パーヴェル・クロチキン
パーヴェル・アレクセイヴィチ・クロチキン(ロシア語: Павел Алексеевич Курочкин, ラテン文字転写: Pavel Alekseyevich Kurochkin、1900年11月19日(ユリウス暦11月6日) - 1989年12月28日)は、ソ連の軍人。上級大将。ソ連邦英雄。
経歴
[編集]スモレンスク県ヴャゼム郡ゴルネヴォ村の農家出身。冬宮襲撃の参加者。
1918年、赤軍に入隊。ロシア内戦時、騎兵中隊、騎兵連隊を指揮。1920年、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)に入党。1924年、連隊学校長、連隊参謀長、アカデミーの講師を歴任。1932年、フルンゼ名称軍事アカデミー卒業。その後、旅団参謀長、旅団長、師団長、軍団参謀長、軍集団参謀長を務める。
ポーランド侵攻時、軍団を指揮。ソ・フィン戦争時、第28狙撃軍団長。1940年、参謀本部軍事アカデミーを卒業し、軍集団、軍を指揮。1941年、ザバイカル軍管区とオリョール軍管区の司令官を務める。
独ソ戦時、第20軍(1941年7月~)、第43軍(1941年8月)、第11軍(1942年11月~)、第34軍(1943年3月~)、第60軍(1944年4月~)を指揮。その後、スタフカ代表と北西戦線司令官(1941年8月~1942年10月、1943年6月~11月)を務めた。1944年2月~4月、第2白ロシア戦線を指揮。
1945年7月、クバン軍管区司令官、1946年7月、駐独軍集団副司令官、1947年5月、極東軍総司令官補佐官。1946年~1950年、ソ連最高会議代議員。1951年2月、参謀本部軍事アカデミー副校長、1954年5月、フルンゼ名称軍事アカデミー校長。1968年4月、ワルシャワ条約機構加盟国軍統合司令部に勤務。1970年、ソ連国防省監察総監部。
表彰・受勲
[編集]ソ連邦英雄(1945年6月29日)。1980年、レーニン賞を受章。