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ノート:陸奥国

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疑問点をいくつか

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いろいろ意見と指摘をさせていただきます。

「松島丘陵以南」や「仙南平野のみ」は間違いです。昔はそのように考えられていましたが、現在ではかなり古い時期から境界が固定していたとみなされています。724年頃の城柵造営は、領土拡大のためではなく、守りを固めるためのものだということです。

陸奥国分割の理由は、史料にないことですので、誰かの推測・想像説だと思います。時代が違う越の分割と比較していること、出羽が陸奥・越後の両国から支援される体勢だったことが考慮されていないこと、海路では分割できるが陸路では分割できないというのは理由が不明なことなど、内容的に疑問な点があります。従って、まったくの間違いとは言いませんが、百科事典に載せるには足りない説だと思います。

国府の移動がなかったというのは、誤りです。多賀城の国府が10世紀に廃絶したことは、発掘調査で確かめられています。にもかかわらず文献で多賀国府が出てくるのですから、移転したのは確実です。多賀というのですから昔の宮城郡の北東部と推測されますが、それ以上の決定的証拠がないのが現状です。

むつ市と奥州市についてですが、少なくとも奥州市は、地理的にまんなかだから奥州市なのだとは説明していません(ノート:奥州市)。陸奥国の街道は下北半島ではなく津軽半島方面にいくのが主要道ですから、むつ市についての説明も当を得ているとは言えません。むつ市がそう説明しているのなら、むつ市の項目でそう書けばよいことです。陸奥国の中で、弘前や十三湊が脇道だと暗に示唆するようなことを書く必要はないと思います。どちらも名前をとっただけなのですから、関連項目に記せば足りるのではないでしょうか。

「長町利府断層があるので水利がよい」というのはどこから取ったのでしょうか。私は聞いたことがありませんが、あるいは不勉強のためかもしれません。参考にした文献があれば教えてください。--Kinori 2006年6月22日 (木) 03:19 (UTC)[返信]

Kinoriさん、ご指摘ありがとうございます。私が書いた部分とそうではない部分がありますが、一応お答えします。
  • 境界についてですが、これは歴史学で定説があるのか良く分からないので、既に記載されているものに従って編集しました。ただ、軍事的に見れば、軍事拠点(暴力装置)が築かれている場所は、征服者側は征服したと見なす一方、被征服者側は征服されていないと思っている状態であるため、不安定な征服地であることを示しています。陸奥・出羽・越後は、そのような状態であった時期があり、何を以って畿内政権の領土となったかを決めるのは難しいと思います。私見では、基本的に安定的徴税システムがないと領土と規定出来ないと思います(←現在のイラクや日本には米軍が駐留しているが、アメリカの領土ではない。中国の清にも欧米列強の勢力範囲があったが、清の領土であった。等等、類例多数)。一応、私は、歴史学(政治史)というよりも軍事史に焦点を当てて陸奥国の記事の「沿革」の項目を編集しました(「歴史」の項目は別に存在していた)。現在の記事では、それらが「歴史」の項目に統一されています。
  • 現在の記事では、「陸奥国分割の理由」は記載されていません。再統一については軍事的な理由が書かれています。経済的には、人口も農産物収量も少ない陸奥国を分割すると、国府の経済基盤が薄くなり、充分な軍事費が得られなったから統一したのに対し、越後国は紛争地ではなく、広大な農業適地と人口があったから越国から分離できたと思います。また、この時期の海路による軍事行動の場合、戦費は中央政権の持ち出し(中央からの派遣部隊)なのに対し、陸路は基本的に紛争当該国府の戦費持ち出しになるので戦力が異なります。政治史として問題があるのなら、自由に編集して下さい。
  • 国府の移動についてはKinoriさんの言う通りだと思います。
  • むつ市と奥州市についてですが、現在の文章は、論理記号で表すと、「むつ市⇒本州最北端辺りにある⇒陸奥の意味を踏襲」「奥州市⇒旧陸奥国のど真ん中にある」となっており、必要条件で書かれています。十分条件が正しいことは記事内には書かれていません。Kinoriさんの指摘は、論理が逆向き(十分条件)となっており、書かれていないことについての議論となっているので理解出来ません。当然ながら、「必要十分条件が正しい時のみ論理が成り立つ」などということはあり得ないので、Kinoriさんの指摘は的外れだと思います。
  • 活断層周辺は、地層の不連続性によって地下水が帯水層から他の層に入り込み、水利が良くなる場合が多いです。仙台平野の場合は、長町利府断層よりも海側が沖積平野であるため、主に断層の東側の水利が良いです。卸町・扇町・六丁の目の流通・工業地区も、豊富な地下水の利用を考えて開発された土地です。ただし、地下水が多いため、宮城県沖地震の際に、この断層東側に液状化が起きることが知られています。また、地下水の汲み上げ過ぎで、断層東側は地盤沈下が起きています。インターネット上で仙台平野の地下水について書かれたものを拾ってみました→[1][2][3][4][5][6]
--もね~るmoner 2006年6月24日 (土) 06:47 (UTC)[返信]
「定説があるのか良く分からないので、既に記載されているものに従って編集しました」とはどういうことですか。歴史の本を読んでまとめたものではない、ということですか。ウィキペディアのこの記事を読んだもね~るmonerさんが、自分で理由を考えたということですか。--Kinori 2006年6月24日 (土) 10:42 (UTC)[返信]
言葉が足りなかったかも知れません。すみません。私は、歴史・地理・軍事・政治・経済の本を参考に書いています。『「松島丘陵以南」や「仙南平野のみ」は間違いです。』『昔はそのように考えられていました』というKinoriさんの指摘を受け、私が文献を調べて得た知識は「もう説として古くて事実とは違う」と言われたと思いました。しかし、Kinoriさんのいう「新しい説」が本当に定説であるのか調べる術がなく、「定説があるのか良く分からない」と書きました。「既に記載されているもの」とは、Kinoriさんの言う「古い説」のことです。混乱させてしまいすみませんでした。--もね~るmoner 2006年6月24日 (土) 16:03 (UTC)[返信]
たくさんの本を参考にした上で定説かどうか疑っているのですね。それは失礼しました。ではその中から二、三冊あげてもらえませんか。私のほうでは、工藤雅樹『日本の古代遺跡15宮城』と『古代蝦夷』、熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』(日本史リブレット)、中路正恒『古代東北と王権』(講談社現代新書)をあげましょう。--Kinori 2006年6月25日 (日) 01:25 (UTC)[返信]
お返事ありませんが、どうしたのでしょうか。ページ数まで書けとは言っていません。たくさんの本を参考にしたのでしたら、その中から二、三あげることは難しくないと思います。もね~るmonerさんが自分で考えたことではないか、と私が尋ねたのは、まっとうな歴史の本を参考にしたのであれば、「軍事的にみれば」以下のような解説は出てこないと思ったからです。どんな本か確かめたいと思いますので、どうか書名をあげてください。--Kinori 2006年6月28日 (水) 08:23 (UTC)[返信]
お返事いただけませんでしたので、書き直しました。境界についてはイラク戦争から論じるのではなく、城柵の位置を調べることをおすすめします。7世紀後半にこれらがかなり北にせりだしているということです。分割と統合の理由については、やはりもね~るmonerさんの意見では足りないので、相応の資料的根拠を提示してください。統合についてはそもそも史料がないのですが、理由についてだけ何かあるのでしょうかね。市については、陸奥国の記事は陸奥国を説明するところであり、陸奥国の関連項目を説明するところではないとお答えします。活断層については、たくさんのサイトを紹介していただきましたが、今ここで話している時代と関係するものがありません。工業団地や液状化のお話が出てくるあたり、これもまたもね~るmonerさん独自の考察なのではないかと思われます。
私が思いますに、古代史についてはよほど偉い先生でも根拠薄弱な推測を書かずにはすまない事情があります。しかしそれをウィキペディアのために要約するにあたっては、根拠が固いものはそのように書き、弱いものは推測として書くと区別しなければなりません。時には省くことも必要となります。偉い先生のものでもそうなのですから、我々の考察など論外です。誤りは誰しもありますから、筆がすべることはあるでしょう。が、気付いた時点で改め、抑えることで良い記事を作ることができるのだと思います。--Kinori 2006年7月11日 (火) 17:58 (UTC)[返信]

安倍氏の支配領域の記述について

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安倍氏の支配領域ですが、根本資料の「陸奥話記」の内容によれば下北から仙台平野にいたる広大な地域です。市販されている陸奥話記は確かに奥六郡の描写から始まりますが、高橋崇によってもっとも古い写本には奥六郡の描写が一切ないことが明らかになっています。奥六郡でもって安倍氏を説明するのは古代俘囚勢力の過小評価につながるので止めたほうが良いと思います。--以上の署名のないコメントは、210.164.1.71会話/Whois)さんが 2007年2月3日 (土) 03:31‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

分割提案

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2008-01-26に当記事から記事「陸奥国 (1868-)」が分割立項され(特別:差分/17604979特別:差分/17604981)、同日中に西暦換算の誤りを訂正するため「陸奥国 (1868-)」⇒「陸奥国 (1869-)」へ改名移動されました(特別:差分/17605691)。--Yumoriy会話

明治元年の分割後に設置された陸奥国は他の4国(陸中国陸前国岩代国磐城国)と同様に「陸奥国 (明治時代)」として別記事に分割すべきではないでしょうか? --あおみまきな 2008年1月17日 (木) 20:29 (UTC)[返信]

(コメント)他の4国の内容を見ると、書くべきことが少ないことが分かりますが、分割するかどうかはみなさんの意見に従います。でも、記事名は一考の必要があるかも知れません。明治期以降も陸奥国は地域名として使用され、いまだ廃止されてないので、括弧内を「明治時代」とするのはちょっと問題かも知れません。--もね~るmoner 2008年1月18日 (金) 02:37 (UTC)[返信]
今のままでも問題はありませんが、分割すれば青森県の陸奥国を特に指してリンクを貼るときに便利になります。小さくとも改善だとは思うので、賛成します。記事名は、明治時代がだめなら、陸奥国 (1868年)ではどうでしょうか。--Kinori 2008年1月19日 (土) 09:16 (UTC)[返信]
(コメント)それでは、賛同が得られたのでKinoriさんの意見を参考に「陸奥国 (1868-)」の項目名で分割を実行します。 --あおみまきな 2008年1月26日 (土) 13:41 (UTC)[返信]
分割実行後に気が付いたのですが「明治元年12月7日」は旧暦で「1869年1月19日」なんですね。1873年の改暦以前は天保暦を使用していたことを失念し、元からあった記述の誤りをそのまま継承してしまいました。謹んで訂正します。 --あおみまきな 2008年1月26日 (土) 14:40 (UTC)[返信]
お疲れ様でした。分割後の記事はごく短いものになると思っていましたが、蒼海牧菜さんの書き下ろしによって良いものになりました。年についても勉強させていただきました。私はどこか他の記事でも間違いを書いていそうです。ありがとうございました。--Kinori 2008年2月3日 (日) 01:23 (UTC)[返信]

六州→陸州

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陸奥国の名のもとが「六州」であるというのは、誰の説なのでしょうか。私は何冊かこのあたりの歴史の本を読みましたが、接することができませんでした。信頼できる出典がないなら、除きたいと思います。--Kinori 2010年6月7日 (月) 15:18 (UTC)[返信]

自分で見つけました。本居宣長『古事記伝』のようです。後ほど付けます。--Kinori 2010年6月11日 (金) 06:44 (UTC)[返信]
節を分けて書きました。--Kinori 2010年6月20日 (日) 06:50 (UTC)[返信]

「陸奥国司」への記事分割提案

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2012-03-26に当記事の一部が記事「陸奥国司」に転記されました(特別:差分/41807067特別:差分/41807047)。--Yumoriy会話

本文中、国司に関する記述を、陸奥国司に分割することを提案します。 分割理由は、Wikipedia:ページの分割と統合#ページの分割の「分割すべき場合」「ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」です。この分割により、本記事を軽くするとともに、国司一覧記事の作成によりカテゴリでの対応に際し指摘されてきた問題を解消することも期待されています。なお、これまでプロジェクト‐ノート:日本史#日本史人物記事の官名カテゴリについてで議論され、全ての国記事に関し国司記事を分割するとの合意が成立しております。--故城一片之月会話2012年3月14日 (水) 14:05 (UTC)[返信]

提案に賛成します。ただ陸奥国の場合既に陸奥守がありますので、まずこれを陸奥国司に改名し、ついで陸奥国から国司部分を転記するという手順がよいと思います。--Kinori会話2012年3月14日 (水) 20:01 (UTC)[返信]
すみません、陸奥守がありましたね。分割提案の作業をする前に国守のページの有無を確認しないとなりませんね。国守カテはbotでもう無いでしょうから、その都度の確認となるのでしょう。国守ページが有る場合には、仰る通りに改名提案も合わせてして置かねばなりません。今後はそういたします。--故城一片之月会話2012年3月18日 (日) 13:46 (UTC)[返信]
報告 記事の移動と転記を実施しました。--Kinori会話2012年3月26日 (月) 08:37 (UTC)[返信]

情報 上記分割提案の前提として示された プロジェクト:日本史 での議論(プロジェクト‐ノート:日本史#日本史人物記事の官名カテゴリについて)は過去ログ化されており、2024年(令和6年)3月現在は《プロジェクト‐ノート:日本史/過去ログ4#日本史人物記事の官名カテゴリについて》で確認できます。

なお当記事「陸奥国」からの一部転記は、2012年(平成24年)3月26日にまず (1) 記事「陸奥守」⇒「陸奥国司」の改名移動が実施され(差分/41806982)、次いで (2) 当記事「陸奥国」中の節「人物(国司・陸奥守・陸奥介・武家官位としての陸奥守)」が、記事「陸奥国司」に転記されました(差分/41807067差分/41807047)。 以上、参考までに。--Yumoriy会話2024年3月18日 (月) 12:52 (UTC)[返信]

「陸奥国松前」について

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質問なのですが、江戸時代を扱った歴史研究書『海と川に生きる』(吉川弘文館・2007)という本に、「松前・箱館・江差を中心とした渡島半島南部は「陸奥国松前」とされ、蝦夷地ではない」という記述があり、あの辺りまで陸奥国だったのかと興味を惹かれたのですが、現在の記事の陸奥国の範囲には含まれておらず、真相はどうなのかなぁと。江差の姥神大神宮は陸奥国松前の一之宮だそうですが、江戸時代の陸奥国の範囲に渡島半島南部は含まれるのでしょうか? --茂林寺たぬき会話2019年10月1日 (火) 04:29 (UTC)[返信]