バーニー・シュルツ
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニュージャージー州ビバリー |
生年月日 | 1926年8月15日 |
没年月日 | 2015年9月6日(89歳没) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 200 lb =約90.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1944年 |
初出場 | MLB / 1955年4月12日 |
最終出場 | MLB / 1965年9月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴
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この表について
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ジョージ・ウォーレン・“バーニー”・シュルツ(George Warren "Barney" Schultz、1926年8月15日 - 2015年9月9日[1])は、アメリカ合衆国・ニュージャージー州ビバリー出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。
来歴・人物
[編集]バーリントン市立高等学校を卒業後、1944年にフィラデルフィア・フィリーズと契約。マイナー生活を長く送ったのち、1955年にセントルイス・カージナルスでメジャー初昇格を果たし、19試合に登板するが、1956年からしばらくマイナー暮らしが続く。
1959年にデトロイト・タイガースでメジャー復帰を果たすも、1960年は再びマイナーで1年を過ごす。
1961年にシカゴ・カブスでメジャー復帰してからはナックルボールを武器にメジャーに定着し、1963年のシーズン途中にカージナルスに復帰すると、1964年にはクローザーとしてチーム最多の14セーブを記録して18年ぶりのリーグ優勝に貢献。その年のヤンキースとのワールドシリーズにも4試合に登板し、第1戦では7回から登板し3回1失点でセーブを記録するが、第3戦では同点の9回裏に登板するもミッキー・マントルにサヨナラ本塁打を打たれ敗戦投手となる。第6戦では2点ビハインドの8回に登板するが、1点を失いなおも走者を3人残して降板すると、後続の投手がジョー・ペピトーンに満塁本塁打を打たれ4失点。翌日の第7戦でカージナルスはワールドチャンピオンとなり、シュルツは防御率18.00ながら優勝メンバーとなる。
1965年は34試合に登板するが、1966年はメジャー登板なしに終わり、この年限りで現役を引退。メジャー通算227登板は全てリリーフであった。
引退後はカージナルス傘下のマイナーで投手コーチを務めたあと、カージナルス投手コーチ(1971年 - 1975年)、カブスで投手コーチ(1977年)→特命コーチ(1978年 - 1980年)を務めた。
1981年からは南海ホークス一軍投手コーチに就任し、ドン・ブレイザー監督、与那嶺要ヘッド兼打撃コーチと外国人による首脳陣を形成。在任中は山内和宏にチェンジアップを伝授して投球の幅を広げ[2]、就任前は5点台後半であったチーム防御率を4.05まで改善させるなど手腕を発揮したが、柴田猛バッテリーコーチと投手交代を巡って意見対立しベンチ内であわや乱闘という事件を起こしている[3]。チームは5位、6位と低迷から脱出できず、1982年オフにブレイザー、与那嶺と共に退団。
詳細情報
[編集]背番号
[編集]- 43 (1955年)
- 20 (1959年)
- 41 (1961年 - 1963年途中)
- 36 (1963年途中 - 1964年途中)
- 33 (1964年途中 - 1965年)
- 73 (1981年 - 1982年)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b “Barney Schultz Stats,Fantasy&News|MLB.com”. MLB.com. 2023年12月14日閲覧。
- ^ “山内和宏 “山内トリオ”の一角は低迷期ホークスのエース/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (2018年9月26日). 2023年12月14日閲覧。
- ^ 週刊ベースボール1981年11月23日号「秋の陽の中の人間模様 フォームのクセを見破り、読唇術も駆使する異能コーチ脚光を浴びる日が来たー柴田猛」p27-p28