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東洋工業サッカー部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東洋工業サッカー部
原語表記 マツダサッカークラブ
愛称 マツダSC
クラブカラー     青、   
創設年 1938年
解散 1992年サンフレッチェ広島として発展的解消)
ホームタウン 広島県
広島市/安芸郡府中町
ホームスタジアム 広島スタジアム
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本サッカークラブ。日本プロサッカーリーグに加盟するサンフレッチェ広島F.Cの前身となったクラブである[出典 1]

概要

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1938年に東洋工業(現マツダ)のサッカー部として創部[出典 2]1981年から「マツダサッカークラブ」と名称を変更した[2]。本拠地は広島県安芸郡府中町(マツダ本社所在地)。なお、現在マツダサッカークラブ(マツダSC)の名前で活動しているチームは、元々このクラブの2軍として活動していたチームである。

1949年、実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場[出典 3]1954年には実業団として初めて天皇杯決勝に進出[出典 4]1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)には初年度から参加し[出典 5]1960年代に全盛期を極め[出典 6]日本のトップリーグでは空前絶後の四連覇を含む[出典 7] JSL最多優勝5回[出典 8]。天皇杯では、後身のマツダSC/サンフレッチェ広島を含め、2022年までに歴代最多71回の本大会出場回数を誇り[出典 9]、通算最多の127勝[出典 10]、決勝進出も歴代最多の14回[出典 11]と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ[出典 12]

諸元

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原爆投下前の市中心部。同心円の中心が爆心地。最下の広地が広島市役所でその右上の広地が広島一中(現在の国泰寺高)。1957年天皇杯はここで行われた。ちなみに戦後、爆心地のすぐ上付近に市民球場が建てられる。
原爆投下前の市中心部。同心円の中心が爆心地。最下の広地が広島市役所でその右上の広地が広島一中(現在の国泰寺高)。1957年天皇杯はここで行われた。ちなみに戦後、爆心地のすぐ上付近に市民球場が建てられる。
1988年の県営競技場[21]。左のラグビー場では行われていない。
1988年の県営競技場[21]。左のラグビー場では行われていない。
1988年のマツダ健保グラウンド[21]。
1988年のマツダ健保グラウンド[21]

略歴

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  • 1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
  • 1943年 : 休部
  • 1947年 : 活動再開
  • 1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場
  • 1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
  • 1956年 : 全日本実業団サッカー選手権大会初優勝
  • 1957年 : 天皇杯準優勝
  • 1962年 : 国民体育大会優勝、全国実業団優勝
  • 1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
  • 1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
  • 1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
  • 1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
  • 1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)に日本勢として初出場し3位[2]
  • 1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
  • 1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1978年 : 天皇杯準優勝
  • 1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1983年 : JSL2部降格
  • 1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
  • 1985年 : JSL1部昇格
  • 1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
  • 1987年 : 天皇杯準優勝
  • 1988年 : JSL2部降格
  • 1991年 : JSL1部昇格

ホームスタジアム

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創部からJSL初期ごろまでは広島市内3つの高校グラウンドを使った[13]広島県立広島国泰寺高等学校広島大学附属高等学校広島皆実高校の3つ[13]。主に使用していたのは交通の便のよさから現在の中区国泰寺町の国泰寺高校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区の広島大学附属高校グラウンド。1966年JSL2年目の開幕戦は南区出汐の皆実高グラウンドだった[22]。この3校のグラウンドは2024年現在も当時と同じ位置にある。

1960年代、海外クラブとの試合やJSL東西対抗戦を中区基町の広島市民球場(旧市民球場)で行った事がある[23]

1970年代以降、西区観音県営競技場がホームスタジアムとなった。それに加えて1980年代には、呉市の当時マツダ福利厚生施設であったマツダ健保グラウンド(現呉市総合スポーツセンター)を用いていたこともある。

ユニフォームカラー

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初期は白や紺、1970年代は赤ベースの黒縦縞、1980年代はカンパニーカラーと同じ青と黄。

ちなみに、紺から赤への変更は東洋工業の関連チームである広島東洋カープと同じ移行である。青と黄の配色は現在マツダのシンボルチームであるマツダブルーズーマーズマツダ陸上競技部でも採用されていたが、陸上競技部は2015年に赤と白の配色に変更された。後身のサンフレッチェ広島でも当初はチームカラーを青にする話もあった(詳細はサンフレッチェ広島F.C#チーム名およびチームカラー参照)。

歴史

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1945年米軍作成の広島市地図。 東洋工業本社工場は最も右側の河川(猿猴川)河口部(Tōyō AirCraft Industry 表記)。赤波線"Bombed Area , Completely Destroyed"(全壊域)の外にあることから本社自体は被爆により被害はなかったと分かる。 ちなみに広大付属高は地図中央右下"Hiroshima College"表記、県営競技場は地図左下の縦長の土地(後の広島西飛行場)すぐ右上"ATHLATIC PARK"表記。
1945年米軍作成の広島市地図。
東洋工業本社工場は最も右側の河川(猿猴川)河口部(Tōyō AirCraft Industry 表記)。赤波線"Bombed Area , Completely Destroyed"(全壊域)の外にあることから本社自体は被爆により被害はなかったと分かる。
ちなみに広大付属高は地図中央右下"Hiroshima College"表記、県営競技場は地図左下の縦長の土地(後の広島西飛行場)すぐ右上"ATHLATIC PARK"表記。

創設期

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戦前、広島は兵庫東京と共に「サッカー御三家[注釈 1]と呼ばれ[出典 14]、日本サッカーの先進地であった[出典 15]。この環境の中で育った山崎芳樹1938年昭和13年)に東洋工業(現マツダ)へ入社し、同好会形式で創部したのが「東洋工業蹴球部」である[出典 16]。しかしこの時代、この地域のサッカーチームとしては呉海軍工廠が圧倒的に強く、東洋工業は全国大会には1度も出場出来なかった[35]。この時期のタイトルとして、1941年(昭和16年)第8回中国実業団蹴球大会決勝対広島電気(現中国電力)戦において4-0で勝利し優勝したものがある[36]

1943年(昭和18年)、太平洋戦争の戦況が厳しくなったため休部する。1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、社員も被爆している。なお、このクラブに所属した選手の徴兵および被爆状況など戦中の選手の状況は不明であるが、後に東洋工業に入団した選手には被爆者が存在する。

戦後復興の最中、蹴球部も1947年(昭和22年)に再開。原爆で焼け野原となった広島のスポーツ復興にプロ野球広島カープとともに中心的な存在となる[37]。元々、広島県は戦前から各種スポーツが盛んで[14]旧制中学校旧制高等学校、実業団ともそれぞれの全国大会での強力ぶりが注目されたスポーツ王国[出典 17]。"市民球団"広島カープを持つ広島で、サッカーは野球に次いで市民に親しまれたスポーツだった[10]。こうした背景もあって、銭村健次小畑実ら地元出身の有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権(天皇杯の前身)・全日本実業団国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた[出典 18]

1949年(昭和24年)、第29回全日本サッカー選手権大会にて実業団チームとして初出場[出典 19][注釈 2]を果たした(準決勝敗退(1-7対東大LB))。

1950年代

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中川達郎
堀田茂美
浜井幸隆
黒木勲
小川輔治
1954年天皇杯決勝メンバー。ピラミッド(2-3-2-3)システム[40]
画像外部リンク
銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <1> 広島の思い出 - この中に1950年代に主将を務めた銭村健次の写真がある。

1951年(昭和26年)、蹴球部が実業団サッカーのトップクラスとなり会社の看板となったことから、山崎は監督を退き部長兼総監督に就任し、小畑が選手兼任監督となった。小畑は自身の母校である慶応大のサッカースタイルである、「素早いパスサッカー」を東洋工業に導入した[出典 20]

1954年(昭和29年)、第34回天皇杯にて実業団として初めて決勝に進出も準優勝[出典 21](3-5対慶大BRB)[41]。この決勝はVゴール[41]PK戦のない時代[3]、第4延長3時間にも及ぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった[出典 22]。この試合に於ける東洋工業の敢闘がその後の実業団チーム台頭の嚆矢となったもので[11]、その意味でのエポックメーキングな試合であった[出典 23]。大学の時代から実業団の時代へ、その移行のトップを走ったのが東洋工業であり、実業団の時代からプロの時代への先頭を走ったのが、その後継チームであるサンフレッチェ広島であった[6]。また当時の東洋工業は「バタンコ」と呼ばれた三輪トラックが主力で、会社名は浸透しておらず、この試合が東洋の社名を高めたといわれる[3]。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。

1955年(昭和30年)、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対田辺製薬)。1956年(昭和31年)、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)[43]1957年(昭和32年)も第37回天皇杯で決勝進出、広島国泰寺高校で決勝戦が行われたが準優勝(1-2対中大クラブ)に終わる。

大学リーグでの優秀選手を中心に選ばれていたこの時代の全日本(現在のサッカー日本代表)において、上記の活躍から東洋工業の選手も選出され始め、1956年のメルボルンオリンピック代表には小沢通宏下村幸男の2人が選ばれた。

この頃になると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる[2]。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる[出典 24][注釈 3]

1960年代

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1965年JSL初年度メンバー。登録上は4-2-4だが実際は桑田がHBに近い4-3-3[45]
画像外部リンク
丹羽洋介のインタビュー。1960年代後半の写真がある。
16 日本リーグ元年 ~「広島魂」奮い立たせ 圧倒的強さで覇者に~
17 リーグ4連覇 ~広島の選手が集まる 王者の褒美で海外へ~
18 天皇杯優勝 ~3度目賜杯は主将で 選手として有終の美~

1962年(昭和37年)、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝[43]。この活躍から同年に小沢がフットボーラー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[43]

1965年(昭和40年)から始まった日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加[出典 25]。小畑を総監督(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた[出典 26][注釈 4]。サッカーの盛んな土地に、その土地の出身者を主力としたチームを作って、他の地域のチームに勝ってみたいースポーツの原点といえるチーム作りを重ねてきた東洋工業は、日頃近隣に強い対戦相手のいない不満を日本リーグの開幕とともに爆発させるような試合を披露した[10]。就業時間が終わってからであっても工場に近いグラウンドで練習を積むことで、まず動きの速さと量で他のチームをしのいだ[10]。多くの俊英を集めたこともあり[11]、下村監督は「第3の動き」と呼ばれるコンビネーションプレーを叩き込むなど、攻守にわたる組織的なプレーでチーム力を安定させた[11]。リーグ開始と同時に、縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開し[出典 27]、まだ個人の力に頼りがちなプレーが多かった時代に異彩を放った[13]。特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた[31][注釈 5]

この1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)がこのクラブの黄金期である。JSL第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝[出典 28]。第1回大会第14節(最終節)・対ヤンマー戦(現:セレッソ大阪)で記録した11-0(桑田:5・小城:4・松本:2)は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録[13]第2回大会まで23連勝を記録するなど[2]第4回大会まで、日本のトップリーグでは空前絶後の4連覇の金字塔を樹立し[出典 29]第6回大会も制覇したことにより、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った[出典 30]。6年間で5回の優勝で[9]、5回目の優勝だった1970年は、14試合で歴代最少の5失点という強固なディフェンスを誇った[11]。更に天皇杯では、第45回大会で初優勝すると、6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った[11][注釈 6]。また国際舞台では、現在のACLにあたる[1]アジアクラブ選手権1969に日本勢として初出場し3位入賞を果たした[出典 31]

この時のメンバーの多くは全日本に選出され[出典 32]、1968年のメキシコオリンピックにも小城得達桑原楽之松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した[出典 33]

なお1950年代から1960年代にかけては"広島サッカーの時代"と言ってもよく[出典 34]、多くの広島出身者が、関西・関東の大学や全国の実業団に進み、サッカー部を創部したり[出典 35]、チームの中核となったり[出典 36]、後のプロリーグ創設への布石を打つ等、日本サッカーの発展に著しい貢献を果たした[出典 37]。1960年代の日本蹴球協会会長野津謙[52]、および、全日本監督長沼健[53]の2人とも広島出身[47]、全日本には東京五輪メキシコ五輪といずれも最多の5人の選手を送り込み[出典 38]、日本代表は「広島弁が共通語」とまで言われ[出典 39]デットマール・クラマーは広島弁で怒鳴ったといわれる[56]。更に1965年JSLスタート時の8チーム中4チームの監督も広島出身(東洋下村・八幡寺西忠成・ヤンマー古川能章・三菱岡野良定[出典 40]、例えば1968年のJSL登録選手も2位の埼玉県出身(22人)を超える43人もの広島県出身選手が占め[2]、その中で東洋工業蹴球部は広島サッカーの象徴的な存在であった[57]

この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどがスウィーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスウィーパーシステム流行へと向かった[58][59]

1970年代

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1978年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-3-3スイーパーシステム。47News天皇杯特集参考。

しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭により成績が徐々に低下していった[1]。またJSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が1970年前後に相次いで退団・引退したことや、世界的な戦術流行の流れに沿って、3トップから2トップに戦術変更するものの、得点力は伸びなかった。

1973年(昭和48年)オイルショックが発生。親会社である東洋工業の経営状態が悪化[注釈 7]、サッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。このオイルショックは東洋工業のみならず広島経済界に大打撃を与え、広島サッカー界にも影響を及ぼしこれ以降低迷を続けていく[出典 41]

1977年(昭和52年)、黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。古田篤良渡辺由一安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌1978年(昭和53年)第58階天皇杯準優勝(0-1対三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。

しかし大卒の即戦力選手獲得には、地方である広島ということや東洋工業の経営不振から後手に回り[注釈 8]世代交代が進まず、また同時期に初の外国人選手である宗像マルコス望を加入させたもののチームに馴染めなかったこともあり、これ以降外国人選手補強に消極的な姿勢を続けたため、チームの強化は思うように進まなかった。

これらの要因により、1980年代に入るとチームの弱体化は深刻[1][注釈 9]なものになる。

1980年代

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1987年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-4-2システム。47News天皇杯特集参考。

1981年(昭和56年)、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌1983年(昭和57年)一度目のJSL2部降格をする事になった。

そこで1984年(昭和58年)、今西和男が監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダからハンス・オフトをコーチに、ディド・ハーフナーGKコーチ(選手兼任)に招聘[2]、オフトが実質的な監督として現場の全権を掌握し、今西は名目上の監督であるが実際はゼネラルマネージャー業務を行うことになった[出典 42]。オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった[63]。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた[63]。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めた[63]

また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった[注釈 10]過去の経験から、2軍であるマツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた[注釈 11]

オフトの下で組織的に訓練されたチームは1985年(昭和60年)JSL1部昇格同年度の天皇杯ベスト4進出。1986年(昭和61年)、マツダサッカークラブに名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。1987年(昭和62年)オフトが正式に監督となり、信藤克義(信藤健仁)・猿沢茂高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、同年度の天皇杯準優勝(0-2読売クラブ、現:東京ヴェルディ)するが、同年度のJSLでは不振が続き二度目の2部降格となった。この責任を取りオフトは辞任した[64]

1988年(昭和63年)、今西はビル・フォルケスをコーチとして招聘し、オフトの役割だった実質的な監督として置いた[65]。フォルケスは母国の戦術で古い戦術でもあるキック・アンド・ラッシュ戦術を用いたが、オフト時代のアプローチと変わったこともあり一部選手には不評だった[65]1989年平成元年)、当時2. ブンデスリーガでプレーしていた元日本代表の風間八宏を獲得する。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあって1991年(平成3年)にJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-92シーズンフジタ(現:湘南ベルマーレ)から移籍加入した高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。

その後

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1992年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い、このチームを母体としてサンフレッチェ広島が誕生する[出典 43]。これに伴い、2軍(サテライト)扱いだったマツダSC東洋は新生「マツダSC」として中国社会人サッカーリーグに登録[66]、サンフレッチェとプロ契約できなかった選手などが同チームに所属した。

OBの多くは現在もサッカー指導者・ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している[67]

また2012年のJ1ではサンフレッチェが優勝したことにより東洋工業が最後にJSLで優勝した1970年から42年ぶりのトップカテゴリでのリーグ優勝、さらに2013年のJ1では1968年以来45年ぶりに連覇を達成した。

大会成績

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天皇杯

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JSL

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所属 順位 勝点 得点 失点 JSLカップ 監督
1965 JSL 優勝 26 12 2 0 44 9 - 下村幸男
1966 優勝 25 12 1 1 43 6
1967 優勝 22 10 2 2 37 16
1968 優勝 21 10 1 3 31 11
1969 2位 21 10 1 3 31 10
1970 優勝 23 11 1 2 33 5
1971 6位 10 3 4 7 11 17 大橋謙三
1972 JSL1部 3位 16 7 2 5 20 13
1973 8位 14 4 6 8 16 28 予選敗退
1974 6位 18 6 6 6 20 25 -
1975 8位 12 4 4 10 20 29
1976 8位 15 5 5 8 16 20 ベスト16 松本育夫
1977 4位 42 9 2PK勝 2PK敗 5 38 20 GL敗退 小城得達
1978 6位 34 7 3PK勝 0PK敗 8 23 34 GL敗退
1979 6位 33 5 4PK勝 5PK敗 4 20 19 ベスト16
1980 7位 15 6 3 9 22 26 ベスト16
1981 8位 13 4 5 9 15 27 2回戦敗退 二村昭雄
1982 8位 14 5 4 9 14 24 2回戦敗退
1983 10位 12 5 2 11 15 31 2回戦敗退
1984 JSL2部 6位 18 7 4 7 24 20 ベスト16 今西和男
1985 JSL2部・西 _ 12 5 2 3 14 10 1回戦敗退
JSL2部・上位 2位 11 3 5 2 13 10
1986-87 JSL1部 7位 23 6 11 5 17 17 1回戦敗退
1987-88 11位 13 2 9 11 8 18 2回戦敗退 ハンス・オフト
1988-89 JSL2部・西 _ 22 9 4 1 24 6 ベスト16 今西和男
(1991-1992は総監督)
JSL2部・上位 5位 14 5 4 5 16 9
1989-90 JSL2部 3位 67 20 7 3 62 20 2回戦敗退
1990-91 2位 74 24 2 4 76 17 ベスト16
1991-92 JSL1部 6位 27 7 6 9 30 23 ベスト4

国際試合

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開催年 月日 大会名 対戦相手 開催地 スコア 勝敗
1969年 1月15日 アジアクラブ
選手権1969
グループ
Bリーグ
イスラエルの旗 マッカビ・テルアビブFC バンコクタイ 2-3 敗北
1月17日 イランの旗 ペルセポリスFC 1-0 勝利
1月21日 香港の旗 九龍バス 1-0 勝利
1月24日 マレーシアの旗 ペラFA 1-0 勝利
1月28日 準決勝 大韓民国の旗 陽地 0-2 敗北
1月30日 3位決定戦 インドの旗 マイソール州選抜 2-0 勝利

タイトル・表彰

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歴代監督

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下記国籍のうち日本人は国旗表記を省略する

名前 国籍 任期 主なタイトル 備考
山崎芳樹 1938 - 1950 1943年から1946年まで休部
小畑実 1951 - 1963 全日本実業団:1956・1962
国体:1962
下村幸男 1964 - 1970 JSL:1965・1966・1967・1968・1970
天皇杯:1965・1967・1969
1969アジアクラブ選手権出場
大橋謙三 1971 - 1975 1971年全日本ユース監督と兼務
松本育夫 1976 1976年全日本ユース監督と兼務
小城得達 1977 - 1980
二村昭雄 1981 - 1983 ドイツの旗クラウツンコーチ1983年8月から9月
今西和男 1984 - 1987 オランダの旗オフトコーチ1984年から1987年
ハンス・オフト オランダの旗 1987 - 1988
今西和男 1988 - 1992 イングランドの旗ビルコーチ1988年から1991年
ただし今西は1991-1992年は総監督名義
  • 初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。
  • 1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。
  • 初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。
  • 1984年以降、名目上は今西が監督として登録されていたが、実際は外国人コーチが監督として現場で指導および指揮をしていた[出典 44]。なお、1991-92シーズンはフォルケスが日本を離れたこともあり今西が総監督名義で現場を指揮している。

歴代選手

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所属全選手ではなく、名前のわかっているものを記載している。Category:東洋工業サッカー部の選手も参照。太字国際Aマッチ出場選手。日本人は国籍欄省略。JFA 公認S級コーチライセンス取得者はS級欄に○。 ポジション欄の意味は以下の通り。

  • GK:ゴールキーパー
  • FB:フルバック、CB:センターバック、SB:サイドバック
  • HB:ハーフバック、MF:ミッドフィルダー
  • FW:フォワード
名前 国籍 ポジション 在籍 S級 備考
山崎芳樹 1938 - 1950 監督兼任
銭村健次 FW 1948 - ? 健次・健三健四の銭村3兄弟長男
小畑実 FW 1949 - ? 一時監督兼任
芳野統男 FB ? - ?
下村幸男 GK 1952 - 1961 メルボルン五輪出場
樽谷恵三 FW 1953 - ?
重松良典 FW 1954 - ?
小沢通宏 HB、FB 1955 - 1967 メルボルン五輪出場
1962年フットボーラーオブザイヤー
北島秀夫 HB 1955 - ?
田中雍和 FW ? - ?
大橋謙三 HB ? - 1967 田辺製薬から移籍
沼野博 HB 1956 - ?  藤枝東高校OB 静岡県焼津市鰯が島出身
株式会社ジャパ代表 享年63
石井義信 HB 1957 - 1968 藤和不動産へ移籍
小原勝 1957 - ?
大島治男 FW 1958 - ?
桑原弘之 FB 1960 - 1970 桑原楽之の兄
川西武彦 FW 1961 - 1966
船本幸路 GK 1961 - 1975
中村勤 FW 1962 - 1966 早稲田大学へ進学
丹羽洋介 FB 1963 - 1971
今西和男 FB、HB 1963 - 1969
岡光龍三 FW 1963 - 1970
松本育夫 FW 1964 - 1971 メキシコ五輪出場
桑田隆幸 FW、HB 1965 - 1969
小城得達 FW、HB、FB 1965 - 1976 メキシコ五輪出場
1965・1970年フットボーラーオブザイヤー
桑原楽之 FW 1965 - 1972 メキシコ五輪出場
桑原弘之の弟
上橋 徹 FW 1966 - ?
吉田浩 HB 1966 - ?
大野毅 FB 1967 - ?
国枝強 FB 1967 - ?
谷本圀之 FW、HB 1968 - ?
川野淳次 HB、FB 1968 - 1976
佐伯一彦 HB 1968 - ?
小滝強 FB、CB 1968 - ? 強・春男・勇一の小滝3兄弟長男
小原秀男 FW、HB、FB 1969 - 1981
小滝春男 FB、SB 1971 - 1981 強・春男・勇一の小滝3兄弟次男
高田豊治 HB、CB 1971 - 1978
堀口照幸 HB 1971 - 1977
安原真一 FW 1971 - 1981
宮崎輝比古 HB ? - 1981
古田篤良 HB、CB 1975 - 1984
野曽原芳彦 GK 1975 - ?
渡辺由一 HB 1977 - ?
山出実 FW ? - 1982
中野重富 FW ? - 1984
河内勝幸 HB 1978 - ?
宗像マルコス望 ブラジルの旗 1980 - 1982
高橋真一郎 FW 1980 - 1992
中村重和 SB、MF 1981 - 1989
猿沢茂 FW、MF 1982 - 1991
小林伸二 FW 1983 - 1990
今川正浩 FW 1983 - ?
木村孝洋 MF 1983 - 1988
信藤健仁 CB 1983 - 1990 旧名・克義、三菱に移籍
在籍時に息子信藤健太生誕
上原洋史 MF 1983 - ?
山田隆 SB 1983 - ? 引退後に息子山田直輝生誕
松田浩 CB 1984 - 1992
望月一頼 GK 1984 - 1988
佐藤康之 SB、CB 1984 - 1992
織田秀和 MF 1984 - ?
ディド・ハーフナー オランダの旗 GK 1986 - 1988 読売へ移籍、後に日本帰化
在籍時に息子ハーフナー・マイク生誕
ハーフナー・ニッキは移籍後生誕)
島卓視 FW 1986 - 1992
横内昭展 MF 1986 - 1992
前川和也 GK 1986 - 1992 前川黛也はサンフレ時代に生誕)
山西博文 SB、CB 1986 - 1992
クレック・ノーリー イングランドの旗 FW 1987 - 1988
ロン・ヤンス オランダの旗 MF 1987 - 1988
崔景植 大韓民国の旗 CB 1987 - 1988
森保一 MF 1987 - 1992 在籍時に息子森保翔平生誕
河村孝 FW、MF 1987 - 1991 横浜Fに移籍
幸田将和 MF、SB 1988 - 1992
和泉茂徳 SB、CB 1988 - 1992 マツダSC東洋のみ
虫谷泰典 CB 1988 - 1992
イアン・グリフィス イングランドの旗 FW 1989 - 1990
デヴィッド・ホジソン イングランドの旗 MF 1989 - 1990
アラン・アーバイン スコットランドの旗 FW 1989 - 1990
トニー・ヘンリー イングランドの旗 SB、MF 1989 - 1991
風間八宏 MF 1989 - 1992 在籍時に息子風間宏希生誕
風間宏矢はサンフレ時代に生誕)
平田英治 FW 1989 - 1992
河野和正 GK 1989 - 1992
片野坂知宏 SB 1990 - 1992
月岡利明 SB 1990 - 1992 マツダSC東洋のみ
ダニエル・カリッチマン アメリカ合衆国の旗 CB 1991 - 1992
ユリウス・ベーリック チェコスロバキアの旗 CB 1991 - 1992
ユーリー・カビル チェコスロバキアの旗 MF 1991 - 1992
上野展裕 MF 1991 - 1992 全日空から移籍
吉田安孝 CB 1991 - 1992 田辺製薬から移籍
亀田明広 FW 1991 - 1992 NTT関東から移籍、浦和へ移籍
高木琢也 FW 1991 - 1992 フジタから移籍
高木利弥は移籍後生誕)
森山佳郎 SB 1991 - 1992
柳本啓成 SB 1991 - 1992 マツダSC東洋のみ
笛真人 FW 1991 - 1992 マツダSC東洋のみ
森秀昭 CB、SB 1991 - 1992 マツダSC東洋のみ

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 一般にサッカー御三家といえば広島・静岡埼玉のほうが著名であるが[出典 13]、これは戦後から呼ばれだしたものであり、それ以前は東京・兵庫(神戸)・広島で御三家と呼ばれていた[25]
  2. ^ 九州地方代表の日鉄二瀬も同じく実業団として初出場。
  3. ^ 東洋工業の現役選手が正式にサッカー教室を始めたのは1965年から[44]。これがのちのマツダサッカースクールや今日のサンフレッチェ広島F.Cの育成組織に受け継がれていく。
  4. ^ 残り4人は、栃木2人(小沢・松本)、長崎1人(小原)、静岡1人(沼野)。
  5. ^ 2000年代後半からイビチャ・オシムらが推奨する「考えて走るサッカー」が注目されているが、彼らはそれを実践していた[46]
  6. ^ 第46回大会1966年1月14日に行われた早稲田大学との決勝戦は、国立競技場で初めて決勝が行われた大会であり、学生が最後に優勝した大会でもある(2-3対早稲田大)。
  7. ^ オイルショック前までのマツダは世界初となる自動車搭載用ロータリーエンジンの開発に成功し、圧倒的なシェアを誇るトヨタ日産を追走していた。
  8. ^ 後の1980年代、サッカー部部長に就任した今西和男は、他チームと比べて初任給に差があったためと分析している[61]
  9. ^ 1980年春のキャンプ時に広島県立五日市高等学校との練習試合を行い、主力メンバーを出さなかったとはいえ1-3で負けてしまった[62]。またこれはニュースとして『中国新聞』紙面で扱われた。
  10. ^ 特に県工出身の金田喜稔木村和司らが帰って来なかった時の広島のサッカー関係者の落胆は大きかった。
  11. ^ 詳細はサンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史を参照。

出典

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出典(リンク)

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参考資料

[編集]
書籍
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  • 『週刊サッカーマガジン』各号
  • 『週刊サッカーダイジェスト』各号
ホームページ

関連項目

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