パラメスヴァラヴァルマン1世
ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世 जय परमेश्वरवर्मन् २ | |
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第12王朝 | |
後期初代国王 | |
国号 | チャンパ王国 |
王朝 | 第12王朝 |
在位期間 | 1220年 - 1253年 |
姓・諱 | アンシャラージャ |
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
父 | ジャヤ・ハリヴァルマン2世 |
后妃 | 博拉吉婭 |
ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世(サンスクリット語: जय परमेश्वरवर्मन् २, ラテン文字転写: Jaya Parameśvaravarman II, 生没年不詳)は、チャンパ王国(占城国)第12王朝の後期初代国王(在位:1220年 - 1253年)。初名はアンシャラージャ(サンスクリット語: अंशराजा, ラテン文字転写: Angśarāja)。『大越史記全書』では布耶羅(ベトナム語: Bố Gia La)と記される。
生涯
[編集]ジャヤ・ハリヴァルマン2世の長男[1]で、トゥライ=ヴィジャヤの出身。クメール宮廷において国王ジャヤーヴァルマン7世の元で成長し[1]、1201年にジャヤーヴァルマン7世からユーヴァラージャに任じられた[2]。1203年にクメールによるチャンパ支配が始まるとチャンパに戻り、その支配の一端を担った[2]。
1207年にはビルマ人やシャム人を含めたクメール軍を率いて李朝大越と戦った。1216年と1217年にも乂安に侵攻したが、州伯の李不染に撃退された[3]。ジャヤーヴァルマン7世没後[4]の1220年[5]にクメール軍がチャンパから撤退する[6]と即位した[4][7][8][9]。その治世の大半は灌漑事業の復旧とクメールとの戦争で損壊した寺院の再建に費やされた。ヤンプナガラのポー・ナガル塔に代表される南部カウターラにあったリンガや、アマラーヴァティーにあるシュリーシャーナバドレーシュヴァラの復興に尽力した[7]。ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世の統治の間、チャム芸術のビンディン様式はクメール芸術の影響を受けていることが指摘されている[2]。
北の大越に対して幾度も朝貢しながらも、李朝の衰退に乗じて大越沿岸部でたびたび劫掠を行ってきたが、これに対して李朝に代わった陳朝皇帝の太宗から宣諭を受けると、ルドラヴァルマン3世の代に割譲して以降、両国の間で長年係争の種になっていた旧チャンパ領の地哩、麻令、布政の北部3州の返還を大越に対して求め[7]、これらを窺う姿勢を見せた。1252年、怒った太宗が親征する大越軍の侵攻を招き[10]、ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世は妃の博拉吉婭や妾、多くの重臣と共に捕虜となって[4][7]北に連行された。
出典
[編集]参考資料
[編集]- George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681
- Daniel George Edward Hall (1981/05/01). History of South-East Asia. Macmillan Press. ISBN 978-0333241639
- Bruce McFarland Lockhart; Kỳ Phương Trần (January 1, 2011). The Cham of Vietnam: History, Society and Art. National University of Singapore Press. ISBN 978-9971-69-459-3
- 石井米雄、桜井由躬雄 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年12月20日。ISBN 978-4634413504。
- レイ・タン・コイ 著、石澤良昭 訳『東南アジア史』(増補新版)白水社〈文庫クセジュ〉、2000年4月30日。ISBN 978-4560058268。
- 桃木至朗「ヴェトナム李朝の軍事行動と地方支配」『東南アジア研究』第24巻第4号、京都大学東南アジア研究センター、1987年3月、403-417頁、doi:10.20495/tak.24.4_403、ISSN 0563-8682、NAID 110000200406。
- 桃木至朗「十-十五世紀ベトナム國家の「南」と「西」」『東洋史研究』第51巻第3号、京都大学東洋史研究会、1992年12月31日、464-497頁。
- 『大越史記全書』本紀巻之四 李紀 恵宗皇帝
- 『大越史記全書』本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝
- 『ベトナム史略』第1巻 第3部 第6章 陳氏
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