パンアメリカン航空301便地上衝突事故
衝突後の301便 | |
事故の概要 | |
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日付 | 1986年11月6日 |
概要 | パイロットエラーによる地上衝突 |
現場 | アメリカ合衆国・フロリダ州タンパ国際空港 |
負傷者総数 | 3 |
死者総数 | 1 |
生存者総数 | 23 |
第1機体 | |
1987年11月に撮影された事故機 | |
機種 | ボーイング727-235 |
機体名 | Clipper Good Hope |
運用者 | パンアメリカン航空 |
機体記号 | N4743[1] |
出発地 | タンパ国際空港 |
目的地 | ニューアーク国際空港 |
乗客数 | 17 |
乗員数 | 6 |
負傷者数 (死者除く) | 3 |
死者数 | 0 |
生存者数 | 23(全員) |
第2機体 | |
同型機のパイパー PA-23 | |
機種 | パイパー PA-23-150 |
運用者 | 個人所有 |
機体記号 | N2185P[2] |
出発地 | パイン・シャドーズ飛行場 |
目的地 | タンパ国際空港 |
乗員数 | 1 |
負傷者数 (死者除く) | 0 |
死者数 | 1(全員) |
生存者数 | 0 |
パンアメリカン航空301便地上衝突事故は、1986年11月6日にアメリカ合衆国のタンパ国際空港で発生した航空事故である。
離陸のため誘導路を走行していたパンアメリカン航空301便(ボーイング727-235)に着陸してきた個人所有のパイパー PA-23-150が衝突し、PA-23のパイロットが死亡した[3][4]。
飛行の詳細
[編集]パンアメリカン航空301便
[編集]事故機のボーイング727-235(N4743)は1968年に製造され、同年3月20日に初飛行を行っていた[5]。
301便のコックピットには機長、副操縦士、航空機関士が乗務しており、3人とも有効な飛行資格を保有していた[6]。
パイパー PA-23
[編集]事故機のパイパー PA-23-150(N2185P)は1956年11月16日に製造された。直近の検査は1986年5月19日に行われており、この時点での総飛行時間は4,248時間だった[6]。
PA-23を操縦していたのはイースタン航空の機長である56歳の男性だった。機長は自宅からタンパ国際空港への通勤にPA-23を使用していた。事故当日、機長は8時05分発のEA164便に乗務するため、7時20分までに空港にチェックインする必要があった。総飛行時間は約20,000時間で、タンパ国際空港へは過去12ヶ月で33回の着陸経験があった[7][8][9]。
EA164便は代わりの機長の到着後、およそ1時間半遅れて離陸した[10]。
事故の経緯
[編集]事故前日の21時頃、PA-23のパイロットは翌日のタンパ国際空港の天候をフライト・サービス・ステーションに電話して聞いた。この時にパイロットが得た情報では、視程は4.8km程度と予報されていたが、予報は夜半に2度修正され、4時20分の最新の予報では視程は200mとなっていた。しかしPA-23のパイロットは出発前に新しい予報を聞いていなかった。事故当日の6時12分、PA-23はパイン・シャドーズ飛行場を離陸し、タンパ国際空港へ向かった。6時40分、管制官は進入許可を与えた。6時47分、PA-23は進入復航を行い、パイロットは管制官に「もう一度試したい」と告げた。この時点で視程は1,000フィート (300 m)まで低下していた。6時58分、PA-23は2度目の進入を開始した[7][9][11]。
7時01分、パンアメリカン航空301便は滑走路35Lへ向けてタキシングを開始した。301便が誘導路W-2を走行中、霧の中からPA-23が真っ正面に現れた。301便の機長はブレーキをかけると共に機体を右に向け、衝突を回避しようとした。PA-23は301便の左前方部に衝突し、機体の下を通り抜けて炎上した[7][9][11]。
事故調査
[編集]国家運輸安全委員会(NTSB)が事故調査を行った。最終報告書では、事故原因としてPA-23のパイロットが地上を目視できない状態で着陸を強行した結果、誤って誘導路に着陸し、301便と衝突したと推定された[12]。
PA-23のパイロット、すなわちイースタン航空の機長は1981年に乗務に遅刻し、その便を遅延させたことがあった。そのとき、再発防止のための是正処置を取るようにと勧告されていた。再度遅刻すると懲罰を受けてしまう期間は3年で事故時には期間を過ぎていたが、この事を機長は知らなかった。そのため、機長は遅刻を絶対に出来ないと思い込んでおり、これが着陸を強行させた心理的要因と推定された[7][9]。
また、事故当時に301便のパイロットは着陸灯を点灯させていなかった。着陸灯を点灯させないことは規則違反ではかったが、PA-23が衝突を回避するのに役立った可能性が指摘された[13]。
事故後
[編集]空港当局は、301便の機長が一連の回避操作を行ったため、大惨事が避けられた可能性があると述べた。301便の副操縦士は衝突の直前、PA-23が機首をあげ、わずかに左に傾いていたため、回避操作を行っていた可能性があると話した[4][10][11]。管制官とパイロットの会話を聞いていた空港職員は、パイロットが「大変だ」と叫んでいたと証言した。また、管制官がPA-23の着陸を認めていなかったとも証言した。これに対してFAAのスポークスマンは着陸の許可は与えられていたと否定した[10][13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ "FAA Registry (N4743)". Federal Aviation Administration.
- ^ "FAA Registry (N2185P)". Federal Aviation Administration.
- ^ Aviation Safety Network. “ASN Aircraft accident Boeing 727-235 N4743 Tampa International Airport” (英語). 2020年7月17日閲覧。
- ^ a b ロサンゼルス・タイムズ. “Jet Hit on Tampa Taxiway; Pilot of Light Plane Killed” (英語). 2020年7月17日閲覧。
- ^ report, pp. 9.
- ^ a b report, pp. 8.
- ^ a b c d 加藤 2006, pp. 49–51.
- ^ report, pp. 7–8.
- ^ a b c d 加藤 2008, pp. 136–168.
- ^ a b c ニューヨーク・タイムズ. “EASTERN PILOT IN OWN PLANE DIES IN RUNWAY CRASH” (英語). 2020年7月27日閲覧。
- ^ a b c report, pp. 1–8.
- ^ report, pp. 24–25.
- ^ a b ワシントン・ポスト. “Jet at Tampa Airport Hit By Small Plane” (英語). 2020年7月27日閲覧。
参考文献
[編集]- 国家運輸安全委員会 (English) (PDF), PIPER PA-23-1 50, N2 185P AND PAN AMERICAN WORLD AIRWAYS BOEING 727-235, N4743 TAMPA, FLORIDA NOVEMBER 6, 1986
- 加藤寛一郎『航空機事故 次は何が起こる』講談社+α、2006年。ISBN 9784062569958。
- 加藤寛一郎『航空機事故50年史』講談社+α、2008年。ISBN 9784062811989。