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ノート:麦飯

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記述の正確性について

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記述の正確性についてなのですが、特に歴史部分について、怪しい点がいくつか見受けられます。

  • 都市部で煮えにくい玄米や丸麦を避けたという記述がありますが、実際には玄米は食べられておらず、差は玄米か白米かではなく精白度の差であるという研究があります(佐原真『食の考古学』等。これらに沿った記述をしているのが米穀安定供給確保支援機構のサイトです[1]。)。
  • 神饌としての位置づけについて、これは餅の役割ではないかと思われます(前掲のサイトでもそのようになっており、出典も恐らく佐原先生かそのあたりだと思うのですが、ちょっと調べ直していません)。
  • 麦飯の起源について、篠田統『米の文化史』では江戸時代には「麦飯とろろ」としての商業的な需要があり、さらに麦飯自体は鎌倉時代ごろからすでに一般的であったと記述があるとされています。ただ、この本では押し麦とそれ以外の分別はしていないので、押し麦の普及についてまで論が及んでいない可能性が高いです(また、古い本ですので今日的には間違いの記述が含まれている可能性もあります)。いずれにしても、同節の「近現代」や「近代」は歴史や文化といった論文で使われる区分に正確でない可能性があります。

他にも気になる点はあるのですが、大きな点としてはこのへんです。また、石毛直道氏は玄米について、東南アジア等他の国の何処の歴史を見ても食べていないと言う点を指摘しているほか、明治期の飛騨地域でさえ米がカロリーの過半を占めていたといったことも研究されていたと思います(ただ、本が手元にないためどの論文だったかをポンと出せません)。--Koon16000会話2014年3月29日 (土) 22:27 (UTC)[返信]

明治期の飛騨地域はそうかも知れませんが、山の手と下町を除く東京(東京15区の外ということだろうと思われます)では、ついこのあいだまで(俸給生活者は白米ですから、戦後都市化し高級住宅地になる以前でしょうか)、陸稲米が2割から3割の麦飯のようです。--114.160.142.35 2014年12月11日 (木) 06:03 (UTC)[返信]
大正時代までは稗の栽培が盛んで稗を食べていたのが、都市近郊の野菜栽培農家になったので、昭和に入ると稗が栽培されなくなり麦飯を食べるようになったようです。例は杉並区なのですが、世田谷区や練馬区も同じではないでしょうか。--125.203.175.249 2014年12月25日 (木) 00:25 (UTC)[返信]