学と実験室での行動学があるからです。
  • 「生命科学」についての表現は推敲中です。いろいろと本をみているところです。
電気山羊 13:36 2004年6月22日 (UTC)

たまたま見て

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こんにちは。たまたま記事を見させて頂き、疑問に思ったところを訂正致しました。 心理学・精神医学と生物学は統合していくといった記事が有りましたが、推測で書かれると、客観性や中立性が失われる可能性や、詳しくない方々が御覧になられると誤解を生む可能性も出てくるかと思われます。こちらでは削除をすることはあまりよくないらしいので、原文を尊重しつつ、ちょこっと表現を換えさせて頂きました。(すみません) 御査定の程よろしくお願い致します。 日田久太果 2006年8月15日 (火)

箇条書き

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箇条書きにされる理由が分かりません。文章の可読性を下げているようにしか思えないのですが。「還元主義と複雑系」の節のように、箇条書きにしながら文頭に接続詞があるのも妙です。そもそもWikipedia:編集の仕方にあるように、「;」の記号は定義を示すときにつかうものであって、単なる小見出しをつけるものではないです。反論が無ければ元に戻します。--KISS 2006年8月16日 (水) 12:20 (UTC)[返信]

可読性は上がっていると思います。2人の主観で言ってもしかたないですから一般論を言うと、列挙的な事項は箇条書きにすれば可読性が上がるものかと。妙だと思った文は、お手数ですが修正していただけないでしょうか。私自身は、大きな違和感を覚えなかったもので。箇条書きの項目、たとえば「記載」の項目は「記載」の定義になっていませんか? 定義と言いがたいものもありますが、たとえば「細胞」を「細胞の発見」あるいは「細胞の発見がもたらしたパラダイムシフト」とすれば異論はないでしょうか。小見出しにしたほうがいいという意見なら、(同意するかどうかは別にして)理解できます。なんにせよ、数版前にrvする理由になるでしょうか。それも、要約欄にはそう書かずに。--U3002 2006年8月16日 (水) 17:01 (UTC)[返信]

「一般論」と言われても、それは何での「一般」なのですか? いきなり文章中に「定義」が箇条書きで出てくるのは数学の教科書ぐらいじゃないでしょうかね。定義は別枠にして記述するのが「一般」じゃないかと。とにかく、「妙だと思った」ので箇条書きは全部元に戻しました。

要約欄に「箇条書きは見にくい」と書いておきましたが、ご覧になりませんでしたでしょうか。私の編集は箇条書きにされる前の版に戻しただけです。細かな変更はされていましたが、残念ながら変更前の文体の方が学術的であるように感じましたので。私の見た限り、他に付け加えられた重要な加筆はありませんでした。--KISS 2006年8月17日 (木) 12:18 (UTC)[返信]

まず、Wikipedia:以前の版にページを戻す方法#差し戻し(リバート、revert)を読んでください。
  • 一般に、リバート(差し戻し)は、荒らし行為への対処として推奨される行為です。通常の投稿者が記事に対して寄与すると確信して行った編集への対処としては、推奨される行為ではありません。編集された内容に疑問がある場合はノートページなどで議論を提起してください。合わせて、議論が白熱しても冷静ににある忠告を見て下さい。
差し戻しではなく、加筆修正でご対応お願いします。:ノートはもちろん見ております。「箇条書きは見にくい」という主観的な一言だけでは、何版も前への差し戻しには不十分だと考えます。--U3002 2006年8月17日 (木) 15:32 (UTC)[返信]

はぁ。私のとっている行為は完全にWikipedia:以前の版にページを戻す方法#差し戻し(リバート、revert)にのっとっていると思いますが。ここに最初に議論を提起したのは私ですよ。それであなたから修正していいと返事を得たので編集したのですが、それをあなたは議論なしにまたリバートしているわけですが。自覚されているかどうかわかりませんが、あなたのとっている行動がまさに「編集合戦」そのものですよ。

箇条書き自体が問題だといっているのですから、いくら加筆をしても私の希望通りにはならないことをご理解下さい。それよりも、なぜ文章中にいきなり定義をずらずら書く必要があるのかをご説明いただきたいです。ついでですが、あなたの修正前からこの記事は「秀逸な記事」に選ばれていましたから、別にわざわざ箇条書きにする必要はぜんぜんないんじゃないでしょうかね。

文章について例をあげれば、「還元主義と複雑系」の節はあなたの編集で完全に内容が破壊されています。ここは「還元主義」と「複雑系」それぞれを書くのではなくて、還元主義から複雑系へ移行しつつあるという関係を記述してしたのであり、両者を分けて記述することはできません。個別に定義(そもそも「複雑系 しかし、還元主義の限界もわかってきた。」という書き出しは定義にも何にもなっていないですけど)だけ書いておけばいいとするのは、まさに還元主義の限界ですよ。--KISS 2006年8月17日 (木) 16:26 (UTC)[返信]

通告なし・要約への記述なしの一方的なリバートを「議論を提起」という建設的な語句で表すことに違和感を覚えます。修正の許可など私が出さなくても、あなたにはその権利があります。しかし、Wikipediaで推奨されていないやりかたは遠慮してほしいです。私は単に、一方的なリバートを復旧しているだけです。よろしければ履歴で、あなたのリバートにより始まっていることをご確認ください。
「秀逸な記事」とは、現状で凍結すべき記事ということでしょうか。私はそうは思いませんし、そういう指針も見つかりませんでした。本項目では使っていませんが参考までに、Template:秀逸な記事には次の文があります。
より素晴らしい記事にするために編集を歓迎します。
定義にしたのが悪いのか、定義になっていないのか。論点を整理してください。この2つは論理的に両立しません。あなたが「定義にも何もなっていない」と非難したその文で、「還元主義」の説明文と「複雑系」の説明文は有機的に結びついて、あなたが箇条書きの欠点として指摘する「両者を分けて記述」にはなっていません。(当然です。この1文は箇条書きにする前からあった文なのですから)
最後に。要約欄には、私宛のメッセージではなく、編集内容の要約を書くべきかと。--U3002 2006年8月17日 (木) 17:13 (UTC)[返信]

おたずねしますが、あたなは記事を書き換えるときにいちいち元の執筆者に通告しているのですが? 少なくとも今回の箇条書き化にあたってはどのような通告も行っていないですよね? どこか別の場所で通告されていたのでしたら謝りますが。

あなたが最初に編集して箇条書きにしたことはもちろん認められた行為です。したがって、私が一回目に戻したのもただの編集行為ですから、議論があろうとなかろうと認められた行為です。そのあとのあなたのリバートが「編集合戦」の始まりです。疑問があるなら、この段階でリバートせずにここのノートであなたが議論を提起するべきでした、が、あなたはそれをせず強行的に私の編集を戻しました。このような行為を「一方的なリバート」といいます。

編集合戦になるのは私の本意ではありませんから、私はこのノートで議論を提起しました。あなたは書き直すのに「修正の許可などいらない」といいますが、この場合は相手と議論せずに編集強行したら「編集合戦」となりますから、まさにあなたの同意が必要だったのですよ。ウィキペディアにおいては議論と同意が非常に重要であることを認識してください。ですから私はあなたからの返事を待ちました。そこでやっと「修正してください」という返事をいただいたので再度書き直したのですが、それをあなたはまた議論なくリバートしてしまいました。これが「一方的なリバート二回目」です。ウィキペディアでは議論無く一方的にリバートを繰り返す行為を「編集合戦」として禁止してますのでご注意下さい。あと一回であなたはブロック対象になりました。

秀逸な記事は書き換えてもよいと思いますよ。でもそれなりの敬意を払うべきだといいたいのです。他のどうでもいい記事なら箇条書きにしようがどうしようが知りませんが、秀逸記事を改悪された場合は元に戻したくなりますね。Template:優れた記事をお示しいただいて恐縮ですが、このノートの一番上にしっかり貼られていましたので、いちおう私も目にしてはいました。(追記:ああ、失礼しました。このノートに貼られていたのはTemplate:秀逸でしたね。申し訳ない。ところで、Template:秀逸な記事のどこにその文あります?)

では、論点を整理しましょうか。「箇条書きにすると文章の可読性が下がる」というのが私のはじめからの主張です。あなたも認識されているようですが、「有機的に結びついて」いた文章を、なぜ箇条書きにしてバラバラにしてしまうのでしょうか。まとまりのある文章はまとめて節(あるいは段落)にするというのがライティングの基本と認識していますが、違いますか? まずこの点ご回答おねがいします。--KISS 2006年8月18日 (金) 16:05 (UTC)[返信]

いろいろ事実と異なることをお書きになっているので、再度ご確認ください。もう一度Wikipedia:以前の版にページを戻す方法#差し戻し(リバート、revert)から引用します。
  • 一般に、リバート(差し戻し)は、荒らし行為への対処として推奨される行為です。通常の投稿者が記事に対して寄与すると確信して行った編集への対処としては、推奨される行為ではありません。編集された内容に疑問がある場合はノートページなどで議論を提起してください。合わせて、議論が白熱しても冷静ににある忠告を見て下さい。
通常の編集行為に対するリバートは、「ただの編集行為」でも「議論があろうとなかろうと認められた行為」でもございません。
また、あなたは前もって議論を提起などしておりません。時刻を引用します。TZはUTです。
  • 本文
    2006年8月16日 (水) 10:51 KISS (ノート | 投稿記録) (箇条書きは見にくい) ←あなたの1回目のリバートです
    2006年8月16日 (水) 11:49 U3002 (ノート | 投稿記録) (↓は数版前へのrv。18:41版へrvし、箇条書きのXML階層構造を整理して少し読みやすく。) ←私が復旧しました
    2006年8月17日 (木) 12:17 KISS (ノート | 投稿記録) (箇条書きを元に戻す。)←あなたの2回目のリバートです
  • ノート
    2006年8月16日 (水) 12:20 KISS (ノート | 投稿記録) (箇条書きは見にくい)←あなたの最初のノート編集です
私を脅すのは結構ですが、私のリバート回数があなたを越えることはないのですよ?
「参考として」という言葉の意味はわかりませんか? それともあなたは、Template:秀逸がない秀逸な記事は編集を歓迎していないと主張しますか?
「箇条書きにすると文章の可読性が上がる」というのが私の初めからの主張です。その段落が何を主題としているかと、互いの階層構造が、一瞥しただけで明確となります。あなたも認識されているようですが、接続詞などを適切に使えば、箇条書きによっても文章がバラバラになることはありません。箇条書きが接続詞で始まることは異常ではありません。最も厳密であるべき文章である法律の条文などをご覧ください。列挙的な事柄は箇条書きにするのがライティングの基本だと認識しています。 --U3002 2006年8月18日 (金) 16:45 (UTC)[返信]

「しかし」あるいは「一方」などの接続詞から始まる法律の条文を具体的にお示しください。--KISS 2006年8月18日 (金) 17:22 (UTC)[返信]

大日本帝国憲法第62条2: 但シ報償ニ属スル行政上ノ手数料及其ノ他ノ収納金ハ(略)など。 --U3002 2006年8月18日 (金) 18:00 (UTC)[返信]

接続詞で始まる条文があることは了解しました。では次の問題点ですが、現在の版の箇条書き部分はすべて「形式」が定義文になっているものの、「内容」が定義になっていません。形式か内容か、あるいは両方を修正する必要があります。どのようにしたらよいとお考えでしょうか。--KISS 2006年8月18日 (金) 19:30 (UTC)[返信]

内容を修正するというのが、文のつながりを断ち切るという意味であれば、やるべきではありません。それはおそらく、あなたが忌み嫌うことでしょう(私も望みません)。定義の形式が問題なのであれば、番号なしリスト(メタ構文のアスタリスク)を使ってはいかがでしょうか。
ただしそもそも、私は現状を問題視していないのですから、私に編集案を考えるよう求めるのはお門違いかと思うのですが。 --U3002 2006年8月19日 (土) 11:55 (UTC)[返信]

箇条書きをやめてみました。箇条書きになっていた間にどのような編集が行われたかは差分をごらんください。 --SGreen 2006年9月29日 (金) 14:08 (UTC)[返信]

「現代の生物学者は、機械論の立場を取り」ここに関して、すべての生物学者が機械論的であると誤解を招く可能性はなでしょうか、「現代の多くの」とか「近代の」とか--以上の署名のないコメントは、61.199.105.44会話/Whois)さんが 2006-08-20 09:46 (UTC) に投稿したものです(SGreenによる付記)。

物理学の言葉

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本文「現代の生物学者は唯物論或いは機械論の立場を取り、生物は有機化合物などの物質から構成された複雑な機械であると見なす。理論的には生命現象はすべて物理学の言葉で説明できるとされている」についてです。ここで「物理学の言葉」とは、読者の理解を進めるために行うための、機械論の言い換えです。またこの物理学は広義のものであり、自然科学と重複するような範囲のものです。これを「量子力学」としてしまうと、範囲が限定的となり、ニュアンスがずいぶんと異なり、理解しづらくなると思いますが、いかがでしょうか?電気山羊 2009年11月24日 (火) 16:02 (UTC)[返信]

「広義の物理学」としてしまってはあまりに範囲が広すぎないでしょうか?生物学の要素を取りこぼさずに簡潔に説明するには「量子力学」がぴったりだと考えます。しかし機械論の言い換えなのであれば「広義の物理学」でもいいとは思います。私は生物は専門ではないので、そこらへんは電気山羊さんにお任せします。--CCoil 2009年11月25日 (水) 15:23 (UTC)[返信]
「物理学の言葉」というと何だか「物理学の用語」のようにも聞こえるので、もう少しわかりやすい表現のほうがよいかもしれないという気はしました。「物理学的に解釈できる」というような意味ですよね。量子力学では巨視的な挙動は記述しないので、例えば生命現象を物理現象の一種として取り扱う、ということを表現したいのであれば、ここでいきなり量子力学をだすのはちょっとちぐはぐな感じがします。生命現象は化学反応・物理反応の連続として解釈し、それらは量子力学で解釈される、ということなのでしょうけれども。いずれにしましても、何か出典がありましたら、それを参考にするのがよろしいかと思われます。--Calvero 2009年11月26日 (木) 04:17 (UTC)[返信]
「理論的には生命現象はすべて量子力学で説明できるとされている。」。この文、丸ごと不要のように思います。なくても意味が通じていますし、混乱を招くだけです。多くの生物学者は生命現象を分子かそれ以上の大きな単位のものの挙動としてとらえていると思うのですが……。--Kojidoi 2009年12月10日 (木) 16:50 (UTC)[返信]
議論が止まっていますが、上記のとおり、ミスリーディングだと思いましたので削除させていただきました。--Kojidoi 2009年12月29日 (火) 02:48 (UTC)[返信]
参加できずにすみません。たしかに曖昧な表現ですので、削除が妥当だと思います。ご対応ありがとうございました。電気山羊 2010年1月10日 (日) 07:34 (UTC)[返信]


参考文献、脚注が少なすぎる

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当記事は、秀逸な記事に選ばれていますが、参考文献が少なく、脚注は一つもありません。つまり何を元に執筆されたのか不明です。生物学の歴史や概要は素人的で、特に哲学的な解説部分は事実誤認を多く含んでいます。よって、独自研究のテンプレートを貼りました。--尚玉 2010年6月4日 (金) 19:57 (UTC)[返信]

秀逸な記事の再選考をして、秀逸な記事から外すのも良いかと思います。この項目はウィキペディアの変化に追随できておらず、秀逸な記事として不適格になっている感があります。
私は多くのパートを書きましたので、いちおう事情を記しておきます。この項目は秀逸な記事の選考で通過した最初期のもので、その時点では文献や脚注の要求はほとんどされていませんでした(ので選考を通過できました)。また、私が書いた部分は、個人的意見を排除しきれていないかもしれませんが、おおむね参考文献はありました(が書き留めることは怠っています)。著作権に触れないよう自分で書き出していますので、稚拙な表現になっているところもあると思います。また個人的な理由ですが、執筆当時は大学図書館で豊富な文献にあたれたのですが、それらの文献に再度アクセスすることは、現在ちょっと難しい状態にあります。自分の書いた部分に文献と脚注をつけられれば最良で最短かと思いますが、少なくともしばらくはできそうにありません。
そういうわけで、秀逸な記事から外し、可能な人が可能なときにブラッシュアップしていくのが、秀逸な記事のあり方としてもウィキペディアの様式としても、良いのではないかなと思いますが、いかがでしょうか。電気山羊 2010年6月5日 (土) 04:50 (UTC)[返信]
参考文献として「生物学事典」は使わない方がいいのではないかという気がするのですが、どうなんでしょう?
なんか変な編集をされていたので、とりあえず哲学的な部分の説明を補足しましたが、あまり厳密に書くと、生物学の専門家には哲学的な概念は理解できないでしょう。あと、秀逸の記事から外すというのは、できません。もし再選考の対象になれば、そのとき参考文献や脚注の充実は求められると思います。どなたかが補筆しないと秀逸な記事から外されるおそれはあります。--尚玉 2010年6月5日 (土) 14:07 (UTC)[返信]

尚玉さんがアリストテレスの説明に加筆し、その出典として"『岩波哲学思想事典』岩波書店 1998年 1317頁参照"としたが、同事典同版の同ページを実際に確認してみると、【ビザンティン文明】【非神話化】【秘跡】などのページであって、生物学やアリストテレスの生物研究のことは全然書かれていないが、これは尚玉のページ数転記ミスなのか? それとも意図的な出典の偽造か? もしも悪質な出典偽造なら、そんなことをする奴は今後編集に参加してはいけないし、もしもただのページ数の転記ミスなら、他の編集者や読者にミスを詫びて早急に訂正するべきだろう。出典表示には、数字転記ミス時の担保として(あるいはフォルトトレラントにするため)、【○○○○】と項目名も念のため補記しておくと良い。いずれにせよ、尚玉さんの投稿はどうも信用できない・・・。気をつけていただきたい。--WTC 2010年6月6日 (日) 01:00 (UTC)[返信]

1371頁の間違いでした。【プシュケー】の項目です。それと、私の加筆箇所をことごとく「・・・とする者がいる」などと書いていますが、では、あなたは「それ以外の見解」について何も語っていませんね。--尚玉 2010年6月6日 (日) 09:17 (UTC)[返信]
それで、出典が「生物学事典」というのはオッケエなの?定義だけならありかと思うけど、事項の内容となると、それでいいものかという気も。--Ks 2010年6月6日 (日) 09:34 (UTC)[返信]
よくはないですね。あと、WTCさんは生気論を支持しているのかもしれませんが、少なくとも現代の生物学を含む自然科学の分野で生気論が広く支持されていると見なすのは無理があります。もちろん科学者の中にも、個人の信条としてプシュケーや魂など非物質的存在を信仰している人はいるかもしれませんが、学問としてそれらを主張する人はまれでしょう。それと、アリストテレスの評価もその歴史的意義はもちろん不滅ですが、現代ではそのまま通用しません。こうした「常識」に要出典のタグを貼るのは行き過ぎだと思います。--尚玉 2010年6月6日 (日) 10:14 (UTC)[返信]
下のセクションか迷いましたが、こちらに。どなたもこの項目を良くしようということを考えて編集されており、感謝いたします。コメントを読むとヒートアップの感もありますが、お互いに悪意にとらずに建設的な対話をしていただければ、あまり顔を出せない私としては安心できます。。
再選考は悪戯に行うものではありませんし、不要ならそれで良いと思います。ただ、必要ならばいつでも誰でも行うことができ、それで秀逸な記事からはずれるなら、そういうものでしょう。ひとまず積極的に再選考にかけるつもりは今はありません。
さて、哲学的な概念、というより概要部分の記述様式についてから。この項目で厳密に書く必要はもちろんないと思います。この項目は生物学の概要について、浅く広くバランスをとりながら平易な言葉で記述し、踏み込んだ内容はそのリンク先にゆだねるように、少なくとも私は心がけてきました。加筆により一過的に詳しくなっても最終的にはバランスをとりなおしていくのが良いと思います。特に万人向けの概要部分が難解・詳細になるのは避けるべきです。「経験科学」という言葉でさえ、リンクか説明なく使わない方が良いのではないでしょうか。
内容、特に生気論についてですが、アリストテレスに関してはなるほどWTCさんの編集にも妥当性はあると思います。しかし、アリストテレスをおいておいたにしても、古代ギリシャのヒポクラテスの四体液説やガレノスの動物精気などは、現代科学においては科学に内包できない概念であると認識しています。やはり科学革命以降が現代生物学と呼べるのではないでしょうか(この辺は文献があったという記憶はあります)。現代において生気論を学術論文に持ち込む生物学者はいないでしょう。
事典を出典にすることは、可でしょう。これを不可とする場合は、かなり影響の大きな議論ですので、このノートだけではすまない議題じゃないでしょうか。もちろん参考文献としての広がりには他の形態の書籍もある方が好ましいですし、そうあるように心がけるべきとは思います。
電気山羊 2010年6月8日 (火) 17:47 (UTC)[返信]

Wikipediaのルールを守るように

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Wikipediaは出典にもとづいて中立的に書いてゆくもの。多数の学者の査読を経ている岩波生物学事典の記述および岩波哲学・思想事典の記述に、ただの一介のWikipedia編集者が、個人的感情で文句をつけてはいけません。また、出典が明示されている記述を、編集者の感情で削除してはいけません。

Wikipediaは、編集者の個人的感情で書いてはいけない。尚玉さんだとか、他の数名Wikipediaの編集者の感情がどうであれ、自分の意見で記事を書いてはいけない。Wikipediaは自分の感情で文章を書く場所ではない。Wikipediaは出典にもとづいて加筆してゆくものだ。Wikipedia:検証可能性などのWikipediaの公式ルールを守るように。 私は別に生気論を支持しているわけではなく、あくまで中立的だ。複数の説を出典にもとづいて併記してゆくのがWikipediaのルール。自分の個人的感情で気に入らないからといって文章を削除するのは、Wikipediaの公式ルールを無視した荒らし行為。やってはいけない。
何年も前に「オレの書くことは"常識"だから、オレは出典はつけない」などと主張して、メチャクチャな主観を投稿しまくる荒らしがWikipediaで横行していたことがあったようだが、"常識"ならなおさらのこと、それを明言している書物も多いだろうから、出典を3個でも5個でもつけるべき、というのがWikipediaのルール。「○○○は・・・・では常識だ」としている出典も示すべき。
たしかに、生物学領域で機械論支持者が多いという傾向はあるだろうが、そういった学者の態度に関する状況分析についても出典なしで投稿者の主観で乱暴に加筆するのではなく、しっかり出典をつけて、「生物学者の○○○氏は著書『□□□□』において、生物学者では機械論を支持する人が多いと私は分析している、と述べた。」とか「学問を横断的に調査している、東京大学の○○○教授は、1970年代、生物学者の大半は機械論を支持していると思われる、とし、△△△という学問分野とは分布が異なっていると分析した。」とか「科学哲学者の○○○○は、1△○○年代までは生気論が優勢であったが、19○○年代ごろからは、機械論が優勢になった、と指摘した。最近では・・・・という傾向がある、とも指摘している。」といったスタイルで、中立的に書けばよい。ただ、それだけのこと。さらに、各国の生物学者に対する詳細なアンケート調査の類でもあれば、年ごとに変化してゆく正確な数字、各国ごとの分布の違いも正確に掲載するとよい。

ともかく、Wikipediaの公式ルールを守るように。--WTC 2010年6月7日 (月) 02:52 (UTC)[返信]

誰に向かっての演説かはわかりませんが、もし、私が『生物学事典を出典にするのはいかがなものか』と言ったのにたいする反論であれば、という観点からお返事させてください。私の論点は、全然違うところにあります。もちろん出典なしの記述をせよ、などという気は毛頭ありませんし。むしろ、出典とするのは、その分野について詳しく論じた文献によるべきものである、ということです。生物学事典はそのような出典のごく概要をかき集めたものですから、よくまとまってはいますが、それだけにその裏付けや意味づけに欠け、場合によっては誤読を生じます。また、一つの論点について体系的に論じるものではないので、その細かいのをかき集めて話をまとめる行為は、独自研究につながりかねません。ですから、様々な定義をくらべたり、一番の定説をどれと見るべきか、といった判断には使わざるを得ないこともあるでしょうが、一般的には出典とすべきではないと思うんですよ。--Ks 2010年6月7日 (月) 04:09 (UTC)[返信]
一方的な変更はやめてください。あと、参照ページの記載ミスはここで正しい箇所を指摘したのですから、それまで元に戻すのはやめてもらえますか。一方的に編集を繰り返せば、ページ保護になりますのでお気をつけください。あと、あなたの事典の引用は恣意的ですよね。アリストテレスの評価が分かれている、なんて生物学の分野でありうるでしょうか? 生物学の歴史の中で、その先駆的業績は評価されるべきでしょうが、どう考えてもアリストテレスの生気論や目的論をそのまま現代の生物学で擁護する学者がいるとは思えません。評価が分かれている、というのなら、それこそあなたがその出典を明らかにすべきでしょう。極端な少数意見を、恣意的な引用でまるで学会で意見が二分しているかのように記述するのは、明らかに問題があります。「Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められる」をよく熟読してWikipediaで求められる編集方針を理解してください。--尚玉 2010年6月7日 (月) 08:40 (UTC)[返信]
アリストテレスの説の細かい内容はともかくとして、第三者から客観的に言わせてもらうと、編集のしかたはWTCのほうがWpの守るべき原則・ルールを守って冷静に編集している。尚玉が間違ってる。尚玉は二晩ほど休んで頭冷やすべき。
失礼ですが単発アカウントのようですね。編集戻します。--尚玉 2010年6月7日 (月) 14:31 (UTC)[返信]

尚玉のやっていることは出典の偽装にあたる。出典は正しく示せ。

[編集]

ようやく尚玉が出典のページのミスを認めたので、その『岩波哲学思想事典』岩波書店 1998年 1371頁を読んでみたが、そこには尚玉の記述したようなこと(科学論の類)は直接的・明示的に書いていない。それではまずい。尚玉がやっているのは、Wikipediaで禁止されている出典の偽装にあたるまた、Wikipediaで禁止されている「<<特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成>>」を禁止する規定に抵触しかねないような方式で記述を組み立てている。これは大問題だ。

<<特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成>>」を熟読のこと。

ただし、尚玉は誤解しているようなので念のために言っておくが、私は生気論を支持しているわけでは全然なくあくまで中立的で、ただ、Wikipediaのルールを守れ、といっているのだ。

私は、Wikipediaのルールどおりのことを指摘しているだけであって、最初から「(ある内容を)加筆するな」と言っているのではなく、Wikipediaの基本方針どおりに「積極的に加筆せよ。だがWikipediaのルールを守りつつそれを行え」といっているのだ。Wikipediaのルールどおり、「加筆してよい。だが妥当な内容であっても、Wikipediaではけっしてインチキの出典提示で書いてはならず、必ず正しい出典の提示のしかたで書かなければならない。」ということを言っているのだ。

私のほうで、尚玉が加筆した文章をわざわざ短い文章に分解し、要出典タグを貼り付けているのも、それが気に入らないから消したい、とかいった低次元のことではなく(どうも尚玉はそうだと勝手に誤解しているようだが、ひどい誤解だ)、Wikipediaで禁止されている「既存説の合成」を行っている匂いがしたので、それがどうなのかはっきりさせるためにも要出典をつけたのだ。つまり、Wikipediaで禁止されている<<既存の情報の合成>>をやるな正しく出典を示せということを言っているのだ。

ところで、「ほとんど全ての生物学者が基本的には機械論を採用している、現代ではアリストテレスの説の思考方式や語彙を用いて考える生物学者はいない」ということはまあ正しい、そのとおりなのだが(そんなことは誰でも重々承知だ。私だってそんなことは最初から重々承知している。何度も言うが、重々承知している。)、だが、生物学と機械論/生気論のことや、生物学を主題としてそこにおけるアリストテレスの功罪のことを直接的・明示的に記述している文献は『岩波哲学思想事典』の【プシュケー】の項目ではないのであって、強引にそれを流用・援用する形で文章を組み立ててはいけない。(そもそも、ここはWikipediaの【生物学】という項目なのに、その文章を書くために、(哲学・思想事典の【生物学】の項目ならまだしも)、よりによって、哲学・思想事典の中の【プシュケー】の項目の文章を根拠にしよう、とする発想が間違っている。【生物学】という主題から、脱線しまくっているではないか。主題が異なっている資料の文章を強引に結合してゆこうという発想が間違っているのだ。まさに、Wikipediaで禁止されている「既存の情報の合成」だ

【生物学】の項目を執筆・加筆するために用いる文献は、原則的に生物学を主題とした文献であるべきだ。事典類の【生物学】の項目を選ぶか、単行本なら『生物学とはいかなる学問か』『生物学について』『生物学の歴史』といった題名の文献を選ぶべきなのだ。あるいはせいぜい、ある本の一章をまるまる割いて、生物学について論じているような本だ。)

ちなみに、生物学を主題として掲げ、生物学におけるアリストテレスの貢献/難点、古代の生物学と現代の生物学の相違点について直接的かつ明示的に言及している文献は他に存在しているだから、そちらの、別の文献のほうを出典として提示すべきなのだ。(私は、その存在を知っている。今後、加筆予定。)。Wikipediaでは、内容的にほぼ正しいことであっても、それを偽装した出典で提示したり、(ある文献が直接的にあることを明示的に記述していないのに)まるでそういうことを明示的に書いているかのように偽ったり、複数の文献と自分の知識を合成して説を組み立てるやりかたで記述をしてはいけない。Wikipediaでは、あることを記述するとしても、その趣旨を直接的に言っている出典を見つけて、それをルールに沿った正しい方法で示しつつ記述していかなければならない。(現代の生物学者が基本的に機械論を採用している、ということについては、今後私のほうで、それを直接的・明示的に述べている正しい出典を示しつつ加筆してゆく予定。)

尚玉は、めんどくさがらずに文献を多めに手元に置いて、直接的にあることを言っている箇所を見つけ、それを出典として正しく提示すべきだ。出典を提示する手間をおしんで、出典を示せないからといって、要出典タグを剥がすためにリバートを絶対にかけるな。 Wikipediaでは、何人であれ、貼り付けられた要出典タグは勝手に絶対に剥がしてはいけない、というルールになっている。正しい出典が示された時だけ、それを剥がしてよい。尚玉のリバート行為は、要出典タグ逃れの違反行為だ。もしも今後同様のリバートを繰り返したら、悪質ユーザとして投稿ブロックなどの措置を要請せざるを得ない。編集というのは他のやりかたでやるべきで、尚玉は、リバートをかけるのではなく、個々の文章に出典を補ったり、既存の記述に加筆する形で、正しい出典つきの文章を併記してゆくように。そうすれば、粛々と編集作業は進んでゆき、一時的に若干バランスが崩れることはあるにしても、結局はまともな記述の割合が増えてゆき、良い記事になってゆく。尚玉は、一時的なアンバランスにヒステリックに反応しすぎだ。

要は加筆してよいが、文献を調べる手間を惜しむな。インチキ出典をWikipediaに練りこむな。図書館に行って、多数の文献を調べて、正確に出典をつけろ、ということなのだ。地元の図書館にでも立ち寄って生物学関係の書棚や百科事典の類を1~2時間も眺めていれば、いくつか見つけられるはずだ。そういう"ひと手間"を惜しんで、Wikipediaを出典偽装入りの百科事典するようなことは、厳につつしんでいただきたい。--WTC 2010年6月8日 (火) 22:07 (UTC)[返信]

「Wikipedia:個人攻撃はしない」に違反

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えらく物騒な書き方をされていますが、WTCさんの一連の書き込みは明らかにWikipedia:個人攻撃はしないに違反していますので、ご注意ください。あと急にあなたに賛同する単発のアカウントやIPアドレスによる書き込みがなされていますが、同一人物による議論や編集の撹乱を目的とした行為でしたら、Wikipedia:多重アカウント#多重アカウントの使用が禁止されている行為の「ソックパペットで他のウィキペディアンを欺いたり、支持がたくさんあるように見せかけたり(自作自演行為)してはなりません。」に該当しますのでご注意ください。
あと、『岩波哲学思想事典』の【プシュケー】の項目には、アリストテレスは「魂を『可能態において生命を持つ自然的物体の形相』と定義して、生体の本質をなす自己目的的機能にして機動因であるとした」と書いています。WTC氏はどうもこの文章の意味が分からないようですね。形相、形而上学、経験の哲学的概念が分からないから私の文章に要出典を付加しているのでしょう。意味が分かるなら説明してもらえますか? 説明できれば私の記述が正しいことが理解できますよ。どうも哲学の基本が理解できないのに、無理して生物学事典を頼りにアリストテレスの思想の要約をしてみたが、矛盾や理解不足を指摘されて激高しているようです。あとWikipediaの執筆に既存の百科事典を出典に使うのはいかがなものでしょうか。--尚玉 2010年6月9日 (水) 03:40 (UTC)[返信]

反省していただきたい

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むしろ相手の属性に関して最初から妙な邪推をして、属性を決め付けて、それを感情的根拠にし、個人攻撃をやっているのは、尚玉さん、あなたのほう。(すぐ上ではなくて、はるか上のほうに残っている)尚玉さん自身の投稿をよーく読み返して、見つけて(見つけられなかったら、それがまた問題だ)、しっかり反省していただきたい。

ソックパペットだとか何だとか、変ないいがかりをつけないようにしていただきたい。 履歴画面で、2010年6月8日 (火) 23:46 と2010年6月9日 (水) 01:20 のWTCの投稿の間にサンドイッチされている222.146.118.224に関して言えば私WTCであって(そんなこと一連の編集時間の連続性と内容の連続性をみればすぐ推測できるだろう?)、たまたまブラウザ画面を複数開いて作業したら、一画面だけログインしていないままで不本意なことにIPになってしまったということ。あるユーザのある画面がいつのまにかログオフしていて、連続の編集の一部がたまたまIPになったようなことは「ソックパペット」とは言わない。変ないいがかりをつけないように
青空飛行さんはどこのだれだか私は知らない。だれなんだろう??? さっきも(下に)Salixさんが反応して投稿したように、こちらからは投稿者しか見えないが、実際には多くの人々が生物学の項目を読んでいて、それぞれいろいろ思ったり反応している、ということなのだろう。
尚玉さんには、相手の意図を邪推ばかりすることは止めていただきたい。迷惑だ。そういう傾向が、記事編集内容に対する一方的な邪推にもつながり、感情的にリバートをし、まともな編集者に迷惑をかけている。--WTC 2010年6月9日 (水) 05:34 (UTC)[返信]

せめて文体は...

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WTCさんの書き込みを読んでいて気になったことがひとつ。ネット上での論争は文章だけで判断されますから、言葉の使い方ひとつで誤解を招くことが多々あります。他の時はともかく、人に注意したり論争したりする時ぐらいはですます調の丁寧語を使いましょうよ。学会等で直接話す時でもエラい人ほど若い人に話す時は丁寧にするものですよ。--Salix 2010年6月9日 (水) 04:28 (UTC)[返信]