ノート:風魔小太郎
早乙女貢著作の風魔忍法帖:風魔小太郎で、つくられた人物名である。小説は、史実ではない。 北条五代記には、風摩と出ているだけで、小太郎は早乙女貢による完全な創作である。また、魔と付けているのも同様である。 北条氏政の書状から、風間出羽守を忍者と裏付ける表現もまったくない。--115.39.229.22 2014年1月2日 (木) 11:26 (UTC)
注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能ゝ首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、
九月十三日
氏政(花押)
風間出羽守殿
→戦国遺文 後北条氏編2412「北条氏政書状」(佐藤行信氏所蔵文書)
天正10年に比定。
サマリに挙げる作品について
[編集]サマリに挙げた作品を削除する方がいらっしゃいますが、『隠密剣士』の後、よく知られている作品2-3、ゲームの登場作品2つほど挙げておきたいと考えております(そのこと自体、問題ありませんよね?消されるのは何故ですか)。ゲームについては詳しくないもので、Googleの検索結果で多かったものを2つ挙げておりましたが、別作品の候補はありますか。特になければ今あげてあるものとさせてください。--小峯堂(会話) 2021年5月25日 (火) 07:02 (UTC)
追記します。削除なさらないようにお願い致します。--小峯堂(会話) 2021年9月22日 (水) 12:56 (UTC)
削除した者ではないのですが,横から失礼いたします。『Wikipedia:スタイルマニュアル/人物伝 § 第1段落以降には記事の要約を』には,冒頭部分に記載すべき内容ついて「記事本文の重要な側面を要約し、それ自体が小さな百科事典の記事となるようにします。」とあります。(多くは小峯堂様が編集した)本記事を通して読んだ後に改めて記事冒頭を読むと,冒頭に書かれた『北条五代記』『見聞集』『鎌倉管領九代記』と風魔小太郎との関係は正しく本記事全体の重要な側面の要約になっていると感じます。その一方で"1932年の~"以降の段を読むと,本当に要約したい重要な側面は,挙げられている個々の作品ではなく,現代にいたるまで創作の題材に利用されてきたことのように感じるのですがいかがでしょうか?少なくともGoogleの検索結果で多かったという理由は重要な側面として挙げる理由として違和感があります。個々の作品については風魔小太郎 § 風摩小太郎以降に記載もありますし,"1932年の~"以降については例えば「現代にいたるまで創作の題材となっている。」等の一文で要約してはどうでしょうか?
Wikipedia:スタイルマニュアル/人物伝自体「従うことが推奨されるが方針ではない」とあるものの,Wikipediaの人物記事の殆どは,大きくはこのフォーマットに沿ったものになっていますし,そこから逸脱した書き方については,やはり私や削除された方のように違和感を感じる方が出てくる理由になっていると思います。他に個々の作品を挙げる方が適切だと考える意見が多ければ撤回します。--Hutonwww(会話) 2021年10月1日 (金) 13:59 (UTC)
- Hutonwwwさま コメントをありがとうございます。風魔小太郎は、『北条五代記』の風魔を起点とみることもできると思いますが、風間小太郎や風摩の一類(風魔一族)と混淆・融合して今の風魔小太郎の姿になった経緯があると考えております。『北条五代記』の風魔は別記事がありますので、こちらの記事は三田村鳶魚の風摩の一類、白石の『武蔵野から大東京へ』からはじめてもよいのかも知れませんが、江戸時代の別の流れのモチーフ作品のことなどもあって「前史」も書いてあるため、どちらが主か判りづらくなっているかもしれません。
- つまり、冒頭の文章は二段落目の方が重要で、本当は「白石によって2者ないし3者が融合して風摩小太郎が誕生した。戦後、解釈が多様化して、『隠密剣士』で有名になり、1970-80年代に風魔(小太郎)を頭領とする「風魔一族」「風魔忍者」集団としてサブカルチャーに浸透した。1990年代以降はゲームキャラクターとして単独・個人としての風魔小太郎が取り上げられる機会が増えている」のようにまとめられるといいのですが、やや解釈しすぎ感があるということです。
- 本文がまだ書き足りないということだと思いますので、使い得る材料がないかもう少し探して本文ともども修正したいと思います。--小峯堂(会話) 2021年11月2日 (火) 13:53 (UTC)
返信ありがとうございます。独自研究との境目が難しいところかと思いますが、頑張ってください。 Hutonwww(会話) 2021年11月4日 (木) 03:14 (UTC)