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ノート:視線恐怖症

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儀礼的無関心1(←原義のほう)、2)が定着していないので、無遠慮な視線がある / 無遠慮な視線を送る個人が居る(たとえば電車の中で、妙に視線を感じるのでふと見たら “嫌な感じ” で首を回してみせる人とか物凄い勢いで足を引っ込める人とか)、あるいは逆に、同じ理由から ちらと見た瞬間に「なぜ俺を見る?」と睨み返す/「なぜ私を見る?」ということにする人が居る(総じて、「関係のない部分・面では関係ない」と自立していない、ある意味で他人にもたれかかっている、甘えている人が居る)ことに、窮屈・負担を感じる(=視線恐怖)人がいる、ということだと思っているのですが、典拠になる情報をお知りの方がいらっしゃいましたらここにお寄せください。Uryah 2010年3月12日 (金) 15:38 (UTC) ~ 2010年3月22日 (月) 07:58 (UTC)、2010年4月3日 (土) 10:08 (UTC)[返信]

朝日新聞2009年12月13日に、第9回大佛次郎論壇賞『コミュニティを問い直す-つながり・都市・日本社会の未来』 広井良典 ちくま新書 についての記事があり、紹介する記事のなかに、「息苦しい同調圧力の一方で、集団の外に対しては無関心が日常化した日本社会。個人の豊かな支えあいはどうすれば可能か」という記述があるのですが、その本そのものは自分はまだ読んでいないので関係があるかいまはわかっていないのですが、上記に自分が記したのは(典拠を求めたのは)、「息苦しい同調圧力の一方で、集団の外に対しては無関心が日常化した日本社会。個人の豊かな支えあいはどうすれば可能か」=「仲間内では細やかな気遣いをする一方で、(赤の)他人に対しては普通のマナー/気遣いがゼロになった今どき。」といった意味です。補足追記します。Uryah 2010年3月22日 (月) 07:58 (UTC)[返信]
◆プラス参考情報。
  • 本当かどうかは知らないんですけど、外で本を読むときにブックカバーをするのは日本だけ、という話はずいぶん以前から聞きます。余所の国では赤の他人が何を読もうと関知しない、まともな人は他人のそういう部分に悪意をともなって関心を寄せて近づいたりしない、そういう部分から精神的/物理的・明示的(堂々とした)/暗示的(コソッとした)嫌がらせは発生しないと。そういう部分に関心を寄せて何か嫌がらせをしようとする人/したがる人がいたら、それはされる方ではなく、する方がおかしな人だと社会なりその場にいる人たちに認知され受け止められると(歩いているだけで他人がやたらに友好的に挨拶をしてくる(相手の自意識・人格に向かってコミュニケーションを求めてくる)国は、個人の経験として知っていますけども)。
  • 携帯電話の横からの覗き見を防ぐシールなんていうのは、駅や電車の中などで、悪意あって覗き見をする人が広く居かねないと私たちの多くが漠然と感じるから広がるんですよね。
ブックカバーの話や携帯電話の画面に貼るシールの話だけでなく、ときどきこういう話を耳にするということは、そこはあなたは関係ないでしょ、という部分に「嫌な感じ」/悪意あって関与してくる人、社会のなかのそういう要素/部分、自律感/自立感のなさが、時代が下がるほどに濃くなってきている、濃度が増してきている、ということなのでしょうか。それとも、少なくとも1950年代以降幾人かの人が指摘してきた自分たちのそういう社会心理1,2)をときどき再発見して、自分たちで驚いているのでしょうか。Uryah 2011年2月12日 (土) 04:58 (UTC)[返信]
◆伝聞情報ばかりでなんなんですが、プラス参考情報。
  • いまの若い人に、音が鳴っていない/音楽を聴きたいわけではないのにイヤホンをして街を歩く不思議な人がいる、という話を最近聞きました。ノイズキャンセラーの出現に福音を感じたのは今の40代以上だと(好きな音楽をどこでも聴きたい/いつでも聴いていたい、だからウォークマンは愛された、でもシャカシャカの音漏れが周囲に迷惑をかけてしまった)。では彼らはなぜイヤホンをするのかというと、街を歩いていると「嫌な感じ」で関与してくる人がいるのでこれを防ぐため、これから身を守るためだと。
  • いま、若い世代を中心に、と言って語弊がある/何かへの攻撃になるのならいま時代の雰囲気として、“他人の視線から身を守る”目的/意味合いでの“伊達マスク”が流行りつつあるという話を最近聞きました。その現象が“日本の文化依存症候群”のように目されるのは、マスクをして“身を守る人たち”が“特定の文化に特異的”なのではなくて、“他人へ無遠慮な視線を送る人たちの存在(の多さ)”が“特定の文化に特異的”なのではないか、だそうです。他人の存在を無視するわけではない、何かあったら社会の助け合いは発生する、でも無遠慮に注視したりはしないというマナー/生活感覚を持たない人たちの存在(の多さ)が、“他の文化と比べてある文化に多く見られる”現象なのではないか、と。
  • これまた最近聞いた話で、いまの若い人には、携帯に集中している「フリをして」周囲の他人に気付かないフリをして歩く人が多いのだそうで、携帯を見るときでも周りを行く人たちのことも気にしながら歩く大人とは気持ちの在り方が違うのだそうです。ちらと他人の存在を確かめたらなんとなくよける/譲り合うのではなく、ちらと他人の存在を確かめた瞬間に携帯に集中しているフリをして、見た他人に対して無遠慮に振る舞いたいから、なのだそうです。
イヤホン、マスク、携帯の話は、ごく最近耳にした話です。Uryah 2011年2月17日 (木) 13:02 (UTC)[返信]
◆ご参考。