ノート:荻野直正
改名提案
[編集]現在の項目名「赤井直正」から「荻野直正」への改名を提案します。
『寛政重修諸家譜』などの後世の系図では、赤井姓から荻野姓に荻野姓から赤井姓に改姓したことになっていますが、記事にもある通り、直正は終生「荻野直正」を名乗っています。
実際の「荻野直正」の使用例として、書名では、
- 高橋成計『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」〜荻野直正と城郭〜』神戸新聞総合出版センター、2020年。ISBN 978-4-343-01061-2。
インターネット上で見れるものとして、
- 『平成27年度講座「丹波学」講義録』(福島克彦「戦国期の丹波・荻野氏について」や天野忠幸「三好政権と丹波」の本文中で「荻野直正」)
- 『荻野直正(朝日日本歴史人物事典 / デジタル版日本人名大辞典+Plusなど)』 - コトバンク
- 「赤井直正」のページは「荻野直正」へのリンクになっています。
などがあります。
丹波市観光協会のサイトでは、「赤井 (荻野) 直正」「荻野直正(赤井悪右衛門)」などの表記で、同ページの画像には「荻野姓を名乗ったが赤井姓で表記を統一している」との注釈あり(こちらは「赤井直正」が著名な証明で、必ずしも「荻野直正」への改名の後押しにはなりませんが)。--YasuminB(会話) 2021年11月1日 (月) 10:42 (UTC) 誤記修正--YasuminB(会話) 2021年11月4日 (木) 21:07 (UTC)
- むしろ、観光協会がなぜ赤井で統一しているのか考えた方がよいと思います。この時期、地元は黒井城に看板を立ててみたりガイドブックやパンフレットを出したり、赤飯を売ったり講演会を開いたりと本当にいろいろやっていますが、全部赤井です。素人には赤井優勢に見えます。ここは例えば「大河に赤井で登場したので地元は赤井で紹介しているが、評判のよい専門文献ではもっぱら荻野なんだ」といったような理由づけが必要ではないでしょうか。--西村崇(会話) 2021年11月4日 (木) 15:51 (UTC)
コメントありがとうございます。まず知名度で言えば「赤井直正」が優勢で、地元以外の多くの人が目にするであろうコンピュータゲーム『信長の野望』シリーズにも「赤井直正」名義で登場しています。ただ史実としてどちらが正しいかといえば「荻野直正」で、芦田確次ほか『丹波戦国史』(歴史図書社、1973年)では、「直正が出した書翰も、また彼に宛てた文書のほとんどが、本名の荻野悪右衛門直正となっている。したがって本書は「黒井城主は赤井直正」という、これまでの決定的な呼びならわしを敢て捨て、荻野悪右門(ママ)直正に統一した」(124頁)として、「荻野直正」と書かれています。以下、私が確認した「荻野直正」の例を挙げると、
- 今谷明『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局、1986年)所収、「室町・戦国期の丹波守護と土豪」(初出:1978年)307頁。
- 細見末雄『丹波史を探る』(神戸新聞総合出版センター、1988年)所収、「荻野氏と荻野朝忠」29頁、「赤井氏の盛衰」87頁。
- 天野忠幸『三好長慶』(ミネルヴァ書房、2014年、ISBN 978-4-623-07072-5)94頁。
- 柴裕之編著『シリーズ・織豊大名の研究8 明智光秀』(戎光祥出版、2019年、ISBN 978-4-86403-321-3)
- 柴裕之「総論 惟任(明智)光秀論」21頁。
- 大槻昌行「明智光秀の丹波平定」(初出:1982年)156頁。
- 仁木宏「明智光秀の丹波統一」(初出:2004年)205頁。
- 福島克彦「織豊系城郭の地域的展開」(初出:1990年)255頁。
- 金子拓『信長家臣明智光秀』(平凡社新書、2019年、ISBN 978-4-582-85923-2)159頁。
- 福島克彦『明智光秀』(中公新書、2020年、ISBN 978-4-12-102622-4)73頁。
と、おそらく丹波を主とした論文・学術書ではほぼ「荻野直正」ではないかと思われます(一方全国をカバーした阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』〈新人物往来社、1990年、ISBN 4-404-01752-9〉では「赤井直正」の項目名で「はじめ荻野氏を称す」とあり、『寛政重修諸家譜』所収の「赤井系図」をそのまま受け入れた記述になっています)。他に、最初に挙げた講座「丹波学」のうち平成20年度、24年度、25年度、26年度などでも「荻野直正」です(ほぼ福島克彦氏ですが)。
これに対して江戸時代に成立した「赤井系図」には直正は荻野姓から赤井姓に戻したとあり、『甲陽軍鑑』にも「赤井悪右衛門」として名前が挙がるなどしたため、赤井姓で定着しているようで、観光協会等は有名な「赤井直正」の名前で人を呼び込みたいのではないかと推測します(またこれも推測ですが「丹波の赤鬼」の異名と「赤井直正」の組み合わせもこの名前の定着に寄与したのではないかと思います)。ただ、前述の講座「丹波学」などを通じて「荻野直正」がより正しいということもある程度浸透した結果、西村崇さんの挙げられたリンク先にあるように「赤井(荻野)直正」と両姓を併記する形になったのではないでしょうか。
以上、推測混じりですが、一定程度浸透した今であればより正確とみられる「荻野直正」への改名も可能ではないかと思います。ご意見ございましたらよろしくお願いします。--YasuminB(会話) 2021年11月4日 (木) 21:07 (UTC)
- 最初に私の立場ですが、改名に反対はしないが、積極的に賛成もできない、といったところです。私なら放置します。他に意見が出なければ、反対がなかった、として改名でもいいと思います。
まず『丹波戦国史』の、赤井と荻野と2つあるのはわかっているが、ここでは荻野をとる、という趣旨の記述は、有力な改名の根拠だと思います。『丹波戦国史』は『兵庫県史』でも参考文献に使われており、トンデモ本というわけでもないでしょう。しかしあとがきを見ると「本書の執筆を担当した吾々四名は歴史学者ではない」とあり「多忙なそれぞれの職業のかたわら余暇をさいて」書かれたものだ、とあります(683ページ)。124ページを書いた芦田確次さんは元丹波新聞主筆、とあり、確かに歴史学者ではありません。この方がそうだ、とは言いませんが、地方の歴史好きはこういう変なところで頑張ることが多いので、注意が必要です。またこの方自身、「赤井」が「これまでの決定的な呼びならわし」だったと言っており、この時点では赤井が多数派だった、ということではないでしょうか。赤井と荻野と2つあるのはわかっていて、あえて荻野をとる、と、間違いなく専門家と言える人が根拠を示して主張している文献を示せば、改名に異論を唱える人はいないでしょう。
それが難しければ、コトバンクでもいいですが、既存の事典類もそうしている、という根拠で通すしかないと思います。単に文献での言及例を列挙するのだと、いくらでも都合のよい例を選ぶことができるので、あまり説得力はないと思います。--西村崇(会話) 2021年11月6日 (土) 08:24 (UTC)- 返信 (利用者:西村崇さん宛) 西村崇さん、実際の本まで確認していただいて恐縮です。「「赤井」が「これまでの決定的な呼びならわし」」というのは実際おそらくその通りで、50年近くたった今でも赤井優勢が変わらないところに歴史認識の変更とその浸透の難しさを感じます。『丹波戦国史』ですが、執筆者の一人である船越昌氏は、同氏の論文「丹波黒井城と赤井党」が谷口克広『織田信長家臣人名事典 第2版』(吉川弘文館、2010年)の中で出典のひとつとして挙げられており、しっかりした論文を書かかれる人と評価されていいのではないかと思います。ただ歴史研究の専門家とは言えない可能性はあります。他の研究者で言うと先に挙げた講座「丹波学」によく出られる福島克彦氏は大山崎町歴史資料館の館長を務めている方ですが、数々の論文(CiNiiより。同姓同名の別人のものも含む)や本(amazon検索結果)を書かれています。この福島氏や、最近『三好一族―戦国最初の「天下人」』(中公新書)を出した天野忠幸氏(天理大学准教授)も「赤井直正」といわず「荻野直正」で通しているので、権威という面では十分ではないかと。ただ「荻野直正」を使う研究者もわざわざ「赤井直正」を否定するようなことは言わず、黙って「荻野直正」を使っているという形なので、その意味ではインパクト不足かもしれませんが……。--YasuminB(会話) 2021年11月7日 (日) 10:22 (UTC)
- コメント 息子の赤井直義を見ると「のちに京都に隠棲した。この時、荻野金左衛門と改名している。」とあるので、普通に読むと「赤井系図」の指摘が正しく、赤井姓に復していたんだよな、と読めると思うのですが、その辺はどういう扱いになるのでしょうか。まあ戸籍謄本があるわけじゃないからあまり本名がいつ変わったとか考えても始まらないとも思いますが…。--シダー近藤(会話) 2021年11月6日 (土) 18:31 (UTC)
- 返信 (利用者:シダー近藤さん宛) 赤井直義の記事は出典が不明ですが、直義とその子孫が仕えた伊勢津藩で後世作成された系図等が元になっているかと思われます。赤井系図の収録された『寛政重修諸家譜』も赤井直義の死去から150年後の1800年頃の作成で(参考:コトバンク)、こちらは旗本赤井氏(直正の兄秋清の子孫)が幕府に提出した資料が元になったのではないかと思いますが(赤井氏の経緯については存じませんが、河内守護畠山氏の子孫が『寛永諸家系図伝』作成の際、幕府に畠山氏の系図をまとめた資料を提出した事例があることからの私の推測です)、これら後世に作成された史料は一般的に同時代史料より信憑性の劣るものとして扱われます。同時代史料としては晩年まで荻野姓を名乗って署名した直正の書状が残り、また直正が赤井姓を名乗った事例が確認できないことから、論文や学術書では「荻野直正」が採用されています。赤井直義については推測ですが、後年、旗本や津藩士の赤井氏の間で直政が荻野から赤井に改姓したという認識が共有され、そこから誕生当初より荻野姓を名乗っていた直義について赤井から荻野に改姓したとして辻褄を合わせたのではないかと思います。--YasuminB(会話) 2021年11月7日 (日) 09:44 (UTC)
- というかよく見ると「荻野金左衛門と改名している」であって「赤井直義から改名した」とは一言も書いてないですね…。9歳(10歳)当時の名前が赤井直義か荻野直義なのか実は元服してなかったのかすら分からない(さすがに発給文書とかないですよね…)。確かにこれは「藤堂家に仕えてから名乗った名前が赤井直義、それまでの名前は荻野金左衛門」以上の同時代史料はなさそうに見え、それ以外は後世の勝手な補完と考える方が筋が通る気はします。…なんかお手間とらせた割に「本題とはあまり関係ない」が結論っぽい(赤井直正に改名したわけではない、の弱い傍証程度の価値しかない)ですね…。--シダー近藤(会話) 2021年11月7日 (日) 15:39 (UTC)
- 返信 (利用者:シダー近藤さん宛) 赤井直義の記事は出典が不明ですが、直義とその子孫が仕えた伊勢津藩で後世作成された系図等が元になっているかと思われます。赤井系図の収録された『寛政重修諸家譜』も赤井直義の死去から150年後の1800年頃の作成で(参考:コトバンク)、こちらは旗本赤井氏(直正の兄秋清の子孫)が幕府に提出した資料が元になったのではないかと思いますが(赤井氏の経緯については存じませんが、河内守護畠山氏の子孫が『寛永諸家系図伝』作成の際、幕府に畠山氏の系図をまとめた資料を提出した事例があることからの私の推測です)、これら後世に作成された史料は一般的に同時代史料より信憑性の劣るものとして扱われます。同時代史料としては晩年まで荻野姓を名乗って署名した直正の書状が残り、また直正が赤井姓を名乗った事例が確認できないことから、論文や学術書では「荻野直正」が採用されています。赤井直義については推測ですが、後年、旗本や津藩士の赤井氏の間で直政が荻野から赤井に改姓したという認識が共有され、そこから誕生当初より荻野姓を名乗っていた直義について赤井から荻野に改姓したとして辻褄を合わせたのではないかと思います。--YasuminB(会話) 2021年11月7日 (日) 09:44 (UTC)
済 反対票が出なかったため、改名しました。--YasuminB(会話) 2021年11月14日 (日) 09:04 (UTC)
- 改名それ自体はよいと思うのですが、現状の記事では、甲陽軍艦だの信長公記だの常山紀談だので(あと太閤記でも)赤井悪右衛門とかが普通の表記で、まず間違いなく荻野とは呼ばれることはないことを書いてないのでちょっとどうかと思いました。--シダー近藤(会話) 2021年11月17日 (水) 08:11 (UTC)
- 返信 (利用者:シダー近藤さん宛) 『甲陽軍鑑』や『信長公記』などの記述について私が完全に把握してはいないというのもありますが、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源に基づいて論文等の二次資料を出典とするよう気を付けていますので、「江戸時代以前の文献では荻野とは呼ばれていない」と明記した論文・書籍がありましたらその記述も可能になるとは思います。私が押さえているのは1973年発行の『丹波戦国史』にある、1973年時点で赤井直正が「これまでの決定的な呼びならわし」だったという、江戸期でもない中途半端な時期に関するもののみですので。(私自身は江戸期以前の二次的文献における呼び名について必要とは感じていないのですが、)それらで荻野と呼ばれていないと書くための出典を提示できる方で、必要と思われる方がいればお任せしたいと思います。--YasuminB(会話) 2021年11月17日 (水) 11:25 (UTC)
- 確かにそうですね。--2001:CE8:143:123D:D3D:B720:3242:142D 2022年5月18日 (水) 22:31 (UTC)