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ジョー・ペピトーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・ペピトーン
Joe Pepitone
2009年7月19日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1940-10-09) 1940年10月9日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州 ニューヨーク ブルックリン区
没年月日 (2023-03-13) 2023年3月13日(82歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州 カンザスシティ
身長
体重
6' 2" =約188 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1958年
初出場 MLB / 1962年4月10日
NPB / 1973年6月20日
最終出場 MLB / 1973年5月25日
NPB / 1973年8月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ニューヨーク・ヤンキース (1982)

ジョー・ペピトーン英語: Joe Pepitone, 本名:ジョゼフ・アンソニー・ペピトーン(Joseph Anthony Pepitone、1940年10月9日 - 2023年3月13日[1])は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区出身のプロ野球選手内野手)。

経歴

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メジャーリーグ時代

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1962年に地元のMLBチーム、ニューヨーク・ヤンキースに入団。地元出身の天性のホームランバッターということもあり、地元ファンから「ミッキー・マントルの後継者」と期待された[2]

入団早々、当時アメリカ球界で御法度とされた長髪をなびかせ、契約金2万5千ドル全額を使ってフォード・サンダーバードを買った。1年目にはシャークスキン柄のスーツでキャンプインし、夜な夜な部屋に女性を連れ込んで遊び呆けていたが、1964年のワールドシリーズの第6戦で満塁本塁打を放つなど、1966年までは打率こそ低いもの成績を残していた。また3度ゴールドグラブ賞を獲得する[2]など、一塁手としての守備力には高い評価がされていた。また、乱闘になれば真っ先に飛び出す破天荒な性格は、全盛期当時としてはニューヨーカーに歓迎された。

しかし、元々確実性に欠けるうえに選球眼もよくないことから、1967年以降は成績が下降した。その上、遅刻、無断欠勤を繰り返し、グラウンド外でトラブルを起こすようになるなど素行に問題があり、1969年シーズンを最後に所属契約を解除される。その後、ヒューストン・アストロズシカゴ・カブスアトランタ・ブレーブスと球団を転々とした。

ヤクルト時代

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1973年ヤクルトアトムズは、衰えを見せていたデーブ・ロバーツとの契約を解除し、6月16日にペピトーンを獲得した。ヤクルトはペピトーンへの年俸70,000ドルに加え、アトランタ・ブレーブスへもトレードマネーとして70,000ドルを支払ったという[3]

ペピトーンは6月20日に初来日。3日後の対巨人11回戦(後楽園)の6回表に決勝タイムリーを記録した[4]。球団が「ペピトーン・デー」と位置付けた6月30日の対中日12・13回戦ダブルヘッダー神宮)の第2試合を欠場[2]。そのまま当時の夫人との離婚裁判への出席を理由に無断で帰国し、解決後の8月8日に再来日するも、8月19日の対阪神22回戦(神宮)を最後に、アキレス腱を痛めて欠場[2]。しかし、当時赤坂にあったディスコ「ビブロス」にて朝まで踊り狂っている様子を何度も目撃されており[2][5]、球団関係者からは「ペピトーンのアキレス腱痛は病院へ行けば行くほど悪化していった」と皮肉られた。さらに、9月12日には治療という名目で無断帰国した。

しばらく部屋を共にしていたクリート・ボイヤー(ヤンキース時代の同僚で、当時大洋ホエールズに所属)の手元に1500ドル以上にのぼるアメリカ合衆国への長距離電話代と1000ドル以上の雑費の請求書を残し、ヤクルト球団がその支払いの肩代わりをすることになる[5]など、私生活の面でもトラブルが絶えず、また練習嫌いであったこともあって、仮病を使って休むことも多かった[注 1]。あまりの素行の悪さに当時の監督だった三原脩は「ペピトーンを来期の戦力に加えないように」とフロントに告げたが、成績に関わらず中途解雇できない2年契約であったため残留となった。

2年目となる1974年、オープン戦が始まっても来日せず、球団から「球団指定日(3月15日)までに来日しないと所属契約を解除する」と通達されるも、ペピトーンは前年来日時の荷物輸送料金と犬の空輸料金を要求。結局15日までに来日しなかったため、3月20日にコミッショナー事務局に任意引退選手公示申請をして契約解除し、ヤクルトを退団した(3月21日に公示)。後にアメリカ球界復帰を考えていたペピトーンの要求により自由契約公示された。

最終的に日本で大した成績を残すこともなく、またあまりの素行の悪さに「日本プロ野球史上最悪の外国人選手」という評価を受けた[6][7]

ヤクルト退団後

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NYタイムズの取材記事にて、日本への中傷を見た太平洋クラブライオンズのマーティ・キーナート企画室長が「アメリカ人の面汚し」と激怒し、タイムズ紙と全メジャー球団に反論文を送り付けた[8]事で、アメリカ球界でもペピトーンの数々の問題行動が広く知られる事となる。この事が原因となり、マイナーも含めたアメリカの球団に入団希望を打診するも、悪評が広がっていたせいで門前払いを喰らい、野球選手を引退する事になった。なお、このことがきっかけで日本球界との関係悪化とペピトーンの擁護不可能な素行不良に責任を感じたロサンゼルス・ドジャースピーター・オマリー会長がヤクルトに対して選手移譲を申し入れ、真面目で日本受けしやすいチャーリー・マニエルを移譲した[注 2]

事実上アメリカ球界を追放されることになったペピトーンは、1985年にコカインを不正所持、出所直後に拳銃不法所持、1992年に軽犯罪、1995年に飲酒運転交通事故を起こした[9][10][11]

2021年にはミッキー・マントルがヤンキースタジアムで500号本塁打を打ったバットの返却をめぐり、アメリカ合衆国の連邦裁判所に訴えを起こした。訴状によると、野球殿堂に対し、博物館に展示されているバットの返却と、100万ドル(2021年7月時点の為替レートで約1億1000万円)の損害賠償を求めているという。訴状のなかでペピトーンは、そのバットを「求めがあればいつでも返却される」という条件のもとに野球殿堂に貸していたと主張している。ぺピトーンによると、500号がかかっていたマントルは、バットのスピードが出るように自身のモデルよりも軽いものを使いたいと話したので、その前の回に本塁打を打った自分のバットを貸したという。試合後、そのバットが知らないうちに自分のロッカーから持ち去られ、数日後にバットを貸すことで博物館と合意したと説明した[12]

2023年3月13日に死去。82歳没。14日時点で死因は明らかになっていないが、息子によれば心臓発作の可能性があるという[13]。死去に際しヤンキースは「生粋のニューヨーカーとして、彼は選手としてのキャリアとその後の数十年間、ヤンキーであることのすべてを受け入れてきました。私たちの組織全体が彼を惜しみ、彼の家族、友人、そして彼を知っているすべての人に心からお悔やみを申し上げます」と追悼の声明を出した[14]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1962 NYY 63 141 138 14 33 3 2 7 61 17 1 1 0 0 3 0 0 21 5 .239 .255 .442 .697
1963 157 615 580 79 157 16 3 27 260 89 3 5 0 5 23 2 7 63 10 .271 .304 .448 .752
1964 160 647 613 71 154 12 3 28 256 100 2 1 2 5 24 7 3 63 17 .251 .281 .418 .698
1965 143 580 531 51 131 18 3 18 209 62 4 2 3 1 43 11 2 59 12 .247 .305 .394 .699
1966 152 621 585 85 149 21 4 31 271 83 4 3 0 5 29 6 2 58 14 .255 .290 .463 .753
1967 133 545 501 45 126 18 3 13 189 64 1 3 3 4 34 4 3 62 16 .251 .301 .377 .678
1968 108 421 380 41 93 9 3 15 153 56 8 2 0 3 37 9 1 45 7 .245 .311 .403 .714
1969 135 546 513 49 124 16 3 27 227 70 8 6 0 2 30 11 1 42 13 .242 .284 .442 .726
1970 HOU 75 299 279 44 70 9 5 14 131 35 5 2 0 1 18 9 1 28 7 .251 .298 .470 .767
CHC 56 234 213 38 57 9 2 12 106 44 0 2 4 2 15 2 0 15 2 .268 .313 .498 .811
'70計 131 533 492 82 127 18 7 26 237 79 5 4 4 3 33 11 1 43 9 .258 .304 .482 .786
1971 115 460 427 50 131 19 4 16 206 61 1 2 2 3 24 8 4 41 14 .307 .347 .482 .830
1972 66 233 214 23 56 5 0 8 85 21 1 2 0 3 13 4 3 22 4 .262 .309 .397 .706
1973 31 122 112 16 30 3 0 3 42 18 3 1 0 1 8 0 1 6 1 .268 .320 .375 .695
ATL 3 12 11 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 1 0 0 1 2 .364 .417 .364 .780
'73計 34 134 123 16 34 3 0 3 46 19 3 1 0 1 9 0 1 7 3 .276 .328 .374 .702
1973 ヤクルト 14 49 43 1 7 0 0 1 10 2 0 0 0 0 5 3 1 7 0 .163 .265 .233 .498
MLB:12年 1397 5476 5097 606 1315 158 35 219 2200 721 41 32 14 35 302 73 28 526 124 .258 .301 .432 .733
NPB:1年 14 49 43 1 7 0 0 1 10 2 0 0 0 0 5 3 1 7 0 .163 .265 .233 .498

表彰

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MLB

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 25 (1962年 - 1969年)
  • 9 (1970年 - 同年途中)
  • 8 (1970年途中 - 1973年途中)
  • 7 (1973年途中 - 同年途中)
  • 5 (1973年途中 - 同年終了)

脚注

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注釈

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  1. ^ 8月14日の巨人戦では「帰国していた間、バッティング練習をしすぎて手にマメができた。痛くてバットを握れない」、8月20日の阪神戦では「前日の試合で外野を守った時、右アキレス腱が炎症を起こした」という理由で休んだ。同僚に「大リーガーが外野守備で怪我するなんて」と陰口を叩かれると、「実は外野守備練習の際、芝のくぼみに足をとられた」と理由を変更した。
  2. ^ 後にマニエルはヤクルトの日本一と近鉄のパ・リーグ2連覇に貢献する名助っ人となり、赤鬼という愛称で慕われた。

出典

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  1. ^ Joe Pepitone, Gold Glover and flamboyant Yankees All-Star, dead at 82” (英語). CBS NEW YORK (2023年3月13日). 2023年3月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e 広尾晃 (2021年6月20日). “「神のお告げ」グリーンウェル、「浅草観光」ミセリ…プロ野球界の記憶に残る“トホホ助っ人”列伝”. 文春オンライン. 2022年8月22日閲覧。
  3. ^ 『菊とバット』278頁
  4. ^ 【6月23日】1973年(昭48)凄かったのは1日だけ…“カツラ”外国人の奇人伝 スポーツニッポン
  5. ^ a b 『菊とバット』280-281頁
  6. ^ 外国人担当スカウトが断言「女性問題を抱えている選手は活躍しない」…プロ野球“史上最悪の助っ人”は「ケガをしてるのにディスコに」(菊地高弘)”. Number Web (2022年8月2日). 2022年8月22日閲覧。
  7. ^ 二宮清純「独断で選ぶ“プロ野球助っ人ワースト3”」”. 現代ビジネス (2012年5月18日). 2024年1月8日閲覧。
  8. ^ 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 232-233 
  9. ^ Buder, Leonard (March 20, 1985). “PEPITONE ARRESTED ON DRUG CHARGES”. 2023年3月14日閲覧。
  10. ^ Karen Freifeld (February 23, 1996). “Joe Pepitone In Auto Plea”. Newsday (Melville, New York). https://pqasb.pqarchiver.com/newsday/search.html 
  11. ^ Pepitone in Scuffle at Hotel Lounge”. 2023年3月14日閲覧。
  12. ^ ヤクルトにも在籍のペピトーン氏、展示バット返却求め米野球殿堂訴える 日刊スポーツ 2021年7月11日 (2023年3月20日閲覧)
  13. ^ ペピトーン氏が死去82歳 ヤンキースで活躍、73年にヤクルトでプレーも離婚問題などお騒がせ 日刊スポーツ 2023年3月14日 (2023年3月20日閲覧)
  14. ^ お騒がせ外国人ペピトーン氏が82歳で死去 活躍したヤンキースは追悼の声明を発表 スポーツ報知 2023年3月14日 (2023年3月19日閲覧)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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