二宮洋一
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名前 | ||||||
カタカナ | ニノミヤ ヒロカズ | |||||
ラテン文字 | NINOMIYA Hirokazu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 |
1917年11月22日 大日本帝国、兵庫県 | |||||
没年月日 |
2000年3月7日(82歳没)[1] 日本、東京都港区 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
第一神戸中学校 | ||||||
1935-1941 | 慶應義塾大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
慶應BRB / 全慶應 | ||||||
代表歴 | ||||||
1940-1954[2] | 日本 | 6 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
1951 | 日本 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード。
略歴
[編集]兵庫県御影師範学校付属小学校を経て、1934年に旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業し、慶應義塾大学予科に進学。予科時代より慶應義塾体育会ソッカー部に入部して、予科1年より関東大学リーグに出場した。1938年より慶應義塾大学法学部政治学科に進学。1941年の大学卒業まで慶應義塾ソッカー部および慶應BRBの選手として、全日本選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を経験した。また、在学中の1939年8月27日に開催された関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場を果たした[3]。
太平洋戦争後は慶應BRBおよび全慶應のメンバーとして、天皇杯で3度優勝(1951年、1952年、1954年)した。
1951年にはサッカー日本代表の選手兼任監督として、ニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場した。その後も選手として何度か日本代表に名を連ねたが、1954年の天皇杯決勝を最後にトップレベルの競技生活からは退いた。1976年に日本サッカー協会理事に就任、日本クラブユースサッカー連盟会長などの役職を歴任した。
2006年4月、サッカー功労者として日本サッカー殿堂に選出された[4]。
所属クラブ
[編集]- 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)
- 慶應義塾大学
- エリオット商会
代表歴
[編集]出場大会
[編集]- 紀元二千六百年奉祝東亜競技大会 (1940年)
- アジア競技大会 (1951年, 1954年)
- 1954 FIFAワールドカップ・予選
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 6試合 1得点(1940-1954)[2]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1938 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 |
1939 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
1940 | 1 | 0 | 3 | 3 | 4 | 3 |
1941 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1942 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1943 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1944 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1945 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1946 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1947 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1948 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1949 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1950 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1951 | 2 | 1 | 4 | 6 | 6 | 7 |
1952 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1953 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1954 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
1955 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1956 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 6 | 1 | 14 | 10 | 20 | 11 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1940年06月16日 | 兵庫県 | 甲子園南運動場 | フィリピン | ○1-0 | 竹腰重丸 | 奉祝東亜競技大会 |
2. | 1951年03月07日 | ニューデリー | イラン | △0-0(延長) | 二宮洋一 | アジア大会 | |
3. | 1951年03月08日 | ニューデリー | イラン | ●2-3 | アジア大会 | ||
4. | 1954年03月07日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | ●1-5 | 竹腰重丸 | ワールドカップ予選 |
5. | 1954年05月01日 | マニラ | インドネシア | ●3-5 | アジア大会 | ||
6. | 1954年05月03日 | マニラ | インド | ●2-3 | アジア大会 |
得点数
[編集]No. | 開催日 | 開催地 | 会場 | 相手 | 結果 | 大会 |
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1 | 1951年03月08日 | ニューデリー | イラン | ●2-3 | アジア大会 |
出典
[編集]外部リンク
[編集]- 二宮洋一 - National-Football-Teams.com
- 二宮洋一 - WorldFootball.net
- 二宮洋一 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 日本サッカーアーカイブ 二宮洋一
- 日本サッカー殿堂