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岡光龍三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡光 龍三(竜三)
名前
カタカナ オカミツ リュウゾウ
ラテン文字 OKAMITSU Ryuzo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1940年
出身地 広島県広島市
身長 167cm[1]
選手情報
ポジション FW[1]
ユース
広島市立千田小学校
広島山陽高等学校
中央大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1963-1970 東洋工業 70 (29)
監督歴
1970-? 東洋工業コーチ
?-? 広島城北高校サッカー部コーチ
2001 広島経済大学サッカー部コーチ
2002-2003 広島経済大学サッカー部監督
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

岡光 龍三[2](岡光竜三[1]、おかみつ りゅうぞう、1940年 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(FW)・指導者。

来歴

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広島市立千田小学校時代の同級に宮本輝紀、一学年上に大石信幸がいる。

高校は宮本や大石とともに広島山陽高等学校に進学し[1]渡部英麿から指導を受ける。1957年、1958年国体準優勝に貢献。特に1958年大会決勝は杉山隆一がいた静岡県立清水東高等学校との対戦で、当時話題となった[3]

大学は中央大学に進学した[1]サッカー部に在籍し、同郷の野村六彦小城得達桑原楽之らと活躍した[4]第42回天皇杯全日本サッカー選手権大会で決勝進出、決勝の相手は長沼健平木隆三川淵三郎宮本征勝鎌田光夫保坂司と日本代表を揃え三連覇を狙った古河電工で、岡光は決勝点を決め中大優勝に貢献した[4][5]

1963年大学卒業後、地元東洋工業(現マツダ)へ入社[6]東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入団する。小城、桑原楽、石井義信今西和男丹羽洋介らと共に、日本リーグ(JSL)優勝4回、天皇杯優勝3回に貢献。その中で岡光は主に右ウイングとして活躍、小城の繰り出すロングパスに左ウイングの松本育夫、二列目から飛び出す桑田隆幸、センターフォワードの桑原楽と攻撃をリードした[7]。日本リーグ初年度の1965年、東洋工業は全14試合で44得点を挙げているが、すべて攻撃プレイヤーで、岡光は桑田(11得点)に次ぐ9得点を挙げた(小城9、松本8、桑原楽7)。アシストでも記録を残しており、1967年のJSLでは7アシストでランキング3位、1968年のJSLでは5アシストでランキング2位に入っている。

1971年に丹羽・桑原弘之とともに引退[6] し、その後は桑原とともに東洋工業コーチ。 その後、広島城北高校サッカー部コーチ[8] などを務めた。

2001年4月から広島経済大学コーチに、翌2002年から監督に就任したものの、2003年末に健康上の理由により退任した[2]。ちなみに次の広経大監督は東洋工業時代のチームメイトである桑田が就任している[9]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 東洋 JSL 14 9 -
1966 14 8 -
1967 14 -
1968 14 -
1969 14 -
1970 0 0 -
通算 日本 JSL 70 29 -
総通算 70 29 -

脚注

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  1. ^ a b c d e 『サッカーマガジン』1967年5月1日号
  2. ^ a b 岡光龍三監督(63)が健康上の問題を理由に今季限りで監督を退かれました。”. 広島経済大学サッカー部 (2004年1月15日). 2012年9月8日閲覧。
  3. ^ 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一”. 賀川サッカーライブラリ. 2012年9月25日閲覧。
  4. ^ a b 中央大学の優勝時の記録”. 中央大学体育連盟応援サイト. 2012年9月8日閲覧。
  5. ^ 大会の歴史”. NHK. 2012年9月8日閲覧。
  6. ^ a b 2002年度 選手・スタッフの紹介”. 広島経済大学サッカー部. 2012年9月8日閲覧。
  7. ^ 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(下)”. 賀川サッカーライブラリ. 2012年9月8日閲覧。
  8. ^ 恩師”. 広島城北高校サッカー部. 2012年9月8日閲覧。
  9. ^ K・OB.net No.8” (PDF). 広島経済大学サッカー部 (2004年6月14日). 2012年9月8日閲覧。

関連項目

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