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ノート:町奉行

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中町についての疑問

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ShikiHでございます。2010年12月29日 (水) 06:15 の版では中町奉行・中町奉行所の記述に齟齬が見られます。修正すべしと考えますが、私の手にはおえないので、みなさんのご教授をお願いいたします。 さて、この版では以下(1)ないし(3)の3つの記述が見られます。

  • (1)  1702年(元禄15年)閏8月 - 1719年(享保4年)1月という短い間ではあるが中町奉行所というものも設置された。
  • (2)  途中中町奉行というものが設置されたが、わずか2代17年で廃止された。
  • (3) 中町奉行
    • 1 松前伊豆守嘉広(1702年閏8月15日 - 1703年11月13日)
    • 2 林土佐守忠和(1703年11月15日 - 1705年1月28日)
    • 3 坪内能登守定鑑(1705年4月28日 - 1707年4月22日)
    • 4 丹羽遠江守長守(1707年4月22日 - 1714年1月26日)
    • 5 中山出雲守時春(1714年1月28日 - 1723年6月29日) 

これら3つの記述は一見、矛盾して見えます。しかし事実としてはどれも正しいのかも知れません。本文記述のとおり、北・中・南は奉行所の相対的位置を示す言葉なので、奉行所が移転したり、廃止されたりすれば名称が変わってしまいます。本文中に「宝永4年(1707年)に本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。」図式で書けば、北→南、南→中、中→北と変更されました。1707年はちょうど問題としている時期にあたります。

本文の中町奉行のところにある

  • 中1松前伊豆守嘉広(1702年閏8月15日 - 1703年11月13日)は南10(1697年4月14日 - 1702年閏8月15日)としても載っているので、南で就任し、三町奉行制となって中と呼ばれ、中で退任したことがわかります。
  • 中2林土佐守忠和(1703年11月15日 - 1705年1月28日)については特にありません。中で就任、中で退任しました。
  • 中3坪内能登守定鑑は坪内能登守定鑑(1705年4月28日 - 1707年4月22日は、北12(1707年4月22日 - 1719年1月28日)としても書かれ、中で就任し、上記移転に伴って北で退任したことがわかります。
  • 中4丹羽遠江守長守(1707年4月22日 - 1714年1月26日)は南11(1702年閏8月15日 - 1707年4月22日)でもあります。就任は南、退任は中。
  • 中5中山出雲守時春(1714年1月28日 - 1723年6月29日)は南北には出てきませんが、北13諏訪美濃守頼篤(1723年7月20日 - 1731年9月19日)の直前に退任した(この直前に空白の期間がある)と思われるので、中で就任、1919年に中町奉行所廃止、北で退任。

本文から上記のように推定しました。こうしてみると、中の御奉行様の人数は何人なのでしょうか。解釈はさまざまでしょうが、百科事典の1つの記事の中では統一していないと奇妙です。初めに申し上げたとおり、皆さんのご意見をお待ちします。--ShikiH 2010年12月29日 (水) 09:22 (UTC)[返信]