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ノート:長澤氏

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長澤氏の問題点

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記事の記述がスタイルマニュアルに沿っていない以外にも、文体が古めかしく、何らかの古い記録(あるいはそれをまとめて出版したもの)を参照したような感じだったため、既存の書籍を当たって調べた結果をまとめました。

長澤資親から家紋の行を除き(但し長澤家系図末尾に「子日松丸」以外は記載されている)資摸までは『寛政重脩諸家譜 第8輯(以下『寛政譜8』)』國民圖書(1923年)あるいは『新訂寛政重脩諸家譜第21巻(以下『新訂寛政譜21』)』続群書類従完成会(1966年)から

  • 旧字体を新字体へ(「元祿」→「元禄」など)。
  • かなを漢字に、旧仮名遣いを新仮名遣いへ(「たまひ」→「給い」など)
  • 文語的な言い回しを現代的な言い回しへ(「遺跡を継ぐ」などように言い換えられていないものもあり)
  • カッコ書きでかな表記や専門用語の意味を補う

などの変更しつつ丸写しした内容で構成はほぼ同じです。仮に執筆の際に参照したのが『新訂寛政譜21』の場合、出版年から保護期間を満了していないため著作権侵害が疑われます。

※『寛政譜8』と『新訂寛政譜21』の違いは、後者は『寛政譜』が書かれた当時不敬に当たるために「禁裏」や「有徳院」などの表記を用いた天皇や将軍の諱をカッコ書きで補っている(有徳院殿(吉宗)など)点だけで、地の文に違いはありません。

なお、資珍、資和については『寛政譜8』、『新訂寛政譜21』に諱と字以外の記載はなく、養子へ行った先の根拠が不明です(養子へ行った家の家系までは追っていないので、そちらに記述があるのかもしれません)。

また調べた限りでは『寛政譜』に依らないと考えられる部分で

  • 資摸の家督継承後の履歴の出典が不明
  • 資寧の先代(資言)の記述が無い
  • 資寧の出典が不明である
  • 資寧の記述が内容確認のために当たった資料(『改訂新版 江戸幕臣人名辞典第二巻』新人物往来社(1997年)、『寛政譜以降 旗本家百科事典 第4巻』東洋書林(1998年))と名前以外一致しない(記事中で1853年(嘉永6年)に家督を継ぎ同年に将軍に拝謁したとしているが、参照した資料ではいずれも家督を継いだのが1842年(天保13年)、将軍に拝謁したのが1847年(弘化4年)である)。
  • 記事では資寧の先の代であるはずの資摸の次男、三男の記述が資寧の後に来ていて、資寧より前の、続柄順による記載と異なり一貫性に欠ける、そもそも出典が不明である。

等の問題があり、正確性が疑われます。なお日本史は守備範囲外なので、詳しい方にも検証をお願いしたいです。以上ご報告まで。--ゲルマニウム会話2019年4月25日 (木) 02:16 (UTC)[返信]

スタイルくらいは守りましょう

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初稿執筆者の第2稿以来まったく改善の見られない本項の内容は、スタイルを守る気も現代語で記す気も皆無です。閲覧者の理解に全く寄与するところが無く、無駄足を踏ませるだけの記事は、はっきり言って不要。下手にガッツリ記してあるから、執筆できる人がいても避けて通りますよ。少なくともこの記事に関して私がその該当者でしたら、一旦まっさらにしてもらうか、面倒すぎるから見なかったことにします。限られた時間を有効に使って執筆できる記事はほかに幾らでもあるのですから。◇1年以上も放置されていますので、せめてもの処置としてコメントアウトにさせていただきました。その中に活かせる内容があるのでしたら、そこだけでも表記できる形にして復活させて下さい。--Cyclops会話2020年10月2日 (金) 19:33 (UTC)[返信]

Taka.Nagasawa氏の投稿内容をノートへ移動

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2020年10月2日に記述させていただきましたように、2019年4月10日付の Taka.Nagasawa氏の投稿内容は本項の内容として不適当でしたので一旦コメントアウトにさせていただいたのですが、やはりと言うか、本項からノートへ移動させたうえで見える形で保存するほうが、見えない状態で本項の中に置いておくよりもよいのではないかと考えました。ここに全文を表示しておきますので、先述のとおり、活かせるようでしたらそのようにしていただきたくお願い申し上げます。--Cyclops会話2020年10月5日 (月) 18:58 (UTC)[返信]

長澤資親 初め博宣 後に茂丸 要人 壱岐守 侍従従五位下 従四位下 従四位上

家紋 鶴丸 子日松丸 五三桐

左少将 外山大納言光顕の二男 母は某氏

資親江戸に召され家を興すにおよび長澤を称す

  元禄十二年閏九月十五日召されて廩米(りんまい→扶持米のこと)三百俵を給い寄合(旗本の家格のひとつ)に列す。此の日始めて常憲院殿(五代将軍綱吉のこと)に謁え奉り(まみえたてまつり)十一月九日御小姓並(おこしょうなみ)となり、十八日従五位下侍従に叙任し、壹岐守に改める。此の日新恩三百石を給い先の廩米を采地(領地のこと)に改められ、武蔵国入間郡の内に於いて六百石を給う。十五年正月十一日また武蔵国入間郡の内にして三百石の加恩あり。

  宝永二年正月二十一日従四位下に昇る。三年四月七日入間郡の采地を多摩郡の内に移される。四年正月九日相模国愛甲郡の内に於いて五百石を加えられ、総て千四百石を知行する。十二月十日常憲院殿より仁敬の二字と誠明の二字を書して給う。六年二月二十一日高家となり、正徳元年に朝鮮の聘使が駿府の旅館に至るときに饗応するために、九月二十一日仰せを承って彼の地に赴く。五年五月十三日東照宮百囘(家康の百回忌のこと)にあらたらせ給い、日光山に於いて勅会の法会(朝廷から勅使を迎えての法要のこと)を行って頂いたため、これに謝する御使いを承って京師(京都のこと)に至る。享保十三年四月有徳院殿(八代将軍吉宗のこと)が日光山に詣でられるとき御先供奉の列にあり。此の年、立坊宣下(皇太子を立てること)があることで五月十五日仰せを承って、酒井雅楽頭親本に随って京師に至る。六月十八日暇(いとま)を申しあげるため参内するとき、禁裏より是行の御太刀を給い、七月十一日従四位上に昇る。十四年三月二十八日肝煎となり、寛保元年八月二十七日御転任を謝する御使松平肥後守容貞に随って京師に赴き、十月七日参内し禁裏より國俊の御太刀を給い、二十七日少将に進む。延享二年三月二十六日紅葉山に於いて法華八講が行われる時、其事に預ったことで時服三領を給い、七月二十二日資親撰らばれて京師への御使いを務めるにより金三百両を恩賜せられる。四年十一月二十二日病に依り務(つとめ)を辞することを請うと雖ども許されず。寛延元年十二月十日再び務を辞すと雖ども恩命ありて許されず。

  三年五月二十二日卒。享年七十 法名日明 谷中の大円寺に葬る。

  後代々葬地とする。 妻は酒井隠岐守重英の養女。

資祐 初め資顕 滋丸 要人 土佐守 壹岐守 侍従従五位下 従四位下

   従四位上 母は重英の養女

享保十四年九月二十八日始めて有徳院殿に拝謁し表高家に列す。時に  十五歳。延享四年三月九日より父の務を見習い、七月二十九日従五位下侍従に叙任し土佐守に改める。寛延元年十二月十日高家に列し、三年八月三日遺跡を継ぐ。宝暦元年七月晦日有徳院殿の御贈官(朝廷から官位を授かること)を謝する御使を承って京師に赴き、八年七月十八日若宮降誕を賀せられるため御使となって洛(京都)に至り、九月九日従四位下に昇る。十二年桃園院崩御あって法会が行われるため、七月二十五日仰せを承って京師に赴く。明和三年孝恭院殿(十代将軍家治のこと)が元服されるため、仰せを受けて日光山に至る。四年九月朔日肝煎となり、五年正月十五日立坊宣下により松平下総守忠刻に随って京師に上り、三月六日参内し禁裏より正恒の御太刀を給い、四月九日従四位上に昇る。 

安永五年三月二十日卒。享年六十二 法名日桂

妻は加藤和泉守嘉矩の養女

は資親長女なり 松下肥前守之郷の妻なり。

資倍 初め則種 亀八 主膳 要人 実は赤松左膳恭富の二男 資祐の養子と なって其の娘を妻とする。

   宝暦九年五月十五日始めて惇信院殿(九代将軍家重のこと)に謁え奉り、

   安永二年五月三日父に先立って死す。享年三十四 妻は資祐の養女

   は実は豊岡三位光全の娘。資祐に養われて資倍の妻となる。

資武 滋太郎 母は資祐の養女

  安永五年六月七日祖父の遺跡を継ぐ。 八月二十二日始めて浚明院殿(十代将軍家治のこと)に拝謁する。天明七年八月九日死す。

  享年二十八 法名日泰 

  妻は森彦右衛門頼郷の娘

資始は資倍の二男 要人 兄資武の養子となる 

資倍長女 武田安藝守信明の妻となる 

資倍二女 大岡伊織直昌の妻となるが離婚の後、林百助信影に再嫁す         

資始 鎌次郎 要人 実は資倍の二男 母は資祐の養女 資武の嗣子となる。

   天明七年十一月七日遺跡を継ぐ。十二月二十三日始めて文恭院(十一代将軍家斉のこと)に謁え奉る。 

   寛政五年十月二十五日死す。享年二十九 法名日眞 

   妻は倉橋三左衛門の娘

資摸 滋丸 大内蔵 母は久雄の娘

   寛政五年十二月七日遺跡を継ぐ。時に二歳

   文化四年六月四日始めて文恭院に謁え奉る。

   嘉永六年二月十日死す。享年六十二 法名日昌 妻は戸田中務氏貞の娘

資珍は資始の二男なり。字(あざ)は大之進。畠山久麿基永の養子となる。      

資和は資始の三男なり。字は直三郎。大澤兵庫助基恭の養子となる。

資寧 滋丸 要人 内記 母は日野大学の娘

   嘉永六年四月五日遺跡を継ぐ。 五月二日始めて慎徳院(十二代将軍家慶のこと)に謁え奉る。

   文久二年十月勅使の三条右少将の応接方を仰せ承る。 三年三月四日将軍家(十四代将軍家茂のこと)の御上洛に随って、御先供奉の列に加わる。

  資経は資摸の二男なり。字は進次郎。 夭折 法名幻夢童子

  資大は資摸の三男なり。字は三右衛門 安政七年二月朔日別家を立てることを許され、万延元年三月二十六日仰せを承って、越後国の出雲崎御支配(出雲崎の天領のことか)に赴く。

  妹は戸田中務家に嫁す。

元治甲子

長澤内記藤原資寧謹書