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ノート:親鸞/過去ログ2

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教えのセクションについて

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Resto1578のコメント1

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教えのセクションに関して、利用者:Okidokiさんの記述を下記の理由により差し戻しました。

理由
利用者‐会話:Okidokiに、「 要約欄への記入のお願い」と「記述を除去する際の作法について(お願い)」と2009年3月13日に2つの案内文を提示したにも関わらず、「他力本願」のセクションの一部を「受持の解釈の間違いを訂正」と要約欄に記入しただけで、2009年3月21日に記述の除去・改変を繰り返されたため。
何が「間違い」であるか、不明なため。
現生正定聚のセクションについて、前述した案内文にも関わらず、2009年3月21日に要約欄に記入せずに記述の改変を繰返されたため。

編集合戦を回避するため、このノートページにて議論に参加ください。 説明・反論などは下記にお願い致します。--Resto1578 2009年3月24日 (火) 20:35 (UTC)

Okidokiさんのコメント1

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ノートに書いておらず、失礼しました。 (はじめてWikiに書いたので、使い方がよくわかっておりませんで、申し訳ございませんでした) “「正信偈」に「彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯」とあり、仏より賜わった信心を誤り無くいただき続ける事は、非常に難しいとも親鸞は述べている。”との記述の中で、“仏より賜った信心を誤り無くいただき続ける事”が難しい、とは、正信偈に書かれていないと思います。“信楽受持”(=信心獲得、信心決定)が難しいと、親鸞聖人は仰言っていると思います。以上の理由で訂正しました。--Okidoki 2009年3月30日 (月) 00:47 (UTC)

Okidokiさんのコメント2

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現生正定聚の記述もおかしいと思います。 “阿弥陀仏に救われていることに気付かされた一念”とありますが、この記述ですと、阿弥陀仏に救われるのは、信一念より前、ということになり、おかしくないでしょうか。一体、いつ、阿弥陀仏に救われるのでしょうか。--Okidoki 2009年3月30日 (月) 00:55 (UTC)

Resto1578のコメント2

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Okidokiさん、こんにちは。ノートでの議論参加ありがとうございます。

「正信偈」依経段・結誡の「信樂受持甚以難 難中之難無過斯」の言は、『大無量寿経』下巻の「若聞斯経信楽受持難中之難無過此難」から引用されています。

信楽
教えを聞いて信じ喜ぶこと、ひたすら信じて疑わず、おのずから心に歓喜が生じることをいう。(中略)浄土教では、弥陀の本願を深く信じて疑わず、救済されんことを願うことをいい(後略)。(岩波仏教辞典第二版565頁より引用)
受持
〈受〉は受領。〈持〉は憶持の意。〈受け持(たも)つ〉と訓戒し、教えを受けて記憶すること。(岩波仏教辞典第二版500頁より引用)
憶持
記憶して心に持つこと。心に記憶して忘れないこと。翻訳語としては、憶念と同一。(岩波仏教辞典第二版114頁より引用)
憶念
(略)東アジアの浄土教において憶念の語は、殊に、阿弥陀仏や阿弥陀仏の功徳、あるいはその本願を、思って忘れぬこと、しばしばそれを思い起こすことの意に用いられる事が多い。(岩波仏教辞典第二版114頁より引用)

「信楽」は、「弥陀の本願を深く信じて疑わない」ということです。阿弥陀仏の救いの対象はすべての衆生です。そして我々は、邪見憍慢の惡衆生であると正信偈にあります。浄土真宗では、信心は阿弥陀仏より賜わるとしています。「邪見」(真実に背いた邪な考え方)・「憍慢」(自分の内と外にある思い上がりのこころ)を具えた我々は、その賜わった信心を受持(受け持つ〈保つ〉)ことが、難の中の難であるという意味です。

よって、「仏より賜わった信心を誤り無くいただき続ける事は、非常に難しい」の意訳で問題はないと考えます。『浄土和讃』大経意の「一代諸経の信よりも 弘願の信楽なをかたし 難中之難とときたまひ 无過此難とのべたまふ」の意からしても、問題ないと考えます。

Okidokiさんは、「回心」と「信楽受持」を同一に考えていらっしゃるのではないでしょうか?「回心」であれば、『歎異抄』第十六章にあるように、一生に一度だけです。「信楽受持」は、上記のような解釈で問題ないと考えます。

もしくは、Okidokiさんの信仰されている教団では、そのように教えがあるのであれば、その対象の項目の「教え」のセクションで記述されることが、検証の可能性・中立的な観点からも望ましいと考えます。

また、他力たる阿弥陀仏の救いは、「摂取心光常照護」とあるように、すべての衆生は既に救われている存在です。その理由は、法蔵菩薩が誓願をたて、阿弥陀仏に成られたと『大経』で説いていることによります。よって各々がその救いの対象であることに気付かされた時であるという解釈に、問題は無いと考えます。

Okidokiさんの言われる「信一念時」より救われるという解釈は、自力による信心と受け取れます。「救われた」(「気付いた」)ではなく、「(如来の呼びかけに)気付かされた」とするほうが、他力による救済を適切に表現できると考えます。

Wikiのルール上、ノートで議論が行われている場合は、本文の改変を行わないようにお願いします。

また、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないの三大方針をお読みください。Okidokiさんの信仰されている宗派でこのように説いているという事項は、その対象の宗派の項目で記述してください。

例 - 「真宗大谷派#教義の特徴」…中立的な観点の方針から、他の浄土真宗の宗派と教義が異なる事柄については、「大谷派」の項目の「教義」のセクションで記述しています。

疑問・反論は、以下にお願いします。--Resto1578 2009年3月30日 (月) 07:38 (UTC)

Okidokiさんのコメント3

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反論有難うございます。 この項目は“親鸞”ですので、あくまで、親鸞聖人の教えはどうか、ということだと思います。 ですから、親鸞聖人の教えと異なる部分があれば、正しく書いたほうがよいと思うのです。

そこで、確認ですが、Resto1578さんは、 「すべての衆生は既に救われている」と仰言っていますが、十劫の昔に助かっている、ということですか。 「信心は阿弥陀仏より賜わる」と仰言っていますが、いつ賜るのでしょうか。 「気付かされた」という表現も、よくわからないのですが・・・。親鸞聖人や蓮如上人がそれと同じような表現されてますか? 「他力の信心ということをば今すでにえたり。いまこそ明らかに知られたり」とは仰言っていますが。 それと、「廻心」と「信楽受持」との違いも、教えてください。 --Okidoki 2009年3月30日 (月) 13:40 (UTC)

Resto1578のコメント3

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まず、私は反論しておりません。質問に対し、一般的な仏教辞典などの引用により回答したまでです。

私は、真宗大谷派の門徒です。経典は、私を仏道に導くための方便であると受け止めております。Okidokiさんの言われる「十劫の昔に…」という表現も同様に受け止めております。

「既に救われている」
『大無量寿経』の四十八願をお読みください。法蔵菩薩が誓願をたて、成就しなければ仏にならないと説かれています。誓願が成就していなければ、阿弥陀仏の本願力(他力)を説くことができません。よって、私は救いの対象であると気付かされたときに、気付いていなかっただけで救われていたということです。そのことは、『歎異抄』後序に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。(中略)われらが、身の罪悪の深きほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。」と親鸞聖人の言を唯円大徳が述懐されてます。
「他力」
(略)真宗では阿弥陀仏の本願のはたらきをさし、信心を得ることも種々の行いも、すべて仏の願力によるとする。(後略)(岩波仏教辞典第二版689頁より引用)
「気付かされた」
正信偈に「聞信如来弘誓願」とあります。訓読すると「如来の弘誓願を聞信すれば」です。
「聞信」
聞其名号信心歓喜の略で、法を聞きて疑いなく信ずること。(『真宗辞典』法藏館、742頁より引用)
「信ずること」は、「他力」の説明にあるように己の力(自力)ではありません。阿弥陀仏のはたらき(他力)によります。よって、私が法を聞いて信ずるのではなく、法を聞いて気付かされると取るのが、真宗全般における「信心」の受け止めです。また「聞信」の「信」には、「信知」という意が含まれます。
「信知」
佛の眞實心が、衆生の心に徹到して、佛はかかる罪深きものをお救ひ下さるものと思ひ知られること。(『真宗辞典』法藏館、448頁より引用)…「(阿弥陀仏により)思い知られる」、つまり「(阿弥陀仏により)気付かされる」という解釈で問題ないと考えます。
「信楽受持」
上記の岩波仏教辞典の参照ページを確認ください。お持ちでなければ、図書館などで確認してください。
「回心」
『歎異抄』第十六章の原文をお読みください。

確認

この議論における問題点について
Okidokiさんは、引用元・出典などを提示せず、自論をWikiに記述されようとしますが、Wikiでは検証可能性の方針からも、(特定の宗派以外の)引用元・出典を提示しない限り、独自の研究であると考えます。よって、独自の研究と指摘されたのであれば、その記述は差し戻されます。(特定の宗派の項目でその引用元・出典によって記述する場合は、前述したように問題ではありませんが…。)
また、質問されたので、私の拙い知識で回答しましたが、Wikiはこのような質疑応答の場では無いはずです。
検証可能な出典を提示できないのであれば、ノートページでの議論とはいえません。ご考慮ください。--Resto1578 2009年3月30日 (月) 15:25 (UTC)

Okidokiさんのコメント4

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早いご回答有難うございました。 Resto1578さんの記述を読ませて頂いて、「気付いていなかっただけで救われていたということです」とありますので、この部分が根本的に間違っているために、他の部分の解釈も間違っていくのではないかと思いました。典型的な十劫安心という真宗に昔からある異安心です。「引用元・出典などを提示せず」とありますので、少々難しくなりますが、根拠を示します。

「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。 これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。(御文2帖1通)

「弥陀如来はすでに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。(御文3帖8通)

他にも沢山ありますが、この二つくらいで十分と思います。「他力の信心」を獲ないと助からない、「信心決定」しなければ報土往生は不可、と書かれています。「すでに助かっている」という解釈が間違いとお分かりいただけると思います。そもそも、すでに助かってしまっているのなら、教えを説く必要もないし、聞法する必要もないと思いますが・・。それとも、すでに助かってしまっていることに「気付かない」と、助からない、ということですか?

正信偈の「信楽受持甚以難」(信楽受持すること甚だ以て難し)と、親鸞聖人が仰言っているのは、信楽受持=他力の信心を獲る、ことが難しいと仰言っています。教行信証信巻には「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず。真実の信楽まことに得ること難し」と、書かれています。和讃には、「善知識にあうことも、おしうることもまた難し、よく聞くことも難ければ、信ずることもなお難し」と、「信ずること(信楽を獲ること)」がひじょうに難しい、と仰言っています。ほかにもあげればいろいろありますが、これでも、独自の解釈になるでしょうか。

もっとハッキリしているのは、唯信鈔文意で、「この信心の獲がたきことを『経』には「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』には「若聞斯経、信楽受持、難中之難、无過之難」とおしえたまへり。この文のこゝろはもしこの経をきゝて信ずることかたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなしとのたまへる御のりなり」とあります。「信心の獲難きこと」を、「信楽受持、難中之難、无過之難」と書かれているのであって、Resto1578さんが書かれている「仏より賜わった信心を誤り無くいただき続ける事は、非常に難しい」では意味が違ってきます。「誤り無くいただき続ける事」が難しいのではなく、「信心を獲る」ことが難しいのですから。他力の信心を得たならば、「いただき続ける事は非常に難しい」なんてことがあるはずがありません。そんな崩れるような信心なら他力の信心ではありませんから。ですから、「十劫の昔からすでに助かっている」という根本的な間違いが、他の部分の理解も間違ってしまう原因と思います。

「Wikiはこのような質疑応答の場では無い」とありますが、Resto1578さんが自分で立ち上げたホームページに好き勝手なことを書かれているのなら質問などしないと思いますが、多くの人が見るであろうWikiの親鸞聖人の項目に、親鸞聖人の教えと異なることを書いておられるので訂正したところ、また書き直されるので、Resto1578さんがどのような理解をされているのかを知りたくて質問をしたのです。必要なことだと思います。 「すべての衆生は既に救われている」については、Resto1578さんは、法蔵菩薩が四十八願を建てられ、その願成就した十劫の昔に私たちはすでに助かっている、という理解をしておられることはわかりました。もう一つ質問したのですが、「信心は阿弥陀仏より賜わる」と仰言っていますが、いつ賜るのでしょうか。これも十劫正覚の始め、ですか。 --Okidoki 2009年3月31日 (火) 03:04 (UTC)

Resto1578のコメント4

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まず疑問ですが、Okidokiさんはなぜ最初に出典の明記のお願いをしたときに、そうされなかったのでしょうか?私は、その意味で「Wikiはこのような質疑応答の場では無いはずです。」と述べました。

「十劫秘事」について述べられていますが、私のコメントを読まれましたか?私にとって経典は、私を仏道に導くための「方便」(『岩波仏教辞典』第二版915頁を参照)であると受け止めております。

ただ、Okidokiさんが、親鸞会の会員であって、親鸞会の教義のみが正しいとして、書きたいのだとするならば、前回述べましたが、(特定の宗派以外の)引用元・出典を提示しない限り、独自の研究であり、中立性に欠けていると考えます。私は、『岩波仏教辞典』・『真宗辞典』などを用いて、説明しております。『唯信鈔文意』を引用元として、「信心を得る」のが難しいとしていますが、私の前回のそれら辞典の引用による説明を無視して自論を展開されないようにお願いします。

『岩波仏教辞典』「他力」の項目からも、「信心は自分で得るものではない」とおさえるのが、百科事典として妥当であると考えます。また真宗は、そのような信心を「得た者」・「獲ていない者」と二元化する、非平等な教えではないと考えます。「私が信じた時」、「私が信心を獲得した時」などの条件があってはならないのが、法然上人・親鸞聖人の教えと受け止めています。

「他力の信心」が崩れるのではなく、自己の執着などの煩悩によってその信心を誤って(自分の都合に合わせて〈『歎異抄』で言う「自見の覚語」〉)受け止めてしまうことが、「受持(『岩波仏教辞典』第二版500頁)することが難しい」とするのが、一般的であると考えます。

「独自の解釈になるでしょうか。」…Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するをお読みください。Okidokiさんは、原文だけを引用し、それに対して独自の解釈をしているに過ぎません。

真宗大谷派の僧侶の文章なので参照先にしませんでしたが、下記リンクもご参照ください。

正信偈の教え-みんなの偈- 邪見・憍慢

前述しましたが、Okidokiさんが親鸞会の教義とその差異について記述したいのであれば、「浄土真宗親鸞会 」の項目の「教義」の節(セクション)でその教義を展開・記述してください。私は、その事に対して何ら反対する意思はありません。現在の「浄土真宗親鸞会#教義」のセクションは、そのようになっています。

また、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありません 「8. 布教する場所ではありません。」をお読みになり、ご考慮ください。

Okidokiさんは、納得できないかもしれませんが、これ以上「Wikipedia:基本方針とガイドライン#基本的な方針」を無視されるのであれば、議論になっていないので、この議論は終わりにしたいと思います。また、合意なく「親鸞#教え」の改変は行わないようお願いします。「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない」を参照してください。--Resto1578 2009年3月31日 (火) 12:20 (UTC)

Okidokiさんのコメント5

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Resto1578様、返信有難うございました。 問題点となっているのは、正信偈に「信楽受持甚以難」と、親鸞聖人が書かれている意味についてでありました。

Resto1578さんは、「仏より賜った信心を誤り無くいただき続ける事が難しい」と解釈されました。岩波辞典で「信楽」と「受持」を調べられて、それをくっつけての理解です。

そして、「信楽受持(=信心獲得)するのが非常に難しい」とするのは「Okidokiの自論であり間違いである」と言われています。そして、 私が根拠として、唯信鈔文意「この信心の獲がたきことを『経』には「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』には「若聞斯経、信楽受持、難中之難、无過之難」とおしえたまへり。この文のこゝろはもしこの経をきゝて信ずること難きがなかに難し、これにすぎて難きことなしとのたまへる御のりなり」をあげて、「信心の獲かたきこと」「この経を聞きて信ずること難きこと」だと親鸞聖人も仰言っているではないですか、と説明しても、「Okidokiは原文だけ引用し、それに対して独自の解釈」と言われています。

「真実の信楽、実に得ること難し(教行信証)」 「よく聞くことも難ければ、信ずることもなお難し(和讃)」 等の根拠をあげて、「真実の信楽(真実信心)をえることが難しい」 「信ずること(信心獲得すること)が難しい」 と親鸞聖人が仰言っていると説明しても、「独自の解釈」と言われています。

そして、親鸞聖人のお言葉を理解するのに、「岩波仏教辞典」に基づく自らの解釈が、正しいといわれます。 だいたい、「仏教辞典」には、真宗のことに限らず仏教全般の大雑把な意味しか書かれていないのに、「教えを受けて記憶する」を読んで、自分なりに「誤り無くいただき続ける事」などと解釈してはたいへんです。「信楽」も「受持」も、「仏教辞典」で調べて、「だいたいこんな意味だろう」とするのが、間違いのもとです。親鸞、覚如、蓮如上人方は、そこをどう教えておられるかを聞かねばなりません。「いただき続ける事が難しい」など、どこにも書かれていません。 自信が無い証拠に、「~問題はないと考えます」と繰り返されています。 どっちが「独自の解釈」「自論を展開」しているのでしょうか。

Resto1578さんが、なぜそんな誤った解釈をされるのか、いろいろとお聞きしたところ、背景に以下のことがあることがわかりました。

「すべての衆生は既に救われている存在」 「気付いていなかっただけで救われていたということ」と仰言っています。 つまり、「信心獲得した信一念に救われる」のは間違いで、十劫の昔に法蔵菩薩が成仏されたときに、すでに助かってしまっているんだ、という ことです。これは、十劫安心という異安心であることは、御文章の根拠をあげてお話しました。

また、「浄土真宗では、信心は阿弥陀仏より賜わる」「仏より賜った信心」とは、仰言っていますが、「いつ賜るのでしょうか」には無回答。 結局、「信心(信楽)」がわからなために、答えられないのだと思います。

そして、「信心を『得た者』『獲ていない者』と二元化する教えではない」と仰言っています。 御文章に蓮如上人は、「そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御前に参らん人の中において、信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり」と仰言っています。『信心獲得した人もある』『不信心(信心獲得していない)の人もある』と仰言っています。そして、信心獲得していない人は、報土往生はできませんよ、と言われています。

御一代記聞書には、 「信を獲る機まれなり」(信心獲得している人は稀だ) 「『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、一人か二人か有るべきかな』と御掟候とき、各『肝をつぶし候』」(蓮如上人が多くの人を前にして、この中に信心獲得した者何人あるかなあ、一人かな、二人かな。) と仰言っています。

『得た者』と『獲ていない者』とがあり、獲ていない者が多いから、 お亡くなりになるときには、「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」(命のある間に、みんなの人に信心決定してもらいたいと、この蓮如は朝夕思い続けてきた)とも仰言っているのではありませんか。 これらの蓮如上人のお言葉を否定されますか。

「親鸞会の教義」ってなんですか?私の説明のどの部分が「親鸞会の教義」なのでしょうか。 私は「親鸞聖人の教え」を学んでいるのであって、私のどの解釈が、親鸞聖人や蓮如上人の教えと異なっているのでしょうか。

Restoさんご指摘のWikipediaの、 「演説をする場所ではありません」「布教する場所ではありません」「基本方針とガイドライン」等も読みましたが、どこにも該当すると思いません。演説も布教もしていないし、むしろ、親鸞聖人の教えに関する「偏見」や「独自の調査」を載せないためですし、 Wikipediaの「親鸞」の項目を、少しでも正確なものにして、読んだ人が間違われないようにするためですから。

Wikipediaのガイドラインにある「難しい質問が飛び交う公開の討論」「方針についての提起と討論は、Wikipedia名前空間上のページやノートページで行われます」に、そっていると思います。 「この議論は終わりにしたい」だけども「変更はするな」 これは少しまずくありませんか?Restoさんのホームページでもありませんし、Wikipediaのガイドラインにも反していると思います。 --Okidoki 2009年4月1日 (水) 13:53 (UTC)

Resto1578のコメント5

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Okidokiさんは、私の信仰に関してまで独自で解釈・決め付けれます。そのようなOkidokiさんの姿勢では、議論にはならないので、『終わりにしたい』と申したまでです。ただ堂々巡りするばかりです。

『御文』などの文章も、誤り無く真実をいただくための言です。私が理解しているのは、親鸞聖人の仰る「われら」は、「虚仮不実の身」であるということです。信心を獲るのが、難しく稀なことであって、信心が定まれば救われるのであれば、定まった後はそれこそ「聞法」はいらないと受け取れます。「回心」つまり己の心をひるがえされた後、自己の執着により誤りが生じ、それを法を聞くことによりその誤りに気付かせていただくと考えます。信心を獲得すれば、自己の執着が無くなるとするならば、「不断煩悩」という「正信偈」の言と合致しません。

また答えていないと仰りますが、中立性の面を考慮した上で「正信偈の教え-みんなの偈- 邪見・憍慢」(もうすぐ書籍化されます。書籍化されています。)を参照先に挙げて回答してますが?

  • 古田和弘『正信偈の教え』 上、真宗大谷派宗務所出版部、2008年、194~204頁「結誡」頁。ISBN 978-4-8341-0397-7 

「Okidokiさんが、親鸞会の会員であって、親鸞会の教義のみが正しいとして、書きたいのだとするならば」と仮定で話をしているのをお読みでしょうか?まず、自論ののみが正当として展開するばかりでなく、他者の言葉を聞いてください。私の言う事だけが正しいとする姿勢は、「演説をする場所ではありません」などに抵触しています。

今回の議論を踏まえ、下記の提案をしたいと考えます。ご考慮ください。--Resto1578 2009年4月2日 (木) 07:35 (UTC)

Okidokiさんのコメント6

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Resto1978様。返信有難うございました。 Resto1978さんは、「信心を獲るのが、難しく稀なことであって、信心が定まれば救われるのであれば、定まった後はそれこそ「聞法」はいらないと受け取れます」と、またしても自分の考えを言われ、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を否定されています。

「信心を獲るのが難しい」と親鸞聖人も、蓮如上人も教えられたことは、『信楽受持甚以難(正信偈)』をはじめ、根拠をいくつもこれまであげてきました。それをResto1978さんは否定されています。

「信心が定まれば救われる」ということも、親鸞聖人も蓮如上人も繰り返し教えられています。一例をあげれば、「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事さらに疑いなし(御文章)」「この信心を獲得せずば極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり(御文章)」と仰言っています。「信心が定まれば(信心獲得すれば)助かる」「信心が定まらなければ(信心獲得しなければ)助からない」と仰言っているではありませんか。 信心為本唯信独達の法門が浄土真宗なのに、それを無視してはもはや真宗ではないでしょう。

「信心定まったということがあるのなら、その後の聞法はいらなくなるではないか」とResto1978さんは仰言っていますが、「救われたら聞く気が無くなる」のは秘事法門によく見られる現象です。信後の聞法は、御一代記聞書に、「ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信の上にはあるべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり」とあるように、救われる前よりもっと聞きたくなります。

Resto1978さんはさらに、「信心を獲得すれば、自己の執着が無くなるとするならば、「不断煩悩」という「正信偈」の言と合致しません」とも仰言っています。これもResto1978さんの誤解です。もし、信心獲得すれば自己の執着(煩悩の一つ)が無くなる、と私が言っているのなら、Restoさんの仰有る通り、間違っています。しかし、そんなんことは親鸞聖人も蓮如上人も書かれていませんし、私も言っていません。

『この娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて』と改邪鈔にも書かれているとおり、無くなるのは『生死流転の本源をつなぐ自力の迷情』です。煩悩や執着は減りもしないし、無くなりもしません。『不断煩悩』『有漏の穢身はかわらねど』と親鸞聖人も仰言っている通りです。

無くなるのは、『自力の心』『疑情』『無明闇』『無明長夜の闇』『二心』と言われる心で、今日の言葉でいえば、『阿弥陀仏の本願を疑っている心』『死ねばどうなるのかハッキリしない心』のことです。これは信心獲得の一念で無くなり往生一定(いつ死んでも弥陀の浄土へ往って、弥陀同体の仏に生まれることがハッキリする)の大安心の身となります。

『独自で解釈・決め付けをするOkidokiの姿勢では、議論にはならないので、終わりにしたい』とのことですが、ことごとく『独自の解釈』で教えを曲げておられるのはResto1978さんではありませんか。どの部分が私の独自の解釈で、親鸞・覚如・蓮如上人方の教えと異なっておりますでしょうか。Resto1978さんが不審に思われる点を具体的に教えてくだされば、もっと丁寧に書けるかもしれませんが。

今回、Resto1978さんは、提案をされました。現状と比べたら一歩前進で、Wikipediaで「親鸞」を調べた人が、教えを誤解することも少しは減ると思いますので、私は受け入れていいと思います。

今後もお互いに、正しい親鸞聖人の教えを学習していきたいと思います。ご苦労様でした。 まだ議論を続けたい、この意味を知りたい等ありましたら、いくらでもさせていただきます。 議論は終わりにしたい、等とは決して申しませんし、むしろ私にとっては、徒に過ぐる月日の多い人生の中で、 親鸞聖人の教えに触れ、教義を学ぶご縁ともなりますので喜ばしいことです。

それと、最後に言っておきたいのは、浄土真宗の教義は、親鸞、覚如、蓮如を一貫する、本願成就文の教えですので、 本願成就文の教えに反する解釈は、すべて間違い、ということですね。 (こういう前提で、議論してきました。ここもResto1978さんの誤解です)  --Okidoki 2009年4月6日 (月) 13:41 (UTC)

Resto1578のコメント6

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報告

  • 「正信偈の教え-みんなの偈- 邪見・憍慢」(もうすぐ書籍化されます。)と書きましたが、私の思い違いでした。既に出版されています。訂正しました。
  • 「下記の提案」を内部リンク化しました。

確認です。

「Resto1978さんが不審に思われる点を具体的に教えてくだされば、もっと丁寧に書けるかもしれませんが。」とのことなので、確認です。

Okidokiさんは、上記ノートページにおける発言より、以下なような考えであると受け取ってよろしいでしょうか?
  • 『岩波仏教辞典』は、「だいたい、「仏教辞典」には、真宗のことに限らず仏教全般の大雑把な意味しか書かれていない」と考えている。(Wikipedia:信頼できる情報源に当らない。)
  • 私は、信頼できる情報源であると考えます。
  • 「『親鸞会の教義』ってなんですか?私の説明のどの部分が「親鸞会の教義」なのでしょうか。 」との発言より、Okidokiさんは浄土真宗親鸞会の会員ではないと考えてもよい。
  • 「救われる前よりもっと聞きたくなります。」の発言より、何等かの浄土真宗系の宗派の法話を聴聞している。(書籍のみによる独学ではない。)
  • ちなみに私は、利用者ページにあるように真宗大谷派の門徒です。よって、清澤満之・曽我量深・金子大榮・安田理深・多屋頼俊・平野 修・宮城 顗・本多弘之・池田勇諦・古田和弘・武田定光らの真宗大谷派の僧侶・教学者の書籍、黒田覚忍・野々村智剣氏らの浄土真宗本願寺派の僧侶、ならびに同派の教学伝道研究センター編集の書籍、石田瑞麿(元、東海大学教授)・今井雅晴氏(筑波大学名誉教授)らの親鸞研究者の書籍を傍らに、有縁の真宗大谷派の僧侶らの法話を聴聞し、釈尊・七高僧・親鸞聖人・蓮如上人・様々な先人の教え、ならびに宗派・自己の利害を問わず、私に様々な問いをもたらしてくださる人々から教えを受ける者です。また、出典等も前述した諸氏の書籍によります。(出典元とする主な書籍は、利用者:Resto1578/参考文献を参照してください。)
Okidokiさんの「どの部分が私の独自の解釈」の発言に対して、Wikiにおける「独自研究」の見解。
  • Okidokiさんは、親鸞聖人・蓮如上人の著作を引用して展開されますが、ご存知かと思われますが浄土真宗の宗派により教義・教学に差異があります。Okidokiさんが、どのような立場からの記述かが分からない上、原典のみの引用では、「Wikipedia:独自研究は載せない」、ならびに「Wikipedia:独自研究は載せない#Wikipedia:中立的な観点」に要約されている「編集者が自分の観点のみを提示する可能性を制限します。」に抵触しています。
  • Wikipedia:独自研究は載せない#Wikipedia:検証可能性」に要約されている「ウィキペディアの掲載基準は、『真実であるかどうか』ではなく、『検証可能かどうか』です。」にも反しています。(誤解の無いように付け加えますが、私は大谷派が伝える「(親鸞聖人によって顕かにされた)真宗の教え」を真実と受け止めております。)Okidokiさんが真実と受け止められている親鸞聖人の教えが記されている検証可能な書籍などを明示してください。Wikiでは、検証可能な書籍等を明示しない限り、「独自研究」(発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など)としています。親鸞聖人の著書などの「一次情報源」だけでは無く、「二次情報源」を明示してください。
  • 私の場合は、「二次情報源」として下記を挙げています。(注意…Wikiの方針上、大谷派の教学がすべてであるとは申していません。宗派による教学の差異については、Wikiの方針に沿った上で、併記すれば良いと考えています。)
  • 正信偈の教え-みんなの偈- 邪見・憍慢(大谷派公式ホームページ)
  • 古田和弘『正信偈の教え』 上、真宗大谷派宗務所出版部、2008年、194~204頁「結誡」頁。ISBN 978-4-8341-0397-7 
下記の提案に関しての確認

Okidokiさんのコメント7

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今まで説明してきたつもりなのですが、まだ、ほとんど分かっておられないので残念ですが、「自信教人信 難中転更難」ですから、これも当然なのかとも思ったりもします。繰り返しになりますが、説明したいと思います。

「正信偈」の「信楽受持甚以難」について、Resto1978さんは、「信心を誤り無くいただき続ける事は非常に難しい、と親鸞は述べている」 と言われています。

「信楽受持」=「信心獲得」のことですから、「信心獲得することが非常に難しい」が、正しい意味です、と私はお話しました。これは、「私が独自の解釈をして」いるのではなく、親鸞聖人ご自身が仰言っていることです。

根拠として、以下をあげました。

・「この信心の獲がたきことを『経』には「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』には「若聞斯経、信楽受持、難中之難、无過之難」とおしえたまへり。この文のこゝろはもしこの経をきゝて信ずること難きがなかに難し、これにすぎて難きことなしとのたまへる御のりなり(唯信鈔文意)」「信心の獲難きこと」「この経を聞きて信ずること難きこと」だと親鸞聖人は仰言っています。

・「真宗遇い難し、信を得ること難し、難の中之難斯に過ぎたるは無けん(入出二門偈)」

・「真実の信楽、実に得ること難し(教行信証)」

・「よく聞くことも難ければ、信ずることもなお難し(和讃)」

これらの親鸞聖人のお言葉でもお分かりのように、「信心獲得することが難しい」と親鸞聖人は仰言っています。 それでも「独自の解釈だ」と言われるのであれば、どこがどのように「独自」なのか示してください。

Resto1978さんは、こういった親鸞聖人の直のお言葉を、知られないのか、知っていても無視されているのか、または意味を知られないのか、わかりませんが。これらの御文をどのように理解されているのでしょうか。

「親鸞聖人の教え」を論じているのですから、親鸞聖人の書かれたものを根拠として示すのが当然ではないでしょうか。 「信心を誤り無くいただき続ける事は非常に難しい」などと、どこに親鸞聖人が書かれているのでしょうか。

また、Resto1978さんは「岩波仏教辞典」で「信楽」と「受持」をそれぞれ調べて、それをくっつけて、だから正しいのだ、と言われています。そして、「仏教辞典は信頼できる情報源に当らないのか」と、論点をすりかえようとしておられます。親鸞聖人のお言葉を正しく理解しようとするときに、仏語を二つにわけて、「仏教辞典」で意味を調べ、くっつけるようなことをしていては誤りますよ、ということです。今回がその典型で、結果として、親鸞聖人の教えとは全く違うことになっています。

また、Resto1978さんは発言の中で以下のことも言われていました。これも、教行信証、御文章をはじめ、親鸞聖人、蓮如上人の全く仰言っていない ことで(反対のことは沢山書かれている)、浄土真宗にはなりません。 「いやこれは独自の解釈ではない。○○に書いてある。○○学者も言っている」 と言われるのかもしれませんが、そうなるとResto1978さん独自の解釈ではないのかもしれませんが、親鸞・蓮如・覚如上人方の教えと異なるのであれば、同様のことを言っている人はResto1978さんを含めて全部間違い、ということになります。 (これは根拠はすでにあげましたが、まだ分からない、とおっしゃるのであれば、また説明致しますが・・・)

・十劫の昔に救われていた(あとはそれに気づくだけ)

・信心を「得た者」「獲ていない者」とかの区別は無い

・「私が信じた時」「私が信心を獲得した時」など無い

・信心を獲得すれば、自己の執着が無くなる。自己の執着は無くなるはずないから、信心獲得ということは我々には無い。

・信心が定まれば救われるのであれば、定まった後はそれこそ「聞法」はいらないことになる。  だから、信心を獲る、ということも無いし、信心が定まって救われる、ということも無い。

Resto1978さんは、いろいろと立派な方の本を「書籍を傍らに」置かれ、学者方の話を「聴聞」され、「宗派・自己の利害を問わず、私に様々な問いをもたらしてくださる人々から教えを受ける」と、書かれていますので、これからは、お聖教に忠実に、教えの理解を深めていかれたら、と念じます。そうしないと、せっかくこれだけ仏法とご縁があり、謙虚かつ真剣に研鑚されているのに、ほんとうにもったいないです。

「浄土真宗の宗派により教義・教学に差異があり」と言われていますが、「だからどんな解釈をしてもいいのだ」とはならないでしょう。間違った解釈があるから、歎異抄や改邪鈔は書かれたのではありませんか。あくまで、「親鸞聖人の教え・浄土真宗」と主張するのであれば、親鸞・覚如・蓮如上人の教えられたことと「差異」があってはなりません。

Resto1978さんの主張(もちろんResto1978さんの書かれたもの全部ということではなく、上記指摘の部分)は、親鸞・覚如・蓮如上人を一貫とする浄土真宗の教義に反しており、異なっていることは、今までのことから明らかです。もし、Resto1978さんの言われるようなことが「大谷派」で教えられているのであれば、それは親鸞聖人の教えではなく、「大谷派の(オリジナルな)教え」ということになります。「これは、親鸞聖人の教えだ」と言われるのであれば、お聖教のお言葉で示さねばなりません。

「検証可能な書籍等を明示していない」「独自研究だ」と言われますが、親鸞・覚如・蓮如上人方の書かれたものを根拠にあげています。 Resto1978さんにとっては、「親鸞・覚如・蓮如上人方の書かれたもの」は信用できない、あてにならない情報で、それ以外の人の書いたものが信頼できる書物なのでしょうか。

Resto1978さんの提案は同意します。 --Okidoki 2009年4月9日 (木) 12:17 (UTC)

Resto1578のコメント7

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まずは、前回の私の質問( 確認)に対しての回答をお願い致します。なるべくなら私の質問に対して、対応する回答を箇条書きなどの形で記述していただけると読みやすいです。

2009年4月9日のOkidokiさんのコメントに対する回答と意見

「それでも『独自の解釈だ』と言われるのであれば、どこがどのように「独自」なのか示してください。」に対しての回答。
Wikiでは「二次情報源」の明示がなければ「Okidokiさんの(オリジナルな)教え」であり、「独自研究」です。
Wikiの方針(ルール)については、下記の方針をお読みください。
「いやこれは独自の解釈ではない。○○に書いてある。○○学者も言っている」の発言について
Wikiでは、出典を明示することが出来れば「検証可能性」の方針を満たしています。「独自研究」に当てはまりません。浄土真宗すべての宗派に当てはまらない事柄であれば、「但書き」を付け加えて記述すれば済むことです。
Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんをお読みください。
Wikiは、宗派間の教義の差異を否定する場では、ありません。
「『親鸞・覚如・蓮如上人方の書かれたもの』は信用できない、あてにならない情報で、それ以外の人の書いたものが信頼できる書物なのでしょうか。」の発言について
勝手に私の考えを断定しないようお願いします。
「親鸞・覚如・蓮如上人方の書かれたもの」は、「一次情報源」です。検証可能な「二次情報源」を明示してください。
またWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に、「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」とあります。
私は、信頼できる情報源として、再三にわたり検証可能な「二次情報源」の明示を求めています。
「お聖教のお言葉で示さねばなりません。」の発言について
Wikiのルール、特に三大方針をお読みください。検証可能な「二次情報源」の明示を求められたら、執筆者が出典を示さなければならないのがWikiです。よろしくお願い致します。

不必要

Okidokiさんの所属する(?)宗派の教学に関しての意見
「ほとんど分かっておられないので残念」・「まだ分からない」等のOkidokiさんの善意からと思われる発言がありますが、私はこの場でOkidokiさんより「親鸞聖人の教義・教学」に関して学ぶ気持ちはありません。
また私にとって「真実の教え」は、大谷派に属する有縁の僧侶などが伝え聞かせてくださる真宗の教えです。「気の毒に」・「大谷派の(オリジナルな)教え」とOkidokiさんが、私のことを哀れむのは自由ですが、ノートページに書き込む必要はありません。
またOkidokiさんが、どの宗派に属されているかも分からないので、参考にもなりません。
よって上記のようなOkidokiさんの所属する(?)宗派の教学に関しての説明は、不要です。いたずらに議論を長文化させているだけです。
誤解の無いように改めて申しますが、Okidokiさんの所属する(?)宗派の教えを否定するつもりはありません。私には、縁あって遇う事ができた、「大谷派の伝える聖人の教え」を受け止めていきます。「ほんとうにもったいない」と仰られても、私には無用です。

情報

二次情報源の追加
大谷派の教義による二次情報源を追加します。
  • 一楽 真『親鸞聖人に学ぶ―真宗入門』真宗大谷派宗務所出版部、2007年。ISBN 978-4-8341-0373-1 
「たとえ信心獲得ということが起こったとしても、私たちの生きている現実というのは、先ほどからも言うように、一切の異見・異学・別解・別行の中で、すぐに方向を見失っていくような危機をはらんでいるわけです。だから信心を獲得することも難しいですけれども、『信楽受持甚以難』(真宗聖典二〇五頁)とも言われますように、たもっていくことはもっと難しいんです。」
「第4章 信心」189~190頁より引用。

下記提案に対しての同意の旨、了承致しました。

Wikiのルール上、他の利用者の意見が無いか、ある程度の期間を置いてから編集したいと思います。--Resto1578 2009年4月9日 (木) 16:59 (UTC)

Okidokiさんのコメント8

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返信有難うございました。

「私に様々な問いをもたらしてくださる人々から教えを受ける」と言われていたのに、 「お前からは親鸞聖人の教義・教学に関して学ぶ気持ちはない」「参考にもなりません」と今度は仰言っています。

「宗派・自己の利害を問わず」とも仰言っていたのに、 「真実の教えは、大谷派に属する有縁の僧侶などが伝え聞かせてくださる真宗の教え」と、思いっきり固執されています。

仰言っていることが矛盾しているように思います。


「正信偈」の「信楽受持甚以難」について、Resto1978さんは、「信心を誤り無くいただき続ける事は非常に難しい、と親鸞は述べている」

と言われています。

そんなこと親鸞聖人は仰言っていないので、 「この信心の獲がたきことを『経』には「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』には「若聞斯経、信楽受持、難中之難、无過之難」とおしえたまへり。この文のこゝろはもしこの経をきゝて信ずること難きがなかに難し、これにすぎて難きことなしとのたまへる御のりなり(唯信鈔文意)」などを根拠としてあげました。 「信心の獲難きこと」「この経を聞きて信ずること難きこと」だと親鸞聖人は仰言っていることは、誰が読んでもわかることで、Resto1978さんは、これさえもわからないほど盲目的になっておられるのでしょうか。まさか日本語が理解できない、ということでもないと思います。どの部分が“私の属する宗派の教え”なのでしょうか。


結局、Resto1978さんは、教義的なことに全く反論できず、「お前はどんな団体に属しているのか」「Wikiのルールがどうだこうだ」と、話をそらそうとするばかりです。正々堂々と教義論争ができないのでしょうか。

だからでしょうか、 「大谷派が伝える真宗の教えを真実と受け止めております」 「大谷派の伝える教えを受け止めていく」 「真実は、大谷派に属する有縁の僧侶などが伝え聞かせてくださる教え」と、Resto1978さんは仰言っています。

それをとやかくは言いませんが、 「信仰されている教団でそのような教えがあるのであれば、その対象の項目の教えのセクションで記述されることが、検証の可能性・中立的な観点からも望ましい」と、Resto1978さんご自身が、仰言っているのですから、そのようにされたほうがいいんじゃないでしょうか。 「親鸞」の項目に、親鸞聖人が仰言っていないことを堂々と書かれると、多くの人が誤解し、迷惑を被ります。

Resto1978さんが仰有る通り、Resto1978さんの主張は「大谷派の伝える教え」であって、親鸞・覚如・蓮如上人を一貫する浄土真宗の教えではありません。あれば教行信証や御文章で根拠をあげてください、と何度もお尋ねしていますが、全く答えて頂いておりません。


Resto1978さんの言われる大谷派の教えを整理すると、以下のようになります。 これが親鸞聖人の教えなら、訳が分からぬ不可解な教えになります。 お聖教に基づいた、正しい教学の研鑚を念じております。

・信心を誤り無くいただき続ける事が非常に難しい(ふらふらな信心)

・十劫の昔に救われていた(あとはそれに気づくだけ)

・信心を「得た者」「獲ていない者」とかの区別は無い

・「私が信じた時」「私が信心を獲得した時」など無い

・信心を獲得するとは自己の執着が無くなることだろう。自己の執着は無くなるはずないから、信心獲得ということは我々には無い。

・信心が定まれば救われるのであれば、定まった後はそれこそ「聞法」はいらないことになる。

 だから、信心を獲る、ということも無いし、信心が定まって救われる、ということも無い。

・阿弥陀仏に救われていることに気付かされたのが信一念であり正定聚

・信心を獲得することも難しいが、たもっていくことはもっと難しい (信心獲得が難しいと言っているので、信心獲得など無いというResto1978さんの主張とも異なるように思いますが・・・・) --Okidoki 2009年4月15日 (水) 12:36 (UTC)

Resto1578のコメント8

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「正々堂々と教義論争ができないのでしょうか。」の発言について
Okidokiさんは誤解をされているようですが、Wikipedia、およびWikiのノートページは、宗教について論争・論破する場ではありません。
よって反論しないのではなく、自論を控えて、Wikiのルール・方針に沿って(二次情報源を明示し)質問と回答をしているまでです。Wikiの私有化もしておりません。
Okidokiさんは、教義論争を求めてますが、私は前述した質問の回答を求めています。前回も申しましたが、長文による教義の解説は不要です。
「学び」とは
表明するしないは義務ではありませんが、どのような宗派に所属されているか不明な方から、真宗の教学を学ぶ意思はありません。
Okidokiさんは、求められた質問に回答されていません。また二次情報源を明示せず、一次情報源のみで自論を主張されます。Okidokiさんのそのような行動に対して、私は自己に照らし合わせ、「学び」とします。
「教行信証や御文章で根拠をあげてください、と何度もお尋ねしていますが、全く答えて頂いておりません。」の発言について
Wikiの方針・考慮すべきガイドラインのどこにその必要性が示されているか、教えてください。
一次情報源のみを根拠として、自釈を表明する必要はないと考えます。
自釈を表明したいのであれば、フリー百科事典「Wikipedia」のような「三次情報源」ではなく、(自費出版を除く)二次情報源として、出版すればよいことです。
私には、真宗大谷派宗務所出版部・法藏館などから出版する能力も意思もありません。
また不要な論争を回避する上でも、上記の質問に回答する意思はありません。
二次情報源の明示がなされない教学に関するコメントは、(すこし強い言い方ですが、)一切無視いたします。前回も不必要と述べています。
「Resto1978さんの言われる大谷派の教え」の発言について
私が述べているのではありません。二次情報源を2つ明示しております。
改めてお願いします。Okidokiさんは、二次情報源の明示をして下さい。
Wikipediaの「親鸞」の項目を編集するのであれば、Wikiのルール・方針に沿って、編集のための議論をしてください。
ノートページにおける発言の改変について
「お前はどんな団体に属しているのか」・「信心獲得など無い」等の発言はしておりません。「どの宗派に属されているかも分からないので」・「『回心』と『信楽受持』を同一に考えていらっしゃるのではないでしょうか?」と記述しています。
私の発言を引用する際は、勝手に改変しないようお願いします。
教義論争・論破が目的であれば、Wikipediaは、それらの目的を満たしません。 - Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを参照ください。

OkidokiさんがWikiのルール・方針を遵守されない以上、私にはこの議論は、建設的な議論とは考えられません。ご考慮ください。--Resto1578 2009年4月16日 (木) 16:12 (UTC)

Okidokiさんのコメント9

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お返事有難うございました。 気分を害された表現がいくつかあったようで、失礼しました。

ですが、事の発端は何だったのか、思い出して頂けますでしょうか。 「信楽受持甚以難」について、Resto1978さんが「信心を誤り無くいただき続ける事は非常に難しい、と親鸞は述べている」 と、間違ったことを書かれたことなのです。

こちらが訂正したところ、 「議論に参加ください。 説明・反論してください」とResto1978さんが言われたので、仰言ったとおりに根拠をあげて書いたのです。 それを今さら「議論するつもりはない」等と言われても困りますが・・・


「信楽受持甚以難」について、 Resto1978さんは、 「信心を誤り無く頂き続ける事が難しい」「信心をたもっていくことはもっと難しい」 と親鸞聖人は言われている、と仰言っています。

私は、 「信心獲得することが非常に難しい」 と親鸞聖人は仰言っていると言いました。 そして、そのお聖教の根拠も示しました。

・「この信心の獲がたきことを『経』には「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』には「若聞斯経、信楽受持、難中之難、无過之難」とおしえたまへり。この文のこゝろはもしこの経をきゝて信ずること難きがなかに難し、これにすぎて難きことなしとのたまへる御のりなり(唯信鈔文意)」 ・「真宗遇い難し、信を得ること難し、難の中之難斯に過ぎたるは無けん(入出二門偈)」 ・「真実の信楽、実に得ること難し(教行信証)」 ・「よく聞くことも難ければ、信ずることもなお難し(和讃)」

ところが、Resto1978さんは、「頂き続ける事が難しい」「賜った信心をたもっていくことが難しい」 という自己の主張の根拠を、親鸞聖人のお言葉で一つもあげることができませんでした

親鸞聖人のお言葉で示す必要性はない」とまで仰言っています。

これによって、Resto1978さんの主張の根拠は、親鸞聖人のお言葉にはないことがハッキリしました。 あくまで、「大谷派で教えられること」と理解しました。

それならば「信仰されている教団でそのような教えがあるのであれば、その対象の項目の教えのセクションで記述されることが、検証の可能性・中立的な観点からも望ましい」と、Resto1978さん自身が仰言ったとおり、「大谷派の教え」のセクションに書かれるべきと思います。

Resto1978さんは、親鸞聖人のお言葉はあまり信じておられないらしく、大谷派の学者の書いたもののほうを信じておられるようです。 こちらが提示した親鸞聖人のお言葉をどう理解しているのか確かめても、無視されています。 そして、親鸞聖人以外の人のお言葉をあげないとダメ、と仰います。

下記に、いくつかあげておきます。

・改邪鈔(覚如上人著) わが真宗の高祖光明寺の大師(善導)釈してのたまはく(礼讃 六七五)、「驕慢弊懈怠難以信此法」とて、「驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずることかたし」とみえたれば・・

・正信偈大意(蓮如上人著) 「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。

・教行信証講義(山辺・赤沼著) 「信順すること甚だ難きを述べて、信心をすすめ給うのである」 「・・信じうけ奉ることは容易でない。世に多くの難しいことはあるが、これほどのむつかしいことはまたと無い」

・正信偈の意訳と解説(高木昭良著) 「この四句は、信心を頂くことがむずかしいのは・・・」 「他力の信心は聞即信の一念に得るのであるから、それは信じやすいはずであるのに、大経にも小経にも難中の難であるといって、それはたやすく得られるものではないと・・・聖人も本偈に難中之難無過斯と述べられている」 「他力の信心が得がたいのはなぜであろうか・・・」


今回、Resto1978さんは、 「信心獲得など無い、等の発言はしていない」と仰言っています。 では、信心獲得した、ということが有る、ということでしょうか。


以下の発言をされたのはResto1978さんだと思います。矛盾してませんか。

・信心を「得た者」「獲ていない者」とかの区別は無い

・「私が信じた時」「私が信心を獲得した時」など無い

・信心を獲得するとは自己の執着が無くなることだろう。  自己の執着は無くなるはずないから、信心獲得ということは我々には無い。

・信心が定まれば救われるのであれば、  定まった後はそれこそ「聞法」はいらないことになる。  だから、信心が定まって救われる(信心決定)ということはない。


Resto1978さんの主張は、

・「信心獲得した」ということはある。それは十劫の昔。

・「信心獲得した」ということはある。それは「救われていたことに気付いた」とき。

・「信心獲得など無い」

の、どれなんでしょうか。


Resto1978さんの言われるように、十劫の昔に助かっているのなら、 釈迦が「易往而無人」(極楽は往き易くして人無し)と教えられていることにも反します。

もちろん、親鸞聖人や蓮如上人も、「十劫の昔に助かっている」などとは一言も仰言っていません。 「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」のお言葉にも反しますし、 親鸞聖人や蓮如上人が「真実信心」獲得を勧められる意味もなくなります。

--Okidoki 2009年4月17日 (金) 06:50 (UTC)

MKTさんのコメント1

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RestoさんとOkidokiさんのやりとりを見ていましたが、Okidokiさんは結局Wikipediaの基本方針を理解されていないんじゃないかと感じました。
親鸞や蓮如の文をいくら引用しようとも、原文から現代語にしたり、その意味を解釈しようとしたときから、それはOkidokiさんの独自研究になってしまいます。
Wikipediaでは、第三者による検証可能性が果たされなければなりませんが、Okidokiさんの主張を編集に反映させようとするならば、Okidokiさんの主張の元となる研究論文や著書(それも第三者が確認できるもの)を典拠として示さなければなりません。
その点、Restoさんは幾度も指摘されていますが、結局のところOkidokiさんがいつまでたっても堂々巡りで第三者に検証可能なソースを示されようとしないため、平行線のままなのでしょう。とりわけ、哲学・宗教・思想分野における解釈は、時代や研究者、宗派などの立場によっても多様に解釈されているのですから、Okidokiさんのように、「お前は間違い、それは大谷派だけの限定」と切り捨てる姿勢はいかがなものでしょう。むしろ、慎重な記述を求めるRestoさんの提案には一定の理解をしめされてよいと思いますが、いかがでしょうか。
Wikipediaは何物でもない百科事典であり、仮にOkidokiさんにとって受け入れがたい「虚偽の記述」がなされたとしても、その虚偽を覆すだけの根拠が示されなければ、「虚偽」(Restoさんの記述を虚偽と言っている訳ではないです)を曲げて書き直すことはできません。(わたし唯一人が真実を知っていても、第三者にそれを納得させるだけの根拠を示せなければ、その真実はWikipediaの事実にはなりえないのです。)
私もRestoさんの指摘の繰り返しになりますが、Okidokiさんには、まずその主張の根拠となる第三者の同一の解釈や主張を見つけてきてください。それが出来ないならば、いかに親鸞の真実が曲げられていようとも、Wikipediaにおいては(世間ではどこでもそうですけれども)、それを正すことはできないことを理解ください。--MKT (Talk) 2009年4月17日 (金) 16:07 (UTC)

Okidokiさんのコメント10

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MKTさん、助言有難うございました。 Wikipediaにほとんど書いたことないので、そのあたり、理解できていない部分があったかもしれません。もっと学んでいこうと思います。 「主張の根拠となる第三者の同一の解釈や主張を見つけてきてください」とのことでしたので、17日の発言には、いくつかあげておきました。 --Okidoki 2009年4月18日 (土) 11:59 (UTC)

Resto1578のコメント9

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コメント参考文献の追加

  • 浄土真宗教学編集所 聖典編纂監修委員会 編纂『浄土文類聚鈔 入出二門偈頌』 現代語版、本願寺出版社〈浄土真宗聖典〉、2009年。ISBN 978-4-89416-277-8 

上記書籍(P43〜44)では「是以経言 若聞斯経信楽受持難中之難無過此難」の部分の現代語訳を、“このようなわけで、『無量寿経』には次のように説かれている。「この阿弥陀仏の教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない」”としています。この書籍は本願寺派の書籍です。--Resto1578 2009年7月21日 (火) 19:45 (UTC)

「教え」のセクションに関しての提案

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コメント

教義は、浄土真宗の各派によって差異が見られるため、Wikipedia:中立的な観点からも、「親鸞」の項目の「教え」のセクションにある「称名念仏」・「他力本願」・ 「悪人正機」・ 「現生正定聚」などのサブセクションは、その項目にて記述するのが、宗派の見解による論争を回避する上で必要と考えます。よってそれらのサブセクションは、リンク先のみ記述する。

そのリンク先の項目において、共通する部分に関する以外の記述を、「本願寺派は…と解釈する。」「大谷派は、…と解釈する。」と宗派ごとに出典を明記した上で、詳細な記述をする。

教えのセクションは、下記のように変更する。

変更案
変更前
教えに関しての詳細は、各派により異なるため本願寺派・大谷派などのページを参照のこと。以下の説明は、概要である。
変更後
教えに関しては、各派により解釈などが異なるため、下記のリンク先を参照の事。チェック
  • 本願寺派チェック
  • 大谷派チェック
  • 浄土真宗親鸞会チェック
  • 称名念仏の項目を参照。チェック … 「称名念仏」の項目で、宗派による差異が見られる点については、出典を明記した上でその詳細を記述する。
  • 他力本願の項目を参照。チェック … 「他力本願」の項目で、宗派による差異が見られる点については、出典を明記した上でその詳細を記述する。
  • 悪人正機の項目を参照。チェック … 「悪人正機」の項目で、宗派による差異が見られる点については、出典を明記した上でその詳細を記述する。
  • 現生正定聚の項目を参照。チェック … 「現生正定聚」の項目で、宗派による差異が見られる点については、出典を明記した上でその詳細を記述する。

「根本経典」・「影響を与えた人物と書物」は、「教え」のセクションから独立したセクションにする。チェック

以上の変更を提案します。--Resto1578 2009年4月2日 (木) 07:35 (UTC)

この変更はもうすでに本文に反映されていますでしょうか?--115.30.129.90 2009年6月7日 (日) 08:39 (UTC)

報告

上記提案の内、一部を反映しました。
「教え」のセクションから、「根本経典」・「影響を与えた人物と書物」のサブセクションを独立させ、「依拠聖典」セクションを新設し、「根本経典」・「七高僧論釈章疏」・「その他」のサブセクションに移動・修正する。--Resto1578 2009年7月22日 (水) 16:27 (UTC)

報告2

上記提案の内、一部を反映しました。
「教え」のセクションを上記提案の記述形式に変更しました。
「教義・教学の項目について」は、「称名念仏」のサブセクションのみ、統合・リンク化しました。
残りの項目について、統合・リンク化は未了です。追記される場合は、出典(二次情報源)を明記の上、各項目にお願いします。--Resto1578 2009年7月27日 (月) 17:52 (UTC)

報告3

上記提案の内、一部を反映しました。
「教義・教学の項目について」は、「他力本願」のサブセクションのみ、統合・リンク化しました。
残りの項目について、統合・リンク化は未了です。追記される場合は、出典(二次情報源)を明記の上、各項目にお願いします。--Resto1578 2009年7月28日 (火) 18:04 (UTC)

報告4

上記提案の内、一部を反映しました。
「教義・教学の項目について」は、「悪人正機」のサブセクションのみ、統合・リンク化しました。
残りの「現生正定聚」の項目について、統合・リンク化は未了です。
「正定聚」の言葉は、曇鸞の「浄土論註」に用いられている言葉であり、親鸞自身の独自の解釈としている「現生正定聚」の記事に問題があると思います。よって出典を用いて改訂する必用があると考えております。
追記される場合は、出典(二次情報源)を明記してください。--Resto1578 2009年11月2日 (月) 13:30 (UTC)

チェック 上記提案をすべて反映しました。--Resto1578 2009年12月15日 (火) 04:41 (UTC)