ハプスブルク家
ハプスブルク家 Habsburg | |
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帝国と王朝 | |
ハプスブルク家の紋章 | |
国 |
ハプスブルク帝国 ・ オーストリア大公国 ・ ハンガリー王国 ・ クロアチア王国 ・ ボヘミア王国 神聖ローマ帝国 ハプスブルク・スペイン ・ ハプスブルク領オランダ ・ ポルトガル王国 ・ ナポリ王国 ・ シチリア王国 |
主家 | エティション家 |
創設 | 11世紀 |
家祖 | ハプスブルク伯ラートボト |
最後の当主 | マリア・テレジア |
現当主 | カール・ハプスブルク=ロートリンゲン |
断絶 | 1780年11月29日 |
民族 | ドイツ系アルザス人 |
分家 |
父系: スペイン・ハプスブルク家(断絶) ハプスブルク=ラウフェンブルク家(断絶) キーブルク家(断絶) 母系: ハプスブルク=ロートリンゲン家 |
標語:A.E.I.O.U |
ハプスブルク家(ハプスブルクけ、ドイツ語: Haus Habsburg、スペイン語: Casa de Habsburgo)は、オーストリア家( 独: Haus Österreich、西: Casa de Austria)とも呼ばれる、ヨーロッパの歴史上最も著名で重要な王朝の一つである[1][2]。
ハプスブルク家の名前は、1020年代にクレトガウのラートボトによって現在のスイスに建てられた要塞、ハプスブルク城に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。1273年、ラートボト伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフがローマ王に選出された。バーベンベルク家の消滅と、1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家に任命して一族の権力基盤をウィーンに移し、ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治することになった。
神聖ローマ帝国の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。ハプスブルク家は、ボヘミア、ハンガリー、クロアチア、スペイン、ポルトガル、ガリツィア・ロドメリアとそれぞれの植民地の王、低地とイタリアの諸公国の支配者、19世紀にはオーストリアとオーストリア=ハンガリーの皇帝、メキシコ皇帝1人を輩出している。16世紀半ば、カール5世の退位に伴い、スペインとオーストリアに分かれ、別々の領土を治めたが、両家は密接な関係を保ち、頻繁に婚姻を繰り返した。
ハプスブルク家の人々は、金羊毛騎士団と聖ゲオルギオス王立騎士団のオーストリア支部を統括している。現在の当主はカール・フォン・ハプスブルクである。
呼称
[編集]家名の「Habsburg」は、ドイツ語ではドイツ語発音: [ˈhaːpsbʊʁk](ハープスブルク)と発音される[注釈 1]。ただし日本では慣用表記・読み方であるハプスブルクが多く使われる。スペイン語ではアブスブルゴ家(Casa de Habsburgo)、フランス語ではアブズブール家(Maison de Habsbourg)となる。ルドルフ1世以来オーストリアを本拠としたことから、スペイン系を含めて「オーストリア家」(ドイツ語:Haus Österreich, スペイン語:Casa de Austria, フランス語:Maison d'Autriche)とも呼ばれる[注釈 2]。
主な君主位
[編集]- 神聖ローマ皇帝(断続的に1273年 - 1806年)、ドイツ国王[注釈 3]、ローマ王[注釈 4]
- オーストリア君主(オーストリア公として1278年 - 1453年、オーストリア大公として1453年 - 1806年/1918年)
- ボヘミア君主(1306年 – 1307年、1437年 – 1439年、1453年 – 1457年、1526年 – 1918年)
- ハンガリー国王、クロアチア国王(1526年 – 1918年)
- スペイン君主(1516年 – 1700年)
- ポルトガル君主(1581年 – 1640年)
- ガリツィア・ロドメリア王国君主(1772年 – 1918年)
- トランシルヴァニア元首(1690年 – 1867年)
歴史
[編集]ハプスブルク家は、アウストラシアのエティション家の分家であり、スイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。
家祖は10世紀に東フランク王国アルザス地方のブライスガウに存在したグントラム金満公である。さらなる祖が初期中世メロヴィング朝フランク王国アウストラシアのブルゴーニュ地域圏のアルザス公でエティション家の家祖となった上アルザス公エティショである[注釈 5]。エティショの祖父アマルガールはウァルダレヌスの娘アキリーナを妻として、ブルグント王国の伯爵領において女子修道院や男子修道院の建設に出資した人物であったが、629年創立のベーズ修道院もその一つである。
グントラムは952年、アウストラシア議会の議決により皇帝オットー1世から領地を没収され、東フランク王国内でスイスに移住した。グントラムの孫であるクレットガウ伯ラートボトが1020年から30年頃にハビヒツブルク城を築いたといわれる。この城はその後ハプスブルク城と呼ばれるようになった。城は現在のスイスのカントン・アールガウにある。ハプスブルクの名は、高地ドイツ語の鷹の城(Habichtsburg)に由来するという説や、近くに浅瀬の川があることから中高ドイツ語の"hab/hap"(浅瀬)に由来するという説があり、一致を見ていない。最初に王家自身によって文書でハプスブルクの名前が使われたのは1108年に遡る[3][4][5]。ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となった。
ハプスブルク家は、チューリッヒ州、アールガウ州、トゥールガウ州で伯爵権などの政治的特権を得ることや婚姻政策を通じて影響力を拡大した。13世紀にハプスブルク家は上アルザスとシュヴァーベンの名家をその婚姻政策の目標とした。彼らは一族のために、教会においても高い地位を得ることができた。領域的には、彼らはしばしばキーブルク家のようなほかの貴族の断絶などから利益を得た[6]。
1273年にハプスブルク伯爵ルドルフ4世(アルブレヒト4世の子)がローマ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて「ルドルフ1世」として世に出た。ルドルフ1世は、1278年にボヘミア王オタカル2世をマルヒフェルトの戦いで破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリア公国を息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世が甥のヨーハン・パリツィーダによって暗殺された後、その子フリードリヒ美王が共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰える。しかし一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世が「大公」を自称した。
1438年にアルブレヒト2世が、次いで1440年フリードリヒ3世がローマ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。フリードリヒ3世の時代は皇帝とは名ばかりで権威も権力も財力もなかったが、マクシミリアン1世はヴァロワ=ブルゴーニュ家への婿入りに近い形で当時のヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)を、その子世代の婚姻関係によってスペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。
カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割した。また、父フィリップ美公や母フアナ女王を通じて相続した所領は1556年に息子フェリペ2世に継がせた。こうしてハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれた。1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。
スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家)
[編集]スペイン系ハプスブルク家またはスペイン・ハプスブルク(エスパーニャ・アブスブルゴ、スペインでは通常はカサ・デ・アウストリアと呼ばれる)家は、1580年から1640年までポルトガル王を兼ね、海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」を実現した。フェリペ2世の在位中に最盛期を迎えるが、無敵艦隊の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、八十年戦争やフランス・スペイン戦争(西仏戦争)に敗れてヨーロッパの覇権を失った。
また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親婚のためか、病弱な王が続いた[7]。
1700年、虚弱なカルロス2世の死によって断絶した後、スペイン継承戦争を経て王位をスペイン・ブルボン家に譲った。
オーストリア系ハプスブルク家
[編集]オーストリア系ハプスブルク家またはオーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世に始まる(ハプスブルク君主国)。1648年に三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化した。しかしオスマン帝国の第二次ウィーン包囲(1683年)撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りオスマン帝国支配下にあったハンガリーを奪還する(1699年、カルロヴィッツ条約)。スペイン継承戦争では、ハプスブルク家に支援を申し出たホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世に「プロイセンの王」の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示す。
1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはシュレージエンを失うなど一時苦境に陥るが、イギリス(グレートブリテン王国)の援助を受けて劣勢を挽回し、1748年アーヘンの和約によってオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの相続を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるロレーヌ家(ロートリンゲン家)のフランツ・シュテファンが1745年に帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためフランス王国と接近した(外交革命)。フランス王太子ルイ(ルイ16世)とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の結婚もその一環である。しかしこの行為でドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加した。さらにマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世は啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。
1789年のフランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンとともにフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかし革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許し、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。
神聖ローマ帝国解体後
[編集]19世紀初頭に神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位した。一方でフランツは、1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていた。しかし、クリミア戦争でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、1859年にはサルデーニャ王国に敗北してロンバルディアを失い、1866年の普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放(ドイツ統一)、と国際的地位を低下させた。
国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー人に対して妥協(アウスグライヒ)することで、帝国は1867年にオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐオーストリア=ハンガリー帝国へ再編された。
それでも以後、民族問題は深刻を深めていく。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を行ったことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化した。そして1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプに暗殺される事件(サラエヴォ事件)がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まる。長引く戦争、ロシアのレーニン政府の戦線離脱などの要因が重なり、連合国側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、チェコスロヴァキアに独立を約束してしまう。帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言した。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊した。その後、ハプスブルク一族はオーストリア共和国への入国を禁止された。1921年にはカール1世がハンガリー王国に復帰しようとしたが、失敗した(カール1世の復帰運動)。
1961年に至って、カール1世の長男オットー元皇太子はオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してオーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。ハプスブルク家はオットーがドイツ選出で、その息子カールがオーストリア選出で、それぞれ欧州議会議員を務め、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つEU時代の両国関係を象徴する存在となっている。ただしオットーはその存命中、ハンガリー王とボヘミア王を名乗り続けていた。
なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の世代以降、現在に至るまで正式な家名は「ハプスブルク=ロートリンゲン家」(Haus Habsburg-Lothringen)である。
結婚政策
[編集]の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。
現在も、最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻によりベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。
血族結婚
[編集]一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こった[7]。カール5世以降、下顎前突症(歯を見せたときに上の歯より下の歯が前にある。所謂「ハプスブルクの顎」)の人物が一族に多くなっており、カール5世は不正咬合により食事は丸呑み状態であったことが伝えられている。特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。
しかし、ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため、外戚に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることもまれであった(甥に暗殺されたアルブレヒト1世、フリードリヒ3世・アルブレヒト6世兄弟やルドルフ2世・マティアス兄弟の争いといった例はある)。
幸福な結婚、多産の伝統
[編集]ほとんどは他の王侯と同様に政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。
- 10人以上の子供がいる主な夫妻
- フェルディナント1世と皇后アンナ(15人)
- マクシミリアン2世と皇后マリア(16人)
- レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネ(10人)
- フランツ・シュテファンと皇后・女王マリア・テレジア(16人)
- レオポルト2世と皇后マリア・ルドヴィカ(16人)
- フランツ2世と皇后マリア・テレジア(12人)
系図
[編集]祖家
[編集]グントラム「富裕伯」[注釈 6] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ランツェリン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ランツェリン ライヒェナウ修道院守護 (?-1000?) | ヴェルナー1世 シュトラスブルク司教 1002-28 | ラートボト (?-bef1045) クレットガウ伯 | イータ ・フォン・ロートリンゲン | ルドルフ1世 (?-bef1063) オトマールスハイム女子修道院建立 | クニグンデ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
娘 | ラントルト ライヒェナウ修道院守護 | オットー1世 | アルブレヒト1世 | ヴェルナー2世 (?-1096) ハプスブルク伯 | レギンリント | リヒェンツァ (?-1081) =ウルリヒ・フォン・レンツブルク=バーデン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツェーリンゲン家 | ヒッラ | オットー2世 (?-1111) ハプスブルク伯 | アルブレヒト2世 (?-1141) | ユデンタ・フォン・オルテンベルク=ヒルルリンゲン (ツォレルン家) | イータ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルナー3世 (?-1167) ハプスブルク伯 | アーデルハイト | ウルリヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イータ (フレンドルフ伯ルドルフ1世娘) | アルブレヒト3世 (?-1199) ハプスブルク伯 | ゲルトルート =メンペルガルト伯ティエリ3世 (スカルポン家) | リヒェンツァ =フェレット伯ルイ1世 (スカルポン家) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグネス (シュタウフェン家) | ルドルフ2世 (?-1232) ハプスブルク伯 アールガウ伯 | 娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハイルヴィヒ (キーブルク家ウルリヒ3世娘) | アルブレヒト4世 (賢伯) (?-1239/40) ハプスブルク伯 アールガウ伯 | ハイルヴィヒ =フローブルク伯ヘルマン | ゲルトルート =フローブルク伯ルートヴィヒ | ルドルフ3世 (?-1249) ラウフェンブルク伯 | ゲルトルート・フォン・レーゲンスブルク | ヴェルナー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ1世 神聖ローマ皇帝 | アルブレヒト (-1256) | ハルトマン (-bef1253) | クニグンデ =ハインリヒ・フォン・キュッセンベルク | ヴェルナー | ゴットフリート (猪突伯) (-1271) | ルドルフ コンスタンツ司教 1274-93 | オットー | エーバーハルト (-1284) | アンナ (キーブルク伯ハルトマン娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(下図) | ルドルフ (-1315) | エリーザベト ・フォン・ラッパースヴィル | 新キーブルク家 (ext.1414) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハプスブルク=ラッパースヴィル家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オーストリア家
[編集]ルドルフ1世 神聖ローマ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルブレヒト1世 神聖ローマ皇帝 | ルドルフ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ1世 ボヘミア王 | フリードリヒ3世 (美王) ローマ王 | レオポルト1世 | アルブレヒト2世 | オットー | ヨーハン (パリツィーダ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ4世 | アルブレヒト3世 | レオポルト3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルブレヒト4世 | ヴィルヘルム | レオポルト4世 | エルンスト | フリードリヒ4世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリーザベト (皇帝ジギスムント娘) | アルブレヒト2世 ハンガリー王 ボヘミア王 神聖ローマ皇帝 | フリードリヒ3世 神聖ローマ皇帝 | アルブレヒト6世 | ジークムント | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラディスラウス・ポストゥムス ボヘミア王 | マクシミリアン1世 神聖ローマ皇帝 | マリー ブルゴーニュ女公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フィリップ (美公) ブルゴーニュ公 | フアナ カスティーリャ女王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール5世 神聖ローマ皇帝 スペイン王(カルロス1世) | フェルディナント1世 神聖ローマ皇帝 | アンナ (ボヘミア・ハンガリー王ウラースロー2世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スペイン・ハプスブルク朝 | マクシミリアン2世 神聖ローマ皇帝 | フェルディナント2世 | カール2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ2世 神聖ローマ皇帝 | マティアス 神聖ローマ皇帝 | カール ブルガウ辺境伯 | フェルディナント2世 神聖ローマ皇帝 | レオポルト5世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント3世 神聖ローマ皇帝 | レオポルト・ヴィルヘルム ネーデルラント総督 | フェルディナント・カール | ジギスムント・フランツ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント4世 ハンガリー王 ボヘミア王 | レオポルト1世 神聖ローマ皇帝 | エレオノーレ | シャルル5世 ロレーヌ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨーゼフ1世 神聖ローマ皇帝 | カール6世 神聖ローマ皇帝 | レオポルト ロレーヌ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリア・ヨーゼファ =ポーランド王アウグスト3世 | マリア・アマーリエ =神聖ローマ皇帝カール7世 | マリア・テレジア | フランツ1世 神聖ローマ皇帝 | マリア・アンナ | カール・アレクサンダー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ザクセン選帝侯家 | バイエルン選帝侯家 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ギャラリー
[編集]-
ウィーンにある本拠地ホーフブルク宮殿
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ウィーンにある離宮シェーンブルン宮殿
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ウィーンで革命があった際に避難先となったチロル州インスブルックにあるインスブルック・ホーフブルク宮殿
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ハンガリーの首都ブダペストにあるブダ城
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ハンガリー王の居城であり、ハプスブルク家が住むことが義務付けされたブラチスラヴァ城
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スペイン・ハプスブルク家の墓があるエル・エスコリアル修道院
評価
[編集]第一次世界大戦中、ウッドロウ・ウィルソン大統領のアドヴァイザーを務めた情報将校のウォルター・リップマンは、大統領に「ハプスブルク帝国を解体してはならない」と進言し、十四か条の平和原則にも同帝国存続の項を盛り込んだという。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して第二次世界大戦が起きたあとには、「これが中欧の政治的均衡を破壊し、ヒトラーへの道を開いた」と主張していた。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 英語での発音は、「Habsburg」:英語発音: [hæpsbɚːg](ハプスバーグ)。
- ^ 例としてスペイン生まれのルイ13世王妃はフランスでアンヌ・ドートリッシュ(オーストリアのアンヌ)と称された。
- ^ 962年 - 1806年
- ^ ハインリヒ2世(1014年 – 1024年)
- ^ エティショは683年ごろ死亡したが、別名をエティヒョ、あるいはアダルリック(アダルリクス)またはアティックという。エティションは踊共二『図説 スイスの歴史』p17.では「エティコン家(エティコーネン家)」または「エティヒョン家(エティヒョーネン家)」と述べている。
- ^ エティション家(エティショーネン家)のノルトガウ伯フーゴ3世の子と推測されている。グントラムの出自については瀬原、『スイス独立史研究』に詳しい考察がある。
出典
[編集]- ^ “The House of Austria – the Habsburgs and the Empire”. 2023年1月17日閲覧。
- ^ “house of Habsburg | Rulers, Motto, History, Map, & Inbreeding” (英語). Encyclopedia Britannica. 2021年9月13日閲覧。
- ^ "Habsburger-Gedenkjahr im Aargau", Neue Zürcher Zeitung, (page 17) 23 May 2008.
- ^ art-tv.ch
- ^ “Kanton Aargau” (ドイツ語). December 23, 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月16日閲覧。
- ^ Heinz-Dieter Heimann: Die Habsburger. Dynastie und Kaiserreiche. ISBN 3-406-44754-6. pp. 38–45.
- ^ a b ヨーロッパの王朝の断絶における近親婚(英語)
参考文献
[編集]- 『歴史群像 No.22 双頭の鷲・ハプスブルク帝国のすべて』学研、1994年
- 瀬原義生『スイス独立史研究』ミネルヴァ書房、2009年
- 下津清太郎 編『世界帝王系図集』近藤出版社、1982年 / 増補版・近藤出版社、1987年、ISBN 978-4772504065/ 増補版・東京堂出版、2001年、ISBN 978-4490204407
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
- 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社現代新書、2017年8月。ISBN 978-4-06-288442-6。
関連項目
[編集]- ハプスブルク家人物一覧
- ネーデルラント17州、南ネーデルラント
- ブラジル帝国 - 国旗の黄色はハプスブルク家の色に由来する。
- 下顎前突症 - ハプスブルク家の人物によく現れていたことで有名で「ハプスブルクの下唇」(Habsburger Unterlippe)という。
- クレメンス・クラウス