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尾崎加寿夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾崎 加寿夫
名前
カタカナ オザキ カズオ
ラテン文字 OZAKI Kazuo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1960-03-07) 1960年3月7日(64歳)
出身地 東京都
身長 176cm
体重 74kg
選手情報
ポジション FW
ユース
1975-1977 日本の旗 日本大学高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1983 日本の旗 三菱重工 63 (18)
1983-1988 ドイツの旗 アルミニア・ビーレフェルト 113 (18)
1988-1989 ドイツの旗 ザンクトパウリ 6 (0)
1989-1990 ドイツの旗 TuRUデュッセルドルフ
1990-1992 日本の旗 三菱自動車/浦和レッズ 15 (2)
1993 日本の旗 ヴェルディ川崎 2 (0)
通算 199 (38)
代表歴
1979  日本U-20 3 (0)
1981-1983 日本の旗 日本 17 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年昭和35年)3月7日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード奥寺康彦に次いで日本人として2人目のサッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)でプレーした選手となった[1]

クラブ来歴

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三菱重工時代

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日本大学高校では3年次の1977年全国高校サッカーに出場し、卒業後の1978年三菱重工へ入社。1979年10月には三菱の4年ぶりのJSL制覇に貢献し、アシスト王と日本年間最優秀選手賞を受賞。この頃のメディア等では「若大将」と表現される事もしばしばあった。

ドイツ時代

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1983年6月には1984年ロス五輪出場に向けて重要なトレーニングとなるジャパンカップ'83を体調不良を理由に欠場するが、この期間に無断で渡独しビーレフェルトの練習に参加していた事が発覚すると、選手規定に抵触するとして大問題に発展した。嘘をついて渡独したとして、尾崎に対する風当たりは一気に強くなったが、ロス五輪出場への重要な戦力として尾崎を日本に留めたいサッカー協会、そして本場でプロとして挑戦したいという尾崎という、互いの思惑がぶつかった結果の騒動であった。この「尾崎問題」は7月に三菱が尾崎の意を汲むかたちで退部処分にしたことにより解決し、尾崎はフリーとなり、問題なく協会も移籍証明書を即発行してビーレフェルトとプロ契約を交わすことができた[2]。最初の年俸は約1000万円といわれている[3]

強力なシュートが評価された尾崎は、8月13日ブンデスリーガ日本人2人目のプロ選手としてデビュー。初戦の1.FCケルン戦で先発出場を果たすと、前半に左から鋭く切れ込み西ドイツ代表の守護神ハラルト・シューマッハーを破り初得点となる同点ゴールを記録。強豪相手の逆転勝利に貢献するという鮮烈なデビューを飾ると、11月5日の13節のブレーメン戦で実現した奥寺との日本人対決は、ドイツでも大きな注目を浴びた。これが海外での日本人選手同士の初対決となったが[4]、結果はブレーメンが3-0で勝利した。1986年にビーレフェルトは2部(ツヴァイテリーガ)へ降格するが残留しプレーを続けた。

1988年にブンデスリーガのザンクトパウリへ移籍。

1989年にはオーバーリーガTuRUデュッセルドルフに移籍。ドイツでは1部リーグで62試合出場9得点、2部リーグで57試合出場9得点という通算成績を残している。

国内復帰

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1990年に古巣の三菱自工へ復帰し、1993年にはヴェルディ川崎へ移籍。リーグ戦に2試合出場し、シーズン終了後に現役を引退。

日本リーグ通算78試合出場、20得点。国際Aマッチ17試合出場、3得点。

代表経歴

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1979年には日本ユース代表の主将としてワールドユースに出場したが[5]、0勝2分1敗で1次リーグ敗退に終わった。この頃はドリブルで切り崩してゴール付近まで突破するスタイルと、得点後にジャンプしながらガッツポーズするシーンが多く見られた。

1981年には日本代表に選出され、1982年6月にはジャパンカップキリンワールドサッカー'82に出場し、フェイエノールト戦で4得点を挙げるなど、計6得点と活躍[2]。この時には奥寺康彦が所属するヴェルダー・ブレーメンも来日していた。7月には日本代表として西ドイツ遠征に参加し、この時に対戦したビーレフェルトホルスト・ケッペル監督に練習への参加を要請される。

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1978 三菱 21 JSL1部 1 0
1979 14 13 1 4 2
1980 13 11 1 1 0 5 3 17 4
1981 12 10 5 5 4 1 1 16 10
1982 9 18 8 2 3 2 2 22 13
1983 10 4 0 0 0 0 10 4
西ドイツ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1983-84 ビーレフェルト ブンデス1部 33 5 2 1 35 6
1984-85 23 4 1 1 24 5
1985-86 ブンデス2部 28 3 1 0 29 3
1986-87 13 3 1 0 14 3
1987-88 16 3 1 0 17 3
1988-89 ザンクトパウリ ブンデス1部 6 0 0 0 6 0
1989-90 TuRUドイツ語版 オーバー
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1990-91 三菱 26 JSL1部 6 0 0 0 2 3 8 3
1991-92 9 1 1 0 3 2 13 3
1992 浦和 - J - 4 1 2 0 6 1
1993 V川崎 2 0 0 0 0 0 2 0
通算 日本 JSL1部 78 20
日本 J 2 0 4 1 2 0 8 1
西ドイツ ブンデス1部 62 9 3 2 65 11
西ドイツ ブンデス2部 57 9 3 0 60 9
西ドイツ オーバー
総通算

JSL東西対抗戦(オールスターサッカー)2回出場(1982年、1991年)

その他の公式戦

代表歴

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出場大会など

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試合数

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  • 国際Aマッチ 17試合 3得点(1981-1983)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1979 0 0 1 0 1 0
1980 0 0 1 0 1 0
1981 9 2 8 1 17 3
1982 7 1 13 7 20 8
1983 1 0 0 0 1 0
通算 17 3 23 8 40 11

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1981年02月08日 マレーシアの旗クアンタン  マレーシア ●0-1 川淵三郎 国際親善試合
2. 1981年02月10日 マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア △1-1 国際親善試合
3. 1981年02月17日 シンガポールの旗シンガポール  シンガポール ○1-0 国際親善試合
4. 1981年02月19日 シンガポールの旗シンガポール  シンガポール △0-0 国際親善試合
5. 1981年08月30日 マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ○2-0 森孝慈 ムルデカ大会
6. 1981年09月03日 マレーシアの旗クアラルンプール  インド ○3-2 ムルデカ大会
7. 1981年09月08日 マレーシアの旗クアラルンプール  アラブ首長国連邦 ○3-2 ムルデカ大会
8. 1981年09月14日 マレーシアの旗クアラルンプール  インドネシア ○2-0 ムルデカ大会
9. 1981年09月18日 マレーシアの旗クアラルンプール  イラク ●0-2 ムルデカ大会
10. 1982年03月21日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●0-3 日韓定期戦
11. 1982年06月02日 日本の旗広島県 広島県総合グランドメインスタジアム  シンガポール ○2-0 ジャパンカップ
12. 1982年07月15日 ルーマニアの旗スチャバ  ルーマニア ●0-4 国際親善試合
13. 1982年07月18日 ルーマニアの旗ブカレスト  ルーマニア ●1-3 国際親善試合
14. 1982年11月21日 インドの旗ニューデリー  イラン ○1-0 アジア大会
15. 1982年11月23日 インドの旗ニューデリー  南イエメン ○3-1 アジア大会
16. 1982年11月28日 インドの旗ニューデリー  イラク ●0-1(延長) アジア大会
17. 1983年03月06日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 △1-1 日韓定期戦

得点数

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# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1981年9月8日 マレーシアクアラルンプール アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 3-2 勝利 ムルデカ大会
2 1981年9月14日 インドネシアの旗 インドネシア 2-0 勝利
3 1982年6月2日 日本広島市 シンガポールの旗 シンガポール 2-0 勝利 ジャパンカップ

脚注

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関連項目

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外部リンク

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