遠藤雅大
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | エンドウ マサヒロ | |||||
ラテン文字 | ENDO Masahiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1970年8月15日(54歳) | |||||
出身地 | 東京都 | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 80kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF/FW | |||||
ユース | ||||||
1986-1988 | 帝京高校 | |||||
1989-1992 | 順天堂大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1993-1998 | ヤマハ/ジュビロ磐田 | 99 | (5) | |||
1999 | 横浜FC | 7 | (4) | |||
1999 | → ヴェルディ川崎 (loan) | 3 | (0) | |||
2000 | 清水エスパルス | 7 | (0) | |||
2000-2001 | メヘレン | 4 | (0) | |||
2001-2002 | ラ・ルヴィエール | 1 | (0) | |||
通算 | 121 | (9) | ||||
代表歴 | ||||||
1994[1] | 日本 | 8 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
遠藤 雅大(えんどう まさひろ、1970年8月15日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、現解説者。2001年12月、昌浩から改名。ニックネームは「エンマサ」。
経歴
[編集]松戸市立新松戸北中学校、帝京高等学校、順天堂大学を経て、1993年、当時旧JFLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田)に入団。帝京高校サッカー部では岩本三郎、巻田清一は2学年上、飯島寿久、本田泰人、礒貝洋光、島根聡一、森山泰行は1学年上、同期に池田伸康、保坂信之、浅沼達也、2学年下に森下仁志がいる。
元々はフォワードとしてプレーしていたが、磐田が1994年にJリーグ昇格後、就任したハンス・オフト監督により左サイドバックにコンバートされる。その直後、ファルカン監督により日本代表に選出され、国際Aマッチ8試合に出場した[1]。
1999年、発足直後の横浜FCに移籍。初代キャプテンを務めるが、シーズン途中の7月からはヴェルディ川崎に期限付き移籍。2000年には清水エスパルスに期限付き移籍となる。
同年、ベルギーリーグのKVメヘレンに移籍。ベルギーリーグでプレーする初の日本人選手となる[3]。2001年、エノー州ラ・ルヴィエールを本拠とするRAAラ・ルビエールに移籍するが、チームの経営破綻で契約終了となり、帰国。 帰国後は、スカパー!のサッカー解説を担当した。また、自らの選手、監督及びコーチの経験を生かし、2004年より小学生とその保護者に対して、サッカーの技術、家庭での練習法等を指導する「遠藤雅大インドアサッカー塾」を開催。2023年3月まで世田谷区駒沢にて20年にわたり継続開催した[4]。
実子の遠藤雅己は、明治大学サッカー部を経て、2023年に横浜FCに加入した[5]。
所属クラブ
[編集]- 1993年 - 1998年 ヤマハ発動機/ジュビロ磐田
- 1999年 横浜FC
- 1999年 ヴェルディ川崎
- 2000年 清水エスパルス
- 2000年 - 2001年 KVメヘレン
- 2001年 - 2002年 RAAラ・ルビエール
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | ヤマハ | 11 | 旧JFL1部 | 5 | 0 | 5 | 2 | 1 | 0 | 11 | 2 |
1994 | 磐田 | - | J | 31 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 35 | 2 |
1995 | 40 | 3 | - | 0 | 0 | 40 | 3 | ||||
1996 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 0 | |||
1997 | 3 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | ||
1998 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | |||
1999 | 横浜FC | JFL | 7 | 4 | - | 0 | 0 | 7 | 4 | ||
1999 | V川崎 | 33 | J1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 |
2000 | 清水 | 27 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | |
ベルギー | リーグ戦 | リーグ杯 | ベルギー杯 | 期間通算 | |||||||
2000-01 | メヘレン | ジュピラー | 4 | 0 | |||||||
2001-02 | ラ・ルビエール | 1 | 0 | ||||||||
通算 | 日本 | J1 | 104 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 109 | 5 | |
日本 | JFL | 7 | 4 | - | 0 | 0 | 7 | 4 | |||
日本 | 旧JFL1部 | 5 | 0 | 5 | 2 | 1 | 0 | 11 | 2 | ||
ベルギー | ジュピラー | 5 | 0 | ||||||||
総通算 | 121 | 9 |
代表歴
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 8試合 0得点(1994)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1994 | 8 | 0 |
通算 | 8 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1994年05月29日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | フランス | ●1-4 | パウロ・ロベルト・ファルカン | キリンカップ |
2. | 1994年07月08日 | 愛知県 | 名古屋市瑞穂公園陸上競技場 | ガーナ | ○3-2 | アシックスカップ | |
3. | 1994年07月14日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | ガーナ | ○2-1 | アシックスカップ | |
4. | 1994年09月27日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | オーストラリア | △0-0 | 国際親善試合 | |
5. | 1994年10月03日 | 広島県 | みよし運動公園陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | △1-1 | アジア大会 | |
6. | 1994年10月05日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | カタール | △1-1 | アジア大会 | |
7. | 1994年10月09日 | 広島県 | 広島県立びんご運動公園陸上競技場 | ミャンマー | ○5-0 | アジア大会 | |
8. | 1994年10月11日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | 韓国 | ●2-3 | アジア大会 |
出演番組
[編集]- Jリーグ・欧州各国サッカーリーグ・UEFAチャンピオンズリーグ等のサッカー中継解説(スカパー!、J SPORTS)
CM
[編集]出典
[編集]- ^ a b c “遠藤 昌浩”. サッカー日本代表データベース
- ^ “父は日本代表DF…明大GK遠藤雅己「父を超えるための舞台」横浜FC入りで決意【サッカー】”. 中日新聞 (2022年12月22日). 2023年8月11日閲覧。
- ^ “清水の遠藤がベルギー移籍”. 朝日新聞 (2000年6月17日). 2013年9月6日閲覧。
- ^ 遠藤サッカーアカデミー 【サッカー】都立駒沢オリンピック公園総合運動場体育館
- ^ “横浜FC加入内定の明大GK遠藤雅己が目指す“父超え”「父のキャリアと戦える舞台に立つことができた」 - スポニチ Sponichi Annex サッカー”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年12月22日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 遠藤昌浩 - National-Football-Teams.com
- 遠藤昌浩 - FootballDatabase.eu
- 遠藤昌浩 - WorldFootball.net
- 遠藤昌浩 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 遠藤昌浩 - J.League Data Siteによる選手データ
- 公式HP
- インドアサッカー塾 ESA Facebook