ノート:病院坂の首縊りの家 (映画)
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インフォボックスの出演者一覧について
[編集][[#キャスト|後述]]としていたものをわざわざ削除の上で完全転記しておられますが、本文スタッフ節で一覧網羅されているものと完全に同一の一覧をインフォボックス中にもう一度重複表示させる意義ってあるのでしょうか? 非常に無意味かつ冗長な編集に思え、かつ編集意図が分かりかねますが(スタッフの方はインフォボックス中にない職がスタッフ節で詳細説明されていますのである程度重複する意義は判ります)。
また、キャストもスタッフも加筆したところで必ず右側に大幅な余白が空くことになりますので左右二列の配置としましたが、何故縦長でスクロールの手間が掛かる一列に戻してしまわれたのか少しご意見を頂きたく思います。--雑草くん 2009年8月8日 (土) 03:21 (UTC)
記事名に違和感
[編集]>2014年現在で映画とテレビドラマが1作品ずつある。
と、病院坂の首縊りの家(原作の方の記事)の最初に書かれていますが、だったら病院坂の首縊りの家 (映画)で良かったんじゃないですかね? 犬神家の一族みたいに犬神家の一族 (1976年の映画)や犬神家の一族 (2006年の映画)がある場合は映画以外にも曖昧さ回避が必要でしょうけど。--2001:268:C0A4:71B8:94C0:DE0F:1A5A:E1EA 2020年12月14日 (月) 04:42 (UTC)
「原作からの改変の概要」の位置づけ
[編集]このノートページでは、しばしば激しい論争が起きています。コメントを書くときは冷静さを保つように努めてください。 |
2021年4月29日 (木) 12:18 (UTC) の編集に関する内容要約「映像化されると原作と異なることはよくあることなので、見出し「原作との違い」を移動しました。映画の記事なのだから、まずは映画の説明を先に載せるべきだと思います。」を前提とするノートです。
「原作からの改変の概要」は「映画をどのように制作したか」という情報の一環であって、「映画の説明」の一部であることに疑義の余地はありません。「あらすじ」のサブセクションにするという選択は有り得るかもしれませんが、「あらすじ」から切り離して後方に移動させることには全く賛成できません。--Dakarananyanen(会話) 2021年4月30日 (金) 09:48 (UTC)
- 私が編集した理由を追加で述べます。あらすじのサブセクションにするほど、優先順位の高い情報とは思えません。「映画をどのように制作したか」とDakarananyanenさんが仰っているとおり、製作意図の一つでしかなく、プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイドの「4.基本的な内容」では、「製作」を「ストーリー」「キャスト」「スタッフ」の後にしています。「原作からの改変~」は「映画をどのように制作したか」という説明ならば、映画のストーリー・出演者・製作スタッフを先に載せるほうが、映画記事として読者に親切ではないでしょうか。原作を読んだ人ばかりが映画を観るわけでもなく、そもそも原作「病院坂の首縊りの家」の「ストーリー」を充実したほうがいいと思います。原作と映画の記事をリンクで確認できるのだから、原作との違いも明確になるでしょう。製作者が原作と異なるように映画を作ったという記述(出典込み)なら賛成しますが、原作と映画の違いを出典無しで記す必要があるとは思えません。--Uenozuki(会話) 2021年5月1日 (土) 14:28 (UTC)
「優先順位」はコトの本質ではありません。「情報相互の関連性」の問題です。
「原作のある映像作品」について論じる場合、どこに重点を置くかは作品ごと判断が異なる問題でしょうが、ことこの作品に関しては「ストーリー」の変更が重要です。舞台となる作品世界そのものには、原作世界を根底から覆すような重大な変更は無く、ストーリーを前半部だけで完結させてしまったということが最も重大な変更だからです。つまり、この作品に関しては「原作からどう変えたか」を論じることがストーリー情報を最も簡潔かつ充分に論じる方法です。それゆえ、原作からの変更に関する情報を「あらすじ」から切り離すことは極めて不適切です。
どうしても後方へ移動させたいなら「あらすじ」とセットで移動するしかありません。しかし、それは極めて不自然な選択ですね。
--Dakarananyanen(会話) 2021年5月2日 (日) 09:27 (UTC)
- 「最も重大な変更」、前々回は「「映画をどのように制作したか」という情報の一環であって」と仰っていますが、Dakarananyanenさんの研究・分析をWikipediaに載せることとなりますが…。「重大な変更」「どのように制作したか」を出典で保証していただけると、独自研究に該当しません。ですから原作記事のストーリーを充実させるほうが、映画と原作の違いを示すことができると申し上げました。Wikipedia:あらすじの書き方もご参照してください。原作との違いをいろいろ記す「あらすじ」は稀な記事だと思います。原作と映像化された作品は別個と、認識するほうがいいのではないかと。--Uenozuki(会話) 2021年5月2日 (日) 16:00 (UTC)
「独自研究」という指摘は当たらないでしょう。私は本件に関して御指摘の文脈における「重大な変更」「どのように制作したか」に該当する内容をWikipediaには一切記述していません(ノートでの意見表明は「Wikipediaへの記述」ではありません)。あくまで、どのような方針で情報をまとめるかという編集方針の判断理由であり、まとめる「対象となっている情報の内容」とは混同しないでください。
いずれにしても、原作記事のストーリー情報を充実させることの有用性に異論は全くありませんが、それは本件とは直接には無関係です。コトの本質は、映画のストーリー情報をどのように記述するのが情報として使いやすいかという選択の問題です。本件に関しては原作との比較で論じるのが映画のストーリーを理解するうえで最も得策という判断です。
--Dakarananyanen(会話) 2021年5月3日 (月) 09:57 (UTC)
- あなたが記してきたあらすじの違いは、あなたの分析や持論でしかなく、それが独自研究に該当するということです。映画のストーリーと原作の違いを明確にしたければ、原作記事のストーリーを加筆すればいい。原作と映画のストーリーの違いを当該記事の「あらすじ」に記すことではなく、原作記事と当該記事のストーリーをそれぞれ読んだ読者が、個々にあらすじの違いを考え、感じるのが適切です。特定の編集者が出典もなく、違いを書き連ねるべきではありません。映画化された時点で、原作とは別物の作品ですから。--Uenozuki(会話) 2021年5月13日 (木) 07:17 (UTC)
- 「原作の比較で映画のストーリーを理解するうえで最も得策」という理由もわかりません。原作を読んでいない人が先に映画を観ることもあり得ると初めに申し上げました。原作のあらすじは映画のストーリーを理解するのに、むしろややこしくなる原因だと思います。当該記事は映画のストーリーのみを記すべきあって、原作のあらすじを記す場ではありません。「コトの本質」と仰っていますが、あなたの持論を当該記事で展開しているとしか、思えません。--Uenozuki(会話) 2021年5月13日 (木) 07:48 (UTC)
- 他の方々の意見も聞いてみたいので、コメント依頼を提出しました。--Uenozuki(会話) 2021年5月13日 (木) 08:22 (UTC)
- コメント コメント依頼を見ました。私は「原作」を何度か読んでいます。映画はDVDを持っており何十回も観ています。
- まず基本的なことですが、我々ウィキペディアンが、原作と映画を見比べて「ここが違う」と指摘するのは、独自研究にあたるでしょう。
- 百科事典に書くべきことは「百科事典的価値のある情報=注目に値すること」です。なんでもかんでも書けばいいわけでないです。(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません)
- 「原作と映画の違い完全一覧」を作りたければ、それはウィキペディアではなく個人のHPでやりましょうということになります。
- では何が「注目に値することか」というと、それは信頼できる情報源で「些細な形でなく」言及されているような事柄、それが「百科事典的価値のある情報」だと「推定」することになります。(断定ではない。ここで推定とか断定と表現しているのは、これはYES/NO問題ではなく、閾値のある情報のどこかに線を引く作業だということです。つまり、有名な百科事典に大きく取り上げられている情報は間違いなく重要な情報と言えますが、信頼できる情報源であっても電話帳に出ている些細な情報は「重要さ」は低い、みたいな話です。
- これは「一切書くな」という話ではありません。私も未見ですが、たとえば以下のような書籍にあたれば、なんらかの言及はありそうだなと想像できます。(一例です)
- 『キネマ旬報』1979年5月下旬号「「病院坂の首縊りの家」特集」(1975)
- 『金田一です。』石坂浩二・著、2006
- 『金田一耕助 完全捜査読本』(別冊宝島2501)(2016)
- こういうものを出典として、「主な違い」みたいなものを書くことは妥当でしょう。まあなんというか、今作に関しては、時間軸なんかが根本的に大きく変わっていますから、そこを大きくフューチャーするのはわかります。些細なことまで挙げていったらキリがないでしょう。--柒月例祭(会話) 2021年5月13日 (木) 09:36 (UTC)
- コメント コメントありがとうございます。挙げていただいた書籍などで製作意図を確認し、それらを当該記事に記すことは賛成です。--Uenozuki(会話) 2021年5月13日 (木) 10:15 (UTC)
「全く無関係ではない」ものの「直接には無関係」な話題ばかり展開されるので、どう対応したものがかなり悩んだのですが、とりあえず話を整理しておきます。
- (今のところ)全く論点(争点)にはなっていないこと
-
- 原作ストーリーをどのように変更したかという「対比情報」を掲載すること自体の是非
- この「対比情報」は原作側ストーリー情報の存在が前提であるということ
- 「対比情報」が独自研究であってはならないこと
このような問題について言及するなとは言いませんが、論点とは「別の話題」だということを認識して混同せずに言及してください。
直接の論点になっているのは
- 「原作ストーリーとの対比情報」を「映画自体のストーリー情報」と切り離すことの是非
であり、それとの関連で論点になっているのは
- 映画のストーリーを原作との対比を重視して論じることの是非
です。この肝腎なところについては、議論が全く進んでいませんね。
1つ気になっているのは、Uenozukiさんの言及が「原作側ストーリー情報」がWikipediaに既に整備された後でなければ「原作との対比情報」の整備を進めてはならないというところまで主張しているのかどうかが読み取れないことです。もし、そういう主張だとすれば、それには全く賛成できません。「原作側のストーリー情報」近い将来に整備されるという前提(期待)に基づいて「原作との対比情報」の整備を進めることは否定されるべきではありません。
なお、「独自研究とは何か」というところについても思うところはありますが、現時点での論点には実は全く影響しないので(影響すると思い込んでいると思われる論がありますが、それは誤りです)、言及は差し控えておきます。
--Dakarananyanen(会話) 2021年5月16日 (日) 05:48 (UTC)
コメントこんにちは。コメント依頼から参りました。私自身は原作を読んでいますが映画は未見なので、差異の多さに驚いております。さて本件の「あらすじ」節は映画版のあらすじを書く場所であり「映画のストーリーがどうなっているか知りたい」という人が読みに来るわけです。そういう人たちにとって、原作との相違点は(言い方は悪いですが)はっきり言ってどうでもいい情報であって、あくまで本編のオマケとしてのトリヴィア的な価値しかなく、興味がある人だけ読めばいいのかなと思います。ましてや本件のように、本編のあらすじよりも改編についての記述が肥大している状況では(むしろあらすじを充実させたほうが、と正直思いますがそれは別の話)、あらすじに入れ込まずに独立した節を適切な位置に立てるのが筋かと考えます。改編に際して制作者側の強い意図がもしあるのであればあらすじに入れ込むこともアリかもしれませんが(獄門島ではそうなっていますが、これもやりすぎ感があります)。--Kokusui(会話) 2021年5月19日 (水) 06:41 (UTC)
- 『獄門島』と比較するというのは有効な手がかりになる側面があるかもしれませんね。『獄門島』の場合、犯人を変えるという一見重大とも思える変更があるにも関わらず、基本的なプロットは原作から全く変わっておらず、映画のストーリーを説明しようと思ったら「原作と概ね同じ」で9割がた済んでしまう状況です。それと比較すると、本作の原作からの乖離が大きいことは確かです。しかし、それでも本作は原作前半のストーリーを忠実に追っているといえるものです。世の中には、原作がヒント程度にしかなっておらず、原作との比較で説明しても少しも解りやすくならない派生作品もあり、そういう作品の原作比較情報はトリビアにしかならないでしょう。しかし、本作はそういう作品ではない。
- もちろん、映画自体のストーリー情報と、原作との比較情報との「量的なバランス」が適正かという問題は残ります。しかし、そうだとしても、比較情報を「はるか後方へ切り離す」ことが妥当になる余地は無いと思います。
- --Dakarananyanen(会話) 2021年5月19日 (水) 12:00 (UTC)
- 『獄門島』を出してきた理由は改変の量でも乖離の大きさでもありません。上にある「製作意図」の観点でいえば、「原作と犯人が違う」ことをわざわざ前面に押し出した映画作品であるから、その意図も汲んであらすじと不可分と考えることもアリかもしれない、と思っただけです。正直言って獄門島であっても、原作との差異をあらすじ節に入れるべきではないと考えています。なぜなら、原作からの改変箇所の羅列は映画のあらすじそのものではないからです。
- もう一点、これは本作でも獄門島でも同様ですが、あらすじをきちんと書きさえすれば映画作品のストーリーの理解は可能だからです。「本作はそういう作品ではない」とは私は全く思いません。「原作からの改変の概要」の部分をばっさり削除した記事を想像してみてください。情報不足は否めませんが、映画の記事としては十分成立しています。であれば「原作からの改変の概要」の優先順位は高くないし、改変が製作意図の一つというのであれば「製作」の後ろでも問題ないはずです。そのための節を設けて、原作と異なる箇所が表組みになっていて対比できるようになっているといいな、と個人的には思います。--Kokusui(会話) 2021年5月20日 (木) 04:50 (UTC)
- コメント コメント、ありがとうございます。
- 柒月例祭さんは、あらすじ節に対比情報をウィキペディアン(今回はDakarananyanenさん)が記述するのは、独自研究に該当する
- Kokusuiさんは、映画版(当該記事)のストーリー節に、原作との対比情報を載せるのはおかしい
- と、それぞれご指摘下さっていると私は理解しました。
- それにしても、『獄門島_(1977年の映画)』のあらすじ節も、当該記事のようになっているとは…。--Uenozuki(会話) 2021年5月22日 (土) 15:05 (UTC)
- コメント コメント、ありがとうございます。
- 本題とは直接関係しないのですが、一応、コメントしておきます。
- 単に比較するだけ(=差異を列挙するだけ)で独自研究になることは有り得ません。比較結果を「評価」したり、比較結果から何かを「結論」したときに、初めて独自研究になる可能性が生じます。本件では「評価」に踏み込んでいるので、そこが独自研究に該当するかどうかを検討する余地はもちろんあります。
- いずれにしても、独自研究であるかどうかは、いま論点になっている「比較情報をストーリー情報と切り離すことの是非」には全く影響しません。
- それを踏まえたうえで本題に戻りますが、「映画化された時点で、原作とは別物の作品」というのは一面真実ですが、教条的に主張すると、おかしな結論を導きます。原作との関係性は作品によっても全く違っているし、鑑賞者にも依存します。各作品の性格を全く顧みることなく一律に「はっきり言ってどうでもいい情報」と規定することに賛同する余地は全くありません。
- --Dakarananyanen(会話) 2021年5月26日 (水) 12:17 (UTC)
- 「おかしな結論を導きます」とは、具体的にどういうおかしな結論が出るというのでしょうか。主張の根拠が抽象的すぎて全く理解ができません。「分けて書いてはいけない理由」を端的に言うと何なのでしょうか。先のコメントで私は「あらすじをきちんと書きさえすれば映画作品のストーリーの理解は可能」と書きましたが、分けて書くことで映画作品のストーリーの理解が阻害されるというのであれば、その根拠をお示しください。
- それと、各作品の性格を顧みる以前の問題として「あらすじ≠比較対照」という点が解消されておりません。ビーフストロガノフのレシピを書くべき場所に、ビーフシチューとの違いが延々と、しかもビーフストロガノフのレシピの倍量書かれているのは奇異でしょう。今の記事の抱えている問題はそこです。--Kokusui(会話) 2021年6月9日 (水) 11:39 (UTC)→誤植があったので修正しました--Kokusui(会話) 2021年6月9日 (水) 11:42 (UTC)
- 料理の比喩で行くならば、シチューとストロガノフだと同質性が微妙ですが、今はチキンカレーについてビーフカレーとの対比で論じることの是非という程度に考えた方が良いかもしれません。そして、その是非は読み手によって一定しないでしょう。ビーフカレーなんかどうでも良いからチキンカレーのレシピが必要という人もいるだろうし、身についたビーフカレーのレシピを前提にチキンカレーを論じるほうが助かるという人も一定数いるでしょう。それを無視して、「ビーフカレーとチキンカレーは別の料理だ」と一刀両断に決め付けるのは間違いだといっているのです。
- --Dakarananyanen(会話) 2021年6月12日 (土) 09:37 (UTC)
- Kokusuiさんと柒月例祭さんが、私の過去の説明を一層かみ砕いて、当該記事の問題点をご指摘されているんですがねえ…。
- Dakarananyanenさんが勘違いをされているようなので、念押ししますが、出典で担保されていない対比情報を載せる載せないは、論点(争点)として残ったままです。5月3日に「まとめる「対象となっている情報の内容」とは混同しないでください。」とおっしゃったことに対して、同月13日に私は返信をし、コメント依頼を提出しております。私のこれまでのコメントと併せ、再確認してください。
- それとDakarananyanenさんは最新コメントで「~、鑑賞者にも依存します」と仰っていますが、「鑑賞者」とは映画の視聴者かつ原作の読者なわけですよね。鑑賞者A(例えば私)が気づいた映画と原作のあらすじの違いと、鑑賞者B(例えばDakarananyanenさん)が気づく違いは、全て一致するとは限りません。鑑賞者によって異なる気づきに依存する対比情報を、出典を示さずに書き連ねるのは、特定の鑑賞者(Dakarananyanenさん)の独自研究に該当し、当該記事に掲載すべきでない情報です。
- 監督・脚本家・プロデューサーら製作スタッフの証言
- 映画・ミステリー・文芸など各評論家による当該映画と原作の違いが言及されている
- 横溝正史による当該映画の評価
この2点いずれかを載せている信頼できる情報源を出典にして、執筆するならともかく。--Uenozuki(会話) 2021年6月11日 (金) 02:57 (UTC)- ざっと思いついた3例を挙げましたが、これらが信頼できる情報源に載っていて、執筆するならともかく。--Uenozuki(会話) 2021年6月11日 (金) 04:35 (UTC)
独自研究云々が論点として「残っている」というのは全くの誤りで、2021年5月16日 (日) 05:48 (UTC) にも書いた通り、「全く無関係ではない」ものの「直接には無関係」な話題であり、そもそも論点ではないのです。独立した別の論点として新たに提起するのは可能ですが、 「原作ストーリーとの対比情報」を「映画自体のストーリー情報」と切り離すことの是非という元々の論点には全く影響しません。
さらにいえば、私が「まとめる「対象となっている情報の内容」とは混同しないでください。」と書いたのは、上のいずれとも全く別の話題です。「信頼できる情報源」からどの情報を抽出してどの順序に並べるかという編集判断に独自研究も何も無いということを指摘したまでのことです。
また、「鑑賞者にも依存します」というのは「原作とは別物の作品」云々という価値観が依存するという意味で、対比情報が依存するという意味ではありません。
とにかく、書いてあることの断片を恣意的につないで文意を歪めないでください。これではまともな議論が進みません。
--Dakarananyanen(会話) 2021年6月11日 (金) 09:55 (UTC)
- 返信 今日まで私とDakarananyanenさんでは平行線なので、客観的な視点を求め、第三者にコメント依頼をしました。既にKokusuiさんと柒月例祭さんにご参加頂いているわけですから、お互いの論点(争点)も含め、第三者にご判断いただければいいでしょう。
- 鑑賞者について補足しますが、編集に参加していれば、鑑賞者はウィキペディアンとなります。
- 複数の鑑賞者が原作と映画を見比べて、それぞれ違いを列挙する。
- 先に述べたように、私とDakarananyanenさんでは、全て一致するほうが不自然。
- Dakarananyanenさんが列挙している対比情報は、何を担保(根拠)にされて提示されているのでしょうか。
- 私とDakarananyanenさんでは見比べた際に着眼点も異なるわけで、Dakarananyanenさんが見比べて列挙した情報が正しいと、一存で仰られても困るんですよねえ。
- Kokusuiさんが質問をされている「おかしな結論を導きます」と併せて、具体的なご意見をお願い致します。「誤りです」「余地はありません」「全く影響はない」などと断ぜられても、今日までDakarananyanenさんの説明では抽象的で理解できかね、合意形成が進みません。--Uenozuki(会話) 2021年6月11日 (金) 11:44 (UTC)
今のところ、合意形成を阻害しているのは専らUenozukiさんですよね。
元々、Uenozukiさんが、「情報源の選択」(信頼できる情報かどうか)ではなく、「選択した情報の並べ方」が「独自研究」だとかいうメチャクチャなことを言い出したのが混乱の出発点です。柒月例祭さんは、おそらくこれを合理的に意味を成すように脳内変換した結果、「情報を比較すること自体」が独自研究かどうかという、元々全く論点にも何にもなっていない話題について延々書かれてしまったのでしょう。
この論点が重要なことでは無いとは思いませんし、「元々の話題と全く無関係な別の話題」として提起することに何の問題も無いということは、何度も申し上げている通りです。しかし、これは
- 「原作ストーリーとの対比情報」を「映画自体のストーリー情報」と切り離すことの是非
という元々の論点に何の影響も及ぼさない。そういう無関係な話題を混ぜこぜにするなと申し上げているのです。
また、改めて申し上げますが、「書いてあることの断片を恣意的につないで文意を歪め」るのは堅く御遠慮ください。こんどは「鑑賞者」です。これまでの文脈と全く整合しない文脈に放り込んで、今まで誰も主張していない意味を創り上げないでください。
--Dakarananyanen(会話) 2021年6月14日 (月) 12:37 (UTC)
- 提案 Uenozukiさんへ → 対比情報が独自研究かどうかはいったん置いておいてください
- Dakarananyanenさんへ → 独自研究云々に対して噛み付くのはいったんおやめください
- 話がどんどん違う方に逸れて全く進んでいません。まずは小説版との差異を分けて書くことの是非を結論付けた上で、それが独自研究であれば消せばよいしそうでなければ残せば良い、それだけの話ではありませんか。
- この点についてはDakarananyanenさんの仰る「独自研究であるかどうかは、いま論点になっている「比較情報をストーリー情報と切り離すことの是非」には全く影響しません」に完全同意します。
- その上で再度Dakarananyanenさんにお聞きしますが
- 「映画作品と原作は別物」と主張するのが招く「おかしな結論」とはどういうものでしょうか?
- 「映画のストーリーと原作のストーリーは別物だ」と主張することのどこが間違いなのでしょうか?(ストロガノフがカレーでもそんな比喩の話は議論の本筋と全く無関係なので質問を元に戻します)
- 「分けて書いてはいけない理由」を端的に言うと何でしょうか?
- 「分けて書くことが映画版のストーリーの理解を阻害する」は真でしょうか偽でしょうか? 真であればその理由もお聞かせください
- 1と2、3と4はそれぞれほぼ同じ質問ですので一緒にお答えいただいても構いません。私が納得できる回答をご提示いただけるなら、記事の体裁はこのままで是、と方向転換することも吝かではありません。--Kokusui(会話) 2021年6月16日 (水) 08:25 (UTC)
「映画作品と原作は別物」という主張自体が、いつどんな場合でも間違いだとは全く考えていません。問題は、その主張を「絶対視」し、他のあらゆる状況を無視することです。
今回の事例に関しては、映画のストーリー情報を記述するのに原作との対比を意識するのが多くの読者にとって有効だろうと考えています。もちろん、これは映画作品によって違いますし、読者1人1人で感じ方が違うことでしょう。ただ、いずれにしても、ストーリー情報と対比情報を遠く切り離して嬉しく感じる読者は居ないと思います。切り離さない場合には、対比情報が有効だと思わない読者は比較情報を単に読み飛ばせばよいだけなのに対して、切り離してしまえば対比情報が見たい読者には極めて不便な状況になるからです。「分けて書いてはいけない」というのはそういう意味です。
「分けて書くことが映画版のストーリーの理解を阻害する」というのも、映画作品によって違い、読者1人1人にとっても違うことです。ただ、今回の事例に関しては、その傾向が強いと私は考えています。
--Dakarananyanen(会話) 2021年6月16日 (水) 09:54 (UTC)
- 返信 (Kokusuiさん宛) お手数を煩わせて申し訳ございません。Kokusuiさんのご提案順の争点で議論することに同意致します。
- 情報 当該記事やKokusuiさんが疑問視された『獄門島 (1977年の映画)』のほか、『犬神家の一族 (1976年の映画)#ストーリー(原作との差異)』に、Template:独自研究が既に貼られています。私以外にも、映像化された作品のあらすじ節に「原作との差異」を書き込まれていることに、コミュニティが問題視している証左だと思います。
次の争点となる議題ですが、重要なことなので情報として告知致します。現時点で次の争点になるか未定ですが、重要な情報なので告知致します。 - 報告 Kokusuiさんからまず「小説版との差異を分けて書くことの是非を結論付け」を、先に話し合うべきとご提案がございました。つきましては、当該節のサブ「小説版との差異を分けて書くことの是非を結論付け」を設けたほうが、これからの議論でわかりやすいと思い、設置致しました。以後、
こちら#小説版との差異を分けて書くことの是非を結論付けへコメントをしてくださるよう、よろしくお願い致します。--Uenozuki(会話) 2021年6月16日 (水) 17:03 (UTC)書き誤りを訂正しました。--Uenozuki(会話) 2021年6月16日 (水) 23:52 (UTC)
小説版との差異を分けて書くことの是非を結論付け
[編集]改名提案
[編集]上の「#記事名に違和感」でも述べられていますが、原作の項目「病院坂の首縊りの家」によると本原作の映像化作品は映画が1作とテレビドラマが1作とあります。「プロジェクト:映画#他項目と同じタイトルの作品の場合」では他の項目と競合する場合は「(映画)」をつけ、同一の邦題を持つ映画が複数あるときに「 (xxxx年の映画)」をつけるというようになっているため「病院坂の首縊りの家 (1979年の映画)」から「病院坂の首縊りの家 (映画)」への改名を提案します。--Sakidaya(会話) 2023年10月6日 (金) 11:34 (UTC)
- 完了 1週間経過し反対意見がなかったので改名を行いました。--Sakidaya(会話) 2023年10月13日 (金) 16:21 (UTC)