ノート:聚楽第
「じゅらくだい」か「じゅらくてい」か
[編集]「第」は、呉音が「だい」、漢音が「てい」である。
「邸第・第館」などは「だい」だが、以下のように「邸」に通じて「第(てい)」を用いている例も非常に多く、一概に「第(だい)」が一般的であったとはいえない。
- 「第宅(ていたく)」=邸宅
- 「別第(べってい)」=別邸
- 「私第(してい)」 =私邸
- 「第内社(ていないしゃ)」=邸内社
なお「第(だい)」は「里内(さとだい)」=「里第(さとだい)」のように「内」に通じて用いることがある。(なお里第は「りてい」とも読む)
もし「聚楽内」や「聚楽台」などとも表記したのであれば、「だい」であったと断言できるかもしれないが、そういった例は未確認であろう。
「聚楽」から「聚楽第」になりのち「聚楽亭・聚楽邸」とも表記したことは、「じゅらくてい/じゅらくのてい」であったことを示唆している可能性があり、一概に否定すべきものではない。
“……長らく「じゅらくだい」と呼ばれてきた聚楽第をことさら「じゅらくてい」と読ませるのは、学者たちの衒学的主張として排除されなければならない。”との脚注があったが、それを言い出せばむしろ地元での伝統的な呼称が「じゅらくてい」であったことと矛盾し、論拠に欠けるといわねばならない。
現段階ではどちらかの読みに決定する証拠がない以上、一方的に他方を否定してしまうのは尚早と思われる。 --Sadahide(会話) 2014年11月7日 (金) 22:44 (UTC)
- 本件を見出しにしました。
- 改行タグを削除しました。
- 以上について、ご了承ください。
- 聚楽第の読みについては、Sadahideさんの知識と裁量をもって三大方針の独自研究は載せない・検証可能性・中立的な観点などを元に変更を加えていただければ幸いです。必要ならお手伝いいたします。--ムカイ(会話) 2014年11月9日 (日) 05:51 (UTC)
- 不備を整えていただき、ありがとうございました。またよろしくお願いします。--Sadahide(会話) 2014年11月9日 (日) 23:58 (UTC)
あくまで「じゅらくだい」以外の読みを認めないという方が居られるが、「じゅらくだい」として読み慣わしてきたと同時に、長らく「じゅらくてい」とも読み慣わしてきた。これはなにも近年になってから新たな読みを提起しているのではない。
また「聚楽第」という表記が現実に存在し(たとえ後年になってからであろうと)、それをどう読んできたのかが問題なのであり、当時「聚楽」であったにしろ、以後現代に至るまで「聚楽第」の表記をしてきたのは紛れもない事実である。現に見出し語も「聚楽第」である。
それを歴史学の観点からのみ云々して、無意味な議論であるとするのは、まったく暴論であろう。したがって、ことさらに「聚楽第」ではなかったという点ばかりを強調する必要は認められない。
「第」を屋敷の意で「てい」と読む事例は、いちいち例を挙げるまでもないほど古文献では多くあり、「てい」より「だい」の読みがより一般的であるとまでは断言できない。 「第」は漢音「てい」であり、音を通じて別の字を当てることは古くから行われている。なぜ「台」「内」「代」ではなく「邸」や「亭」の字を用いるようにもなったのか、また当て字でないとするならなぜ「聚楽亭」他の表記が発生したのか、研究の必要がある。
なお「北山第」「将軍第」などは「きたやまてい」「しょうぐんてい」とも読んでも間違いではなく、むしろそのように読んだとも考えられる。
「じゅらくだい」の読みはむろん否定するものではなく、間違いであるなどとはしないが、「じゅらくてい」の読みも簡単に否定できるものではない。一人よがりの解釈のみでこちらが正しいと一概に言い切ってしまうことには、大いに問題があると考える。--Sadahide(会話) 2014年12月6日 (土) 11:02 (UTC)
いつまでも「最近では 「じゅらくてい」と読む事例もよく見られる」などと主張し、あたかも「てい」は近年の読み間違いと言わんばかりの者がいるが、江戸期の版本にすでに「聚楽第」に「じゅらくてい」のふりがなを振ったものがあり、決して最近になってからのことではない。「聚楽第」の語は明治以降に一般化したとしながら、長らく「だい」と読んできた、「てい」は最近のことだ、などという主張は矛盾している。「聚楽第」以前「聚楽亭」が一般的だったとするなら、その頃人々は何と呼んでいたというのであろう。--Sadahide(会話) 2015年1月30日 (金) 08:30 (UTC)
私自身は「聚楽第」は「じゅらくだい」と読んだはずとの考えですが、「じゅらくだい」と読んだか「じゅらくてい」と読んだかはまだ解決していないという立場ですので、「じゅらくていと読むべきだ」と「したり顔」「知ったかぶり」で言う人たちがいるのは困ったことだと思います。私の基本的立場は一貫してこうした「じゅらくていと読むべきだ」という人への批判であって、態度としては「じゅらくだいと読んで何が悪い」ということです。種々調査検討した現在の到達点を以下に記します。
「聚楽第」という語は行幸直後に大村由己によって執筆された「聚楽行幸記」に見られるようです。同時に「聚楽亭」という語も見られます。ただしこれは群書類従に収められた写本でなく小瀬甫庵の「太閤記」に引用された行幸記に基づいての話です(群書類従本の底本はあまり良質な写本と言えません。良質な諸写本の公刊が待たれます。)。個人的には行幸記に「聚楽第」「聚楽亭」の両方の記述があるのだから一方は「じゅらくだい」、一方は「じゅらくてい」と読み分けたのではないかと考えています。群書類従解題は「亭・第、相通ず」としていますが、この二字が意味するところは明らかに違っています。第は「立派な屋敷」の意、亭は「粗末な建物」の意です。第は敬意を籠めて、亭は謙譲・卑下しての語だと思います。これらの言葉が同時に記される行幸記は、声に出して読まれる場合にも必ずや区別して読んだのに違いないと考えたのです。ただしこれは行幸記執筆当時の話であって江戸時代になってそれらがどう読まれていたかは別の話です。いずれにしろ現段階では「じゅらくてい」と読まねばならない理由はどこにもなく従来「じゅらくだい」と読んでいたのならそれでいいじゃないかと思います(実際、巷間では「じゅらくだい」と呼ぶ人が圧倒的に多い)。かつて「学者の衒学的主張」と過激な記述をした由縁でもあります。
なお、前田玄以発給文書やフロイス「日本史」には「聚楽」とのみ書かれているわけで、当時の正式名称は「聚楽」です。江戸初期に至っても行政側文書では「聚楽」です。行幸記でも基本的には「聚楽」で通しています。第も亭も一種の接尾語、「秀吉様」の「様」のようなもので、固有名詞の一部ではありません。従って安土桃山史において「じゅらくだい」か「じゅらくてい」かはあまり重要な問題とは思えません(「聚楽外郭=外堀説」を主張する森島康雄さんも同じ考えです)。「聚楽行幸記」の執筆者が「聚楽第」をどう読ませたかったのかという「文学上の」問題にすぎません。ふりがな付きの筆者直筆の原本が現れぬ限り決着を見ることはないでしょう。wikiでこの「てい・だい」問題に深入りすることは適切だとは思いません。ましてや「じゅらくていと読む」などと断定的に書くべきではありません。当初はそう主張していたwikiの記述も最近は両論併記となり、好ましい状況に向かっていると思います。「どう読もうと構わない」という考えが広まることを願っています。--松ヶ崎学人(会話) 2015年7月6日 (月) 02:27 (UTC)
『じゅらくていと読むべきだ」と「したり顔」「知ったかぶり」で言う人たちがいるのは困ったことだと思います』
『じゅらくていと読む」などと断定的に書くべきではありません』
とは開いた口が塞がらない。今まで散々『じゅらくだい』だと断言し「じゅらくてい」を『学者たちの衒学的主張として排除されなければならない』としてきたのは誰か。 さらに『従来「じゅらくだい」と読んでいたのならそれでいいじゃないか』とは、まったく暴論である。
従来「だい」と読んでいたというが、従来とは何時からか。巷間に「だい」が多いのは明治以降の案内や教科書に影響されているまでである。その程度のことで従来「だい」であったなどとしては、議論の前提にもならない。第跡の地元では「じゅらくてい」と読み慣わしてきた。これがまず尊重されるのは当然である。「第」には「だい」の音もあるので「じゅらくだい」も黙認してきたまでのことであって、我々にすれば従来から「じゅらくてい」である。
字義でいえば第と亭で意味が異なるのは当然である。しかし当時の表記の問題を無視し、それのみを根拠に『読み分けたに違いない』などと決め付けるのはあまりに乱暴、独自研究といわれても仕方ないであろう。
聚楽第が成って数十年後の文献に「じゅらくてい」が振り仮名付きで記載されている。
ここまで明白な資料がありながら、『現段階では「じゅらくてい」と読まねばならない理由はどこにもなく』などとは、「学者の衒学的主張」以前、もはや詭弁というほかない。
負け惜しみのように『じゅらくだいと読んで何が悪い』と主張するのなら、せめて同時代かそれ以前で「じゅらくだい」の振り仮名の付いた文献を示すか、さらに明確な証拠を出してからにしていただきたい。
今まで名称についてさんざん無礼な編集を重ねておきながら、『あまり重要な問題とは思えません』『「てい・だい」問題に深入りすることは適切だとは思いません』とは、言動が大きく矛盾し、さらに今頃になっての他人事のような態度は、今まで自身の取ってきた行動からすれば極めて無責任といえよう。その程度の見識と対抗意識のみで安易に記事を編集することは許されることではない。--Sadahide(会話) 2015年7月6日 (月) 19:35 (UTC)
桜井成広が「じゅらくやしき」と読むべきとしている根拠に、豊臣秀吉自筆のおまあ(側室摩阿姫・前田利家の娘)宛の手紙に、「しゅらくやしき」とひらがなで記されていることが挙げられるが、それは神龍院梵舜の日記『舜旧記』慶長5年4月5日条に「聚楽屋敷能為見物予参」とあるように、「聚楽屋敷」を念頭にした可能性があるため、「聚楽第をじゅらくやしきと読んだ」根拠とまではいえない。
なお亭を「やしき」と読む例は当時の日記などに多く見られるというのは寡聞にして知らず、また亭を「やしき」と訓読するという辞書も見当たらなかったが、第・邸を「やしき」と訓読するのは辞書所載の通りであるから、聚楽亭はともかく、聚楽第を「じゅらくやしき」と読むことも許容されていた可能性はあり、あながち間違いとまではいえない。--60.56.247.76 2016年8月19日 (金) 11:53 (UTC)
公文書「折紙」に「聚楽」とあるからこれが正式名称であった、との主張がなされたが、「第」は〇〇寺、〇〇城などと同じ接尾語であり、折紙のみをもって「聚楽第」が正式でなかったということにはならない。当初「聚楽」とのみ呼ばれたとしても、以後「聚楽第」「聚楽亭」等が一般的であり、「正式」の概念も明確でないまま「聚楽」が正式であると断言するのは、ほとんど意味のない行為である。
仮にその主張に従えば、北山第、室町第の正式名称が北山、室町ということになってしまい、論外である。
また、「第」「亭」はそれぞれ尊称と卑称であり、それに留意しないと江戸期の文書についての解釈・意図を読み誤る、との主張もなされたが、その江戸期の文書である行幸記に「聚楽第」「聚楽亭」のどちらの表記もあり、尊称、卑称と区分されることなく「相通じて」用いられている。 その後の多くの文書でも「第」「亭」の区分はなされずに用いられてきている。 したがって、尊称と卑称等の主張は根拠が薄いと言わざるを得ず、このような独自研究をウィキペディア上で認めるわけにはいかない。--Sadahide(会話) 2021年1月22日 (金) 09:44 (UTC)
松林寺墓地の窪地の外堀説について
[編集]「松林寺墓地の窪み」についてSadahide氏は「古くから」聚楽第の外堀跡との伝承があることを書くのですが、私の知る限り天保14年の名倉希言以前にこのことを主張した人物・文献は見当たりません。私は「古くから」の語を残して「要出典」のタグを付けたところSadahide氏は「要出典」を一度ならず二度までも抹消し「少なくとも天保14年以前からの謂れであるのは間違いなく「古くから」で問題ない」と主張しています(2015/7/5付け隠しコメント)。「天保14年以前からの謂れであるのは間違いなく」とまで書くのなら根拠があるのでしょう。「随筆」でも「地誌」でも「うわさ話」でもなんでもそれを書けばいいのであって「要出典」のタグだけを抹消するのはwikiの精神に反する行為だと思います。「聚楽第外堀説」が「古くからあった」ことに拘るSadahide氏の一連の行為・主張は「過度に」聚楽第堀跡説に加担するものであり、論理性を欠くものであり、客観性が求められるwikiの執筆者に相応しくないと感じています。私は松林寺の窪みを聚楽第遺構だとも聚楽土採掘跡だとも決しかねています。「聚楽土採掘跡の可能性」との指摘があって以来、従来の説の洗い直しの必要性を感じています。この問題がwikiの記述をきっかけにさらに深まることを願っています。従って「要出典」のタグはそのままに残しておいて欲しいのです。--松ヶ崎学人(会話) 2015年7月6日 (月) 07:23 (UTC)
「以前」というのは天保14年を含む、ということを理解されていないことに驚きを感じる。当然、名倉の資料が今のところ初出である。これは註11にすでに記載されている。
この資料が、名倉の単なる思いつきで新説として突如として言い出されたものだと断言できるのなら、天保14年以後、堀跡といわれるようになったとしてもよかろう。しかし、名倉がそれ以前からの伝承をまとめた可能性を完全に否定できない以上、「天保14年以前からの謂れ」であり、時期が断定できないため「古くから」と記すことに問題はない。それをどう勘違いすれば上のような解釈になり、出典を求める行為になるのであろう。天保14年以前の資料で何か他の機構であったということが明確であれば、当然「古くから」とは記載しない。
定説となっているものを定説として述べるのは当然で、それを「過度に聚楽第堀跡説に加担」していると見るのは、松ヶ崎氏自身、定説を過度に否定しようとする傾向があるからである。それは「松林寺墓地の窪み」に限らず、自分の思い入れで各資料や各説に対して独自に評価を下してしまっているところなどによく表われている。これはwikiの三大方針に反するもので、執筆者に相応しくないのは氏のことであろう。