ビル・フォルケス
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Bill Foulkes | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イングランド | |||||
生年月日 | 1932年1月5日 | |||||
出身地 | セント・ヘレンズ | |||||
没年月日 | 2013年11月25日(81歳没) | |||||
身長 | 180cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1952-1970 | マンチェスター・U | 566 | (7) | |||
代表歴 | ||||||
1954 | イングランド | 1 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1970-1975 | マンチェスター・Uユース監督 | |||||
1975-1977 | シカゴ・スティング監督 | |||||
1978-1979 | タルサ・ラフネックス監督 | |||||
1979-1980 | ウィットニータウンAFC監督 | |||||
1980 | サンノゼ・アースクエイクス監督 | |||||
?-? | ILブリン監督 | |||||
?-? | スタインシャーFK監督 | |||||
1983-1984 | リールストロムSK監督 | |||||
1985 | ヴァイキングFK監督 | |||||
1988-1991 | マツダSCヘッドコーチ | |||||
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ウィリアム・アンソニー(ビル)・フォルケス(William Anthony "Bill" Foulkes、1932年1月5日 - 2013年11月25日)は、イングランドのサッカー選手、サッカー指導者。
人物
[編集]マンチェスター・ユナイテッドFC一筋でプレーしたセンターハーフ(現在のポジションにおけるセンターバック)[2]。マンチェスター・ユナイテッドで公式戦通算688試合に出場しており、2013年現在でライアン・ギグス、ボビー・チャールトン、ポール・スコールズに次いで、クラブ史上4番目の出場記録にあたる[3]。
マット・バスビーが率いた「バスビー・ベイブス」の一員。1958年におきた「ミュンヘンの悲劇」の生存者の1人[4]。事故後、1966年までマンチェスターUのチームキャプテンを務めている[3]。
祖父はセントヘレンズのラグビーリーグのチームでキャプテンを務めた国際的なラグビー選手[1]。実父はニュー・ブライトン A.F.C.でプレー経験のあるサッカー選手[1]。
来歴
[編集]現役初期
[編集]ホイストンボーイズクラブでディフェンダーとしてプレーしていたところ、マンチェスター・Uにスカウトされ、1950年、17歳の時に契約する[1]。入団後はマンチェスターの地域リーグでプレーしながら、リー・グリーン炭鉱で働いた[1][3]。
1952年12月13日、対リバプールFC戦にて右フルバック(サイドバック)でFA1部リーグ戦デビューを果たす[1]。1954年1月2日対ニューカッスル・ユナイテッドFC戦にて、ハーフライン付近からのロングシュートでリーグ戦初ゴールをあげている[1]。
イングランド代表としては、2度U-23代表に選ばれた後、1954年10月2日対北アイルランド戦にてイングランドA代表デビュー。これが唯一の国際Aマッチ出場記録となっている[1][3]。
1955-56シーズンのリーグ戦優勝に貢献する。翌UEFAチャンピオンズカップ 1956-57出場機会が与えられていたが、世界最古のサッカーリーグを誇っていたフットボールリーグは、孤立主義的思想により国内クラブの出場に反対していた。マンチェスター・Uはそれを押し切り、イングランドのクラブとしては初出場を果たした。1956-57シーズンのFA1部リーグ連覇に貢献する。
ミュンヘンの悲劇
[編集]前シーズンのFA1部リーグ優勝により、UEFAチャンピオンズカップ 1957-58に出場を果たした。順調に試合を重ね、準々決勝対レッドスター・ベオグラード戦にて、第1戦ホームで2-1と勝利し、第2戦アウェーで3-3と引き分け、準決勝に進むことができたが、その第2戦の敵地ベオグラードからの空路での帰り道の中継地点であるリーム空港にて、航空事故、俗にいうミュンヘンの悲劇に遭遇する。
フォルケスは、デービッド・ペッグ、ロジャー・バーン、リアム・ウェラン、ケン・モーガンス、アルバート・スカンロンと、飛行機の中央付近の席にいた[2]。墜落時のことをフォルケスは以下のように述べている。
The plane was bouncing along and obviously not going fast enough and then suddenly there were three tremendous sickening thuds and everything was spinning around. A second later I was sitting in my seat with my feet in the snow.
(飛行機はバウンドし明らかに速度が十分でなかった。その時、3度の凄まじい衝撃音の後に何もかも回転した。次の瞬間、私は雪のなかで座席に座っていた。) — ビル・フォルケス、[2]
機体は、フォルケスの座った席の下から右半分が破損した[2]。フォルケス自身の怪我は、試合後のお祝いとしてイギリス大使館から送られたジンの瓶で頭に外傷を受けた程度だった[2]。その後現場から50ヤードほど離れたあと、再び飛行機に戻って状況を見ている。
The back of the aircraft had just disappeared. I got out as quickly as I could and just ran and ran. Then I turned and realised that the plane wasn't going to explode, and I went back. In the distance I could see the tail part of the aircraft blazing and as I ran back I came across bodies.
(飛行機の後ろ半分がなくなった。私は一目散に逃げた。その後振り向いて、飛行機はもう爆発はないと思い引き返した。飛行機の後ろ半分は遠くで燃えていて、死傷者が横たわっていた。) — ビル・フォルケス、[2]
その後フォルケスはハリー・グレッグとともに救護にあたった[2]が、この事故により多くのチームメイトを失った。
It was obvious that we would struggle to take off and they took the chance. They should never have done that. I don't feel guilty about being a survivor. I was just damned lucky. But I do harbour this feeling that it wasn't necessary, that angers me. It cost the club, it cost the country so much.
(飛行機が飛び立つのに苦労していたことは確かであったが、彼ら(パイロット)は一か八かに掛けてしまった。彼らは絶対にそのようなことをしてはいけなかった。私は生き残ったことに罪悪感を覚えてはいない。とにかく幸運であった。しかし必要でもないことをしたパイロットに対して、確かに憤りを感じている。そのことで、クラブや国は大きな損害を被ってしまった) — ビル・フォルケス、[2]
事故後
[編集]亡くなったロジャー・バーンの代わりに、チームキャプテンを引き継ぐことになった。バスビー・ベイブスの何人かが死亡し、あるいは病院のベッドの中で生死を彷徨っている中、事故の6日後のFAカップ対シェフィールド・ウェンズデイFC戦のピッチに立っている[2]。同カップではチームは決勝に進出しているものの、リーグ戦では負けが続いた。
1962-63FAカップ優勝。1964-65シーズン、FA1部リーグ優勝。この時点でミュンヘンの悲劇から現役を続けていたのはフォルケスとチャールトンの2人だけになっていた。その後も現役を続け、36歳の時にUEFAチャンピオンズカップ 1967-68でのマンチェスター・Uの初優勝に貢献した。特に準決勝対レアル・マドリード戦では決勝ゴールを決めている[3]。フォルケスは後に、この勝利によりミュンヘンの悲劇から乗り越えることができたと語っている[2]。
この時点で引退を考えていたが、バスビーによりあと2年続けるよう説得され、1969-70シーズンを最後に現役引退した。
引退後
[編集]現役引退後は1975年までマンチェスター・Uのユース監督として活躍した。
その後マンチェスター・Uを離れ、1975年からアメリカ合衆国に渡り、北米サッカーリーグのシカゴ・スティング、タルサ・ラフネックス、サンノゼ・アースクエイクスで監督を務めた。1979年から1シーズン、ノンプロのウィットニー・ユナイテッド(ウィットニータウンAFC)監督に就任した。
その後ノルウェーに渡り、ILブリン、スタインシャーFK、リールストロムSK、ヴァイキングFKで監督を務めた。
1988年から当時JSL2部のマツダSC(現サンフレッチェ広島)ヘッドコーチに就任する。名目上は今西和男が監督であったが実質的にはフォルケスが監督業を行っていた[4]。キックアンドラッシュ戦術を用いて[4]、チームをJSL1部に昇格させた。1991年に退団し帰国。
1992年10月、選手時代のメダルやトロフィーなどをクリスティーズで競売にかけ、約20点を合計35,000ポンドで落札された[1]。
2000年にはマンチェスターサッカー協会の一員として、日本人向けにスタジアム案内をした[1]。
高齢になると認知症を患ってしまう[4]。2011年に『ユナイテッド -ミュンヘンの悲劇-』が制作されたが、フォルケスは病気のためこの制作に参加できなかったことから、主要人物でありながら全く登場していない[5]。
2013年11月25日早朝、81歳で死去[3]。マンチェスター・Uは2013年11月27日UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14 グループリーグ第5節対バイエル・レバークーゼン戦、あるいは2013年12月4日プレミアリーグ2013-2014対エヴァートンFC戦にて喪章を付けて戦う[3]。
脚注
[編集]- 出典
- ^ a b c d e f g h i j Worldwide Manchester United Fans Webring
- ^ a b c d e f g h i j Munich58
- ^ a b c d e f g “Bill Foulkes – Manchester United legend dies aged 81”. ガーディアン (2013年11月25日). 2013年11月26日閲覧。
- ^ a b c d “熱き指導者フォルケス”. 朝日新聞 (2012年6月21日). 2013年11月26日閲覧。
- ^ “BBC's Munich air crash film is 'insulting rubbish'” (英語). デイリー・メール. 2013年11月26日閲覧。
参考資料
[編集]- “A WHO`S WHO of MANCHESTER UNITED FC” (英語). Worldwide Manchester United Fans Webring. 2013年11月26日閲覧。
- “Anger Still Boils After 40 Years” (英語). Munich58. 2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月26日閲覧。