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中山雅史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中山 雅史
名前
愛称 ゴン、中山隊長、ゴン中山
カタカナ ナカヤマ マサシ
ラテン文字 NAKAYAMA Masashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1967-09-23) 1967年9月23日(57歳)
出身地 静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市
身長 178 cm
体重 72 kg
選手情報
ポジション FWCF
利き足 右足
ユース
1983-1985 日本の旗 藤枝東高校
1986-1989 日本の旗 筑波大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-2009 日本の旗 ヤマハ/ジュビロ磐田 419 (207)
2010-2012 日本の旗 コンサドーレ札幌 13 (0)
2015-2020 日本の旗 アスルクラロ沼津 0 (0)
通算 432 (207)
代表歴2
1990-2003 日本の旗 日本 53 (21)
監督歴
2023- 日本の旗 アスルクラロ沼津
1. 国内リーグ戦に限る。2021年1月13日現在。
2. 2003年6月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
手形と直筆サイン

中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。現在はJリーグアスルクラロ沼津の監督を務める。

日本プロサッカー選手会名誉会長。愛称の「ゴン」「ゴン中山」は元サッカー選手の鋤柄昌宏がつけた。これは大学時代、当時の先輩に「オレたちひょうきん族に登場したビートたけし扮する鬼瓦権造に顔が似ている」と言われたことから[注釈 1][1]。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。

日本代表として1998 FIFAワールドカップ2002 FIFAワールドカップにも出場。1998年のFIFAワールドカップ本大会で日本代表のW杯初ゴールを決めている。Jリーグ(J1最優秀選手賞(1回)、得点王(2回)、ベストイレブン(4回)を受賞した経験を持ち、Jリーグシーズン最多得点、J1での最年長記録、W杯本大会日本代表初ゴールなどの個人記録なども持つ。さらに国際試合における最短ハットトリックギネス世界記録保持者でもある。なお、2016年3月に佐藤寿人に抜かれるまで通算J1最多得点(157得点)記録保持者であり、同年11月にステファン・ルチヤニッチに抜かれるまでハットトリック連続世界記録保持者(4試合連続)であった。

妻は女優タレント生田智子で、2004年に誕生した長女がいる。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員。

来歴

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学生時代

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静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍した。高校2年次の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、当時台頭していた東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し、第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にした。本大会では準決勝まで駒を進めたが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPKの末に敗れた。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍した。

1986年筑波大学体育専門学群に入学し蹴球部に入部。井原正巳とは同期でセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務めた[2]。当初は静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーを務めたが、後に先輩である長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻った。

ヤマハ、1994年ジュビロ磐田とJリーグへ

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1990年ヤマハ発動機に入社し、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時のヤマハは完全プロ化への移行は成されていなかったため、サラリーマン生活も経験した。同年の第1回ダイナスティカップ北朝鮮戦で日本代表デビュー。翌年、ヤマハ発動機サッカー部がJリーグ開幕10チームから落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハに残留した。

1993年秋の1994 FIFAワールドカップ・アジア予選での熱いプレーや活躍、また陽気なキャラクター(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)が話題となり、一躍全国区の人気者となる。またこの年、ジュビロ磐田はJFL1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たした。

1994年、ジュビロ磐田のJ1昇格により中山はJリーグデビューを果たし、3月19日の第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[3][4] 開幕当初は試合に出場したが、前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア[注釈 2] が悪化し、4月末に戦線から離脱。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手もいたが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術を受ける。以後リハビリが続き、8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振った。

1995年に怪我から復帰し、開幕から好調なスタートを切った。前年にジュビロへ入団した元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビは、当時Jリーグ最強の2トップと言われた。

1997年は、ドゥンガ山本昌邦らとのトレーニングにより、「オフ・ザ・ボールの動きの質」に開眼。第2ステージ、9月20日ヴェルディ川崎戦では自身Jリーグにおいては自身初となるハットトリックも記録するなど[注釈 3][5]、結果を出してステージ優勝に貢献。鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

ワールドカップ出場、磐田の黄金期を築く

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1998年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点[6] を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された[注 1]。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点を記録した。これは2023年現在もリーグ戦における最多得点記録となっている。この年は得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱を期する鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。

1999年Jリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。

2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、11月23日サンフレッチェ広島戦で自身通算7回目となるハットトリックを記録するなど[5]、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された[注釈 4]

2001年井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れ年間優勝を逃す。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末に敗れるなど、無冠に終わる。

2002年、W杯からのリーグ再開後にはゴールを量産し、得点王となったチームメイトの高原直泰に次ぎ、日本人としては2位となる16ゴールを上げ、磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献、ベストイレブンにも選出された。

2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し、戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰。復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にもかかわらず中山がユニホーム姿になると場内が騒然とした。相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督の柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント。事実、投入直後のコーナーキックで磐田は同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利を収めている。しかしながら、最終節の横浜F・マリノス戦に敗れたことによりリーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。

2005年5月1日柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。

2006年9月17日川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールを達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で達成)。この記録は過去に三浦知良[注釈 5]澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。

2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に、2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任した。

2008年3月15日ガンバ大阪戦でロスタイムにゴールを挙げ[8]、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップでの清水エスパルス戦で、後半43分にコーナーキックをヘディングで決め[9]、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜き、ナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える[注釈 6] 快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。また、この得点が中山が公式戦で挙げた最後の得点となった。

2009年シーズンは出場機会が激減。自身が同年42歳の高齢となったこともあり、11月9日にジュビロ磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとしての残留要請を受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを固辞し、新天地を探すことを選択した。また、この年は中山と同じく磐田がJリーグに加盟した1994年から在籍し、この年の時点で中山と共に2002年の完全優勝を知る選手であった鈴木秀人も戦力外通告を受けた。同年のヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、当時ラモス瑠偉が保持していたJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節のヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながら磐田での最後の試合を終えた。

2010年、コンサドーレ札幌で再起

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退団発表後、ロアッソ熊本横浜FCコンサドーレ札幌(以上J2)、FC町田ゼルビアV・ファーレン長崎(以上JFL)、藤枝MYFC東海リーグ)の6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実している札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまでも現役にこだわり続ける姿勢を表明した。

2010年シーズンは途中出場で主に出場するも、得点には至らなかった。また、11月に膝の手術を行った。

2011年は前年の手術した膝の影響もあり、試合にはまともに出られず、9月には両関節炎を発症し、この年は公式戦無出場に終わった。しかし、来季も現役続行の意志を示し、また所属する札幌のJ1昇格が決まり、中山自身にとっては3シーズン振りのJ1となることが決定した[10]

オフには、東日本大震災の慈善試合で仙台で行われた「日本サッカー選手会 クリスマス・チャリティーサッカー2011」に出場し、会場を盛り上げた[11]。また、この際に複数の選手たちと共に被災地へも訪問している[12]

2012年、「東日本大震災復興支援Jスペシャルマッチ」のファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された[13]

11月24日の横浜F・マリノス戦で、後半から途中出場を果たし、45歳2ヵ月1日でのJ1出場で、自身が持つ最年長J1出場記録を更新した[14]。またこの記録は、2020年9月23日に三浦知良に更新されるまで『J1最年長出場記録』だった。

シーズン終了後、現役続投か引退かの結論を保留していたが、12月に今季限りでの現役引退の決意を固め[15]、4日に現役引退を発表した[16]。記者会見では、引退の原因は両膝が思うように動かなくなったことと話し、まだ未練タラタラであり、元気になったらカムバックするつもりとも述べ、またサッカーを愛するがゆえにそういう怪我も負ってしまったが、サッカーを愛したことに後悔はしていないとも語った[17]。引退会見ではあったが、中山は「第一線を退く」という言葉を使い、「引退」という言葉を使っていない。また自身の引退試合の開催についても現時点で否定する発言もしている。

中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。

日本国内だけでなくフランス紙の「レキップ」やFIFAの公式HP、中国メディアの中国新聞社などが中山の引退について取り上げた。

引退後

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引退後は、マネジメント会社ARSと契約し、バラエティ番組やスポーツ番組、ニュース番組などにゲスト出演したり、「第91回全国高校サッカー選手権大会 決勝」のゲスト解説や「第21回全日本高校女子サッカー選手権大会」のイメージキャラクターも担当している。2013年4月からはテレビのレギュラー番組や初のパーソナリティを担当するラジオ番組などに出演している。サッカー解説は主にテレビ朝日スカパーでの試合中継時に行っている。

2013年10月に発売した『プロサッカークラブをつくろう!』のCMに出演し、同作のパッケージも担当しており、ゲーム内にも自身が登場している[18]

複数の企業による共同の東日本大震災被災地支援プロジェクトで、福島県相馬市に屋内型の遊び場を建設する企画の『みんなの遊び場プロジェクト』などにも参加している[19]

同年10月15日、2013年度のJリーグアウォーズにて、功労選手賞として表彰される事が決まり[20]、12月10日、Jリーグアウォーズにて、功労選手賞が授与された[21]

アスルクラロ沼津で現役復帰

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2015年9月5日、磐田時代にコーチや2004年から2006年に監督として指揮を執った山本昌邦が理事長を務めるJFLアスルクラロ沼津の練習に参加し[22][23]9月14日には現役復帰することが発表された[24]10月11日には、古巣のジュビロ磐田との練習試合で実戦に復帰した[25]。中山の影響で沼津の試合で観客が増えたり、ベンチ入りしない試合でも試合会場に駆けつけチームメイトを鼓舞するなどしていたが、2015年シーズンに試合には出場しなかった[26]。(サッカー解説者の活動も並行で継続。)

J1通算157ゴール(最後の得点は2008年3月15日のG大阪戦)記録を約7年間並ばれることはなかったが、2015年11月22日にサンフレッチェ広島佐藤寿人が通算157ゴール目を決め中山に並んだ。また、中山はスタンドで観戦しており「現時点で追いつかれただけですからね。ここから引き離していけるように頑張れればいい。素晴らしいゴールを間近で見させて頂き、勉強になりました。ああいうゴールを決めたいなと情熱をたぎらせてくれる」と中山節でコメントした[27]

2016年シーズンも公式戦の出場は無かったが、チームはJFL年間3位となり悲願のJリーグ入りが決定した[28]

指導者時代

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アスルクラロ沼津の選手兼任育成チームコーチ時代

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それ以後も選手登録は継続しているものの試合の出場機会には恵まれず、2019年シーズンからは選手兼任で沼津のU-18コーチを務めることとなった。中山は既にJFA 公認S級コーチの資格を取得するためのカリキュラムを終えていたが、取得のために必要な指導実績が足りないことからユースチームの指導を行うこととなった[29]

2020年3月14日に日本サッカー協会が2020年度の第3回理事会を行い、そこで中山へのS級コーチライセンスを付与することが決定した。現役Jリーガーの取得は初めてとなった[30]

ジュビロ磐田

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2021年1月13日、沼津を退団してジュビロ磐田のコーチに就任する事が発表された[31]。同日に放送された『報道ステーション』では、中山の特集が組まれテロップには「現役引退[32] と表示されたが、本人の口からは発せられず、「(引退の)2文字に抗いたい」とコメント[33] し、就任に際してのコメントでも「選手としてのトレーニングはひとまず休む」と強調している[34] が、テレビ朝日関東ローカルの「Get Sports」2020年3月8日(7日深夜付け)生放送のインタビューでは「選手卒業なんですかね。留年かな。休学かな。休学してますけど。そりゃプレイヤーの方がいいでしょ。そりゃ選手が一番ですよ」[32] と、現役復帰を示唆するようなコメントも残している。

また、YouTubeに「ゴン中山チャンネル」を開設した[35]

2022年11月13日、 契約満了によるコーチ退任が発表された[36]

アスルクラロ沼津

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2022年11月13日、古巣のアスルクラロ沼津の監督就任が発表された[37]

2023年シーズンは、J2昇格も狙える3位まで順位を上げた時期もあったが、最終的には15勝6分17負で13位となり監督1年目でのJ2昇格は叶わなかった[38]

日本代表

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1990年、横山謙三監督に選出されダイナスティカップ北朝鮮戦でAマッチデビューを果たした[39]。以降は代表を遠ざかっていたが、1992年にハンス・オフトが代表監督になると代表に復帰、主に試合終盤に投入されるスーパーサブとして活躍、第2回ダイナスティカップ決勝の韓国戦では代表初ゴールとなる同点ゴールを挙げるなど[40]、優勝に貢献、アジアカップでは準決勝の中国戦で決勝ゴールを決めるなど[41]、優勝に貢献した。1993年はクラブがジャパンフットボールリーグ(JFL)在籍にもかかわらず、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選のメンバーにヤマハのチームメイトであった吉田光範と共に選ばれた。最終予選では1-2で敗戦した第2戦のイラン戦で途中出場から1ゴールを決めると、累積警告で出場出来なかった高木琢也に変わって先発の第3戦北朝鮮戦でもゴールを決め勝利に貢献[42] すると、高木が出場停止から復帰後も先発に定着。最終戦のイラク戦でも勝ち越しゴールを決めたが、ロスタイムに同点ゴールを決められ引き分け、ワールドカップ行きの切符を逃した[43]。 1995年のキリンカップで復帰したが[39]、6月のアンブロ・カップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。

1998 FIFAワールドカップ・アジア予選のグループリーグ最終戦のカザフスタン戦で約2年半振りに代表へ復帰しゴールを決めると[39]イランとのアジア第3代表決定戦でもスタメン起用の期待に応え先制点を決め、日本のワールドカップ初出場(「ジョホールバルの歓喜」)の重要な役割を果たした。 翌年、1998 FIFAワールドカップにも選出されると、全敗でグループリーグ敗退したものの、3試合すべてで先発し、最終節のジャマイカ戦では、日本代表のワールドカップ初ゴールにして今大会唯一のゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了までプレーし続けたことで、その闘志が称賛された[注釈 7]

代表監督がトルシエに変わると、定期的に招集は受けるものの、若手の台頭などもあり、当落線上を前後していた。2000年のアジアカップ予選のブルネイ戦では三浦知良とツートップを組み、ハットトリックを決めた[44][注釈 8]。2002年には、世間からは「中山待望論」はあったものの、リーグ開幕からワールドカップによる中断までわずか1得点と不調で、直前の海外遠征のメンバーから外された事や、トルシエが落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測や報道が多数を占めた。しかしベテラン抜きで挑んだ直前遠征で結果が出せなかった事もあり、代表に足りない「精神的支柱」としての意味も含め秋田豊とともに2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立ち、「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。

2002年10月、ジーコ監督就任以降も代表に選出され4試合でプレー、2003年のキリンカップ、アルゼンチン戦で先発出場。この試合が代表最後の試合となった[39]

2004年、ジーコは既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、最終戦のシンガポール戦へ三浦知良と共に招集したい意向を示していたが[45][46]、日本サッカー協会が難色を示したことから招集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした[45]

背番号

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ジュビロ磐田

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9 (1997-2009年)
前身のヤマハ発動機サッカー部に加入直後から背番号9を付けて以来、Jリーグでも固定背番号制ではなかった1994年から1996年にかけてもほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
このシーズンの開幕戦で、スキラッチが9番、中山は11番で登場。しかし次のホーム・ジュビロ磐田スタジアムでの開幕試合(3月22日G大阪戦)から2人は背番号を入れ替える。
直前の静岡ダービーで怪我を負い、ベンチスタートしたため背番号はサブ用の15。

コンサドーレ札幌

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9 (2010年 - 2012年)

アスルクラロ沼津

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39 (2015年 - 2020年)

日本代表

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16 (1992-1993年)
オフト監督時代の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
14 (1995年)
加茂監督時代の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
32 (1997年)
1998 FIFAワールドカップ地区予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰した際の背番号。この背番号で、ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げている。アジア予選では、1次予選から通しての固定登録制の規定により、31番まではすでに他の選手で登録されていた[注釈 9] ため、このような大きな番号になった。
9 (1998-2000年、2002-2003年)
磐田ではおなじみの背番号。日本人初のワールドカップにおける得点などは、この背番号を背負って挙げている。2002年にジーコが監督に就任してからは再び9番でプレーした。
11 (2001年)
9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
10 (2002年)
2002 FIFAワールドカップ時の背番号。それまで代表で10番を付けていた名波浩中村俊輔の両名が落選したこと、既に9番は西澤、11番は鈴木に定着していたことで、中山が10番を背負うことになった。本人にとっては藤枝東高校以来の背番号10で、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。中田英寿は「ゴンちゃん似合わねー」とコメントした。

所属クラブ

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アマ経歴
プロ経歴

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1990-91 ヤマハ 9 JSL1部 13 4 2 1
1991-92 18 15 1 0
1992 旧JFL1部 16 13 - 2 2 18 15
1993 18 18 0 0 1 0 19 18
1994 磐田 - J 12 3 0 0 0 0 12 3
1995 45 18 - 0 0 45 18
1996 27 9 13 7 0 0 40 16
1997 9 27 18 11 6 4 2 42 26
1998 27 36 0 0 3 4 30 40
1999 J1 23 6 1 1 1 2 25 9
2000 29 20 4 1 3 2 36 23
2001 30 16 8 4 1 0 39 20
2002 29 16 7 3 3 2 39 21
2003 12 3 2 1 5 0 19 4
2004 19 3 5 0 4 1 28 4
2005 29 6 2 0 2 0 33 6
2006 13 1 3 1 1 0 17 2
2007 15 1 5 1 2 0 22 2
2008 16 1 3 1 2 1 21 3
2009 1 0 1 0 1 0 3 0
2010 札幌 J2 12 0 - 1 0 13 0
2011 0 0 - 0 0 0 0
2012 J1 1 0 0 0 0 0 1 0
2015 沼津 39 JFL 0 0 - - 0 0
2016 0 0 - - 0 0
2017 J3 0 0 - 0 0 0 0
2018 0 0 - - 0 0
2019 0 0 - - 0 0
2020 0 0 - - 0 0
通算 日本 J1 355 157 65 26 32 14 452 197
日本 J2 12 0 - 1 0 13 0
日本 J3 0 0 - 0 0 0 0
日本 JSL1部 31 19 3 1
日本 旧JFL1部 34 31 0 0 3 2 37 33
日本 JFL 0 0 - 0 0 0 0
総通算 432 207 68 27

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2004 磐田 9 4 1
2005 1 0
通算 AFC 5 1

その他の国際公式戦

その他

指導歴

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監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ルヴァンカップ 天皇杯
2023 J3 沼津 13位 51 38 15 6 17 - 1回戦敗退
2024

タイトル

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クラブ

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ジュビロ磐田
アスルクラロ沼津

代表

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日本代表

個人

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代表歴

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出場大会など

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試合数

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  • 国際Aマッチ 53試合 21得点 (1990年 - 2003年)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1990 1 0
1991 0 0
1992 6 3
1993 8 4
1994 0 0
1995 4 1
1996 0 0
1997 2 2
1998 10 4
1999 1 0
2000 7 6
2001 8 1
2002 3 0
2003 3 0
通算 53 21

出場

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# 開催日 開催地 スタジアム 対戦国 勝敗 監督 試合概要
1. 1990年07月31日 中華人民共和国の旗北京  北朝鮮 ●0-1 横山謙三 ダイナスティカップ
2. 1992年05月31日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  アルゼンチン ●0-1 ハンス・オフト キリンカップ
3. 1992年08月26日 中華人民共和国の旗北京  北朝鮮 ○4-1 ダイナスティカップ
4. 1992年08月29日 中華人民共和国の旗北京  韓国 △2-2(PK4-2) ダイナスティカップ
5. 1992年11月01日 日本の旗広島県 広島広域公園陸上競技場  北朝鮮 △1-1 アジアカップ
6. 1992年11月03日 日本の旗広島県 広島広域公園陸上競技場  イラン ○1-0 アジアカップ
7. 1992年11月06日 日本の旗広島県 広島県総合グランドメインスタジアム  中華人民共和国 ○3-2 アジアカップ
8. 1993年03月07日 日本の旗福岡県 東平尾公園博多の森陸上競技場  ハンガリー ●0-1 キリンカップ
9. 1993年03月14日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  アメリカ合衆国 ○3-1 キリンカップ
10. 1993年04月15日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  スリランカ ○5-0 ワールドカップ予選
11. 1993年05月05日 アラブ首長国連邦の旗ドバイ  スリランカ ○6-0 ワールドカップ予選
12. 1993年10月18日 カタールの旗ドーハ  イラン ●1-2 ワールドカップ予選
13. 1993年10月21日 カタールの旗ドーハ  北朝鮮 ○3-0 ワールドカップ予選
14. 1993年10月25日 カタールの旗ドーハ  韓国 ○1-0 ワールドカップ予選
15. 1993年10月28日 カタールの旗ドーハ  イラク △2-2 ワールドカップ予選
16. 1995年05月21日 日本の旗広島県 広島広域公園陸上競技場  スコットランド △0-0 加茂周 キリンカップ
17. 1995年05月28日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  エクアドル ○3-0 キリンカップ
18. 1995年06月03日 イングランドの旗ロンドン  イングランド ●1-2 アンブロカップ
19. 1995年06月06日 イングランドの旗リバプール  ブラジル ●0-3 アンブロカップ
20. 1997年11月08日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  カザフスタン ○5-1 岡田武史 ワールドカップ予選
21. 1997年11月16日 マレーシアの旗ジョホールバル  イラン ○3-2(延長V) ワールドカップ予選
22. 1998年03月01日 日本の旗神奈川県 横浜国際総合競技場  韓国 ○2-1 ダイナスティカップ
23. 1998年03月07日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  中華人民共和国 ●0-2 ダイナスティカップ
24. 1998年04月01日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●1-2 ワールドカップ記念試合
25. 1998年05月17日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  パラグアイ △1-1 キリンカップ
26. 1998年05月24日 日本の旗神奈川県 横浜国際総合競技場  チェコ △0-0 キリンカップ
27. 1998年06月03日 スイスの旗ローザンヌ  ユーゴスラビア ●0-1 国際親善試合
28. 1998年06月14日 フランスの旗トゥールーズ  アルゼンチン ●0-1 ワールドカップ
29. 1998年06月20日 フランスの旗ナント  クロアチア ●0-1 ワールドカップ
30. 1998年06月26日 フランスの旗リヨン  ジャマイカ ●1-2 ワールドカップ
31. 1998年10月28日 日本の旗大阪府 長居陸上競技場  エジプト ○1-0 フィリップ・トルシエ キリンチャレンジ
32. 1999年03月31日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  ブラジル ●0-2 キリンビバレッジ
33. 2000年02月05日 香港の旗香港  メキシコ ●0-1 カールスバーグカップ
34. 2000年02月13日 マカオの旗マカオ  シンガポール ○3-0 アジアカップ予選
35. 2000年02月16日 マカオの旗マカオ  ブルネイ ○9-0 アジアカップ予選
36. 2000年02月20日 マカオの旗マカオ  マカオ ○3-0 アジアカップ予選
37. 2000年03月15日 日本の旗愛知県 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場  中華人民共和国 △0-0 キリンビバレッジ
38. 2000年04月26日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●0-1 国際親善試合
39. 2000年12月20日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 △1-1 キリンビバレッジ
40. 2001年05月31日 日本の旗新潟県 新潟スタジアム  カナダ ○3-0 コンフェデレーションカップ
41. 2001年06月02日 日本の旗新潟県 新潟スタジアム  カメルーン ○2-0 コンフェデレーションカップ
42. 2001年06月04日 日本の旗茨城県 茨城県立カシマサッカースタジアム  ブラジル △0-0 コンフェデレーションカップ
43. 2001年06月10日 日本の旗神奈川県 横浜国際総合競技場  フランス ●0-1 コンフェデレーションカップ
44. 2001年07月01日 日本の旗北海道 札幌ドーム  パラグアイ ○2-0 キリンカップ
45. 2001年07月04日 日本の旗大分県 大分スポーツ公園総合競技場  ユーゴスラビア ○1-0 キリンカップ
46. 2001年08月15日 日本の旗静岡県 静岡県小笠山総合運動公園スタジアム  オーストラリア ○3-0 AFC/OFCチャレンジカップ
47. 2001年11月07日 日本の旗埼玉県 埼玉スタジアム2002  イタリア △1-1 キリンチャレンジカップ
48. 2002年05月25日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  スウェーデン △1-1 キリンチャレンジカップ
49. 2002年06月09日 日本の旗神奈川県 横浜国際総合競技場  ロシア ○1-0 ワールドカップ
50. 2002年11月20日 日本の旗埼玉県 埼玉スタジアム2002  アルゼンチン ●0-2 山本昌邦(代行) キリンチャレンジカップ
51. 2003年04月16日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ○1-0 ジーコ 国際親善試合
52. 2003年05月31日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 ●0-1 国際親善試合
53. 2003年06月08日 日本の旗大阪府 長居陸上競技場  アルゼンチン ●1-4 キリンカップ

ゴール

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# 開催年 月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1 1992年 8月29日 中華人民共和国の旗 中国 大韓民国の旗 韓国 △2-2 ダイナスティカップ1992
2 11月1日 日本の旗 日本, 広島 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国 △1-1 AFCアジアカップ1992グループリーグ
3 11月6日 中華人民共和国の旗 中国 ○3-2 AFCアジアカップ1992準決勝
4 1993年 5月5日 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 スリランカの旗 スリランカ ○6-0 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
5 10月18日 カタールの旗 カタール イランの旗 イラン ●1-2
6 10月21日 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国 ○3-0
7 10月28日 イラクの旗 イラク △2-2
8 1995年 5月28日 日本の旗 日本, 東京 エクアドルの旗 エクアドル ○3-0 キリンカップサッカー1995
9 1997年 11月8日 カザフスタンの旗 カザフスタン ○5-1 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 最終予選
10 11月16日 マレーシアの旗 マレーシア イランの旗 イラン ○3-2 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 プレーオフ
11 1998年 3月1日 日本の旗 日本, 横浜 大韓民国の旗 韓国 ○2-1 ダイナスティカップ1998
12 4月1日 大韓民国の旗 韓国 大韓民国の旗 韓国 ●1-2 親善試合
13 6月26日 フランスの旗 フランス ジャマイカの旗 ジャマイカ ●1-2 1998 FIFAワールドカップ
14 10月28日 日本の旗 日本, 大阪 エジプトの旗 エジプト ○1-0 親善試合
15 2000年 2月13日 マカオの旗 マカオ シンガポールの旗 シンガポール ○3-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
16 2月16日 ブルネイの旗 ブルネイ ○9-0
17
18
19 2月20日 マカオの旗 マカオ ○3-0
20
21 2001年 8月15日 日本の旗 日本, 静岡 オーストラリアの旗 オーストラリア ○3-0 AFC/OFCチャレンジカップ

出演

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レギュラー番組

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ゲスト・特番

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映画

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マンガ・アニメ

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ドラマ

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出版物、広告媒体

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CM

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参加CD

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J-100として
  • 飛躍』 (2003年3月19日発売)
コーラス
PV出演
  • 明日へFUNKY MONKEY BABYS (2009年11月18日発売) - 同シングル(初回限定版)のジャケットのイメージキャラクターにも起用されている。

その他

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書籍

DVD

  • 「中山雅史 ゴンゴールズ」(2006年5月26日、日活)
  • 「コンサドーレ札幌J1昇格記念DVD〜2011戦いの記録〜」(兼解説、ラジオCM 2012年 札幌テレビ放送

注釈

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  1. ^ これが縁で大日本除虫菊のタンスにゴンのCMに出演している。
  2. ^ 現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害
  3. ^ ジュビロ磐田の日本人選手として初。
  4. ^ これ以前の記録は、1938年11月16日イングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒である
  5. ^ 2006年に当時J2横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している。
  6. ^ 中山は40歳8か月2日で達成。
  7. ^ 一部で「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」とも報道されたが、誤りである。
  8. ^ 代表では初にして唯一のハットトリック。
  9. ^ 同じく最終予選途中で追加召集された高木琢也や北澤豪がそれぞれ9番と13番を付けたのは、1次予選の段階でその番号で登録され出場しているため。
  1. ^ 2016年11月にクロアチア東部の地域リーグであるドラーチチェ・ジャコボ所属のFWステファン・ルチヤニッチが5試合連続ハットトリックを達成して記録は塗り替えられている[7]

出典

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  1. ^ 不器用な男の決断-中山”. 日刊スポーツ. 株式会社日刊スポーツ新聞社. 1998年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月21日閲覧。
  2. ^ Number 2013年10月17日号 no.839 p.22-26
  3. ^ “中山雅史”. data.jleague. https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=510 2020年5月12日閲覧。 
  4. ^ “94Jリーグサントリーシリーズ 第3節”. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=475 2020年5月12日閲覧。 
  5. ^ a b “ジュビロ磐田 ハットトリック一覧”. data.jleague. https://data.j-league.or.jp/SFTD09/search?selectFlag=0&competition_frames=1&competition_year_from=&competition_year_to=&teams=13&player_name= 2020年5月12日閲覧。 
  6. ^ Jリーグのリーグ戦における「1試合における1人での最多得点」タイ記録。
  7. ^ “ゴンのギネス超えられた~クロアチアで5戦連続ハット”. スポニチアネックス. (2016年11月10日). https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/11/10/kiji/K20161110013695530.html 2016年11月10日閲覧。 
  8. ^ “2008Jリーグ ディビジョン1 第2節”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=10814 2020年5月12日閲覧。 
  9. ^ “2008Jリーグヤマザキナビスコカップ/Bグループ 第4節”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=10752 2020年5月12日閲覧。 
  10. ^ 札幌ゴン残留でJ1に戻る/J2 日刊スポーツ2011.12.4付ニュースリリース
  11. ^ ゴン負傷後初実戦でファン魅了/慈善試合 日刊スポーツ2011.12.24付ニュースリリース
  12. ^ ゴン、被災地訪問で爆笑トーク 日刊スポーツ2011.12.22付ニュースリリース
  13. ^ ゴン「ピエロにならないように…」 日刊スポーツ2012.7.20付ニュースリリース
  14. ^ 45歳札幌ゴン中山J1年長出場/J1 日刊スポーツ2012.11.25付ニュースリリース
  15. ^ 45歳ゴン中山引退決断 J最多157得点 日刊スポーツ2012.12.04付ニュースリリース
  16. ^ コンサドーレ札幌 中山 雅史 選手 現役引退のお知らせ』(プレスリリース)コンサドーレ札幌、2012年12月4日http://www.consadole-sapporo.jp/news/2012/12/013640.html2012年12月4日閲覧 
  17. ^ 【札幌】中山雅史選手引退会見全文(12.12.04) J's GOAL2012.12.04付ニュースリリース
  18. ^ 『サカつく プロサッカークラブをつくろう!』のパッケージデザインが公開、中山雅史氏の“熱血監督”に注目 ファミ通.com2013.06.25付ニュース
  19. ^ 土屋アンナ ゴンとともに遊び場建設に協力 サンケイスポーツ2013.9.5付ニュース
  20. ^ 功労選手賞について Jリーグ公式サイト2013.10.15付ニュース
  21. ^ 功労選手賞受賞のゴン中山氏「W杯、狙っています」 ゲキサカ2013.12.10付ニュース
  22. ^ 山本昌邦代表、ゴン中山「選手登録たどり着ければ」 日刊スポーツ2015.9.5付ニュース
  23. ^ ゴン中山、現役復帰へ意欲 JFL沼津の練習に参加 朝日新聞2015.9.5付ニュース
  24. ^ 中山雅史選手アスルクラロ沼津加入のお知らせ アスルクラロ沼津公式サイト2015.9.14付ニュース
  25. ^ 中山雅史、古巣磐田との練習試合で実戦復帰 日刊スポーツ2015.10.11付ニュース
  26. ^ 沼津、中山雅史のJFL最終節欠場を発表…今季中のデビューならず サッカーキング2015.11.10付ニュース
  27. ^ ゴン中山、最多得点に並んだ寿人を祝福 デイリー 2015.11.23付ニュース
  28. ^ ゴンがJリーグに帰ってくる!JFL・アスルクラロ沼津の来季J3参入を承認! スポーツ報知 2016.11.16付ニュース
  29. ^ 元日本代表・中山雅史、復帰後約5年間公式戦出場なし…52歳となった今も現役を続ける理由 テレ朝POST 2019.12.27付ニュース
  30. ^ 2020年度 第3回理事会を開催 JFA 2020年03月15日
  31. ^ 中山 雅史氏 トップチームコーチ就任のお知らせ』(プレスリリース)ジュビロ磐田、2021年1月13日https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=76382021年1月13日閲覧 
  32. ^ a b 中山雅史、53歳で現役引退。もがきつづけて見た最後の景色「やりつづけてこなければ、ここには至れない」(テレビ朝日)
  33. ^ コーチに就任“引退”使わない訳は?中山雅史に聞く テレ朝NEWS 2021年1月13日
  34. ^ 中山雅史が沼津を退団、磐田のコーチに就任「現役選手のトレーニングをひとまずやめて…」 サッカーキング 2021年1月13日
  35. ^ ゴン中山がユーチューバーデビュー“引退”に妻・生田智子は「あ、そう」だったと告白 サンスポ 2021年1月15日
  36. ^ 中山 雅史コーチ 退任のお知らせ』(プレスリリース)ジュビロ磐田、2022年11月13日https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=86222022年11月13日閲覧 
  37. ^ 中山 雅史氏 新監督就任のお知らせ』(プレスリリース)アスルクラロ沼津、2022年11月13日https://www.azul-claro.jp/information/65176/2022年11月14日閲覧 
  38. ^ ゴン節全開!アスルクラロ沼津の中山雅史監督がキャリア1年目に感じた“マネジメントの難しさ”LIFE 2023年12月12日
  39. ^ a b c d “中山雅史”. jfootball. http://www.jfootball-db.com/players_na/masashi_nakayama.html 13 May 2020閲覧。 
  40. ^ “日本 vs 韓国 1992”. samuraiblue.jpl. http://samuraiblue.jp/timeline/19920829/ 17 April 2020閲覧。 
  41. ^ “日本 vs 中国 1992”. samuraiblue.jpl. http://samuraiblue.jp/timeline/19921106/ 17 April 2020閲覧。 
  42. ^ “運命のイラク戦、ラモスは「俺じゃなく中山を選んだ。その決め手は1”. www.soccerdigestweb.com. https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=73116 13 May 2020閲覧。 
  43. ^ “運命のイラク戦、ラモスは「俺じゃなく中山を選んだ。その決め手は EP5 3”. www.soccerdigestweb.com. https://www.soccerdigestweb.com/news/detail3/id=73116 13 May 2020閲覧。 
  44. ^ “日本 vs ブルネイ 2000”. samuraiblue.jpl. http://samuraiblue.jp/timeline/20000216/ 17 April 2020閲覧。 
  45. ^ a b 4年9カ月ぶりの共演/カズとゴン、観衆沸かす”. 四国新聞 (2004年12月4日). 2022年5月23日閲覧。
  46. ^ ドイツW杯アジア予選では、カズの招集を考えていた。”. Number (2011年11月11日). 2022年5月23日閲覧。
  47. ^ 代表TIMELINE”. 日本サッカー協会. 2016年2月8日閲覧。
  48. ^ ゴン中山「クレヨンしんちゃん」と共演 26日放送 日刊スポーツ 2016.8.18付ニュース
  49. ^ 「CF撮影余話(KINCHO)」『近代企業リサーチ 10月10日』第714号、中小企業経営管理センター事業部、1994年10月10日、77頁、NDLJP:2652215/39 

関連項目

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外部リンク

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