岡田吉夫
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名前 | ||||||
カタカナ | オカダ ヨシオ | |||||
ラテン文字 | OKADA Yoshio | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 |
1926年8月11日 大日本帝国, 兵庫県神戸市 | |||||
没年月日 |
2002年6月22日(75歳没) 日本, 東京都八王子市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
第一神戸中学校 | ||||||
神戸高等工業学校 | ||||||
早稲田大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
早稲田WMW | ||||||
関学クラブ | ||||||
六甲クラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1951-1954 | 日本 | 7 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
早稲田大学女子 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
岡田 吉夫(おかだ よしお、1926年8月11日 - 2002年6月22日)は兵庫県神戸市出身[1]のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。元丸紅参与。
経歴
[編集]兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)時代は賀川浩らと共に活躍。神戸高等工業学校(神戸大学工学部の前身)を経て、早稲田大学に進学して、ア式蹴球部に所属した。1950年に大学を卒業[1]して大平鉱山(岡山県)に入社した。
関学クラブ在籍時の1951年2月11日、全関西戦で日本代表として初出場した[2]。以降は1951年のアジア大会、1954 FIFAワールドカップ・予選、1954年のアジア大会などに出場[3]。合計で国際Aマッチ7試合に出場した。
また、1990年代には早稲田大学ア式蹴球部女子の監督を務めた。
2002年6月22日、東京都八王子市で心不全により死去した[1]。
所属クラブ
[編集]代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 7試合 0得点(1951-1954)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1951 | 3 | 0 | 6 | 0 | 8 | 0 |
1952 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1953 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1954 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 |
通算 | 7 | 0 | 9 | 0 | 16 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1951年03月07日 | ニューデリー | イラン | △0-0(延長) | 二宮洋一 | アジア大会 | |
2. | 1951年03月08日 | ニューデリー | イラン | ●2-3 | アジア大会 | ||
3. | 1951年03月09日 | ニューデリー | アフガニスタン | ○2-0 | アジア大会 | ||
4. | 1954年03月07日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | ●1-5 | 竹腰重丸 | ワールドカップ予選 |
5. | 1954年03月14日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | △2-2 | ワールドカップ予選 | |
6. | 1954年05月01日 | マニラ | インドネシア | ●3-5 | アジア大会 | ||
7. | 1954年05月03日 | マニラ | インド | ●2-3 | アジア大会 |
出典
[編集]外部リンク
[編集]- 岡田吉夫 - National-Football-Teams.com