高木琢也
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名前 | ||||||
愛称 | アジアの大砲、ブーやん | |||||
カタカナ | タカギ タクヤ | |||||
ラテン文字 | TAKAGI Takuya | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1967年11月12日(57歳) | |||||
出身地 | 長崎県南島原市 | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 85kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1983-1985 | 国見高校 | |||||
1986-1989 | 大阪商業大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1990-1991 | フジタ | 15 | (3) | |||
1991-1997 | マツダ/サンフレッチェ広島 | 173 | (62) | |||
1998-1999 | ヴェルディ川崎 | 40 | (11) | |||
2000 | コンサドーレ札幌 | 17 | (0) | |||
通算 | 245 | (76) | ||||
代表歴2 | ||||||
1992-1997 | 日本 | 44 | (27) | |||
監督歴 | ||||||
2006-2007 | 横浜FC | |||||
2009 | 東京ヴェルディ | |||||
2010-2012 | ロアッソ熊本 | |||||
2013-2018 | V・ファーレン長崎 | |||||
2019-2020 | 大宮アルディージャ | |||||
2021-2022 | SC相模原 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2000年12月31日現在。 2. 1997年11月8日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表。大阪商業大学卒業。2023年現在はJリーグ・V・ファーレン長崎の取締役兼CRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務める[1]。
家族は妻と一男一女。第一子の長男はサッカー選手の高木利弥。
選手時代の特徴
[編集]現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ[2]、ハンス・オフト監督政権下の日本代表におけるキーマンであった[3]。マーク・ヒューズを憧れの選手としていた[3]。
選手経歴
[編集]長崎県南高来郡北有馬町(現・南島原市)出身。小学生時代は野球少年で、「堀内2世」と周囲に言われた豪腕投手だった[注釈 1]。 中学3年生の時、2年後に島原商業高校サッカー部監督の小嶺忠敏が国見高校に異動するという情報を耳にしていた[注釈 2]。高校2年生から指導を受けられる予定であったため、島原商業ではなく、国見高校に進学する。2年生になり、小嶺が国見高校に赴任してきたとき、新3年生の部員はおらず、また、2年生の部員も小嶺の指導のあまりの厳しさに1人、2人と減り、秋になる頃には高木1人しか残っていなかった。そのため、小嶺新体制の国見高校サッカー部のいわば「長男坊」として、早くからチームのまとめ役を任された。3年時には主将としてインターハイに初出場し、国見高校の選手を中心に編成された長崎県選抜チームで臨んだ国体サッカー少年男子の部では、準優勝と得点王に輝いたが、全国高校サッカー選手権では県予選で後に同僚となる前川和也を擁する平戸高校に敗れて初出場は果たせなかった[4]。
高校卒業後の1986年に大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。小嶺の師でもある上田亮三郎から指導を受け、関西学生サッカーリーグ戦では1987年と1988年の2度、1部リーグで優勝した。
大学卒業後、当時のマツダサッカー部監督・今西和男からの誘いを断り[5]、フジタ(現:湘南ベルマーレ)に入団[5]。しかしチームに合わず[5]、1991年今西からもう一度声を掛けられマツダに入団[5]。早くから攻撃の中心選手として活躍した。またマンチェスター・ユナイテッドFCに短期留学したこともあった。マツダがサンフレッチェ広島F.Cとして発足するとプロ契約、1992年にはJSL新人王を獲得。
1993年5月26日の第4節横浜マリノス戦での決勝ゴールが[6] Jリーグ初ゴールとなった[7]。しかしこの年11ゴールは決めたものの、期待されていた程のゴールは挙げられずに終わった[8]。
1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、第19節で首位争いをしていた清水エスパルスとの首位攻防戦で2ゴールを決め[9]、優勝を決めた第21節のジュビロ磐田戦では同点を奪うなど[10]、広島の1stステージ優勝の原動力となった。しかし、同年のJリーグチャンピオンシップの第2戦でV川崎の加藤久のスライディングにより負傷した。以後、常に故障に悩まされ続けるも、広島の中心選手として活躍を続ける。1996年9月21日のジェフ市原戦では、サンフレッチェの日本人選手としては初となるハットトリックを決めた[11]。1997年5月3日の京都パープルサンガ戦でのゴールはJリーグ3500点目のゴールとなった[12]。
1998年、広島の経営悪化に伴い移籍金を得るため放出を余儀なくされ、本人も環境を変えるいい機会として、ヴェルディ川崎へ移籍。前線の基点としてプレーし、開幕戦となったベルマーレ平塚戦で移籍後初ゴールを挙げ、第9節のアビスパ福岡戦ではハットトリックを決めるなど[13]、ファーストステージだけで9ゴールを挙げたが、怪我でセカンドステージのほとんどを欠場し、1シーズン目は22試合9ゴールの成績を残した[7]。しかし、次第に怪我により活躍できなくなっていく。V川崎で2シーズンプレーした後、1999年末には日本代表のコーチや監督として指導を受けていた岡田武史監督に誘われ、コンサドーレ札幌へ移籍。初めてJ2でのプレーとなった2000年は札幌のJ2優勝メンバーとなった。だが、自らはリーグ戦初の年間ノーゴールに終わり[7]、同年を最後に、膝の負傷などを理由にして現役を引退した。
代表経歴
[編集]1992年にはハンス・オフト監督が指揮する日本代表にも初選出され、ダイナスティカップ1992では決勝の韓国戦でのゴールを含め[14]、4試合で5ゴールを挙げて得点王に輝き、広島で開催されたアジアカップでは決勝のサウジアラビア戦で決勝ゴールを決め[15]、日本の初優勝に貢献[16]。「アジアの大砲」というキャッチフレーズで[17]、人気選手の一人となった。同年の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選にも出場したが、2試合ノーゴールに終わり、またイエローカード累積で出場停止となった、北朝鮮戦からは中山雅史に活躍でポジションを奪われ[18]、最終予選最終戦のイラク戦ではベンチ入り、試合には出場しなかった。
1997年には1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の一次予選では、3月25日のマカオ戦[19]、3月27日のネパール戦と[20]、釜本邦茂以来と2人目となる代表2試合連続ハットトリックを達成した[21]。最終予選直前に行われた、JOMO CUP、Jリーグ外国籍選抜との対戦以降は代表に呼ばれていなかったが、最終予選最終節のカザフスタン戦に招集され[注釈 3]、後半途中から出場して1ゴールを挙げた。この試合が代表最後の出場となった。続くプレーオフのイラン戦(ジョホールバルの歓喜)では招集されず、翌年はJリーグで好調であったものの、本大会でも日本代表には選ばれなかった。
指導者経歴
[編集]サッカー解説者として活動する傍ら、2005年には将来のJリーグ参入を目指して高木の故郷である長崎県で結成されたV・ファーレン長崎から監督就任のオファーを受けた。しかし、解説者としての仕事の都合や、当時はまだS級ライセンス取得中であったことから監督就任は見送り、技術アドバイザーとしてチームを支えることになり、主にサッカー解説のない時に来訪して指導していた。
S級ライセンス取得後、2006年からはJ2の横浜FCのコーチに就任し、指導者としての第一歩を踏み出した。更にチーム始動から1ヶ月程しか経っていない第1節終了後の3月6日には足達勇輔監督が解任されたことに伴い監督に昇格し、チームを指揮することになった。指導経験に乏しく、準備期間も与えられなかった上、先輩に当る三浦知良を選手として起用することへの指導面も含め、難しい立場と思われていた。フロントの決断はサポーターの批判も招き、高木の初指揮となった第2節のホーム開幕戦では横断幕ゼロ、一切のコールを行わず試合を見守るのみという沈黙の抗議を行なう事態となった。
しかし高木就任後、チームは15戦無敗[注釈 4]。新監督として過去にない好成績を残し、J2加入以来5年間下位に沈んでいたチームを一気に昇格争い出来るチームへ変貌させた。更にイタリア代表の堅固な守備を称したカテナチオをもじって名付けられた「ハマナチオ」は、770分間連続無失点のJリーグ新記録[注釈 5] 及び7試合連続無失点のJ2タイ記録も樹立し、選手・サポーターの信頼を勝ち得た。11月26日、第51節(残り1試合)でのサガン鳥栖戦の勝利と、同節の他チームの結果によってJ1昇格を決定させると共に、指導者として初のタイトル(J2優勝)を獲得。初物づくしの一年となり、高木の手腕はサッカー評論家などの間で高く評価された。
2007年も同チームを指揮、開幕戦では敗れたものの前年王者の浦和レッズを苦しめ、第2節の「横浜ダービー」横浜FM戦で勝利するなど、開幕直後はJ1でも通用するかに見えた。しかし、他クラブとの戦力差は否めず、「ハマナチオ」はあっという間に崩壊、大量失点を繰り返した。新戦力の奥大介や久保竜彦も故障で離脱するなどし、大差での最下位(18位)に低迷。三浦淳宏獲得などの補強方針を巡ってフロントとの確執も表面化し、8月27日をもって監督を解任された[注釈 6]。
その後はTBSのスーパーサッカー[注釈 7] などでサッカー解説者を務め、2008年、J1に復帰した東京ヴェルディのコーチに就任。2009年からはクラブのJ2降格に伴い退任した柱谷哲二の後を受け、東京Vの監督に就任した。経営難から満足な戦力が整わない中、中盤には6連勝を含む10戦負けなしを記録するなど奮闘したが、クラブの身売り・存続の危機というピッチ外での騒動の影響もあって、徐々に成績は下降。1年でのJ1復帰がなくなったことに加え、第89回天皇杯の初戦でJFL所属のホンダロックSCに敗れたことが引き金となり、7試合を残した10月に途中解任された。
2010年より、ロアッソ熊本の監督に就任。守備に重点に置きながらカウンターを狙うという戦術が功を奏して失点数を大幅に減らすことに成功し、J2昇格後3年目のチームを初めて1桁順位(7位)に押し上げた。しかし翌年11位に後退、更にその次2012年も12位以下が確定したことから、クラブは2012年11月8日、同年シーズンの公式試合が終了次第退任させることを発表した[22]。
2013年より、かつてアドバイザーを務めたV・ファーレン長崎の監督に就任。J2初年のチームを6位に導き、J1昇格プレーオフ進出を果たした。2014年は14位に終わったものの、2015年には6位となり2年ぶりにJ1昇格プレーオフへ進出した。2016年は15位に終わったが、2017年には2位となりチームをJ1初昇格に導いた。
2018年シーズンは、J1開幕戦から第6節・FC東京戦まで2分4敗と苦しむが、第7節・清水エスパルス戦で長崎のJ1初白星を記録する[23] と、第11節・ジュビロ磐田戦まで4連勝を達成[24]。J1リーグ前半戦終了となる第17節終了時点で、15位・5勝2分10敗の成績で折り返す[25]。J1リーグ後半戦開始となる第18節・FC東京戦で勝利を挙げるが、第19節・北海道コンサドーレ札幌戦から第25節・湘南ベルマーレ戦まで1分6敗と苦しみ、チームは最下位へ転落。第26節・名古屋グランパス戦で7連勝中の名古屋を4-3で下し勝利する[26] と、続く第27節・ベガルタ仙台戦でも勝利を挙げ、2連勝を達成する[27]。しかし、最下位脱出とはならず、11月10日、第32節・横浜FM戦に敗れたことで自動降格圏である17位以下が確定[28][29]。11月17日、J2リーグの最終節でFC町田ゼルビアの4位が確定したことにより、J1残留の可能性が消滅。1年でのJ2降格が決定した[30]。11月19日、契約満了に伴い、2018シーズン限りで退任することが発表された[31][32][33]。第33節・ガンバ大阪戦で敗れ、長崎は最下位での降格が決定[34]。最終節では清水と対戦し、4-4で引き分け[35]、長崎のJ1初挑戦となった2018年シーズンの勝ち点は30となった。J1リーグの最下位チームとしては、現行の18チーム制になった2005年以来、過去最多を記録した[36][37]。
2019年シーズンより、大宮アルディージャで監督を務める[38]。自動昇格圏内の僅差の3位までチームを引き上げたが、J1参入プレーオフ初戦でモンテディオ山形に敗れ、J1昇格を逃した。2020年は開幕4連勝で首位に立ったが、コロナ禍による過密日程やけが人続出もあり次第に成績が下降し最終的には15位と低迷。12月8日、大宮の監督を退任すると発表された[39]。
2021年6月1日、解任された三浦文丈の後任として、SC相模原の監督に就任することが発表された[40]。2022年5月20日、解任が発表された[41]。
2022年12月、V・ファーレン長崎に復帰し、同社取締役兼CROとなる[1]。
エピソード
[編集]- オフト監督時代の日本代表(オフト・ジャパン)のFWとしては三浦知良(カズ)がマスメディアなどで注目されたが、高木や三浦と共に同時期のFWだった武田修宏の話では「フォワードの軸は高木で、カズは2番手、武田自身は5番手」であったという[42]。
- Jリーグ初期の変動背番号制時代は「10番」を長く背負ってきたが、高木はあまり好きな番号ではなかったという。固定番号制が採用された1997年以降「18番」を選んでいる(初めて日本代表に選ばれたときの番号が18だったことに由来)。ちなみに、そのとき10番を付けたのが、後に横浜FCで高木の下でプレーした久保竜彦である。
- 高木(国見高校)の高校選手権出場を阻んだ平戸高校のGKは、のちに広島でチームメイトとなった前川和也である[4]。
- 性格は温厚で、前園真聖は体が大きくて温厚な高木を「社長」と呼んでいた。また中山雅史など"ドーハ組"らには「ブーやん」と呼ばれる。苗字が同じ高木ブーと、琢也の「琢」の字が「豚」に似ていることが由来。高木が横浜FCの監督になった後、このチームで選手を続けていた三浦知良はインタビューなどで「高木監督」と呼んで年下の指揮官に敬意を払ったが[注釈 8]、当時磐田に在籍していた同い年の中山は「ブーやん」のあだ名を変えず、高木を困惑させた。
- 好きな芸能人は唯一浜田省吾。中学生の頃からファンで、サンフレッチェ広島所属時に郷里が広島の浜省と対面すると、それ以降浜省以外は興味を持たなくなった。
- 2006年から、地域・家庭・学校が協力して子供を育む長崎県の県民運動「こころねっこ運動」のイメージキャラクターを務めており、テレビCMではお父さん役をこなした。
所属クラブ
[編集]- 1983年 - 1985年 国見高校
- 1986年 - 1989年 大阪商業大学
- 1990年 - 1991年 フジタ
- 1991年 - 1997年 マツダ / サンフレッチェ広島
- 1998年 - 1999年 ヴェルディ川崎
- 2000年 コンサドーレ札幌
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | フジタ | 8 | JSL2部 | 15 | 3 | 0 | 0 | ||||
1991-92 | マツダ | 20 | JSL1部 | 22 | 9 | 0 | 0 | 2 | 1 | 24 | 10 |
1992 | 広島 | - | J | - | 7 | 4 | 0 | 0 | 7 | 4 | |
1993 | 29 | 11 | 0 | 0 | 2 | 0 | 31 | 11 | |||
1994 | 42 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 42 | 14 | |||
1995 | 24 | 5 | - | 5 | 4 | 29 | 9 | ||||
1996 | 30 | 11 | 6 | 1 | 5 | 2 | 41 | 14 | |||
1997 | 18 | 26 | 12 | 0 | 0 | 2 | 1 | 28 | 13 | ||
1998 | V川崎 | 22 | 9 | 1 | 0 | 3 | 0 | 26 | 9 | ||
1999 | J1 | 18 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 21 | 3 | ||
2000 | 札幌 | J2 | 17 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | 21 | 1 | |
通算 | 日本 | J1 | 191 | 64 | 18 | 6 | 17 | 7 | 226 | 77 | |
日本 | J2 | 17 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | 21 | 1 | ||
日本 | JSL1部 | 22 | 9 | 0 | 0 | 2 | 1 | 24 | 10 | ||
日本 | JSL2部 | 15 | 3 | 0 | 0 | ||||||
総通算 | 245 | 76 | 19 | 6 |
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 6試合3得点
- 1994年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- Jリーグ初出場 1993年5月16日対ジェフユナイテッド市原戦 (広島スタジアム)
- Jリーグ初得点 1993年5月26日対横浜マリノス戦 (広島スタジアム)
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 44試合 27得点 (1992年 - 1997年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1992 | 11 | 5 |
1993 | 13 | 7 |
1994 | 5 | 2 |
1995 | 0 | 0 |
1996 | 10 | 6 |
1997 | 5 | 7 |
通算 | 44 | 27 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1992年05月31日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | アルゼンチン | ●0-1 | ハンス・オフト | キリンカップ |
2. | 1992年06月07日 | 愛媛県 | 愛媛県総合運動公園陸上競技場 | ウェールズ | ●0-1 | キリンカップ | |
3. | 1992年08月22日 | 北京 | 韓国 | △0-0 | ダイナスティカップ | ||
4. | 1992年08月24日 | 北京 | 中華人民共和国 | ○2-0 | ダイナスティカップ | ||
5. | 1992年08月26日 | 北京 | 北朝鮮 | ○4-1 | ダイナスティカップ | ||
6. | 1992年08月29日 | 北京 | 韓国 | △2-2(PK4-2) | ダイナスティカップ | ||
7. | 1992年10月30日 | 広島県 | 広島県立びんご運動公園陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | △0-0 | アジアカップ | |
8. | 1992年11月01日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | 北朝鮮 | △1-1 | アジアカップ | |
9. | 1992年11月03日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | イラン | ○1-0 | アジアカップ | |
10. | 1992年11月06日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | 中華人民共和国 | ○3-2 | アジアカップ | |
11. | 1992年11月08日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | サウジアラビア | ○1-0 | アジアカップ | |
12. | 1993年03月07日 | 福岡県 | 東平尾公園博多の森陸上競技場 | ハンガリー | ●0-1 | キリンカップ | |
13. | 1993年03月14日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | アメリカ合衆国 | ○3-1 | キリンカップ | |
14. | 1993年04月08日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | タイ | ○1-0 | ワールドカップ予選 | |
15. | 1993年04月11日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | バングラデシュ | ○8-0 | ワールドカップ予選 | |
16. | 1993年04月15日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | スリランカ | ○5-0 | ワールドカップ予選 | |
17. | 1993年04月18日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | ○2-0 | ワールドカップ予選 | |
18. | 1993年04月28日 | ドバイ | タイ | ○1-0 | ワールドカップ予選 | ||
19. | 1993年04月30日 | ドバイ | バングラデシュ | ○4-1 | ワールドカップ予選 | ||
20. | 1993年05月05日 | ドバイ | スリランカ | ○6-0 | ワールドカップ予選 | ||
21. | 1993年05月07日 | アル・アイン | アラブ首長国連邦 | △1-1 | ワールドカップ予選 | ||
22. | 1993年10月04日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | コートジボワール | ○1-0(延長) | アフロ・アジア選手権 | |
23. | 1993年10月15日 | ドーハ | サウジアラビア | △0-0 | ワールドカップ予選 | ||
24. | 1993年10月18日 | ドーハ | イラン | ●1-2 | ワールドカップ予選 | ||
25. | 1994年07月14日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | ガーナ | ○2-1 | パウロ・ロベルト・ファルカン | アシックスカップ |
26. | 1994年10月03日 | 広島県 | みよし運動公園陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | △1-1 | アジア大会 | |
27. | 1994年10月05日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | カタール | △1-1 | アジア大会 | |
28. | 1994年10月09日 | 広島県 | 広島県立びんご運動公園陸上競技場 | ミャンマー | ○5-0 | アジア大会 | |
29. | 1994年10月11日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | 韓国 | ●2-3 | アジア大会 | |
30. | 1996年02月10日 | ウォロンゴン | オーストラリア | ○4-1 | 加茂周 | 国際親善試合 | |
31. | 1996年02月14日 | メルボルン | オーストラリア | ●0-3 | 国際親善試合 | ||
32. | 1996年02月19日 | 香港 | ポーランド | ○5-0 | カールスバーグカップ | ||
33. | 1996年02月22日 | 香港 | スウェーデン | △1-1(PK4-5) | カールスバーグカップ | ||
34. | 1996年08月25日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | ウルグアイ | ○5-3 | 国際親善試合 | |
35. | 1996年09月11日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ウズベキスタン | ○1-0 | JFA75周年記念試合 | |
36. | 1996年10月13日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | チュニジア | ○1-0 | プーマカップ | |
37. | 1996年12月06日 | アル・アイン | シリア | ○2-1 | アジアカップ | ||
38. | 1996年12月09日 | アル・アイン | ウズベキスタン | ○4-0 | アジアカップ | ||
39. | 1996年12月15日 | アル・アイン | クウェート | ●0-2 | アジアカップ | ||
40. | 1997年03月15日 | バンコク | タイ | ●1-3 | 国際親善試合 | ||
41. | 1997年03月25日 | マスカット | マカオ | ○10-0 | ワールドカップ予選 | ||
42. | 1997年03月27日 | マスカット | ネパール | ○6-0 | ワールドカップ予選 | ||
43. | 1997年08月13日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | ブラジル | ●0-3 | 国際親善試合 | |
44. | 1997年11月08日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | カザフスタン | ○5-1 | 岡田武史 | ワールドカップ予選 |
得点
[編集]# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1992年8月24日 | 中国、北京 | 中国 | 2-0 | 勝利 | ダイナスティカップ1992 |
2 | 1992年8月26日 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 4-1 | 勝利 | ||
3 | ||||||
4 | 1992年8月29日 | 韓国 | 2-2 PK4-2 |
引分 | ||
5 | 1992年11月8日 | 日本、広島市 | サウジアラビア | 1-0 | 勝利 | AFCアジアカップ1992 |
6 | 1993年4月11日 | 日本、東京 | バングラデシュ | 8-0 | 勝利 | 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
7 | ||||||
8 | 1993年4月15日 | スリランカ | 5-0 | 勝利 | ||
9 | ||||||
10 | 1993年4月18日 | アラブ首長国連邦 | 2-0 | 勝利 | ||
11 | 1993年4月30日 | アラブ首長国連邦、ドバイ | バングラデシュ | 4-1 | 勝利 | |
12 | 1993年5月5日 | 日本、東京 | スリランカ | 6-0 | 勝利 | |
13 | 1994年10月5日 | 日本、広島市 | カタール | 1-1 | 引分 | アジア競技大会 |
14 | 1994年10月9日 | 日本、尾道市 | ミャンマー | 5-0 | 勝利 | |
15 | 1996年2月10日 | オーストラリア、ウロンゴン | オーストラリア | 4-1 | 勝利 | 親善試合 |
16 | ||||||
17 | 1996年2月19日 | イギリス領香港 | ポーランド | 5-0 | 勝利 | カールスバーグカップ |
18 | ||||||
19 | 1996年8月25日 | 日本、大阪市 | ウルグアイ | 5-3 | 勝利 | 親善試合 |
20 | 1996年12月6日 | アラブ首長国連邦、アル・アイン | シリア | 2-1 | 勝利 | AFCアジアカップ1996 |
21 | 1997年3月25日 | オマーン、マスカット | マカオ | 10-0 | 勝利 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
22 | ||||||
23 | ||||||
24 | 1997年3月27日 | ネパール | 6-0 | 勝利 | ||
25 | ||||||
26 | ||||||
27 | 1997年11月8日 | 日本、東京 | カザフスタン | 5-1 | 勝利 |
指導歴
[編集]- 2003年 - 2004年 日本大学保健体育審議会サッカー部コーチ
- 2005年 V・ファーレン長崎技術アドバイザー
- 2005年 JFA 公認S級コーチライセンス習得
- 2006年 - 2007年8月 横浜FC
- 2006年1月 - 同年3月 アシスタントコーチ
- 2006年3月 - 2007年8月 監督
- 2008年 - 2009年10月 東京ヴェルディ
- 2008年 コーチ
- 2009年 - 同年10月 監督
- 2010年 - 2012年 ロアッソ熊本 監督
- 2013年 - 2018年 V・ファーレン長崎 監督
- 2019年 - 2020年 大宮アルディージャ 監督
- 2021年6月 - 2022年5月 SC相模原 監督
監督成績
[編集]年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | リーグ杯 | 天皇杯 | |||
2006 | J2 | 横浜FC | 優勝 | 93 | 47 | 26 | 15 | 6 | - | 3回戦 |
2007 | J1 | 18位 | 11 | 22 | 3 | 2 | 17 | 予選リーグ | - | |
2009 | J2 | 東京V | 9位 | 60 | 44 | 17 | 9 | 18 | - | 2回戦 |
2010 | 熊本 | 7位 | 54 | 36 | 14 | 12 | 10 | 3回戦 | ||
2011 | 11位 | 51 | 38 | 13 | 12 | 13 | 2回戦 | |||
2012 | 14位 | 55 | 42 | 15 | 10 | 17 | 4回戦 | |||
2013 | 長崎 | 6位 | 66 | 42 | 19 | 9 | 14 | 2回戦 | ||
2014 | 14位 | 52 | 42 | 12 | 16 | 14 | 4回戦 | |||
2015 | 6位 | 60 | 42 | 15 | 15 | 12 | 2回戦 | |||
2016 | 15位 | 47 | 42 | 10 | 17 | 15 | 2回戦 | |||
2017 | 2位 | 80 | 42 | 24 | 8 | 10 | 2回戦 | |||
2018 | J1 | 18位 | 30 | 34 | 8 | 6 | 20 | グループリーグ敗退 | 3回戦 | |
2019 | J2 | 大宮 | 3位 | 75 | 42 | 20 | 15 | 7 | - | 3回戦 |
2020 | 15位 | 53 | 42 | 14 | 11 | 17 | - | - | ||
2021 | 相模原 | 19位 | 27 | 26 | 6 | 9 | 11 | - | 3回戦 | |
2022 | J3 | 15位 | 7 | 8 | 2 | 1 | 5 | - | - | |
J1通算 | - | - | 56 | 11 | 8 | 37 | - | - | ||
J2通算 | - | - | 527 | 205 | 158 | 164 | - | - | ||
J3通算 | - | - | 8 | 2 | 1 | 5 | - | - |
- 2006年は第2節より監督就任。
- 2007年は第22節で解任。
- 2009年は第44節で解任。
- 2021年は第17節より監督就任。
- 2022年は第8節で解任。
タイトル
[編集]高校時代
- 1985年 国体 準優勝・得点王
クラブチーム
- 1994年 Jリーグ サントリーシリーズ 優勝、ベストイレブン (サンフレッチェ広島F.C)
- 2000年 Jリーグ ディビジョン2 優勝 (コンサドーレ札幌)
代表
- ダイナスティカップ1992 優勝・得点王
- AFCアジアカップ1992 優勝
指導者
- 2006年 Jリーグ ディビジョン2 優勝 (横浜FC)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 野球では左投げ左打ち
- ^ 高木の実家の前にある床屋の主人が、小嶺のいとこであったため知ることが出来たとのこと
- ^ FWの三浦知良と呂比須ワグナーの2人が出場停止という状況で、中山雅史と共にメンバーへ選出され
- ^ 新監督として就任してからのJリーグ新記録となった(現在も更新されていない)。従来の記録はサンフレッチェ広島の小野剛監督の11試合
- ^ 従来は1993年清水エスパルスの731分
- ^ 横浜FCは高木の後任監督にブラジル人のジュリオ・レアルを据えたが、J1最下位でのJ2降格となった。高木監督解任時点で9試合連続未勝利であったが、その後も、連続未勝利記録は最終節で勝利するまで途切れず、20試合連続未勝利のリーグワースト記録を更新した。
- ^ 水沼貴史との週替わりで担当した。
- ^ 高木と三浦は同じ1967年生まれであるが、高木は11月生まれで三浦は2月生まれである。つまり高木は三浦より1学年下ということになる。
出典
[編集]- ^ a b V・ファーレン長崎 役員体制変更のお知らせ - V・ファーレン長崎 2022年12月7日
- ^ “山形 “アジアの大砲”高木琢也氏の長男・利弥が特別指定選手に”. スポーツニッポン新聞社 (2014年7月31日). 2016年9月13日閲覧。
- ^ a b “第102回 オフトと3人のFW”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2022年5月28日閲覧。
- ^ a b 日刊スポーツ 2004年インターハイ特集 トップアスリートからのメッセージ
- ^ a b c d “中国新聞創刊120周年記念 サンフレッチェ広島クラブ創設20周年 紫への思い熱く 高木琢也インタビュー”. 中国新聞: pp. 16–17. (2012年6月23日)
- ^ “93Jリーグサントリーシリーズ 第4節”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ a b c “高木琢也”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ Jサッカーグランプリ Jリーグイヤーブック1993 116-118ページ
- ^ “Jリーグ 第19節”. Jleague Data. 2024年10月11日閲覧。
- ^ “Jリーグ 第21節”. Jleague Data. 2024年10月11日閲覧。
- ^ “サンフレッチェ広島 ハットトリック一覧”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “J1記念ゴール一覧”. データーJリーグ. 2022年5月13日閲覧。
- ^ “Jリーグ 第9節”. data.j. 2022年6月5日閲覧。
- ^ “日本代表 vs 韓国代表”. samuraiblue 17 April 2020閲覧。
- ^ “日本代表 vs サウジアラビア代表”. samuraiblue 17 April 2020閲覧。
- ^ “【Play Back!!】 1992 Asian Cup 決勝 日本 vs サウジアラビア”. qoly.jp (2011年1月17日). 2020年5月7日閲覧。
- ^ “祝J1昇格!「アジアの大砲」高木琢也だけじゃない “ドーハ世代”の多士済々”. サンケイ 17 April 2020閲覧。
- ^ “運命のイラク戦、ラモスは「俺じゃなく中山を選んだ。その決め手は”. www.soccerdigestweb.com 13 May 2020閲覧。
- ^ “日本代表 vs マカオ代表”. samuraiblue 17 April 2020閲覧。
- ^ “日本代表 vs ネパール代表”. samuraiblue 17 April 2020閲覧。
- ^ “岡崎2戦連続ハット!釜本、高木以来の快挙だ”. スポニチ 17 April 2020閲覧。
- ^ 『高木琢也監督 来季契約について』(プレスリリース)アスリートクラブ熊本、2012年11月8日 。2012年11月8日閲覧。
- ^ “開幕7戦目でつかんだJ1初白星! 長崎がFW鈴木武蔵のゴールで清水を下す”. ゲキサカ (2018年4月11日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “J1初挑戦の長崎が破竹の4連勝!まさに"執念の守備"で磐田に粘り勝ち”. SOCCER DIGEST Web (2018年4月25日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “2018明治安田生命J1リーグ 順位表 【2018年07月22日 現在(第17節)】”. J.League Date Site. 2018年11月19日閲覧。
- ^ “名古屋の連勝を止めたのは最下位・長崎! 鈴木がハット達成…8試合ぶりの白星”. SOCCER KING (2018年9月15日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “GKシュミット・ダニエルが痛恨ミス…長崎は133日ぶりホーム勝利!澤田V弾で仙台に競り勝つ”. ゲキサカ (2018年9月22日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “J1残留争い直接対決は横浜FMに軍配…長崎は17位以下が確定”. SOCCER KING (2018年11月10日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “長崎の自動降格圏17位以下が確定…横浜FMは自動降格回避、伊藤翔が「反省」のV弾”. ゲキサカ (2018年11月10日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “長崎は1年でJ2降格へ…町田に命運託すもあと一歩及ばず”. ゲキサカ (2018年11月17日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ 『V・ファーレン長崎 監督 高木琢也氏 退任のお知らせ』(プレスリリース)V・ファーレン長崎、2018年11月19日 。2018年11月19日閲覧。
- ^ “J2降格の長崎、高木琢也監督が今季限りで退任”. 日刊スポーツ (2018年11月19日). 2018年11月19日閲覧。
- ^ “J1長崎、高木琢也監督の退任を発表 契約満了で”. デイリースポーツ online (2018年11月19日). 2022年8月30日閲覧。
- ^ “pJ1長崎、G大阪に惜敗 最下位確定も高木監督は積極性を評価”. 西日本スポーツ (2018年11月25日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “最終節らしい気持ちが入った壮絶ゲーム!J2降格・長崎が追いついて清水とドロー決着”. ゲキサカ (2018年12月1日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “長崎、壮絶な打ち合いの末ドローも…J1過去最多となる最下位での勝ち点30を獲得/J1最終節”. GOAL.com (2018年12月1日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ “磐田、悪夢の16位転落で入れ替え戦へ。最下位の長崎は勝ち点30獲得、18チーム制では最多【J1残留争いの結末】”. FOOTBALL CHANNEL (2018年12月4日). 2018年12月22日閲覧。
- ^ 『高木琢也 監督 就任のお知らせ』(プレスリリース)大宮アルディージャ、2018年12月8日 。2018年12月22日閲覧。
- ^ 『高木琢也 監督 退任のお知らせ』(プレスリリース)大宮アルディージャ、2020年12月8日 。2020年12月10日閲覧。
- ^ 『高木琢也氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)SC相模原、2021年6月1日 。2021年6月1日閲覧。
- ^ 『高木琢也監督 解任のお知らせ』(プレスリリース)SC相模原、2022年5月20日 。2022年5月21日閲覧。
- ^ 「武田修宏のワールドワイド交遊録(14)」『東京スポーツ』連載、2007年7月24日、5頁。
関連項目
[編集]- 長崎県出身の人物一覧
- サッカー日本代表出場選手
- サンフレッチェ広島F.Cの選手一覧
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- 北海道コンサドーレ札幌の選手一覧
- Jリーグ監督経験者
- 横浜FCの選手一覧
- ロアッソ熊本の選手一覧
- 広島県スポーツ振興チャリティゴルフ大会
外部リンク
[編集]- 高木琢也 - National-Football-Teams.com
- 高木琢也 - Soccerway.com
- 高木琢也 - FootballDatabase.eu
- 高木琢也 - WorldFootball.net
- 高木琢也 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 高木琢也 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 高木琢也 - FIFA主催大会成績
- 高木琢也 - J.League Data Siteによる選手データ
- 高木琢也 - J.League Data Siteによる監督データ
- 高木琢也 - ゲキサカ
- 高木琢也の監督成績 - thefinalball.com
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
- 藤和不動産サッカー部の選手
- 東洋工業サッカー部の選手
- サンフレッチェ広島F.Cの選手
- 東京ヴェルディ1969の選手
- 北海道コンサドーレ札幌の選手
- AFCアジアカップ日本代表選手
- AFCアジアカップ1988出場選手
- AFCアジアカップ1992出場選手
- AFCアジアカップ1996出場選手
- アジア競技大会サッカー日本代表選手
- 日本のサッカー指導者
- サッカー解説者
- 横浜FCの監督
- 東京ヴェルディ1969の監督
- ロアッソ熊本の監督
- V・ファーレン長崎の監督
- 大宮アルディージャの監督
- SC相模原の監督
- 長崎県立国見高等学校出身の人物
- 大阪商業大学サッカー部の選手
- 長崎県出身のスポーツ選手
- 1967年生
- 存命人物