ノート:陰流

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

統合提案

陰流を「影流・陰流」へ統合することを提案します。

理由は、「影流・陰流」のページ参照の通り、「影流」と「陰流」が同義であるためです。

この件に関する、賛否、ご意見、アドバイスの程、よろしくお願いいたします。

--Tukushiko 2008年6月8日 (日) 10:27 (UTC)[返信]

(反対)統合テンプレートを上記の提案に沿った形に張り替えました。ご確認を。
さて、今回の提案についてですが、反対いたします。まず「影流・陰流」という記事名が適当と思えないためです。このような両名併記の項目名は分かりづらく、妥当なものとは思えません。陰流、影流の表記の内、どちらか一般的な方を項目名とし、もう一者をリダイレクトとすれば、Tukushikoさんの提示する目的は達せられると思われます。また、陰流の方が記事として古い影流・陰流の記事に至っては出来てまだ二週間も経っていない)点も考慮に入れるべきでしょう。
そして、現在の影流・陰流の記事の信憑性にやや問題があるようにも思われます。現在陰流の記事のほうもそれに沿った記述に書き換えられていますが、Tukushikoさん、またAisukageryuさんが主な出典として挙げておられる「剣祖影流愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」橋本菊月斎 著とは、如何なる書籍なのでしょうか。Google検索では現在、著者名、書名ともにWikipediaあるいは、「影流」の公式サイトのコンテンツ以外にヒットしませんが、この書籍が信頼できるものであるということが示されるまでは、その書籍を出典としたページへの統合には慎重にならざるを得ないと考えます(Wikipedia:信頼できる情報源を参照のこと)。
ただし、同書についての情報が明らかになった場合、「影流・陰流の、陰流への統合」にならば賛同いたします。--sat666(サトウミツロウ) 2008年6月8日 (日) 20:21 (UTC)[返信]

早速、ご意見を頂きましてありがとうございます。ご指摘のありました「両名併記は解りづらい。」に就きましては、現在、大学で行われている講義や、武道史の指導者用テキストですら「影流」と「陰流」が別の流派の如き扱いをしています。

日夏繁高の「本朝武芸小伝」には「愛洲久忠」の「影流」「陰流」の独立した記述はありません。享保年間ですら愛洲久忠の事蹟が定かでなかった為、憶測の記述しか見当たりません。太平洋戦争前の昭和十年頃、「北畠氏の研究」の大西源一博士に秋田市の平澤良治氏が「愛洲氏系図や佐竹義重公起請文等」を送致された事から、愛洲久忠の裔が常陸太田城から秋田に転封後も佐竹藩に仕えて明治維新まで家禄を守り続けられたことが判明しました。

以上の経緯に依って「影流」「陰流」研究は戦後からでありますが、資料の殆どが「伊勢大神宮」関係であること、日本の中世の古文書を読解するには大学院でみっちり読解力を養っていないと出来ません。(武道家では到底無理です。)

そして、現在の剣道史を軽んじている世相では莫大な研究時間を要するこの分野の研究家が育つのは仲々難しい状況です。 橋本菊月斎氏は御先祖が代々伊勢大神宮外宮の御師職であった為、研究が成されました。

また、「陰流」の書き込みの方が早いとの御指摘については、ウィキペディアは「早い者勝ち」を競う場ではないと考えます。絶えず研鑽し、繰り返し書き直しより一層「真実」に近づこうとするのが基本的姿勢ではないかと考えます。

「伊勢愛洲氏」は建武年間の伊勢入部以来、伊勢大神宮神領地・御厨(一之瀬御厨)の荘官として、外宮禰宜度会氏の配下にありました。 それ故、伊勢大神宮神領史や歴代神宮禰宜との係りや山田三方との研究なくして語れません。

嘉永年間伊勢大神宮の御巫清直翁が紀州藩田丸城主久野丹後守純固に差し出した論考『田丸城沿革考』が「伊勢愛洲氏」の最初の研究書で、昭和に至り戦前「北畠氏の研究」の大西源一博士が『南朝の隠れたる勤王家伊勢愛洲氏』を発表されています。昭和三十年代、「五ヶ所説」を唱えた中世古祥道氏は僧籍の為か伊勢神宮史や山田三方等には全く触れられていません。

それ故「結局解らない。」との結語になっており、「研究書」ではなくなってしまいました。

橋本菊月斎氏の著書「剣祖影流 愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」では、大先達の功績に大略以下に挙げる「三点」の解明を成し得た事であります。

  • 一、 後北条氏の研究に依り玉縄衆に熊野水軍が天文年間より「傭兵」として活躍していた事実を掴み、天文七年六月十八日飯篠修理亮吉定の愛洲三郎宛「新當流」免之状の解明をした事。
  • 二、 「伊勢愛洲氏」は室町幕府の遣明貿易で、醍醐寺座主満済との脈絡に依り、伊勢大神宮御遷宮費用捻出の為、「伊勢法楽舎二号船・九号船」の宝徳度(一四五一年)発遣以来携わっていました。そしてその功績に依り文明年間(一四八〇年頃)愛洲伊予守忠行は武家として初めて伊勢大神宮神領奉行職に任ぜられた事を解明しました。この新事実解明に依り、江戸時代の遠国奉行所・山田奉行所の前身が「愛洲伊予守忠行の伊勢大神宮神領奉行所」である事が明確となりました。(伊勢愛洲の五ヶ所説は全く成り立たなくなります。)
  • 三、 元禄元年、松下見林が「影流目録」を「異称日本伝」で紹介して以来、戦前下川潮氏の「剣道の発達」ですら「武備志」の研究は皆無でありました。橋本菊月斎氏は『平澤文書』の「陰流 私」を平澤十八代尚忠氏の意向を受け巻物を研究され、その「極意書」に使用されている「用語」は「日本人向けの用語」でない事を解明されました。更に、中国側の成化帝・嘉靖帝の史料を研究した結果、「影流は御林軍の正式刀法」と解明されました。

以上、縷々述べて参りましたがご理解頂けましたでしょうか。 --Tukushiko 2008年6月19日 (木) 08:24 (UTC)[返信]

(コメント)ご説明ありがとうございました。また、返答が遅くなり大変申し訳ありません。
まず、私が「影流・陰流」の項目名に異議を唱えているのは、単純にこうした記事名が、Wikipediaの慣例にそぐわないというのみの理由です。例えば「大判焼き」「今川焼き」「回転焼き」はどれも同一の食品の別名ですが、記事名を「大判焼き・今川焼き・回転焼き」という具合にするのではなく、代表的な「今川焼き」の名称に統一した上で、これらが同一のものであることを記事の中で説明すると同時に、「回転焼き」「大判焼き」などの別名からもその記事へリンクするようになっています。卑俗な例えで恐縮ですが、どうぞご参照ください。
次に、「Wikipediaは早い者勝ちではない」とのご指摘ですが、まさにその通りです。しかし「陰流」と「影流・陰流」はまったく同じものを説明する記事であり、この場合重複記事となってしまいます。この解説を見ていただければ分かるとおり、同一の主題の記事を後から立てることは好ましくありません。
なお、Wikipediaには中立的な観点というルールがあります。五ヶ所出生説が既に論破された旧説だとしても、加筆の際にはこれを完全に消してしまうのではなく、「このような説もある」という旨を書く必要があります(まして、一般的に五ヶ所出生説が広まっている現状では)。例えば、これまで源頼朝の肖像といわれていた有名な絵に関しては現在足利直義の肖像であるという説が出され新たな定説になりつつありますが、この絵を説明する「神護寺三像」の記事では両論を併記しています。どうぞご参照ください。
橋本菊月斎氏の著書について、ご説明で著書の内容は大体分かりましたが、前述の通り、Wikipediaの参考文献として使われる文献は、いわゆる「権威」ある出版社・学術誌などで出版あるいは掲載されたものというのがルールとなっており、自費出版による書籍は認められていません(参照)。三重県立図書館の書誌検索によれば、同書は「愛洲移香斎久忠顕彰会常陸支部」の出版による非売品とのことで、残念ながらこの要件を満たさないものと思われます。恐縮ですが別の公刊された文献を元に記事を執筆されることを強くおすすめいたします。
以上長々と述べさせていただきましたが、私としては、
  • 「陰流」の記事に現在の「影流・陰流」を統合。
  • その上で、記事名は「陰流」「影流」から広く用いられているほうを選び、両者が同一のものであることを記事の中に記載。
  • 橋本菊月斎氏の著書を元にした部分は一旦消し、ある程度広く認められている書籍や一次資料を元にした形にする。
  • 五ヶ所出生説などは従来の通説として記載する。
といった方針を提案いたしますが、いかがでしょうか。--sat666(サトウミツロウ) 2008年6月25日 (水) 03:48 (UTC)[返信]


早速、記事についての御指摘、そして方針の御提案を頂きありがとうございます。

御指摘頂きました「wikipediaの記事を執筆する」・「信頼できる資料」等の内容を確認し下記内容での記事の訂正を考えております。

  • 「陰流」に「影流・陰流」の記事を統合します。
  • 統合記事の執筆に際しては、「記事の内容を検証出来る」よう、一次資料の出典を明記した上で、現在の「陰流」のページに加筆、修正を加えます。
  • 陰流の関連項目に「影流」が同意である説明を追加すると共に、「影流」の項目(ページ)を作成し「陰流」へのリダイレクトページとして、「曖昧さ回避」の対策とします。

上記内容にて記事を新たに作成いたします。 --Tukushiko 2008年6月30日 (月) 04:16 (UTC)[返信]

妥当な線だと考えます。私も出来る範囲でお手伝いさせていただこうと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。--sat666(サトウミツロウ) 2008年7月2日 (水) 05:55 (UTC)[返信]


IP利用者の方へ
wikipedia:検証可能性を参照お願いします。「樋口家文書」については、「富永堅吾・剣道五百年史」の「念流」、「馬庭念流」の項目を読めば、この出典文書の記載がwikipedia:検証可能性の要件を満たす資料ではないことが分かります。また、Wikipedia:信頼できる情報源も参考になさって下さい。--Gekiken 2009年5月24日 (日) 09:37 (UTC)[返信]
Gekikenさま
Wikipedia:信頼できる情報源を読む限り、『意見』、つまり『ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である』に「樋口家文書」は該当するので、記事に書くことに問題は無いです。ちょっと文章をいじって戻します。--Hakusai 2009年5月25日 (月) 00:48 (UTC)[返信]


Hakusai氏御提示の『樋口家文書』は、ウィキペディア「念阿弥慈恩」で一部紹介されています。「門人」の項目で、「猿御前という人物については未詳であり、通常、陰流開祖は愛洲久忠とされており[2][3][4]猿御前との関係は不明である。」[2]『国史大辞典』 吉川弘文館 [3] 『日本大百科全書』 小学館 [4] 今村嘉雄ほか『日本武道体系』第1巻 同朋舎出版と、『樋口家文書』が荒唐無稽な記述である事が指摘されています。  綿谷雪・山田忠史共著の「武芸流派辞典」(人物往来社)にも、「馬庭念流(剣)」の記述で「11世定勝は寛永11年の御前試合に出た。」との『樋口家文書』の内容について、二人の著者はカッコして(これは嘘。この御前試合はフィクションである。)と注釈を付け加えており、多々物議を呼んでいる史料である事は間違いありません。  「北畠氏の研究」の権威者大西源一博士が、建武中興六百年記念祭でラジオ放送にて「南朝の隠れたる勤王家伊勢愛洲氏」との演目で昭和九年五月に講演されたのを秋田市の平澤浪治氏が人づてに聞き、大西源一博士の許へ「愛洲氏古文書」を送致し、博士が調査されて、正しく平澤浪治氏は伊勢愛洲氏の子孫である事が判明したのです。  これをうけて愛洲移香斎子孫平澤通有の記した「平澤氏家傳」が「歴史公論」4-10・青柳武明の「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」で紹介されて、以来「平澤氏家傳」が陰流起源の定説となりました。  依って『樋口家文書』を駆使して陰流の起源を編集されようとするHakusai氏の方針には同意しかねます。一応元に戻し、日本国史大辞典に添った編集を提案致します。--Monto 2009年5月28日 (木) 02:23 (UTC)[返信]

Montoさま
どうも意図が通じていないようです。私は樋口家文書に従って編集しろとなど一言も書いてませんが?上に書いたとおり、wikipediaの方針上は検証(Montoさまが上で検証されていますよね?)可能だから引用するのは構わないと思うといっているだけです。ですから削除ではなく、樋口家文書ではこうかかれているが、国史大辞典ではこうこうである、と編集すればよろしいのではないでしょうか?樋口家文書に書かれている事や、猿御前の伝承等が(いつからかはともかく)存在したのは『事実』ですから。--Hakusai 2009年5月28日 (木) 05:05 (UTC)[返信]


Hakusaiさん、「樋口家文書」はWikipediaの出典になるとのことですが、適切な資料選択ではありません。私には、Hakusaiさんの陰流の起源に対する考えが「念阿弥慈恩(念流)→猿御前→愛洲移香」であるための資料選択に思えます。

Wikipediaの執筆は、通説や信頼されている出版物・研究を基にした記載が望まれます。「樋口家文書」も検証可能な資料ではありますが、信頼度の高い、通説を形成している資料ではないので現状の本文も通説に合わせる必要があります。

  • ①陰流の起源の通説について

通説は、陰流の起源は「愛洲移香斎久忠」です。

  • 出典1、「国史大辞典」吉川弘文館
  • 出典2、「日本大百科全書」小学館
  • 出典3、「日本武道大系・第一巻」同朋舎出版 今村嘉雄他編
  • 出典4、「剣道五百年史」富永堅吾著

「念阿弥慈恩→猿御前→愛洲移香」を本文に記載するのであれば、上記出典以上の信頼度の高い資料を提示し、その出典を以って、「猿御前が陰流の創始者である」が通説であると証明なされなければなりません。

また、「樋口家文書」は、検証可能な資料で記事の執筆は可能ですが、資料さえ提示できれば通説ではなくとも諸説全てが記載可能となり、記事が煩雑になります。重視すべきは信頼度の高さという事を考慮して下さい。

  • ②「樋口家文書」について

樋口家文書の武道史における史料価値については、「日本武道大系」の編者でもある今村嘉雄氏、剣道五百年史の著者、富永堅吾氏等は樋口家文書の史料価値に疑義を提示しています。参考として、剣道五百年史より一部抜粋します。念流の項目36ページに、『樋口家の記録というのが、果たしてどこ迄信を置けるものか、その信用度についてである。僕はかつて日本剣道史の執筆者である岩本米太郎氏に逢って、種々剣道史執筆上の事について話を聞いたことがある。その時、話が樋口家の記録に及んだが、岩本氏の話ではあの記録は読んだが例の誇大に作為したもので、信ずるに足らぬといって一笑に附して居た。日本剣道史には、同記録の慈音については、「例の無形慈音で正説とは思はれない」と述べている。』と書かれています。

武道史の専門家が資料価値に疑義を提示している樋口家文書を根拠に記事を執筆する明確な理由はありません。室町中期~幕末にかけて剣術の流派は新撰武術流祖録、諸藩学制、撃剣叢談、日本剣道史より、重複分を除いても単純に500以上存在し、その数だけの流派に伝わる伝承が存在します。武道史はそれらの史料を学者先生が一つ一つ取捨選択して通説が形成されます。樋口家文書の武道史学会での扱いは、査証途中の位置付けです。既に形成されている通説に改めるべきと考えます。より信頼度の高い出版物や通説による執筆がWikipediaの望む記述となります。

  • ③記事編集についてのお願い

Hakusaiさんが編集されている陰流の項目の2009.02.05(木)6:47と2009.05.25(月)00:55の「陰流の起源について」の編集に於いて、02.05の編集部分では、「~念阿弥慈音の弟子の猿御前が愛洲移香斎の師である説~」との編集をされていますが、05.25の編集部分では「~その一人の猿御前の子孫が愛州久忠であるとされ~」となっています。編集活動を精力的に行う事は素晴らしい事ですが、「猿御前の『弟子』が愛洲移斎」や「猿御前の『子孫』が愛洲久忠」と御自身の記述に整合性が取れていません。また、念流に伝わる「樋口家文書」を扱うのにあたっても同じくWikipedia、念阿弥慈恩の項目との整合性は考えましたか。「通常、陰流開祖は愛洲久忠』と、通説の記述が出典付きで記載されています。

読者の視点では、「弟子」とされていたのが、数行後には「子孫」になっているのでは混乱します。また、念阿弥慈恩の項目では、愛洲久忠が開祖と通説を記載の上、更に未詳不明として「猿御前→愛洲久忠」の記載がされているのに、Hakusaiさんが編集した陰流の項目では通説の記載、及び未詳不明の但し書きも行わず「猿御前→愛洲久忠」説を本文に据えていますが、無配慮といわれても仕方のない編集ではないでしょうか。御自身の編集履歴、及び関連の他項目との整合性に配慮した編集活動を行って下さい。

Wikipediaの記事は学術研究や、発表があるからといって何でも執筆出来ると誤解してはいけません。新たに書き加えられたHakusaiさんの記述『新陰流流祖上泉伊勢守信綱は、愛洲宗通の弟子とされているが、宗通より信綱の方がかなり年長であり、宗通と信綱の経歴を検証するかぎり、実際信綱が宗通から陰流を学んだ事については疑問があり、だれから学んだかについては諸説ある。』は、確かに出典もあり、専門的知識ではありますが、議論を誘発します。例えば、「本朝武芸小伝」塚原卜伝より、塚原卜伝は上泉信綱より新陰流を学んでいます。Hakusaiさんの提示された説は、愛洲宗通と上泉信綱の年齢差を考証し、不自然との見解を示した説を本文に据え、諸説あるとの書き方をされていますが、本朝武芸小伝によれば、上泉信綱(永正五年:1507年生)は、18歳年上の塚原卜伝(長亨二年:1489年生)に新陰流を伝授しており、年長者が年少者に剣を学ぶ実例もあり不自然とは言えません。

また、永禄九年五月吉日上泉秀綱改め信綱が柳生但馬守宗厳に相伝された「影目録」の第一燕飛の巻に「上古の流有り中古念流、新當流亦また陰流ありその他は計るにたえず予は諸流の奥源を究め陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す。」とあってこれがいわゆる通説の論拠になっています。いつの時代も独自説は出て来ますが中条流が興ったとされる年代で中条流の型が集成された巻物及び史料が発見されない限り今回の様な編集はご遠慮願います。

Wikipediaの歴史分野の記述は、出典があっても検証途中の事項を本文に書き加える必要はありません。メリットはなく、デメリットとして、議論の誘発の原因になる、読者に一学説が通説のような誤解を与える等の原因になります。執筆については、百科事典等の二重三重の査証を得ている出典の範囲内に収めるのがWikipedia編集の方針に最も適した執筆方法と考えて下さい。--Gekiken 2009年6月1日 (月) 02:22 (UTC)[返信]

Gekikenさま
なるほど、ざっと読ませていただき、御主張は理解いたしました。ただ、Gekikenさまの主張では中条流と陰流の関係があるかもしれない、という点をあえて記述されていませんが、何故無視されるのでしょうか?そういった専門家による研究と学会での発表(つまり専門家によって議論されていると言うことです)があることを無視するのはどうかと思いますが。wikiの考え方としては追記するべきかと思います。
私の誤記については了解いたしました。樋口家文書が信頼性がない、と言う事については知っております。種々の研究成果があるわけですから、出来るだけ中立的な書き方をするべきだと思われます。ちょっと文章が長いのでまた時間が出来たらしっかり読ませていただきます。--Hakusai 2009年6月1日 (月) 03:20 (UTC)[返信]


Hakusaiさんへ

通説以外に存在する諸説の一部紹介の指摘については前回コメントした通りです。通説に沿った記述に差し戻しました。 岡田一男氏の「新陰流源流考」は一ページに満たない「メモ程度の内容」であると思われますが、Hakusaiさんはこのメモ程度の「新陰流源流考」で、下川潮著「剣道の発達」の説を覆す根拠とでもされるつもりですか?Hakusaiさんが真面目に編集しているとはとても思えませんよ。

岡田一男氏は「NHK・鈴木健二・歴史への招待4」に「武者修行の実態」と題する論考を寄稿されています。氏の論考は下川潮氏の「史林・第三巻第一号・武者修業に就いて」を読まれていない内容です。岡田氏は「新当流正統之血脈」や「新当流和歌序文」等、明らかに後世の弟子達が創作した史料に基付いた論考を展開するなど思い込みの強い学者であるようです。 Wikipedia:中立的な観点および、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:信頼出来る情報源を熟読して見て下さい。Hakusaiさんは、6月1日のコメントに、「樋口家文書が信頼性がない、と言う事については知っております。」と書かれています。何故あえて、通説ではない諸説及び史料を取り上げ執筆されるのでしょうか。真面目に編集する姿勢がWikipediaでの最重要エチケット一つと思いますが。--Gekiken 2009年6月7日 (日) 08:42 (UTC)[返信]

Gekikenさま
「何故あえて、通説ではない諸説及び史料を取り上げ執筆されるのでしょうか。」との事ですが、単純に多面的な記事を作成することが良いと考えているからです。逆にお聞きしたいのは何故下川潮や撃剣叢談、異称日本伝等の記事に拘っておられるのでしょうか?Wikipedia:編集方針によれば、「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」とあり、
  • 内容を保ったまま、言い換える。
  • 文章を記事内で移動、あるいは、他の記事(既存、新規を問わない)に移動する。
  • 多様な観点からの記述を追加することで、記事のバランスをとる。
  • 情報の精度を確立できない内容に対する情報源(出典)を明記する。
そして「ウィキペディアは議論の場ではない」と明記されています。
またWikipedia:信頼出来る情報源では『意見』は記事に含めることが出来ると書かれています。また、「情報源の評価』の項目には『編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません。(中略)権威ある情報源の間での不一致は記事中で示されるべきです。』とあります。岡田一男の論文は権威ある意見の一つであり、批判的見解があるのでしたら、削除するのではなく「岡田は~と述べているが○○によると~という問題点がある。」などという書き方が多様な観点を保つにはふさわしいかと思います。--Hakusai 2009年6月19日 (金) 09:00 (UTC)[返信]

編集について[編集]

重要なのは、通説及び、通説と成り得る重大な発表・論考です。岡田一男氏の論考は、明確な資料の提示がされいない岡田氏の思い込みのメモです。氏は生前マスコミによく出られておりましたので啓蒙学者としての功績は大であったと思いますが武道史学会での学位等を取られたとは聞いておりません。よって既に参考文献に掲示してあるこのメモを更に外部リンクで2重に紹介する必要はありませんので記事のバランスを考え外部リンクを外します。--Gekiken 2009年6月22日 (月) 06:37 (UTC)[返信]

Gekikenさま
    • 岡田一男氏の学位が問題でしたら下川潮氏の学位はなにでしょうか?別にお答えいただく必要は無いです。
    • Wikipedia:編集方針によれば、「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」とあります。wikipediaはあなたのノートではありません。削除はやめて文章の書き方で対応しませんか?
    • 「同意できない立場についても、フェアに説明を行うように各人が努力べきだ」と「ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」というWikipedia:中立的な観点を理解して下さい。岡田一男の場合は削除するのではなく、文中で問題点を指摘するべきではないでしょうか?
    • Wikipedia:外部リンクの選び方ではその外部リンクが、「記事の内容についての読者の更なる理解への助けとなること。」とあるので削除する必要は無いと思いますが。なので少々文章をいじりました。--Hakusai 2009年6月22日 (月) 08:29 (UTC)[返信]


前回にも御意見させて頂きましたが真面目な編集をして頂けませんか。柳生新陰流の研究の第一人者今村嘉雄博士は「新陰流兵法目録」「兵法百首」、伝書、印可状等の資料を翻刻されその研究の成果として「史料 柳生新陰流(上)(下)」を著されています。当代第一の研究者である今村嘉雄博士をして御自分では結論を出さず今後の研究者の為に史料として供されているのです。紙一片のメモで一次資料の裏付けも取られていない(私は確信します。)のが論文ですか。いい加減な事は程々にして下さい。このメモの提示は岡田一男先生にとって名誉なことではないと思います。

そして、Hakusaiさんの提案されている編集方針の見解については正にその通りです。

  • 内容を保ったまま、言い換える。
  • 文章を記事内で移動、あるいは、他の記事(既存、新規を問わない)に移動する。
  • 多様な観点からの記述を追加することで、記事のバランスをとる。
  • 情報の精度を確立できない内容に対する情報源(出典)を明記する。

そして「ウィキペディアは議論の場ではない」と明記されています。

しかし、Hakusaiさんの編集、2009年2月5日 (木) 06:47 Hakusai (会話 | 投稿記録) (7,224 バイト) (明らかに独自研究と思われる部分や文章の修正。文体を整えました) (取り消し)、においては全く御自身の提案とは逆の編集をされています。

Hakusaiさんの2月5日の編集履歴を確認すると、ノートページへの本文の書き換えの提案は行われておらず、御自身の考えを以て独自研究と判断し大幅な前記事の削除と編集を行っています。上記4点のHakusaiさんの見解がウィキペディアンとしての考えであるなら、先ずは、記事をいきなり編集するのではなく、本文のヘッダーに独自研究の疑いがある等のタグを貼る、または、独自研究と思われる文章に要出典タグを貼る等して、執筆者や編集者に文章の修正、及び出典の記載を求める、または、御自身で資料等を調べ、出典の記載をするべきだったのではないでしょうか。実際のHakusaiさんの編集は、内容の大部分を言い換えずに削除し記事を執筆、多様な観点については独自研究として無言で削除、更に編集前の記事についての情報源(出典)の明記すら求めていないのがHakusaiさんの2009年2月5日の編集です。

御自身で提案した事は、先ず実行して下さい。--Gekiken 2009年6月24日 (水) 03:10 (UTC)[返信]

了解しました。お互い努力しましょう--Hakusai 2009年6月25日 (木) 00:27 (UTC)[返信]

疋田系の新陰流について[編集]

112.118.153.195 さま。 疋田伝新陰流香取系に愛洲陰流を名乗った系統があると書かれていますが、出典はなにでしょうか? 武芸流派大辞典では東新陰流、撃剣叢談やつくば大学の新陰流伝書集では単に新陰流となっています。 坂井半助系統ではたしかに愛洲陰流を名乗った系統が見られますが、香取系統では存じて居りませんのでよかったら出典をお教えください。--106.182.50.95 2013年7月18日 (木) 18:56 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

「陰流」を「影流」に改名することを提案致します。--壹號作戰会話2014年4月12日 (土) 11:29 (UTC)[返信]

愛洲の文書や愛洲陰流の伝書でもに陰流になっていますし、最近の研究でも陰流では、となっているようなので陰流が適当かとおもいます。--Hakusai会話2014年4月12日 (土) 11:42 (UTC)[返信]

文献にのみ頼る歴史は歴史学足り得ません。直伝直伝でたまたま途絶えることなく影流から直心影流まで技という身体技法を受け継いできた五名の直心影流免許皆伝者が、「影流」であって「陰流」ではないと証言してきました。四名は物故し、一名生存し、その一名が「直心影流では「愛洲移香斎様は影流である。」と伝わって来ている。」と証言しています。

そこで、質問があります。 すべての文献が「陰流」という表記ですか?--壹號作戰会話2014年4月13日 (日) 03:04 (UTC)[返信]


Hakusaiさん、「影流」と記された巻物・文書(もんじょ)・文書(ぶんしょ)をすべて掲載して、具体的に引用してください。

> 愛洲の文書や愛洲陰流の伝書でもに陰流になっていますし、

それらはすべて文献ですよね?身体技法を受け継いでいる方々や口承は残っていないのですか?

> 最近の研究でも陰流では、

「最近の研究でも陰流では?」という「疑問形」ですよね? つまり、あなたがおっしゃるには、歴史学会でも議論がわかれているわけです。

では「影流」と「陰流」を別の記事とみなして存続させることを提案致します。

そもそも、なにゆえ戦国時代の前の史実ですから、 伝聞の文献と、伝聞の伝聞文献と、伝聞の伝聞の伝聞の文献による仮説と、 影流宗家上泉伊勢守に影流剣術すらまともに教えてもらえず「目録どまり」にされた柳生新陰流という 影流に似た別の剣術流派が大派閥となって「新陰流であるので、陰流であったはずである。」と主張が、 文献主義偏重の仮説と別の剣術流派たちの主張が融合しているのが 「最近の研究でも陰流では」というご主張の源ですよね?

柳生新陰流が否定されればその仮説すべてが瓦解します。

柳生新陰流のもれなくすべての宗家たちに、直心影流冨山派秋吉博光さんの打診であると前おいてから、 「影流か?陰流か?お答え下さい。」と、問い合わせて下さい。これは「陰流」主張派の方々のつとめです。

柳生新陰流は、江戸時代には日陰の忍びの身でありながら、江戸幕府に全国に忍びとして派遣されたため、かなり死んだものの、 全国に柳生新陰流が広まり、大所帯であることのみをもって現代では大手を振って歩いていますが、 ほとんどすべての柳生新陰流宗家たちは直心影流冨山派現宗家から「柳生新陰流は目録止まりである。」と指摘され承諾しています。

不利だと思って動かないという策は取らないで下さい。

もし仮に、あなた方柳生新陰流の方々がそうなさったら、私は私の全力を持って、 柳生新陰流そのものが「かげりゅう」「影流」「陰流」を流派名に付けられないようにいたしますので。

一般に不遜にも上泉伊勢守先生の新陰流を名乗っておいでのようですから、流派の名前が消えます。 どう名付けるかを柳生新影流宗家たちと相談しておいて下さい。

  • 「「かけりう」は「影流」の意であり「陰流」と表記される。」。影流の直系の直嗣流派にして、技という身体技法を直伝直伝で途絶えずに受け継いできた直心影流冨山派が技の現存を以って「影流である。」と主張するのですから。

> となっているようなので陰流が適当かとおもいます。

あなたは何流の何術の方ですか? 私は直心影流兵法の剣術の者です。--壹號作戰会話2014年4月13日 (日) 04:13 (UTC)[返信]

壹號作戰さん、ここは歴史学云々の場ではなく、wikipediaですから、お互いwikipediaの編集方針に従いましょう。編集の上で「直伝直伝でたまたま途絶えることなく影流から直心影流まで技という身体技法を受け継いできた」事やあなたや私が何流か、というのはまったく何の意味もありません。wikipediaの方針に出来うる限り従い、刊行されている書籍や学術論文等を引用する形で編集していきましょう。
それから、陰流と影流の表記の件はノートを読まれているのなら承知の通り、以前議論がなされて今の形に落ち着いています。影流からのリダイレクトもあり、文章内で説明もされているので変更する必要もないと思いますが。さらに言えば愛洲移香斎の子孫である平澤家では陰流です。もちろん、影流が正しいのではないか、とする研究者もいますが、両論併記しているので問題ないと考えます。--Hakusai会話2014年4月13日 (日) 15:41 (UTC)[返信]
1.Hakusaiさん、「影流」と記された巻物・文書(もんじょ)・文書(ぶんしょ)をすべて掲載して、具体的に引用してください。
2.あなたの歴史学の素養を教えて下さい。何大学の何学部何学科出身で、何学を主とされていますか?
3.あなたは何流の何術の方ですか?--壹號作戰会話) 2014年4月14日 (月) 07:50 (UTC)--壹號作戰会話2014年4月14日 (月) 08:15 (UTC)[返信]