コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

生駒友彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生駒 友彦
名前
カタカナ イコマ トモヒコ[1]
ラテン文字 IKOMA Tomohiko
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1932年8月25日[1][2]
日本の旗 日本兵庫県
没年月日 (2009-04-27) 2009年4月27日(76歳没)
日本の旗 日本神戸市兵庫区
身長 174cm
体重 70kg
選手情報
ポジション GK
ユース
1948-1950 日本の旗 神戸高校
1951-1954 日本の旗 関西学院大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1955-1966 日本の旗 三菱重工業 0 (0)
通算 0 (0)
代表歴
1955-1959 日本の旗 日本[3] 5 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

生駒 友彦(いこま ともひこ、1932年8月25日 - 2009年4月27日)は、日本実業家サッカー選手・指導者。選手時代のポジションはGK

経歴

[編集]

兵庫県立神戸高等学校を経て、関西学院大学に入学し、サッカー部に所属。全関学(現役、OBで構成される混成チーム)の一員として鴇田正憲らと共に1953年、1955年の全日本サッカー選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)優勝に貢献した。

大学卒業後に新三菱重工業(後の三菱重工業)へ加入。井上健北口晃らと共に創設期の同サッカー部を牽引し、1956年の都市対抗選手権準優勝、1959年の全日本実業団サッカー選手権大会準優勝などに貢献した。

日本代表としては竹腰重丸監督時代の1955年の東南アジア遠征で代表デビュー。同月11日のビルマ体協選抜戦で国際Aマッチ初出場を果たし、通算5試合に出場した。

その後、三菱重工の選手兼コーチに就任。1966年からは監督に昇格し1シーズンの間、指揮を執った。またサッカー解説者としても活躍した。

三菱退社後は、実業家として金川造船の社長・会長を務めた。2009年4月27日、死去。76歳没。[4]

所属クラブ

[編集]

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 三菱 JSL 0 0 - - 0 0
1966 0 0 -
通算 日本 JSL 0 0 -
総通算 0 0 -

代表歴

[編集]

試合数

[編集]
  • 国際Aマッチ 5試合 0得点(1955)[3]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1955 5 0 3 0 8 0
1956 0 0 0 0 0 0
1957 0 0 0 0 0 0
1958 0 0 0 0 0 0
1959 0 0 2 0 2 0
通算 5 0 5 0 10 0

出場

[編集]
No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1955年01月02日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ △1-1 竹腰重丸 国際親善試合
2. 1955年01月05日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ ●0-3 国際親善試合
3. 1955年01月08日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ △1-1 国際親善試合
4. 1955年01月11日 ミャンマーの旗ラングーン  ビルマ ○1-0 国際親善試合
5. 1955年10月09日 日本の旗東京都 後楽園競輪場  ビルマ △0-0 国際親善試合

指導歴

[編集]
  • 19??-1965年 三菱重工業サッカー部 コーチ
  • 1966年 三菱重工業サッカー部 監督

監督成績

[編集]
年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 リーグ杯 天皇杯
1966 JSL 三菱 4位 14 18 8 2 4 - 準々決勝

出典

[編集]
  1. ^ a b 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、507頁。
  2. ^ 『兵庫県人物・人材情報リスト2017』2208頁では1931年。
  3. ^ a b “生駒 友彦” (日本語). サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_a/tomohiko_ikoma.html 
  4. ^ 元サッカー日本代表GK 生駒友彦氏死去”. スポーツニッポン (2009年4月28日). 2012年6月26日閲覧。

外部リンク

[編集]