ハミルトン・リカルド
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名前 | ||||||
本名 |
ハミルトン・リカルド・クエスタ Hamilton Ricard Cuesta | |||||
ラテン文字 | Hamilton RICARD | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | コロンビア | |||||
生年月日 | 1974年1月12日(50歳) | |||||
出身地 | キブド | |||||
身長 | 186cm | |||||
体重 | 89kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992-1997 | デポルティーボ・カリ | 61 | (22) | |||
1997-2001 | ミドルズブラ | 115 | (33) | |||
2001-2002 | CSKA | 12 | (3) | |||
2002 | サンタフェ | 0 | (0) | |||
2003 | 湘南ベルマーレ | 9 | (1) | |||
2003 | コルトゥルア | 3 | (0) | |||
2004 | エメレク | 25 | (17) | |||
2004 | APOEL | 15 | (6) | |||
2005 | デポルティーボ・カリ | 6 | (0) | |||
2005 | ヌマンシア | 16 | (2) | |||
2006-2007 | ダヌービオ | 25 | (11) | |||
2007-2008 | 上海申花 | 42 | (14) | |||
2009-2010 | ダヌービオ | 10 | (3) | |||
2010-2011 | デポルテス・コンセプシオン | 21 | (8) | |||
2011-2012 | デポルテス・キンディオ | 16 | (7) | |||
2012-2013 | コルトゥルア | 11 | (0) | |||
通算 | 387 | (127) | ||||
代表歴 | ||||||
1995-2000 | コロンビア | 27 | (5) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ハミルトン・リカルド・クエスタ(Hamilton Ricard Cuesta, 1974年1月12日[1] - )は、コロンビア・チョコ県・キブド出身の同国代表のサッカー選手。
経歴
[編集]1998年に移籍金200万ポンドでブライアン・ロブソン率いるミドルズブラFCに加入した。在籍4年間でスタメン92試合(途中出場23試合)33得点を決め、そのうち2度チーム内得点王になり、1999年にはチームの最優秀選手に選ばれた。しかし、監督がスティーブ・マクラーレンに交代すると、余剰戦力とみられPFC CSKAソフィアにフリーで放出された。
イングランドプレミアリーグで通算33得点の実績を引っさげ、2003年に湘南ベルマーレに加入。J1復帰へのエースとして期待されたが、12試合2得点と全くの期待外れに終わった。湘南時代に挙げたゴールは、いずれも2003年4月9日の対サガン鳥栖戦にて記録したものだが、相手選手(ジーコの長男ジュニオール)の緩慢なバックパスを奪ってそのまま決めたものだった。
2004年のグアヤキルをホームとするCSエメレクでプレーしている時に、審判を攻撃し、さらに観客に対し不謹慎なジェスチャーをしたことにより12ヶ月の出場禁止を言い渡されたが、控訴したことにより期間は短縮された[2]。以降は、キャリアを再び輝かせるために欧州へと移籍しようと考え、キプロスのAPOELニコシアへ加入。2005-06シーズンに、CDヌマンシアと1年契約を結び16試合2得点を記録した。
2007年1月24日、リカルドは2002年に起こした車の事故に関して、コロンビアの裁判所に懲役3年を言い渡された。弁護士は控訴の可能性があるとし、まだ刑は執行されていない[3][4]。
その後、ウルグアイのダヌービオFCでは11得点を挙げ、2006-07シーズンのリーグ優勝に貢献した。2007年6月、中国サッカー・スーパーリーグの上海申花聨盛足球倶楽部と契約を結んだ[2]。上海申花では、A3チャンピオンズカップ2007で3試合2得点というパフォーマンスを見せ、中国のクラブとして初のA3チャンピオンズカップ優勝に貢献した。一方リーグ戦では、6月21日の出場2試合目の天津泰達足球倶楽部戦、2-2で引き分けている中で決勝ゴールを決めた。翌2008年は、34歳という年齢ながら29試合に出場しチームトップの得点を挙げるも、シーズン終了後に35歳に達するという高齢のため放出された。
代表
[編集]1995年2月4日、0-0と引き分けたオーストラリア代表戦でコロンビア代表デビューをする。コパ・アメリカ1997では、準々決勝で敗退するまでの全4試合に出場し、1-2で敗北したメキシコ代表戦で1得点を決めた。翌年の1998 FIFAワールドカップにメンバー入りをした。イングランド代表戦に後半から出場したが、チームは0-2で敗戦したことによりグループリーグ敗退が決まった。さらに翌年のコパ・アメリカ1999に出場するも再び準々決勝で敗退。リカルドはそれまでの全4試合に出場し、2-1で勝利したエクアドル代表戦で1得点を決めた。
2000年4月26日、ラパスで行われた2002 FIFAワールドカップ・南米予選、1-1で引き分けたボリビア代表との試合が代表最後の試合となった。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2003 | 湘南 | 28 | J2 | 12 | 2 | - | |||||
通算 | 日本 | J2 | 12 | 2 | - | ||||||
総通算 | 12 | 2 | 0 | 0 |
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 27試合 5得点(1995年-2000年)[5]
コロンビア代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1995 | 3 | 1 |
1996 | 1 | 0 |
1997 | 13 | 3 |
1998 | 2 | 0 |
1999 | 6 | 1 |
2000 | 2 | 0 |
通算 | 27 | 5 |
個人タイトル
[編集]- コロンビアリーグ得点王 : 1996-97
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ハミルトン・リカルド - National-Football-Teams.com
- ハミルトン・リカルド - Soccerway.com
- ハミルトン・リカルド - FootballDatabase.eu
- ハミルトン・リカルド - WorldFootball.net
- ハミルトン・リカルド - Transfermarkt.comによる選手データ
- ハミルトン・リカルド - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ハミルトン・リカルド - FIFA主催大会成績
- ハミルトン・リカルド - J.League Data Siteによる選手データ
- ハミルトン・リカルド - playmakerstats.com
- ハミルトン・リカルド - BDFutbol.com