ノート:高岡神社 (四万十町)
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「津波で社殿が流された」記述
[編集]「1707年の宝永地震による津波で社殿が流された」との記述がありますが、当地は標高200m超の高地です。これが事実であれば、日本に留まらず世界的にも甚大な被害を被る大災害です。ソースは貼られていますが現在は確認できず、仮にソースがあったとしてもソースそのものを疑うべきでしょう。--Kussy(会話) 2018年7月6日 (金) 11:14 (UTC)
- 意見が無かったので、当該記述を除去しました。復帰させるのであれば、標高200mの当地における津波被害について出典をお願いします。--Kussy(会話) 2018年8月11日 (土) 02:37 (UTC)
- コメント 当該項は2014年8月3日 (日) 02:38付の加筆(Tiyoringo氏)によるもので、出典は高知新聞 (2014年7月26日)「長宗我部家の神輿や豪傑愛用の大太刀を高知県立歴民館へ寄託」の記事とあります。Internet archive でなければ、本来は縮刷版なりマイクロフィルムなりで確認するのが本筋ですが、この記事タイトルで検索すればいくつか情報を得られます。戦国時代に関するニュースなどを拾っているサイト([1])で言及があり、「中西権七の大太刀」が寄託されたニュースと分かります。
- 匿名掲示板でのスレ立てのために「ソース」としてコピペされた記事([2])があり、これによれば「高岡郡四万十町の興津八幡宮」の「中西権七の大太刀」が寄託されたこと、この神社では「宝永地震の津波で社殿は流された」とあります。時折ソース偽造があったりもする掲示板ですので警戒は必要でしょうが、さきのサイトでの言及の仕方や、Tiyoringo氏の加筆内容からは、ふつうに記事をコピペしたと推定してよいでしょう。
- 「中西権七の大太刀」は、本項の高岡神社のほか、興津八幡宮(四万十町興津)に納められたものもあり、社宝とされているとのこと([3])。しかしどうやら中西権七の大太刀で有名な神社といえば高岡神社([4])ということになるらしく、また興津八幡宮(旧社格は郷社)のほうは2018年現在もWikipediaに記事がありません。本項にはTiyoringo氏の加筆以前から「中西権七の大太刀」が社宝として奉納されていたという記載がありましたから、Tiyoringo氏は本神社のことと誤認されたのだろうと思います。
- 興津でしたら津波被害に疑問はありません。地元の郷土史研究団体?「奥四万十山の暮らし調査団」のサイト「四万十町地名辞典」によれば、興津の八幡宮について『高知県神社明細帳』(1879年内務省作成)を引用して社殿が流失した旨言及があります([5])。なお、このサイトでは四万十町内の分について『高知県神社明細帳』がスキャンしたものが見られ([6])、本項高岡神社の分も見られます(※本記事に加筆される方はぜひご参照ください)。念のため、ざっと目を通しましたが、高岡神社に津波被害の記述は見られません。--桂鷺淵(会話) 2018年9月19日 (水) 04:20 (UTC)
- 単純にあり得ない記述を除去しただけなのですが、これだけ調査して頂けるのはwikipediaならではと思います。ありがとうございます。--Kussy(会話) 2018年9月21日 (金) 22:20 (UTC)