ノート:門徒物知らず/過去ログ1
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保護が必要な理由と依頼の種類。--210.147.5.196 2007年11月1日 (木) 10:50 (UTC)
- ウィキペディアは百科事典であり、中立的な表現を用いるべきである。
- 「門徒物しらず」という言葉の語源、またそれに伴う意味(浄土真宗と他宗との教義上の違いなど)を中立的な立場で記述するべきである。
- 他宗ではこのように考えるから、浄土真宗の教義は間違いであるとの記述は、中立性に欠く。
→しかし、浄土真宗大谷派の解釈以外は全て消去されている。しかも、現在、その主張のみが表示されているのは甚だ遺憾である。そもそも、「門徒物知らず」とは、文字通り、「浄土真宗の開祖親鸞とその信者は、仏教の伝統・作法に関する知識が著しく欠如している」という言葉から生じた表現である。
- 阿弥陀如来の「四十八願」が説かれている経典は、『仏説阿弥陀経』ではなく、『仏説無量寿経』である。
- 出展の明記の依頼にともない、出展を明記したにも関わらず記述を削除されていた。
- その根拠となる記述の出展を削除した上で、削除する根拠を挙げずに(もしくは、あいまいな表現で)非中立的な記述に変更される為。
- 浄土真宗と他宗派との差異に、加筆するのであれば、浄土真宗の教義と、その教義に対して他宗から見るとどのように容認できないかを、根拠・出展を明記すべきである。霊魂が存在する事を臨死体験をした者は知っているでは、百科事典として不十分な根拠と考えられる。
- 以上の理由により、保護の依頼をします。
保護依頼中です。ノートにて議論に参加してください。
[編集]--Resto1578 2007年11月1日 (木) 15:52 (UTC)
- 保護依頼中です。まずは、ノートにて議論してください。
保護依頼中です。ノートにて議論に参加してください。
[編集]- 誤りのある記述を訂正・削除。その理由。
- 参考文献を、参考文献(大谷派)と変更しているが、著者の野々村智剣師は、浄土真宗本願寺派祐光寺住職で龍谷大学文学部大学院修士課程を修了されている。ただし、参考文献の内容については、本願寺派、大谷派などの特別に区別せず、真宗各派の門徒が知識を深める上で有効と思われる内容・文面である。 岩波文庫『浄土三部経(上)』 岩波書店も同様に、大谷派専用と限られた本では無い。
- 「両本願寺の所在地は…言われている。」の追記は、本ページ『門徒物知らず』の内容や、見出し「薄れゆく浄土真宗独自の教義 」に関係の無い記述と思われます。この記述は、『浄土真宗』もしくは、『本願寺』に記述するべきかと思います。そもそもこのページは、保護依頼中です。まずは、ノートにて議論しましょう。
- 仏説無量寿経と悪人正機説の項に、「親鸞が意図的に無視したとの見解は誤りであるとする考えもある(大谷派)が、一方で、他宗では「唯除五逆 誹謗正法」が削除されていない無量寿経を用いている。」 とあるが、一般的に真宗各派で用いる康僧鎧訳の仏説無量寿経は、「唯除五逆 誹謗正法」の文が削除されてはいない。曇鸞以下親鸞までの浄土教の僧たちにより釈されていった。「法華経」においても各宗で、解釈が違うのと同じ事である。削除されている文献を、投稿者211.2.45.137さんがご存知ならば、その文献をノートにて記載の上、記述の修正をしてください。
- 浄土教諸宗においても、浄土三部経の解釈は異なりがある事も事実であり、どの宗旨の解釈が正しいかは、個人的な考えによる物であり、このページに記載するのは、中立的ではないと考えられる。
- 関連性が無いと考えられる記述。
- 「なお、大谷派の在家勧業集(真宗大谷派・勤行集と思われる。)からは、正信偈は収録されているが、無量寿経、観無量寿経は収録されていない。」の記述も本ページ『門徒物しらず』との関連性が見られない。もし、関連性があると思われるのであれば、ノートにて議論してください。
- 当然、在家勤行集なので、朝夕の報恩謝徳の為の本山が制定したお勤め用の勤行本である。(正信偈⇒念仏和讃⇒回向⇒御文)が、一般的なお勤めの仕方である。一般的に浄土真宗では、経は法要時などに読まれる。(個人的に、阿弥陀経などを勤めても別に問題はないですが。)
- 「しかし、天台宗の立場としては、浄土真宗はその一部の教えを継承しているに過ぎない、という立場を取っている。(朝に題目、夕に念仏)」の記述に関して、根拠となる文献を挙げてください。(法然上人・親鸞聖人は、当然叡山で修行された方々ですから、天台の作法の影響を受けているとは考えられますが。)
- 日蓮は、「立証安国論」(←『立正安国論』でしょうか?)の冒頭部分で、法然に始まる選択の思想が、仏教の骨抜きを意味し、さらに、親鸞による阿弥陀如来48願の十八番の部分的削除(悪人は除外するという但し書き)による悪人正機説が世の中の堕落を招いている、と厳しく批判している。この項も、冒頭部分という表現のみで、「」がきで引用文がなければ、中立的な第三者が見た場合、辞典として相応しくない記述と考えます。
- 『立正安国論』のその冒頭部分は、「然る間、或は利剣即是之文(善導の『般舟讃』の一文)を専らにして西土教主(阿弥陀如来=「南無阿弥陀仏」)之名を唱え」との一文よりかと思いますが、これは日蓮が浄土教全般を否定しているに過ぎず、前記の記述(斜体強調した部分)には正当性・中立性が無く、本ページ『門徒物知らず』の項目にも適さないと考えます。また『立正安国論』は、浄土教を否定した文の後で、「或は衆病悉除之願を恃みて東方如来(薬師如来)之経を誦し・・・」に続く文で、天台宗の教えを非難し、『般若心経』の元となる『般若経』をも否定し、つづいて真言密教・禅宗の教えも同時に否定している論と考えますがどうでしょうか?
前記の記述(斜体強調した部分)は、親鸞批判のみの文章としてしか受け取れず、辞典としての中立性を著しく欠いています。
- 「※この項の著者の一部は、wikipediaの思想を尊重し、こうした批判の抹殺は控えるべきである。」と投稿者211.2.45.137は主張してますが、このページは保護依頼中です。まずは、ノートにて議論をすべきと考えます。「批判の抹殺」と言う記述も「中立的な表現」とは、考えられません。wikipediaの思想を尊重と主張しているのですから、Wikipedia:ウィキケットを守ってください。
- そもそも、wikipediaにおける本ページ『門徒物知らず』は、どの宗旨が正しいかどうかを述べる場では無く、『門徒物知らず』とはどのような事か、また、その原因となる相違点を記述しているページの筈です。批判的記述は、良いと思いますが、根拠となる文献・引用文をあげてください。そうしないと、個人的な他宗への批判でしかありません。あくまでも辞典的な表現にすぺきと考えます。個人的に善導⇒法然⇒親鸞の浄土教を批判する考えを持つのは自由だと考えます。また、日蓮系の諸宗派が、その教えを正しいと考え、教義上他宗の教義を批判する事が推奨されているのであれば、それも自由だと考えます。ただ、wikipedia上で記述する場合は、一定のマナー「保護依頼中は、ノートにて議論の上、記述する。」「根拠となる文献・引用文の明記を、依頼されたら、それを追加記載する」「中立的な表現」などを守るべきと考えます。
保護依頼中です。まずはノートにて議論に参加してください。 --Resto1578 2007年11月3日 (土) 17:12 (UTC)
投稿者211.2.46.49さんの記述内容は、「分骨」の詳細な解説文であり異論はありませんが、保護依頼中のページなので、ノートに記述の説明を記載された上で編集していただきたいです。
--Resto1578 2007年11月3日 (土) 17:12 (UTC)
出典の明記をしてください。
[編集]- 般若心経
- :浄土真宗では、般若心経を禁止している。般若心経は自力の要素があるため、絶対他力を標榜する浄土真宗では受け入れられない。しかし、般若心経は仏教の根本原理である。このため、「浄土真宗」はもはや「仏教」ではなく「親鸞教」であると考える者も少なくない。と記述の編集を改訂していますが、「浄土真宗と他宗派との差異」の項目なので、記述は「浄土真宗では、こうであるが、他宗(もしくは○○宗では)このように考える。」と中立的な表現をもちいるべきではないでしょうか?「考える物も少なくない」の表現は、中立性に欠く表現と考えられます。Wikipedia:言葉を濁さないを参照してください。
そもそも、 保護依頼中です。編集合戦になっています。ノートによる議論を望みます。 --Resto1578 2007年11月3日 (土) 17:37 (UTC)
「骨仏」の項目を編集しました。
[編集]「浄土真宗では、こうであるが、他宗(もしくは○○宗では)このように考える。」の私の見解から、編集しました。 「浄土真宗の一部では、」とは何派でしょうか、追記をしてください。 「骨仏」の意味の解説、もしくは、「骨仏」のページが無いので、誰か編集してください。 --Resto1578 2007年11月3日 (土) 17:43 (UTC)
高田派の一部は骨仏を作っている。(般若心経推進者)
般若心経の項に加筆。
[編集]般若心経を唱えない、主な宗旨は日蓮宗・法華宗などもある。(出典 Wikipedia 般若心経(日本における般若心経)--Backflip 2007年11月3日 (土) 19:55 (UTC)
個人的な意見ですか?
[編集]ログインユーザー211.2.43.10さんの「しかし、天台宗が浄土真宗の教義や習慣を是認した訳ではない。」の加筆について、天台宗が公式見解を発表したのでしょうか?その出典を明記すべきと思います。 記述の追記をするのであれば、まずノートにて議論すべきです。Wikipedia:ウィキケットを参照してください。--Resto1578 2007年11月4日 (日) 09:54 (UTC)
浄土真宗は、釈尊に対して崇拝はするが、礼拝の対象とはしない。
[編集]ログインユーザー211.2.43.10さんの「※注:「仏教」の創始者である釈迦牟尼如来(釈迦如来)さえも崇拝の対象ではない。もはや仏教ではなく「親鸞教」であると指摘されることの一因である。」の記述について。
- 浄土真宗において、「釈迦牟尼如来」に対して、崇拝します。(崇拝の定義:崇拝とは、あがめうやまうこと。)浄土真宗の教義は、「釈迦牟尼如来」を礼拝の対象とはしません。(礼拝の定義:敬っておがむこと。恭敬の心をもって合掌したりしておがむこと。)阿弥陀如来の救済を、教え説いてくださった事を、親鸞聖人は『正信偈』の中で「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」と称えています。ゆえに、この追記は、誤りであり削除される対象と考えます。実際に本山の山門の楼閣には、報恩謝徳の為に釈迦牟尼如来が祀られています。
- この『正信偈』の文・親鸞の解釈に対しては、他宗から批判の意見もあると思います。その場合は、○○宗では『○○』という文献の中で、浄土真宗の教義・親鸞の考え方に「・・・・」と批判している。の様に反対意見を記述してみてはいかがでしょうか。Wikipediaは、個人的な感情・意見を記入する場ではないはずです。
- 「もはや仏教ではなく「親鸞教」であると指摘されることの一因である。」との記述は、まず中立的な表現ではないと考えます。個人的な記述ではないのであれば、出典の明記をしてください。浄土真宗(浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・真宗高田派・真宗佛光寺派・真宗興正派・真宗木辺派)は、財団法人 全日本仏教協会の加盟団体であり、一般的に考えても仏教の諸宗の一つと考えられています。(この協会には、天台宗諸派・真言宗諸派・浄土宗諸派・禅宗諸派・日蓮宗諸派その他、多くの仏教諸宗派が加盟しています。)ゆえに、「仏教ではなく」の表現は不適切だと考えます。
- 個人的な意見による「親鸞教」との表現は、阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗信者に不快感を与える記述だと思います。Wikipedia:ウィキケットに、反していると考えます。--Resto1578 2007年11月4日 (日) 10:30 (UTC)
- 追記する前に、ノートにて議論をするべきだと思います。--Resto1578 2007年11月4日 (日) 10:30 (UTC)
「門徒もの知らず」の語源が「門徒物忌み知らず」という説に関して
[編集]- この項目は、「門徒もの知らず」という言葉に関する項目です。その言葉が「門徒物忌み知らず」の誤伝であるという根拠はありません。ソースとして書かれた蓮如上人の言葉は、門徒が物忌みをしないことの根拠にすぎず、物忌みをしないことに関してはソースを示すまでもなく、一般に広く知られていることです。
- 物忌みは日常的に行われることではありませんから、門徒が物忌みをしないことから「門徒物忌み知らず」と広く言われるようになるとは考えにくく、むしろ真宗門徒の特徴として一般に知られている、阿弥陀仏一仏に帰依をして他の神仏を顧みることなく、世間で行われているさまざまな神仏に関する行事や習俗に関心を持たない態度を、他宗の視点から「もの知らず」と揶揄したことから、諺として言われるようになったものであると考えられます。この項目の続く他宗との違いの説明を見ても、他宗からは「もの知らず」と考えられる、様々な真宗門徒の特徴が浮かび上がります。そのなかに物忌みをしないことは含まれます。
- 言葉の起こりを考えた場合に、実際の言葉の使われ方を古い文献などで調べて、その用例とともに示す国語辞典の説明を見てもわかるように、「門徒もの知らず」は古くから言われている例が、諺集や歌舞伎の例にも見られますが、「門徒物忌み知らず」という表現が使われた例はありません。「門徒もの知らず」が「門徒物忌み知らず」の誤伝であると言うためには、「門徒もの知らず」より時代の古い「門徒物忌み知らず」の表記例を示す必要があります。ちなみに、小学館『日本国語大辞典』には、「門徒もの知らず」の文献例として、1786の譬喩尽の例、1857初演の歌舞伎、鼠小紋東君新形に出てくる例が示してあります。それより古い「物忌み知らず」の文献例がなければ、「もの知らず」の前に「物忌み知らず」という言語表現が存在したという説は間違いということになります。
- 「門徒物忌み知らず」の誤伝であるという説は、お説教などでよく聞き、本やネットにも書かれている例を近年よく見るようになりましたが、疑問に思ってその根拠をお聞きしたところ、みなさん伝聞であるとのことで、誰ひとりとして根拠を答えられるかたはおられませんでした。誤りを認めて次の版からは訂正するとおっしゃる先生もおられました。根拠も確かめずに安易に引用をすることは、ネット時代だからこそ注意しなければなりません。
- 蓮如上人の例は、物忌みをしないことの根拠としては認められますが、「門徒物忌み知らず」という表現が存在したという根拠とはならず、この項目のソースとはなりません。
- 「門徒もの知らず」は、物忌みだけではなく、真宗門徒のもっとひろい生活態度を示していますので、起源を物忌みに限定すると、その多様な意味が失われます。--Dejavu 2007年11月6日 (火) 08:23 (UTC)
あえて、削除の必要性があるとは思えませんが。
[編集]Dejavuさんの意見に対して。 「門徒物忌み知らず」という言葉は、他説として述べているのであって、このページの冒頭部分に記述してある一般的な定義を削除している訳ではないと考えます。「説」という言葉の定義は、「説かれた考え」との意味を有しているので、「浄土真宗の法話などでこのような説が用いられている」の説明はあっても問題ないと思われますが。実際にネットでも検索すればヒットする言葉であるのであれば、あえて否定・削除しなければいけないものでしょうか?もし、このページに相応しくないと考えるのであれば、「門徒、物忌み知らず」を別のページに新しく記述して、本ページに関連項目として載せたほうがいいのでしょうか?--Resto1578 2007年11月6日 (火) 12:04 (UTC)
- 他説として掲載することには反対はしません。実際にその説は存在しますから。しかし、それは、根拠のない説であることも明示する必要があります。「門徒もの知らず」の前に「門徒物忌み知らず」という言語表現が存在し、それが誤って伝えられて「門徒もの知らず」になったという説としては、まったく根拠がないからです。物忌みをしないという蓮如上人の言葉は、もっと後に出てくる、他宗との違いのなかで、物忌みをしないことのソースとして登場すべきものです。私が問題にしたのは、「物忌み知らず」という言葉のソースとして蓮如上人の文を掲載された点で、物忌みをしないことの根拠であって、言葉の根拠ではないということです。
- 他説として、「門徒もの知らず」は「門徒物忌み知らず」という言葉が誤って伝えられたものであるという説があるが、「もの知らず」より前に「物忌み知らず」という言葉が存在した例はなく、根拠のない説である。というのが正確な説明だと思います。物忌みをしないことは、他宗派との違いのところで述べるべきでしょう。--Dejavu 2007年11月6日 (火) 12:37 (UTC)
まずはDejavuさん、議論に参加くださり、ありがとうございます。私としては、「門徒物知らず」の言葉も禅宗など法要の法話などで用いられはじめた言葉であり、この言葉自体もいつ頃初めて用いられたという根拠を明示するのも不可能かと考えます。「門徒物忌み知らず」の根拠として、御文(御文章)を引き合いに出して、実際の浄土真宗の法話など用いられています。また、こちらの方も御指摘の通り、いつ頃から用いられたと特定するのも不可能と考えます。しかしDejavuさんの言われる根拠の無い説とまでは、断言出来ないと思いますが…。そこで、以下のような記述はいかがでしょうか?ただ、「門徒物知らず」「門徒物忌み知らず」ともに、いつ頃から用いられはじめたかを明示する必要性があるのでしょうか?あくまで、一般に用いられる説明に、他説として追記しただけの事と考えますが。「その謂れは」の表現には、一考すべきと思います。
- その他の説として、「門徒、物忌み知らず」起源説がある。(この説は、浄土真宗における口伝であり、確証となる文章などは存在しない。)
- 浄土真宗では法話などで、「本来は「門徒、物忌み知らず」であったが、その言葉が「門徒物知らず」という揶揄される意味の言葉になった」という説を法要などで用いる場合がある。、『御文(御文章)』の第一帖の第九通に「つぎに、物忌(ぶっき)ということは、わが流には仏法についてものいまわぬといえることなり。」の一文を根拠として用いられていると考えられる。
- 蓮如上人はその一文に続けて、「他宗にも公方にも対しては、などか物をいまざらんや。他宗他門に向かいては、もとよりいむべきこと勿論なり。また、よそのひとの物いむといいてそしることあるべからず。」と、自分が物を忌まなくとも、他宗の人を(物を忌むからといって)馬鹿にしたり非難したりしてはいけないと誡めている。つまり門徒に、他宗の教義を否定する事を禁じている。
- 物を忌まわぬ根拠として、『涅槃経』や『般舟経』の一文をあげている。 浄土真宗は、聞法(教えを聞く事)を非常に重視する宗風であるので、法話などで「他宗ではこのような仏事(施餓鬼など)が行われているが、真宗ではなぜしないのか。」というように教えられているので、他宗の作法を知らない訳ではない。(近年では都市部を中心にして無宗教化が進み、法話を聞きに行く門徒が減少しつつある。)--Resto1578 2007年11月6日 (火) 13:55 (UTC)
- 「門徒もの知らず」は、多くの実際の使用例が文献にも確認されており、1786年の文献もあります。それだけの文献的な根拠のあるものに対して、それ以前に「門徒物忌み知らず」という言語表現が存在して、その「誤伝」すなわち「誤り」であるという説を出すならば、それだけの根拠が示されなければなりません。それが、誰ひとりとして文献の実例を示すことができないということは、学術的に客観的な判断をすれば根拠のない俗説ということになります。「門徒もの知らず、禅宗銭なし、法華骨なし、浄土情なし」という各宗派を揶揄する言葉の存在も確認されており、一般に広まっていた表現であることは確かです。「門徒もの知らず」は、土地の習俗との関わりのなかで自然に生まれてきた諺であり、禅宗の法話でこのような表現が使われるというのは変です。
- それに、蓮如上人の文は、「門徒が物忌みをしない」という事実に対する根拠にはなりえても、「門徒もの知らず」に先行して「門徒物忌み知らず」という言語表現が存在したという根拠にはなりません。「もの知らず」の方は、根拠となるべき文献の例が多く存在することから客観的に判断すれば、やはり「門徒もの知らず」の語源とするには無理があります。
- すでに、法話などで誤った知識が確認もされずに安易に引用されていることを考えれば、根拠のない話は根拠がないと明示すれば十分で、間違った情報に対して根拠をつける意味はありません。かえって誤解を生みます。門徒が物忌みをしないということを示したいのなら、語源に関する説明とは別のところにお願いします。
- 真宗における口伝というのも変です。他力本願とは他人まかせのことであるという説が口伝であるとして、その根拠を明示することがおかしいのと同じです。根拠のない誤った説をこれ以上ひろめる必要はありません。それによって、「門徒もの知らず」という言葉の持つ、幅広い多様な意味が失われます。--Dejavu 2007年11月6日 (火) 16:52 (UTC)
すこし攻撃的な議論になり始めましたね…。
[編集]私としては、誹謗中傷の類の記述で無いのであれば、建設的な議論を望みます。
- Dejavuさんも、今現在では明示されてはいません。「もの知らず」の方は、根拠となるべき文献の例が多く存在する。これでは、明示したことにはならないと思います。1786年の文献の方も、著者、書名を教えてください。「1786年の文献」だけでは、根拠にあたらないと思います。歌舞伎の例との言葉が前述されていますが、それについても教えてください。
- 「他力本願とは他人まかせのことであるという説が口伝であるとして…」これは、明らかに「他力本願」について本来の意味が誤って定着した例であり、ここで議論のたとえに出すのは無理があると考えます。「根拠の無い誤った説をこれ以上ひろめる必要は無い」と言う理論は、「門徒物知らず」自体が、他宗で浄土真宗を揶揄する為に根拠無く(他宗信徒が外面だけを見て)用いられた言葉であり、(信仰心の厚い〈聞法に通う〉)門徒が、「なぜ阿弥陀仏、一仏のみ頼むのか(『御文(御文章)』に明記されている。)」、「なぜ位牌を用いない」とか、「施餓鬼を行わない理由」とかは、知った上でその事を行わないのが事実です。
- 「門徒物知らず」の方が先という根拠も明示されていない現在の状況では、「「もの知らず」より前に「物忌み知らず」という言葉が存在した例はなく、根拠のない説である。」は、中立性に欠く表現と考えます。
「誤伝」という表現が、Dejavuさんは気になるのでしょうか?攻撃的な議論は中断して、建設的な議論をしませんか?
- まず「他説として、浄土真宗では俗説や迷信に囚われないという教義により、本来は「門徒、物忌み知らず」であったが、その言葉が「門徒物知らず」という揶揄される意味の言葉になったという説もある。」という記述に問題がありそうですね。この表現を他説としない方が良さそうですね。
- やはり「門徒、物忌み知らず」以降、「門徒が減少しつつある。)」を削除した上で、「門徒物忌み知らず」のページを新規に作ったほうが良さそうですね。
- 門徒物忌み知らず
- 「門徒物忌み知らず」とは、浄土真宗の教義において迷信・俗習と考える作法は行わなず、その教えを守る姿勢を表す言葉。浄土真宗の法話などで用いられる。
- 蓮如上人の『御文(御文章)』の第一帖の第九通に「つぎに、物忌(ぶっき)ということは、わが流には仏法についてものいまわぬといえることなり。」の一文より、法要の法話などで用いられるようになったと考えられる。
- しかし蓮如上人は続けて、「他宗にも公方にも対しては、などか物をいまざらんや。他宗他門に向かいては、もとよりいむべきこと勿論なり。また、よそのひとの物いむといいてそしることあるべからず。」と、自分が物を忌まなくとも、他宗の人を(物を忌むからといって)馬鹿にしたり非難したりしてはいけないと誡めている。つまり門徒に、他宗の教義を否定する事を禁じている。
- 物を忌まわぬ根拠として、『涅槃経』や『般舟経』の一文をあげている。
- 浄土真宗は、聞法(教えを聞く事)を非常に重視する宗風であり、法話などで「他宗ではこのような仏事が行われているが、真宗ではなぜしないのか」というように教えられているので、他宗の作法を知らない訳ではない。(近年では都市部を中心に法話を聞きに行く門徒が減少しつつあり、浄土真宗の教義を知らない、「浄土真宗は、仏事が少なく楽である」と考える門徒が増え、まさしく「門徒物知らず」になりつつある。)
- 浄土真宗と他宗派との差異については、門徒物知らずを参照。
- この様な記述で「門徒物忌み知らず」を別のページに新しく記述して、本ページに関連項目として載せたほうが良いのではないでしょうか?--Resto1578 2007年11月6日 (火) 20:08 (UTC)
- 「門徒もの知らず」が先に存在したということは文献を示して明示しました。上で指摘されている1786年の文献や歌舞伎の用例は、その上(11月6日8:23)に明示してあります。何度も言いますが、ここでの議論は、「門徒物忌み知らず」という言語表現が、「門徒もの知らず」より先に存在していて、「門徒物忌み知らず」から誤って伝わったものが「門徒もの知らず」だという俗説の根拠のことです。「根拠がない」という表現にしていますが、実際にはそういう事実はないと考えられます。それを本に書かれている先生方も、根拠がなかった間違いだったと認めておられることです。「物忌み知らず」が説教で言われてそれが「もの知らず」と誤解されたというのは推測にすぎず、まったく根拠がありません。
- その俗説が近年によく見られるようになったのは事実です。おそらく「門徒もの知らず」が真宗門徒に対する非難であると考え、それに対して言い訳のように考えられお説教などで誰かが言い出したのが、伝聞で広まったものであると考えられます。しかし、「門徒もの知らず」は他宗からは揶揄の言葉ではあっても、真宗門徒の立場からは、土地の習俗や迷信など不必要な知識ならば、知らなくてもかまわないと、自ら「もの知らずですから」と門徒が使う例もよく見られます。葬儀などで、他宗の親類とかが、何々をしなくてはならないと言い出しても、その場で言い争うよりは、「門徒もの知らずですから」と言って、その指示を穏やかに断ることができます。神仏を拝む土地の習俗を行わない時にも、その言葉ですみます。いわば、生活の知恵として真宗門徒がうまく利用してきたのが「門徒もの知らず」であり、門徒自身は、不必要な知識はいらない、私たちは阿弥陀さんの本願におまかせをしているのだからと、その言葉にプライドをもって使ってきました。それが、国語辞典などに言葉の実際の用例として示されている「門徒宗徒がひたすら弥陀みだばかりを頼んで他を顧みないのをあざけっていう語。」(広辞苑)に見られる定義として示されている内容です。他の辞書を調べて見られても、ほぼ同じ表現です。
- 諺というのは、一般の人の考え方に合ったからこそ広まったものです。その中に真宗門徒の特徴が現れています。江戸時代の文献、太宰春台の『聖学問答』には 「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専らにして他の仏神を信ぜず、いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても呪術・お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」とあり、門徒が「物忌み」というような限られた事象だけで特徴を判断されたのではなく、この項目の下の方に見られる、様々な真宗門徒の特徴で判断されたわけですから、物忌みに限定することは、真宗門徒の全体像の理解を誤らせるものです。
- 「門徒もの知らず」の文献は1786年の『譬喩尽』と1857年初演の歌舞伎「鼠小紋東君新形」を示しました。一方「門徒物忌み知らず」は、まったく用例がありません。説教なら、江戸時代にも説教本が多く出ていますから、本当に「門徒物忌み知らず」というような言語表現が使われたのなら用例があるはずです。(門徒が物忌みをしないことを語ったと言うことではなく「門徒物忌み知らず」という決まり文句が存在したかという意味です。)ですから、現時点ではその説は、根拠のない説だと表記するしかありません。また、根拠のない説に対して、その根拠と誤解するような蓮如上人の文も、語源を論じるこの場所で示すべきではありません。
- 「物忌み知らず」語源説は、実際に存在する説ですから、これをここに示すことは問題ありません。ただし、その語源説は誤りであり、その根拠がないこともきちんと明示するべきです。実際にも「門徒物忌み知らず」という決まり文句が、独立して使われることはなく、あくまでも、「門徒もの知らず」が「門徒物忌み知らず」からの誤伝だという説として言われていますから、これ以上に誤解をまねかないように「門徒物忌み知らず」という表現を別項目で掲載する必要もありません。
- 蓮如上人の文は、門徒が物忌みをしないことの根拠です。物忌みをしないことは、真宗門徒の大切な特徴のひとつですから、後に出てくる真宗門徒の他宗との違いのなかで、物忌みをしないことを示し、そこに説明すべきものです。ただし、そこに「門徒物忌み知らず」というような表現は使うべきではありません。言語表現の問題と、事実とを混同すべきではありません。--Dejavu 2007年11月7日 (水) 02:28 (UTC)
- そこで提案ですが、正確で中立的な記述としては確認されていることに基づいて、
*「門徒物忌み知らず」
- 他説として、「門徒物知らず」は、本来「門徒物忌み知らず」であったものが、誤って「門徒物知らず」と伝えられるようになったという説があり、お説教などで語られることがある。しかし、「門徒物知らず」に先行して「門徒物忌み知らず」という言葉が存在していた例はなく、一般にも真宗門徒の特徴としては物忌みをしないだけではなく、阿弥陀仏一仏に帰依をして他の神仏を顧みることのないことが知られており、そのような門徒の姿に接するなかで他宗からは、物知らずと揶揄されるようになったものが「門徒物知らず」という言葉だと考えられる。ただし真宗門徒自身は、習俗や迷信など不必要な知識は知らなくてもよいと考えている面がある。
- そして、他宗との違いが列挙される下の記述のなかに「物忌み」という項目をもうけ、そこに門徒が物忌みをしないことの説明と、蓮如上人の文を引用してはいかがでしょうか。ただし、誤解をさけるために、そこには「門徒物忌み知らず」という言葉は入れません。
- 事実に基づく客観的な記述とすれば、こんなところではないでしょうか。--Dejavu 2007年11月7日 (水) 14:18 (UTC)
明示されていたんですね。失礼しました。
[編集]ただ、ノートページを過去に記述した部分を編集されるとノートページの履歴は見ていないので気づきません。なので、せっかく明示されても見逃してしまいます。誤字の訂正など以外では、会話形式(進行形)でお願いします。
- 「ただし真宗門徒自身は、習俗や迷信など不必要な知識は知らなくてもよいと考えている面がある。」との記述は中立的とは私は考えません。真宗寺院の法話や、真宗の入門書などで「なぜ、施餓鬼を行わないのか」「なぜ入仏法要ではなく、御移徙法要と呼ぶのか」など、説かれていて、門徒に他宗の知識は不要とは聞いた事がありません。不要と説く僧侶もいるかと考えますが、「知らなくてもよいと考えている面がある。」の記述は、あいまいな表現(Wikipedia:言葉を濁さない)であると、私は考えます。
- 「物忌み」という項目を、このページに追記する事には反対です。内容が重複すると思います。
- 「別項目で掲載する必要もありません。」とDejavuさんは断言しますが、ここはWikipediaです。私は別項目で掲載する必要があると考えます。「門徒物忌み知らず」とネットで検索をかけた人が、Wikiの「門徒物忌み知らず」をヒットして、辞典として(あくまでWikipediaとしてですが)活用される事があると考えます。なので、とりあえずリダイレクトを解除して、別項目で掲載しました。もちろん、Dejavuさんの意見も取り入れてあります。(少し語尾をゆるめましたが。)
- また、御意見を頂けると幸いです。--Resto1578 2007年11月7日 (水) 17:27 (UTC)
IPユーザー211.2.43.10の以下の記述に関しても、Dejavuさんの意見を聞きたいです。
- 「※注:「仏教」の創始者である釈迦牟尼如来(釈迦如来)さえも崇拝の対象ではない。もはや仏教ではなく「親鸞教」であると指摘されることの一因である。」
- 「しかし、天台宗が浄土真宗の教義や習慣を是認した訳ではない。」
私の意見は、このノートページに前述してあります。よろしくお願いします。--Resto1578 2007年11月7日 (水) 17:42 (UTC)
- 真宗門徒自身が知らなくてもよいと考えているのは、迷信や習俗のことで、他宗の知識とは書いてないと思います。何々の日には、何をしてはいけないとか、お盆の何日にはどこへ行って何をして、何をお供えするとか、そういった煩瑣な習俗に関わる儀礼に関しては、他宗はたいへんだけど、門徒は物知らずで楽でいい、阿弥陀さんを拝むだけでいいから、という話はよく聞きます。習俗という言葉が他宗の儀礼のことだと思わせるようなら、「迷信など不必要な知識」とすれば、その文で伝えたいことはより明確になると思います。実際にも、そういう趣旨で「門徒物知らず」で行こうという内容をネットに書かれておられるかたもおられますから、趣旨は伝わると思います。
- 「物忌み」という項目を別に追記する必要性は、この「物忌み語源説」自体が間違った情報ですので、さらに解説することは誤解を広げるもとなので、物忌み語源説の場所には物忌みの説明はせず、下の他宗との違いの項目としてきちんと説明すべきだからです。物忌みをしないことは、他宗とは異なり、重要な真宗門徒の特徴でもあるからです。
- 「門徒物知らず」は「門徒物忌み知らず」の誤伝であるというのは、比較的近年になってから言われ出したことです。お説教のネタとしては、広まっていますが、実際には「門徒物忌み知らず」という言葉だけでなく、むしろ「門徒物忌まず」であるとか、「門徒物忌みせず」という言葉の方が広く使われてきました。その事実ひとつをとっても、「門徒物忌み知らず」という言語表現が存在したわけではなく、思いこみの伝聞で語られてきたことがわかります。ネット社会になってから特に「物忌み知らず」として広がりましたが、今あらためて検索してみると、「だと言われている」「だそうですが」と、誰一人としてきちんと情報源を確かめないまま安易に引用を繰り返されていることがわかります。
- 私が危惧しているのは、真宗門徒が阿弥陀仏一仏に帰依をして、他の神仏を顧みない態度と一般に理解されている「門徒物知らず」を、本当は「門徒物忌み知らず」だとして(ほとんどのネットの記述はこの趣旨です)、「物忌み」ということだけに限定してしまうことです。「物忌み」という言葉は、現在一般にどういう意味で理解されるのかを考えてみれば、葬儀の後の一定の謹慎期間が主です。今から、そちらの方向に変えて行こうという最近の傾向は、むしろ真宗門徒の豊かな信仰生活の意味を失わせることにならないかと考えているわけです。少なくとも「物忌み」という言葉には、弥陀一仏を頼んで他の神仏を顧みないという意味はありません。現世利益を祈って観音を拝んだり、祈祷やまじないをしたり、様々な神仏を拝んだりすることのない真宗門徒の姿は、「物忌みをしない」という言葉で示せるものではありません。
- 「門徒物忌み知らず」がネットなどで使われているからという理由ならば、その項目をたてて、そこに「門徒物知らずの語源とされているが、根拠はなく近年に生まれた説だと考えられる」として、本来の言葉である「門徒物知らず」にリンクをはるといいと思います。「門徒物忌み知らず」という言葉は、あくまでも、「門徒物知らず」という一般によく知られている言葉が前提としてあり、その言葉の本来の意味が「門徒物忌み知らず」であるとの記述として出てくる言葉です。「門徒物忌み知らず」が法話で使われるとありますが、「門徒物知らず」とは関係なく「門徒物忌み知らず」という決まり文句を使うことがあるでしょうか。「門徒物忌み知らず」をあえて独立させてその意味の解説をすることは、誤った俗説に市民権を与えることになり、客観的で中立な扱いとは言えないと思います。検索をかければ、「門徒物知らず」のなかの「門徒物忌み知らず」が探せると思います。前後の文脈から独立させると思わぬ誤解を生むこともあります。「門徒物知らず」という一見揶揄のようで、実は真宗門徒の本質を示す言葉が、「物忌み」に限定されることで、長い歴史のなかではぐくまれてきた真宗門徒の多様で豊かな信仰生活の意味を失わせることを危惧しているわけです。したがって、「門徒物忌み知らず」の解説として書いた「物忌みだけでなく、真宗門徒のさまざまな・・・」という文が、「門徒物知らず」の解説に移動されたのも、不自然です。「門徒物知らず」と「門徒物忌み知らず」とは関係がないことが明らかになっていますから、「物知らず」の意味の代表のように「物忌み知らず」が書かれると、議論に逆行します。訂正をお願いします。
- 意見を求められた件ですが、真宗に反感を持つ他宗の方の書き込みでしょう。真宗のことをよくご存じでないからそういう言葉もでてくるのでしょうが、弥陀一仏に帰依をするといっても、礼拝や帰依の対象が阿弥陀仏だけだということで、無量寿経を説かれた釈尊は当然のこと尊崇の対象ですし、本願寺の行事として花祭りも行います。「仏教でない」というのは意図的な非難ですから、中立でも客観的でもありません。また、天台宗が是認という文言も意味がありません。天台宗と浄土真宗は異なった宗派ですから、認める認めないの問題ではなく、天台宗との関わりの記述もあれほどくわしく書く必要もないと考えています。--Dejavu 2007年11月8日 (木) 09:01 (UTC)
「門徒物知らず」という言葉の定義部分に関する提案
[編集]門徒物知らず(もんとものしらず)は、浄土真宗の信者(門徒)に対して他宗の信者が「世間で行われている仏教儀礼や習俗のことを知らない」と批判する際に使われる言葉。元来は「門徒もの知らず、法華骨なし、禅宗銭なし、浄土情なし」という各宗派を揶揄する地口の一句。「門徒物知らず」とは、阿弥陀仏一仏に帰依をして、他の神仏を顧みないために、土地の神仏に関わる儀礼や風習にも関心をもたず、死者儀礼などに関わる習俗にも従わない真宗門徒の姿を、他宗の立場から「物知らず」と揶揄するものである。しかし、他宗からは「物知らず」として揶揄される真宗門徒の特徴も、江戸時代の儒学者太宰春台が『聖学問答』で 「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専らにして他の仏神を信ぜず、いかなることありても祈祷などすることなく、病苦ありても呪術・お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」と書いているように、評価するむきもある。
- 「門徒物忌み知らず」
- 他説として、「門徒物知らず」は本来「門徒物忌み知らず」や「門徒物忌みせず」という言葉であったが、それが誤って伝えられたのが「門徒物知らず」であるという説が、浄土真宗の説教などで語られることがある。しかし、「門徒物知らず」より前に「門徒物忌み知らず」などの言葉が存在していたことはなく、近年になって「物知らず」に対抗する言葉として生み出されたと考えられる。物忌みをしないことは、真宗門徒の特徴の一つではあるが、「門徒物知らず」は、物忌みをしないことだけでなく、様々な真宗門徒独特のあり方を表した言葉である。
- 「門徒物知らず」という言葉が文献に見られる例としては、1786年の『譬喩尽』と1857年初演の歌舞伎「鼠小紋東君新形」が確認されている。出典、小学館『日本国語大辞典』
- (「門徒物忌み知らず」語源説のなかで説明として書かれていた、門徒が物忌みをしないことの説明は、「浄土真宗と他宗派との差異」のなかに新たな項目として以下のように記述する。)
物忌み 浄土真宗は、死を穢れととらえることはないので、物忌みをすることはない。葬儀に清め塩を用いないのもその理由からである。蓮如上人は『御文(御文章)』の第一帖の第九通に「つぎに、物忌(ぶっき)ということは、わが流には仏法についてものいまわぬといえることなり。」と言われ、浄土真宗が物忌みをしないことを示される。しかし、蓮如上人は続けて、「他宗にも公方にも対しては、などか物をいまざらんや。他宗他門に向かいては、もとよりいむべきこと勿論なり。また、よそのひとの物いむといいてそしることあるべからず。」と、自分が物を忌まなくとも、他宗の人を(物を忌むからといって)馬鹿にしたり非難したりしてはいけないと誡めている。つまり門徒に、他宗の教義を否定する事を禁じている。また、物を忌まわぬ根拠として『涅槃経』や『般舟経』の一文をあげ、念仏者だけでなく仏教徒は吉日を選んだりしないことが経典を根拠に示されている。 このように、真宗門徒としては仏教の教えに従っていると考える一方で、他宗派の人にとっては物知らずだということになり、軋轢が生まれることもある。
- 「門徒物知らず」の言葉の定義部分としては、以上でいかがでしょうか。--Dejavu 2007年11月12日 (月) 12:47 (UTC)
- 言語学的にも「ものいみしらず」が「ものしらず」に変化すると仮定すると、-onoimish- が -osh- と変化する必要がある。この変化が簡単に起こるとは考えにくい。本項目は、浄土真宗の立場に著しく偏した一部の著者により、「物忌み知らず」に話がすり替えられている。従って、「門徒物忌み知らず」の項目を分立し、本項目からリンクを張ることが妥当である。(般若心経推進者)
「門徒物知らず」の説明からは逸脱しています
[編集]Wikipediaの編集注意点に、「常に中立的な観点からの記述を行ってください。特定の観点に偏らないようにしてください。」とあるように、ここは「門徒物知らず」という言葉の意味を説明する場所で、特定の立場に立って真宗や真宗門徒の方法を批判する場所ではありません。2007年の年末からの編集は、その意味で本来の趣旨からは逸脱しています。
「門徒物知らず」という一般に使われる言葉に、京都の大谷本廟の祖壇納骨のあり方が含まれることはありません。限られた例を、諺として一般に長く使われてきた「門徒物知らず」に普遍化することは無理があります。 →しかし、祟り、物忌みを意識しないからこそ、大谷本廟の祖壇納骨や大谷祖廟の納骨が可能になるという見解もある。 従って、この主張にも偏りがあると考えられる。
また、特定の宗派の立場との違いを一つひとつ言及するならば、すべての宗派の立場を説明する必要がありますので、そのような説明も、「門徒物知らず」の説明からは逸脱するものです。もう少し、客観的に、中立な立場での記述をお願いします。新しく百科事典が編纂される時に、この項目のもとに、そのような記述がされるだろうかと考えれば常識的な線はわかると思います。特定の立場から真宗批判をされたいのなら、別の掲示板等でお願いします。--Dejavu 2008年1月5日 (土) 15:01 (UTC)
納骨に関して個人的な事情でもあるのでしょうか。中立的な観点からとは思えない、「門徒物知らず」という項目内容からは逸脱した編集がされていますが、正当な主張があるなら、まずここで議論をしてください。--Dejavu 2008年1月6日 (日) 16:35 (UTC)
永代供養という項目では、真宗には永代供養という概念がないことが説明されています。その意味で、説明としては「・・・法にふれる機縁である。」までで充分であり、それ以降に付け加えられた納骨に関する煩瑣な説明は項目内容から逸脱しており必要ないのではないでしょうか。また、「倶会一処」とは、往生した浄土で会うという意味であり、同じ墓にお骨を納めるという意味ではないはずです。永代供養という概念はないという趣旨にもかかわらず、永代供養墓という説明があったり、墓地の事情にくわしい人かもしれませんが、納骨に関する解説ならば、「門徒物知らず」の項目ではなく、「納骨」なりの項目で解説されてはいかがでしょうか。--Dejavu 2008年1月7日 (月) 03:55 (UTC)
「門徒物知らず」という言葉は、真宗門徒の特徴をあらわした言葉であり、習俗にこだわらないという点も顕著な特徴です。墓の形式や遺骨にこだわらない点も、民俗学において真宗門徒の特徴として示されています。墓をもたない地域があることも、真宗門徒の地域として研究対象となっています。東大谷や西大谷、真宗本廟への祖壇納骨等の煩瑣な情報は「門徒物知らず」の解説の趣旨からは逸脱しています。お控えください。--Dejavu 2008年1月12日 (土) 16:23 (UTC)
墓相などの特定の立場からの主張を盛り込もうとされることが、いつまでも続きますが、特定の立場からみて門徒の異なる点を批判するのは、客観的で中立な立場での記述ではありません。墓相などを信じて、霊魂の祟りがあると主張されるのなら、それにふさわしい項目で述べてください。ここは「門徒物知らず」に関する門徒の特徴を解説するところです。--Dejavu 2008年1月20日 (日) 04:57 (UTC)
→Hidekiyo様の主張は、「門徒物知らず」=「門徒物忌み知らず」という図式を前提としています。立正安国論だけではなく、浄土真宗の教義に対する他宗派の疑問は多々寄せられており、一方的に抹殺するのではなく、多数の見解の併記を認めるべきです。また、「祖壇納骨等の煩瑣な情報」と仰いますが、消費者契約法等の観点からも疑義があり、現在、私どもと致しましては、それに基づくしかるべき対応を検討中です。特に、自分の肉親の遺骨が不特定多数の方々と混ぜられるという事実を明示せずに納骨を行っていることは、重要事項の非表示にあり、少なくとも「非常に不親切」であることは事実です。ただし、「墓の形式や遺骨にこだわらない点も、・・・研究対象となっています」という点については同意します。ただ、何故こだわらないのか・・・については、「確信」ではなく「無知」が原因であると私どもは考えています。(般若心経推進者)
百科事典としてのWikipediaは、自由に意見や批判を書き込める掲示板とは異なり、客観的な記述がされる場所です。特定の立場からの批判を自由に述べることは、その主旨からは逸脱しています。また、門徒物知らずという言葉は、教義論争から生まれた言葉ではなく、土地の習俗や儀礼に関する理解の違いから生まれた言葉ですから、ここに教義論争を持ち込むことも内容として逸脱しています。宗派が異なれば、考え方が異なるのは当然です。祖壇納骨は、浄土真宗の門徒がその主旨を理解して行ってきた伝統あるもので、近年の無宗派や宗派を問わない一般の納骨堂とは異なります。不特定多数の人が、墓がわりに納骨堂として利用するものではなく、きちんと所属寺院も明記した真宗の人が納得して行っていることです。他の宗派の人が誤解に基づいて批判すべきものではないでしょう。その意見が正しいのなら、きちんと訴訟でも起こして司法の客観的な判断でもあおげばいかがでしょうか。Wikipediaで文句を言うべきものでもないでしょう。--Dejavu 2008年2月16日 (土) 14:42 (UTC)