コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

森孝慈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森 孝慈
名前
カタカナ モリ タカジ
ラテン文字 MORI Takaji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1943年11月24日
大日本帝国の旗 大日本帝国, 広島県福山市
没年月日 (2011-07-17) 2011年7月17日(67歳没)
日本の旗 日本, 東京都目黒区
身長 173cm
体重 65kg
選手情報
ポジション MFDF
ユース
1959-1961 日本の旗 修道高校
1962-1966 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1967-1977 日本の旗 三菱重工 146 (28)
通算 146 (28)
代表歴
1966-1976[1] 日本の旗 日本 56 (2)
監督歴
1981-1985 日本の旗 日本
1992-1993 日本の旗 浦和レッズ
1998 日本の旗 アビスパ福岡
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者[出典 1]。現役時代のポジションはミッドフィルダーサッカー日本代表として56試合に出場し、1968年メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した[出典 2]

人物

[編集]

浦和レッドダイヤモンズの父」「浦和レッズ生みの親」と称される[出典 3]

実父は教師、広島県庁および日本体育協会職員で、原爆被災後の広島市内の様に衝撃を受け、街をうろつく原爆孤児を引き取り、戦後広島湾似島似島学園を設立したことで知られる森芳麿[出典 4]。実兄は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設へ大きな舵取り役を果たした森健兒

来歴

[編集]

選手時代

[編集]

福山市西町で生まれる[出典 5]。父・芳麿の似島学園創設に伴い一家で似島に転居し、孝慈は2歳から中学3年まで広島市似島で育ち、小学校4年からは毎日船に乗って島外の広島市立皆実小学校へ通学。中学・高校は修道で学び[出典 6]、高校からは学校近くに一人で下宿した[出典 7]。海で鍛えた泳ぎを買われ中学3年間は水泳部に在籍、中3の卒業間際から親友の若山待久に誘われ本格的にサッカーを始める[出典 8]。成績も常にトップクラスで学級委員[17]、女生徒の人気の的だったという。1956年、父・芳麿を亡くしている(詳細は似島学園参照)。

修道高校2年までは小城得達らがいた広大付属高校が全盛期で歯が立たず、全国出場はならなかったが、東洋工業(現:サンフレッチェ広島)とも練習試合をしてもらい鍛えられた[17]1961年、修道高3年時には下村幸男監督の下、国体優勝(決勝1-0、浦和市立[5]。更に同年の高校選手権で、釜本邦茂二村昭雄らを擁する山城高校を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した[出典 9]。当時のチームメイトには中村勤吉田浩らがおり、キャプテンを務めた若山待久は後にJFAスポーツ医学委員として日本代表の医療スタッフとなる[出典 10]

1962年に早稲田大学第一政治経済学部自治行政学科に入学し、ア式蹴球部に入部。一年時からレギュラーを獲り[出典 11]松本育夫野村尊敬桑田隆幸大野毅・二村・釜本らと早稲田の黄金時代を創る[出典 12]1964年第43回天皇杯全日本サッカー選手権大会では日立本社(現:柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。1966年は主将を務め[2]第46回天皇杯決勝で東洋工業(現:サンフレッチェ広島)を破って優勝した[7]。これは天皇杯、最後の学生優勝である。当時の早稲田は作戦を選手で決めていた[出典 13]。早稲田在学中の1964年、東京オリンピックの全日本(日本代表メンバー)に選出され、以後1976年まで日本代表として活躍[2]

大学卒業後の1967年日本サッカーリーグ (JSL) の三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ)へ入団[出典 14]杉山隆一横山謙三らと共に主力として活躍し[5]1969年には当時JSL4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点[2]。JSL1部優勝2回、天皇杯優勝2回。年間優秀11人賞を5回受賞[2]。また日本代表でも、1967年メキシコオリンピック予選前から、主にストッパーとしてチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から1968年のメキシコオリンピック本大会、1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選1970年アジア競技大会にかけて国際Aマッチ32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代では1位の記録に当たる。

国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックでは全試合にHBとして中盤をリードし、銅メダルを獲得した[出典 15]。メキシコ五輪の主力が抜けた後は、1970年代の日本代表を中盤の司令塔として釜本らと支える[出典 16]

日本代表監督

[編集]

知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む[27]1979年、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという日本体育協会のプログラムからの助成を受けて、西ドイツにコーチ留学に送り出され[出典 17]1.FCケルンヘネス・バイスバイラーリヌス・ミケルスらから一年間、指導法を学ぶ[出典 18][注釈 1]1980年10月、日本代表監督の渡辺正が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早い同年11月に帰国し、川淵三郎監督下でコーチに就任した[出典 19]。川淵は強化部長兼任で名目上の監督であり、事実上チームの指揮は森が担った[出典 20]1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任し[出典 21]、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く[出典 22]。理論派と評され「日本サッカー立て直しの切り札」[40]として期待はかつてないものであった[出典 23]。プロ化を進める日産読売、アマにこだわる古河三菱など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他[出典 24]、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップし、これまでにない革新的なチーム作りを行った[5]。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルでロサンゼルスオリンピック予選に臨んだ[出典 25]。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した[出典 26]

1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てるサラリーマン[44]であり、代表合宿中はいわゆる出張。中には欠勤扱いの選手もいた[29]。現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代で、副主将ながら控えで出番の少なかった岡田武史が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったが、岡田の立場もよく分かるため、結局慰留は出来なかった[出典 27]戸塚哲也などは「代表でプレーすることに魅力を感じない」と公言していた[29]。日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表のスタッフは、監督とコーチにドクターマッサージ師が各一人だけ[29]マネージャーもおらず、監督が選手のパスポートを集めてチェックインなども行っていた。代表選手に支払われる金は交通費のみ。森も三菱から出向中のアマの代表監督で[38]、勿論、無報酬[29]。読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった[出典 28]。選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことができない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い1982年から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった[出典 29]。日本のライバルである韓国では1983年にプロリーグが始まり、代表選手に金銭的手当てが出るようになっていた[注釈 2]。そのことを日本の選手も知っていたため、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという[出典 30]

1982年アジア競技大会ではグループリーグで韓国を初めて国外で破る他イラン南イエメンにも勝ち3戦全勝でのベスト8進出、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せた[50]。当時の日本代表の親善試合の相手は海外のクラブチームと決まっていた[注釈 3]。しかし、親善試合の大活躍で攻撃の軸と期待された尾崎加寿夫ドイツ・ブンデスリーガビーレフェルトへ移籍したのが響いた[29]。当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなく[出典 31]、尾崎や奥寺康彦などを代表に呼ぶことはなかった。試行錯誤の末、フォワードの軸は空中戦が強い原博実を据えて柱谷幸一と組ませて[48]、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に[48]金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする布陣で挑むが[出典 32]、肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した[出典 33]。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手であるタイの試合の映像を集めることもできず[出典 34]、相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・ピヤポンハットトリックを決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった[出典 35]。大会の直前にそれまでいなかったベテランを加えたことで、若手中心に団結していたチームのバランスが崩れてしまったともいわれる[出典 36]

森は辞意を表明したが慰留され[50]1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では北朝鮮代表に史上初めて勝利し、平壌金日成競技場で北朝鮮代表と"完全アウェー"を戦うなど1次予選、2次予選を突破[出典 37]宮内聡西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで[出典 38]。日本サッカーの歴史上初めてアジア最終予選に進出[出典 39]。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」(東アジアと西アジアで1枠ずつ)[57]。この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバック都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせたことから森ファミリーと呼ばれた[出典 40]。北朝鮮とのアウェー戦に、累積警告で出場停止だった松木安太郎を「彼もチームの一員だから」と帯同させた。感謝に震えながらボール運びなど下働きする松木を仲間は暖かく包んだ[17]

1985年10月26日国立競技場での韓国代表とのアジア最終予選の初戦は、代表の試合で初めて国立が満員になった[出典 41]。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から[35]。テレビの実況を担当したNHKアナウンサー山本浩の「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」というオープニングの名台詞でも有名な試合であるが[出典 42]、立錐の余地もなく埋め尽くされた62,000人の大観衆と、スタンドにはためく無数の日の丸、かつて体験したことのない異様な熱気は、皮肉にも日本代表イレブンに過剰なプレッシャーとなってはね返った[出典 43]。また、韓国代表監督の金正男は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり[5]、冷静に日本代表を分析していた[出典 44]。「日本は前後半の開始25分ぐらいまでに点を取ることが多い。だからリスクを冒すことなく30分までは守りを固めていく」と、金が韓国イレブンに与えたこの指示で、引き気味に試合を進める韓国に対して、ボール支配率で上回った日本がペースを握っているかに思われたが、それは相手に仕組まれた巧妙な罠だった。効果的な攻撃を生み出せないままに時間は過ぎ、前半30分に韓国の右からのセンタリング石神良訓がクリアしたキックが短く、そのキックミスをつけ込まれ先制点を奪われると、韓国に対する長年のコンプレックスから選手は大きく動揺し41分、再びミスから致命的な2点目を奪われた[60]。このゴールの直後に木村和司フリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが韓国に敗れた[出典 45]。この時のチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームであったとサンケイスポーツなどは報じている[出典 46]。この試合は今も日韓両国サッカー史に於ける伝説として語り継がられている[出典 47]

わずか1点という最少得点差での敗戦ではあったが、またも力の差を見せつけられた。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」などと明言した[出典 48][注釈 4]。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチーム[68]の敗戦によって、森をはじめ日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、長沼健日本サッカー協会専務理事に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず[出典 49][注釈 5]。当時の韓国は国を抱えてサッカーを強化しており[40]、韓国は代表選手に対して、W杯アジア予選に2億ウォン(当時の日本円で約5,000万円)[40]高級乗用車ボーナスを付けていたが[40]、国立競技場を満杯にした一戦で、日本の代表選手が受け取ったのは、弁当と栄養補助と称する1万円にも満たない金[40]。森は「やりようによっては韓国に勝てる」と、自身でも手応えを感じていたため[40]、協会を牛耳る最高責任者・長沼専務理事と岡野俊一郎理事に選手の強化環境や待遇改善を強力に申し入れ、一応の了解を取り付けて1985年12月17日に自身の監督留任発表を行ったが[出典 51]、強化の実質責任者だった岡野強化部長は、臨教審のメンバーにもなって忙しく[40]、森の要求は二人の得意とする"プロ意識"と"アマチュア精神"を上手く使い分けられ埒が明かず、とうとう嫌気が差して[出典 52]1986年3月3日辞任した[出典 53]。「森は金を欲しがっている」と批判する論調も出た[41][注釈 6]。協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後のJリーグ創設という大河の一滴になった[出典 54]。また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる[出典 55]。日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した横山謙三から(年間300万円)[44]。横山のプロ契約(実際はセミプロ契約)を協会に要請したのは三菱重工の人事部課長に戻っていた森という[46]。この時からようやくプロの指導者が代表チームを指揮するという慣例ができた。

森ファミリーのメンバーは現在、協会幹部、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に1度集まるという[出典 56]

浦和レッズ創設期

[編集]

その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。1988年、兄・健兒木之本興三らとJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)を設立[出典 57]。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の三菱自動車工業(以下、三菱自工)移管に主体的に関わる[出典 58]。重工は防衛庁や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々にファンとの接点をつくりやすい自工移管を打診していた[出典 59]。三菱本社内部でも「伝統あるサッカー部を潰すな」の意向が強く、自工移管は痺れる攻防だったといわれる[5]。社業としてドイツの事業所駐在が決定していたが、三菱自工の清水泰男(のち浦和レッズ社長)の要請で1989年7月、三菱自工に転籍[5]。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した[出典 60]

1990年9月、浦和青年会議所が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和市はホンダの誘致が決定的だった[出典 61]。三菱自工も社内的にも「東京フランチャイズで」という要請が強く[5]。森もプロリーグ発足の準備として、理想のホームグラウンドというならまずは国立競技場、それがだめなら駒沢競技場江戸川区陸上競技場あたりを中心に考えていたが、現実的には難しく、先方から断られる情況がずっと続いていた[5]。しかし同年10月、ホンダが浦和市の誘致を断わったため、川淵三郎の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、西が丘サッカー場の近くのファミリーレストランすかいらーくで会う(森はそれ以前に浦和市の関係者と何度か接触はあった)[出典 62]。当初から浦和市はリストアップしていたが、浦和市はホンダで決定的だったため諦めていた[出典 63]。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定した[出典 64]。その後は仕事が山積み、会社との調整作業、および1991年秋からJリーグ専務理事・兄健兒が主宰した「プロリーグ設立準備室」の選手委員会と選手委員会専門部会の合同委員会に参加するなど身を粉にした[出典 65]。三菱が1週間でも決定に迷っていたら、直後にフジタ工業(後の湘南ベルマーレ)が浦和ホームへの名乗りを上げた背景もあり[5]、浦和レッズの誕生もなかったといわれる[5]。さらにスポンサー集めから、スタジアム改修の16億円以上の費用を自治体政治家に掛け合う[5]。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食[出典 66]。プロのクラブとは何か、誰も想像がつかない時代、みんなに応援される形を求め奔走した[38]。会社に支援母体を作ろうと1991年にオフィシャルサポーターズクラブを組織[38]1992年度のクラブ数は615だったが、翌1993年には5178に増えた。その認定書一枚一枚に森は丁寧にサインをしていたという[38]。ホーム浦和が正式に決まり、腰を据えて準備を始める頃には、もう1992年のナビスコカップが始まってしまう時期だった[5]。森はチームが東京田町から移るはるか前に、自宅を浦和市に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた藤口光紀(のち浦和レッズ社長)をはじめ、多くの人物がレッズ発足に参加した[11]。森は自ら先頭に立って、Jリーグの理念である地元に密着したクラブ、チームづくりに心血を注いだ[78]。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話しており[出典 67]、「今のレッズは森さんなくしてはあり得なかった」と昔を知る関係者の誰もが語っている[出典 68]

1992年からレッズの初代監督に就任[出典 69]。観客を喜ばそうと[38]、当時のクライフ監督率いるFCバルセロナが採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み[85]、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌1993年にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位となり、監督を辞任した[21]。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った[出典 70]

ただ、森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であったと浦和フットボール通信は評し[5]、「森さんのためなら叫ぶことができる」と浦和レッズのサポーターがコメントしていたと日刊スポーツなどが報じている[出典 71]。三菱自動車サッカー部時代から、浦和レッズの職員としてさまざまな部署を渡り歩いた村瀬佳代は「ボロ負けした試合のあとに、サポーターが集まっているお店に足を運ぶ監督なんていないじゃないですか(笑)。でも、森監督は『こういうときこそ行くんだ』と。私も何度かご一緒したんですけど、サポーターの方が『レッズは本当にダメだよなぁ』と言って飲んでいるところへ、森さんは『ワシも話に入れてくれ』と入っていくんですよ。当然、サポーターも驚きますよね。でもだんだん『僕は監督じゃないけれど、こういう現状があるから、こうすればもっと勝てるようになると思う』と一生懸命話してくれるわけです。そんな話を森さんはすごく丁寧に聞いている。そして最後には『次は勝つぞ!』って、サポーターとひとつになってしまう。私の記憶では、森さんはサポーターからブーイングを受けることもなかったし、バスが囲まれることもなかった。あんなに弱かったのに」などと証言している[76]。負けるほどにサポーターとの絆が強まる不思議な結果は、森の人柄が引き起こした現象であった[38]。情の厚さが人を引きつけ、その美質は浦和レッズ発足前後にも遺憾なく発揮された[27]。日刊スポーツや浦和フットボール通信などは、森についてレッズ初代監督としては成功したとは言い難いが、温かい人間味がファンを魅了し、熱狂的なサポーターを育てたと報じている[出典 72]。ぶぎん地域経済研究所(武蔵野銀行)は、浦和レッズが熱狂的サポーターを増やした原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきによる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている[82]

その後

[編集]

1993年10月28日に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選日本×イラクドーハの悲劇)のテレビ東京スタジオ解説を務め[88]1995年から1997年横浜マリノスゼネラルマネージャー[出典 73]、1995年には横浜マリノスは年間チャンピオンに輝いた。1998年アビスパ福岡の監督[出典 74]1999年から2001年はアビスパ福岡のフロントを務めた[出典 75]。2001年シーズン中に、塚本高志浦和レッズ代表から要請を受け[5]2002年から浦和のGMに就任[出典 76]

社長の犬飼基昭、強化本部長に転任した中村修三と共にチームを改革[出典 77]、3年計画下でのハンス・オフトを監督に招聘しチームを強化[注釈 7]、基礎作り2年の後2004年ギド・ブッフバルト監督、ゲルト・エンゲルスヘッドコーチを招聘、大型補強の敢行で浦和に悲願のJリーグステージ初優勝、2005年第85回天皇杯2006年第86回天皇杯連覇をもたらし[出典 78]、今日につながるレッズの礎を築いた[出典 79]。オフトやブッフバルト、闘莉王三都主らの獲得、岡野雅行のレッズ復帰は、森GM=中村強化本部長コンビで行い、犬飼社長が最終決定を下したもの[89]。また在任中、ユース、ジュニアユースの改革に着手し教育ではなくプロ育成の下部組織として再スタートさせた[出典 80]2006年1月31日をもってGMを退任[出典 81][注釈 8]

2006年、第3回日本サッカー殿堂で委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす[出典 82]

2008年からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問[96]2010年発足した日本サッカー名蹴会名誉会長を務めた[注釈 9]

2011年7月17日、腎盂がんのため、駒沢オリンピック公園に隣接する国立病院東京医療センター東京都目黒区)で死去[出典 83]。67歳没。奇しくもその日は2011 FIFA女子ワールドカップ(ドイツ)でサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)アメリカ合衆国を下して優勝した日でもあった[99]

2011年7月23日に埼玉スタジアム2002、7月24日から31日まで駒場スタジアムに献花台を設けると、のべ2000人のファンがメッセージ、タオルマフラー、大好きだったお酒などとともに花を供えに訪れた[出典 84]。現役時代は攻撃と守備をつなぐ「リンクマン」と呼ばれる中盤の名手。人と人とを温かく結びつける、生き方もリンクマンであった[38]

エピソード

[編集]
  • 大学卒業後、森は兄のいる三菱重工入りを決め、早稲田大学の同級である釜本邦茂と、共に三菱重工に入社し「また二人でやろう」と約束していた。ところが関西在住で早大OBの川本泰三賀川浩が「釜本、関西へ戻ってやれよ」と矢のような催促を受け、無理やり連れて行かれたヤンマーディーゼルの山岡浩二郎サッカー部長の熱弁で、催眠術のように入社を承諾してしまった。東京に戻り森に会いヤンマー入社を知らせると、森は「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本サッカーのためにがんばろうぜ」とだけ返した。「いつもグラウンドでもまず人のことを考えるいい奴、森は変心を咎めたり、詮索したりはしなかった」と釜本は語っている[101]

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1967 三菱 JSL 14 3 -
1968 14 3 -
1969 14 2 -
1970 14 6 -
1971 10 1 -
1972 JSL1部 14 0 -
1973 18 1
1974 18 8 -
1975 12 4 -
1976 18 0
1977 0 0
通算 日本 JSL1部 146 28
総通算 146 28

代表歴

[編集]

出場大会など

[編集]

試合数

[編集]
  • 国際Aマッチ 56試合 2得点 (1966-1976)[出典 85]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1965 0 0 2 0 2 0
1966 4 0 3 1 7 1
1967 5 1 16 0 21 1
1968 4 0 17 1 21 1
1969 4 0 17 1 21 1
1970 13 0 10 1 23 1
1971 3 0 11 0 14 0
1972 8 0 7 3 15 3
1973 1 1 3 0 4 1
1974 1 0 3 0 4 0
1975 9 0 7 1 16 1
1976 4 0 0 0 4 0
通算 56 2 96 8 152 10

出場

[編集]
No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1966年12月16日 タイ王国の旗バンコク  シンガポール ○5-1 長沼健 アジア大会
2. 1966年12月17日 タイ王国の旗バンコク  タイ ○5-1 アジア大会
3. 1966年12月18日 タイ王国の旗バンコク  イラン ●0-1 アジア大会
4. 1966年12月19日 タイ王国の旗バンコク  シンガポール ○2-0 アジア大会
5. 1967年09月27日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  フィリピン ○15-0 オリンピック予選
6. 1967年09月30日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  チャイニーズタイペイ ○4-0 オリンピック予選
7. 1967年10月03日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  レバノン ○3-1 オリンピック予選
8. 1967年10月07日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 △3-3 オリンピック予選
9. 1967年10月10日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  南ベトナム ○1-0 オリンピック予選
10. 1968年03月30日 オーストラリアの旗シドニー  オーストラリア △2-2 国際親善試合
11. 1968年03月31日 オーストラリアの旗メルボルン  オーストラリア ●1-3 国際親善試合
12. 1968年04月04日 オーストラリアの旗アデレード  オーストラリア ○3-1 国際親善試合
13. 1968年10月14日 メキシコの旗プエブラ  ナイジェリア ○3-1 オリンピック
14. 1969年10月10日 大韓民国の旗ソウル  オーストラリア ●1-3 ワールドカップ予選
15. 1969年10月12日 大韓民国の旗ソウル  韓国 △2-2 ワールドカップ予選
16. 1969年10月16日 大韓民国の旗ソウル  オーストラリア △1-1 ワールドカップ予選
17. 1969年10月18日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●0-2 ワールドカップ予選
18. 1970年07月31日 マレーシアの旗クアラルンプール  香港 ●1-2 岡野俊一郎 ムルデカ大会
19. 1970年08月02日 マレーシアの旗クアラルンプール  韓国 △1-1 ムルデカ大会
20. 1970年08月04日 マレーシアの旗クアラルンプール  タイ △0-0 ムルデカ大会
21. 1970年08月08日 マレーシアの旗クアラルンプール  インドネシア ○4-3 ムルデカ大会
22. 1970年08月10日 マレーシアの旗クアラルンプール  シンガポール ○4-0 ムルデカ大会
23. 1970年08月16日 マレーシアの旗クアラルンプール  チャイニーズタイペイ ○3-2 ムルデカ大会
24. 1970年12月10日 タイ王国の旗バンコク  マレーシア ○1-0 アジア大会
25. 1970年12月12日 タイ王国の旗バンコク  クメール ○1-0 アジア大会
26. 1970年12月14日 タイ王国の旗バンコク  ビルマ ○2-1 アジア大会
27. 1970年12月16日 タイ王国の旗バンコク  インドネシア ○2-1 アジア大会
28. 1970年12月17日 タイ王国の旗バンコク  インド ○1-0 アジア大会
29. 1970年12月18日 タイ王国の旗バンコク  韓国 ●1-2(延長) アジア大会
30. 1970年12月19日 タイ王国の旗バンコク  インド ●0-1 アジア大会
31. 1971年07月28日 デンマークの旗コペンハーゲン  デンマーク ●2-3 国際親善試合
32. 1971年08月13日 アイスランドの旗レイキャビク  アイスランド ○2-0 国際親善試合
33. 1971年10月02日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●1-2 オリンピック予選
34. 1972年07月12日 マレーシアの旗クアラルンプール  クメール ○4-1 長沼健 ムルデカ大会
35. 1972年07月16日 マレーシアの旗イポー  スリランカ ○5-0 ムルデカ大会
36. 1972年07月18日 マレーシアの旗クアラルンプール  フィリピン ○5-1 ムルデカ大会
37. 1972年07月22日 マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ●1-3 ムルデカ大会
38. 1972年07月26日 マレーシアの旗クアラルンプール  韓国 ●0-3 ムルデカ大会
39. 1972年08月04日 シンガポールの旗シンガポール  フィリピン ○4-1 ペスタスカン大会
40. 1972年08月06日 シンガポールの旗シンガポール  インドネシア ●0-1 ペスタスカン大会
41. 1972年09月14日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 △2-2 日韓定期戦
42. 1973年05月20日 大韓民国の旗ソウル  南ベトナム ○4-0 ワールドカップ予選
43. 1974年09月28日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 ○4-1 日韓定期戦
44. 1975年06月14日 香港の旗香港  香港 △0-0(PK3-4) アジアカップ予選
45. 1975年06月17日 香港の旗香港  北朝鮮 ●0-1 アジアカップ予選
46. 1975年06月21日 香港の旗香港  シンガポール ○2-1 アジアカップ予選
47. 1975年06月23日 香港の旗香港  中華人民共和国 ●1-2 アジアカップ予選
48. 1975年07月30日 マレーシアの旗クアラルンプール  香港 ●0-2 ムルデカ大会
49. 1975年08月02日 マレーシアの旗クアラルンプール  マレーシア ●0-2 ムルデカ大会
50. 1975年08月09日 マレーシアの旗クアラルンプール  韓国 ●1-3 ムルデカ大会
51. 1975年08月11日 マレーシアの旗クアラルンプール  タイ ○4-0 ムルデカ大会
52. 1975年08月14日 マレーシアの旗クアラルンプール  ビルマ ○2-0 ムルデカ大会
53. 1976年03月14日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  フィリピン ○3-0 オリンピック予選
54. 1976年03月21日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  韓国 ●0-2 オリンピック予選
55. 1976年03月27日 大韓民国の旗ソウル  韓国 △2-2 オリンピック予選
56. 1976年03月31日 大韓民国の旗ソウル  イスラエル ●0-3 オリンピック予選

得点数

[編集]
# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1967年10月3日 日本東京 レバノンの旗 レバノン 3-1 勝利 メキシコ五輪予選
2 1973年5月20日 大韓民国ソウル ベトナム共和国の旗 南ベトナム 4-0 勝利 1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選

監督成績

[編集]
年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1992 J 浦和 - 5位 ベスト4
1993 10位 36 - 8 - 28 予選リーグ 2回戦
1998 福岡 18位 34 21 8 - 26 予選リーグ 4回戦

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 留学中にバイスバイラーがニューヨーク・コスモスへ。次がカールハインツ・ヘダゴット、三人目がリヌス・ミケルス。一年の間に監督が3人代わった[33]
  2. ^ 韓国は1984年7月31日に編成された代表チームから、監督100万ウォン、コーチ80万ウォン、選手には50万ウォンの手当が毎月支給された(400ウォンが100円の時代)[49]
  3. ^ 対戦相手を代表チームを原則とする不文律が出来上がったのは、1994年の加茂周監督以降[51]
  4. ^ 「そういうシステムにしていくしかない」と強化部会か何かでしたら『東京スポーツ』が"森監督、金銭を要求"と大見出しで書いた[67]
  5. ^ 森自身も三菱重工からの出向の身で、当時はこれが普通だったが、森は大企業のエリート社員の立ち場を投げ売って「日本代表の監督を協会の専任にして欲しい」と当時としてはかなり大胆な要求をした(無償では家族を養えないため協会とのプロ契約を意味する)[出典 50]。これに対して長沼専務理事は「日本代表チームの監督を専任にするのは、日本の現状では無理。これは勝負の世界だから、その監督がいつまでも勝ち続けることができるとは限らない。失敗したときには、辞めてもらわなくてはならない。辞めた監督を、次に協会の職員として抱え込んでおく力は、スポーツ団体にはない…だから日本の現状では、企業に勤務している人に出向してもらって、できればその期間だけは監督に専念してもらい、監督をやめたら、もとの仕事に復帰できる道を作っておくのがいい」と回答した[69]
  6. ^ 実際は辞任したわけではなく、続投を打診され返事を待ってもらっていたら、いつのまにか辞めることになっていたと森は話している[71]
  7. ^ 森とオフトは選手情報を提供したりした仲だった[5]
  8. ^ 当時の犬飼基昭社長により、横山謙三取締役(当時)と共に退任させられたとされる[94]
  9. ^ 金田喜稔が会長就任を森に頼みに行ったら、身体が悪いのに「よっしゃ、やったろ」と引き受けてくれたという[97]

出典

[編集]
  1. ^ a b “森 孝慈”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ma/takaji_mori.html 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 掲額者 森孝慈 MORI Takaji日本サッカー殿堂
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト| 11.07.17 訃報
  4. ^ a b c d e f g 伝統の立役者たち 森 孝慈 | 早稲田大学ア式蹴球部
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at 浦和タウンミーティング第3回Special issue 森孝慈さんを偲び。浦和レッズの原点を知る(1)浦和タウンミーティング第3回Special issue 森孝慈さんを偲び。浦和レッズの原点を知る(2)ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[3]ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[最終回][浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー(Internet Archive)、[浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号(Internet Archive)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n メキシコ五輪銅「レッズの父」森孝慈氏急死 日刊スポーツ 2011年7月18日閲覧、森孝慈さん告別式 森ファミリーが棺担ぐ 日刊スポーツ 2011年7月23日閲覧、日刊スポーツ、2011年7月18日11、12面
  7. ^ a b c d e f g 森孝慈氏死去…メキシコ五輪銅、浦和レッズの父 サンケイスポーツ 2011年7月18日閲覧
  8. ^ a b c d e f g #GO AHEAD URAWA REDS、pp.33-34
  9. ^ a b c d e 森孝慈氏死去…メキシコ銅戦士、日本代表、浦和監督など歴任五輪で共にプレー 釜本氏「あまりにも早い」 ― スポニチ Sponichi
  10. ^ a b サンケイスポーツ、2005年12月30日3面
  11. ^ a b c スポーツ報知、2011年7月18日9面
  12. ^ a b c d 森孝慈さんの思い出(続) - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
  13. ^ 浦和レッズ 公式ブログ/森孝慈さん - GREE(Internet Archive)、浦和、追悼弾も“父”に弔い星届けられず (Internet Archive)、浦和 10人で奪った勝ち点3
  14. ^ a b c d 『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p.56
  15. ^ a b c #不滅のサッカー王、pp.222-236
  16. ^ 島原帆山『竹韻一路』、新芸術社、1990年、pp.132-199、教師の父 スポーツに縁/競技振興 学校から地域へ 中国新聞 2011年7月19日閲覧、Jリーグの源流・似島
  17. ^ a b c d e f #原爆少年、p.196-207
  18. ^ a b c 郷土勢82個のメダル 中国新聞<5> 森孝慈 勝利への執念、前面に、2008年5月24日
  19. ^ a b c d e f 日本サッカーアーカイブ 森孝慈
  20. ^ a b c d e f g h i 朝日新聞、2011年7月18日13面、サッカー元日本代表・森さん 県内からも惜しむ声 広島 - 朝日新聞デジタル(Internet Archive)
  21. ^ a b c d e f g h i 清尾淳「土田尚史 「クリア!の声が聞こえる」第四部 レッズの闘将たち(1) 初代監督・森 孝慈」『サッカー人生ハーフタイム』埼玉縣信用金庫。2022年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月5日閲覧COLUMN●コラム 清尾淳 MDPはみだし話第四部 レッズの闘将たち(2) 攻撃サッカーで人気沸騰
  22. ^ 森 孝慈氏(高18)日本サッカー殿堂入り
  23. ^ a b 『週刊サッカーマガジン』2011年2月15日号、p.62
  24. ^ 森さん死去にサッカー界沈痛 中国新聞 2011年7月18日閲覧
  25. ^ 森氏訃報に釜本氏「一番のライバルやった」
  26. ^ 三菱重工業の年表 | あしたね年表
  27. ^ a b c d e f g h i j サッカー元日本代表監督、森孝慈氏が死去(評伝)サッカー代表監督、情に厚く一体感 日本経済新聞 2011年7月18日閲覧
  28. ^ 森孝慈氏逝去について: 武藤文雄のサッカー講釈
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r サッカー批評』issue10、2001年4月、双葉社、pp.74-82
  30. ^ a b c d e f #代表篇、pp.194-230
  31. ^ a b c #資料篇、pp.171-199
  32. ^ a b #ワールドサッカークイズ、pp.254-255
  33. ^ 『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p.56
  34. ^ 森孝慈さん死去:日本サッカー協会・小倉純二会長、川淵三郎名誉会長の話
  35. ^ a b c d e f g 『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、pp.56-57
  36. ^ a b c d e 時事ドットコム:サッカー今むかし(Internet Archive)
  37. ^ a b c 森孝慈さん死去:Jリーグ創設に尽力 屈指の理論家 - 毎日jp(毎日新聞) 毎日新聞 2011年7月18日閲覧
  38. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本経済新聞、2011年8月5日9面《追想録》「絆結びレッズの礎に・森孝慈」
  39. ^ a b c d e 森孝慈さんの思い出 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
  40. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「NEWS COMPO サッカー界にヤメルコール 森監督"急転"辞任の波紋」『週刊読売』1986年3月23日号、読売新聞社、33頁。 
  41. ^ a b c d e f g 鈴木洋史「<ナンバーW杯傑作選/'93年4月掲載> カズの向こうに世界が見える。 ーJリーグ開幕とW杯への夢ー」『Number Web文藝春秋、2010年5月7日。2022年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月5日閲覧
  42. ^ a b c d #システム進化論、pp.17-40
  43. ^ a b 「サッカー日本代表、初の日当と勝利給を捻出したのは・・」長沼氏を偲ぶシンポジウム(Internet Archive)
  44. ^ a b c d e 日刊スポーツ、2010年4月2日7面
  45. ^ a b c d 【森孝慈氏死去】「ファミリー」まとめた代表監督
  46. ^ a b c d e 一般社団法人 志の会事務局のブログ 2011-02-06
  47. ^ a b c 『日本サッカー狂会』、国書刊行会、2007年、pp.96-113
  48. ^ a b c d e f g h 木村和司伝説のFK カズW杯前進弾/過去の日韓戦日刊スポーツ・サッカー・W杯カウントダウン連載 「世界」を感じさせたFK 木村和司氏<第68回>「2002年の向こう側」 木村和司3荻島弘一「日本代表10番を襲った「最悪の思い出」 「鬼門」の平壌、悪夢の失神退場で「調子が戻らず」【コラム】」『Football ZONE web』Creative2、2024年3月21日。2024年3月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月5日閲覧
  49. ^ #完全敵地、p.153
  50. ^ a b c in my football life | スポーツナビ+2011年08月11日
  51. ^ #完全敵地、p.37
  52. ^ a b 『週刊サッカーマガジン』2008年1月27日号 p.57
  53. ^ 後藤健生 (2021年7月2日). “後藤健生の「蹴球放浪記」連載第65回「タイの2人のスーパーマン」の巻(1)1984年ロス五輪最終予選での「痛恨事態」”. サッカー批評Web. 双葉社. 2022年5月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月4日閲覧。
  54. ^ a b #完全敵地、p.11
  55. ^ 長谷川健太氏、アウェー北朝鮮戦「威圧感あった」…W杯3次予選
  56. ^ 都並敏史『日本代表に捧ぐ』ザ・マサダ、1998年、p.67、後藤健生『日本サッカー史 日本代表の85年』双葉社、2002年、p.22
  57. ^ 日刊スポーツ、2010年4月1日9面
  58. ^ a b c 山本浩『メキシコの青い空―実況席のサッカー20年―』|新潮社(Internet Archive)
  59. ^ #完全敵地、p.124,196
  60. ^ a b c d e 『スポーツ20世紀⑥サッカー名勝負の記憶』、ベースボールマガジン社、2000年、pp.102-105
  61. ^ 『週刊サッカーマガジン』2008年8月5日号、p.56
  62. ^ 山本浩NHK解説委員講演会(3)
  63. ^ a b c 初の日韓プロ対決で見えた差。82年の読売クラブ【連載◎J前夜を歩く第8回】」『サッカーマガジンWebベースボール・マガジン社、2020年3月17日。2021年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月5日閲覧
  64. ^ a b 民団/最新ニュース/トピック3(Internet Archive)、W杯試合後のゴミあつめ、1985年と2014年
  65. ^ 伝説の名勝負 世界が見えた戦い'86年W杯・アジア最終予選「日本×韓国」No.24 都並敏史の最終予選 | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト
  66. ^ J SPORTS|コラム 【後藤健生コラム】日本代表新監督が決まらないのはなぜか?
  67. ^ 『サッカー批評』vol.10、p.82
  68. ^ 都並敏史『日本代表に捧ぐ』pp.71-72
  69. ^ a b c d e f サッカーマガジン1986年5月号 ビバ!! サッカー!! ワイド版 代表監督交代がもたらした波紋協会との見解の相違に苦悩した森監督- 牛木素吉郎 サッカーマガジン・アーカイブス
  70. ^ 魅力詰まった人柄=プロ化推進にも一役-森孝慈氏
  71. ^ 『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p.57。
  72. ^ サッカー批評ISSUE52双葉社、2011年、4頁。 
  73. ^ 野村尊敬インタビュー」『リーダーシップ論』日本サッカー名蹴会。2024年10月5日閲覧
  74. ^ 『季刊 サッカー批評』半田雄一編集長インタビュー(3)加藤久氏「懐が大きくて選手のために動いてくれた」
  75. ^ 人格者・森孝慈氏のもとに舞い込むオファー - 奇跡に挑む者たち 伝統の立役者たち 森 孝慈 | 早稲田大学ア式蹴球部 原博実氏からのエピソード、都並敏史『日本代表に捧ぐ』pp.48-55
  76. ^ a b c d e f g h 寺野典子「JリーグPRESS 「サッカーって面白いの?」「日本でプロなんて」の声も…“三菱時代”から浦和レッズを支える女性職員に聞いた“Jリーグ誕生前夜”の物語」『Number Web』文藝春秋、2023年10月10日。2023年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月5日閲覧寺野典子「JリーグPRESS 「サッカーって面白いの?」「日本でプロなんて」の声も…“三菱時代”から浦和レッズを支える女性職員に聞いた“Jリーグ誕生前夜”の物語」『Number Web』文藝春秋、2023年10月10日。2023年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月5日閲覧
  77. ^ コラム「19年前の今日(9月5日)」 - 浦和レッドダイヤモンズ浦和レッズ 公式ブログ/明日の甲府戦勝利を。キャプテン啓太の決意REDSニュース|鈴木啓太「森さんは、浦和レッズの魂」|レッズプレス!!「レッズに魂くれた」サポーター、森氏しのぶ 埼スタに献花台森孝慈さんが急死 五輪銅メダル、浦和創設に尽力 ― スポニチ Sponichi 西野努『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』(東邦出版、2007年、pp.124-128)、山岡淳一郎『レッズと浦和』(レッドダイヤモンズ後援会発行、論創社、1998年、pp.68-92, 101-104, 236-238)、『浦和レッズ10年史』(浦和レッドダイヤモンズ、ベースボール・マガジン社編集、2002年、pp.86-88)、【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その1そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その2そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その2そうだったんですか!?レッズ Vol.06武正公一さんの巻その2そうだったんですか!?レッズ Vol.03山口斉さんの巻その3そうだったんですか!?レッズVol.02佐藤仁司さんの巻その3そうだったんですか!?レッズ Vol.01森孝慈さんの巻その4Digital PENTA
  78. ^ a b c d e #LEGEND 2、pp.9-12
  79. ^ 浦和レッズ記念日 - Weps うち明け話
  80. ^ a b たけまさ公一「今日のたけまさ 国会便り」 2011年07月22日(金)
  81. ^ 『Jリーグ、プロ制度構築への軌跡』Jリーグ法務委員会 池田正利・小竹伸幸、自由国民社、1993年、p.23
  82. ^ a b 特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか?(Internet Archive)
  83. ^ そうだったんですか!?レッズ Vol.05清水泰男さんの巻その3
  84. ^ [熊本]吉田監督のルーツは浦和にあり「森孝慈さんから『お前はコーチをやれ』と言われてね」、『レッズと浦和』pp.68-92, 108-109, 101-104
  85. ^ a b #LEGEND 2、pp.36-38
  86. ^ 『週刊サッカーマガジン』1998年10月14日号、p.17
  87. ^ 清尾淳『浦和レッズの快感―すきにならずにいられない』、アストロ教育システム、あすとろ出版部、1998年、31頁
  88. ^ 伊藤滋之『あの実況がすごかった』メディアファクトリー、2011年、pp.65-66
  89. ^ a b c d 山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』長崎出版、2004年、pp.52-83, 138-157
  90. ^ a b #ビッグクラブ、pp.30-36
  91. ^ 週刊フットボールトーク Vol.23 もうすけの部屋/ウェブリブログREDS VOICE 53REDS VOICE 54、『浦和レッズ10年史』66-69頁、『なぜ、浦和レッズだけが世界に認められるのか』pp.134-137『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、ベースボール・マガジン社、p.56
  92. ^ スポーツニッポン、2011年7月18日8面
  93. ^ 森 孝慈 ゼネラルマネジャー退任について
  94. ^ サイゾー』2008年5月号、p.110
  95. ^ 第3回日本サッカー殿堂、掲額式典”. 浦和レッドダイヤモンズ (2006年9月10日). 2013年9月6日閲覧。
  96. ^ 横浜GSFC Official Web
  97. ^ 海江田哲朗「異端の天才:金田喜稔の『超常識』」『サッカー批評』第56号、2012年5月10日、82頁。 
  98. ^ 森孝慈さん通夜に釜本氏、木村監督ら700人岡ちゃんも涙…森孝慈氏の葬儀・告別式に480人参列
  99. ^ No.843 森孝慈さんを悼む サッカーの話をしよう 大住良之
  100. ^ 森孝慈氏の献花台 駒場にも森さんへの思い、24日から駒場へ 河合貴子のレッズ魂ここにあり!「浦和を愛した戦士 森孝慈」(7/28) 「レッズに魂くれた」サポーター、森氏しのぶ 埼スタに献花台 - 47News
  101. ^ 釜本邦茂『ゴールの軌跡』ベースボール・マガジン社、1981年、pp.102-103

出典(リンク)

[編集]

参考文献・ウェブサイト

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]