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ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビー・バップ・ハイスクール
高校与太郎狂騒曲
監督 那須博之
脚本 那須真知子
原作 きうちかずひろ(講談社版)
出演者 仲村トオル
清水宏次朗
柏原芳恵
音楽 埜邑紀見男
主題歌 仲村トオル「It's All Right」
仲村トオル「Young Blood」
清水宏次朗「Love Balladeは歌えない」
撮影 森勝
編集 山田真司
製作会社 東映東京撮影所[1]
配給 東映[1]
公開 日本の旗 1987年12月12日
上映時間 90分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 12億5000万円[2]
前作 ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲
次作 ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭
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ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲』は、きうちかずひろの漫画『ビー・バップ・ハイスクール』を原作とした1987年12月12日公開の日本映画[1][3]。シリーズ第4作[3][4]東映本番線の1988年お正月映画として公開された[5][6]東映洋画系仲村トオルも出演する『あぶない刑事劇場版』第一作[7][8]

ストーリー

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ヒロシ(清水宏次朗)が偶然知り合った女子大生・まゆみ(柏原芳恵)といたところに、城東工業高校退学組の柴田・西(小椋正・永田博康)が絡んできたことから、ヒロシ・トオルと柴田・西の抗争に発展する。柴田と西は、トラックに跳ねられ左足を骨折したヒロシを拉致しトオルを呼び出す。トオルはちんどん屋から奪った馬に乗って駆けつけ、柴田・西とその仲間を撃退したのであった。

原作収録エピソード
3、7〜9巻参考
  • 1 喧嘩人生前途多難(9巻)
  • 2 即席紳士男女交際術(9巻)
  • 3 留年生(ダブリ)退学決意編(3巻)
  • 4 高校与太郎協奏曲(コンチェルト)(7巻)&高校与太郎怨歌(8巻)
  • 5 哀愁野郎恋愛伝説(7巻)

キャスト

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愛徳高校

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  • 中間徹(2年F組) - 仲村トオル
  • 加藤浩志(2年F組) - 清水宏次朗
  • 三原山順子(3年) - 宮崎萬純
  • 兼子信雄(2年F組) - 古川勉
  • 横浜銀一(2年F組) - 八巻保幸
  • 赤城山忠治(2年F組) - 小林啓志
  • 大前均太郎(1年) - 上野隆彦
  • 黒田晋平(1年、シンペー) - 岡田東二
  • 川端純(1年、ジュン) - 百々英二
  • 水崎雅裕(3年) - 福井秀明
  • 城戸健二(3年、ケン坊) - 前田裕二郎
  • 戸塚先生(数学教師) - 大地康雄

北高校

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城東工業高校退学組

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  • 柴田 - 小椋正
  • 西(スナック「百草」ボーイ) - 永田博康

立花商業高校

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中学生

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その他

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スタッフ

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  • 監督 - 那須博之
  • プロデューサー - 黒澤満、紫垣達郎
  • 原作 - きうちかずひろ(講談社版)
  • 脚本 - 那須真知子
  • 撮影 - 森勝
  • 照明 - 野口素胖
  • 録音 - 橋本文雄
  • 美術 - 和田洋
  • 編集 - 山田真司
  • キャスティング:飯塚滋
  • 助監督 - 祭主恭嗣
  • 製作担当:望月政雄、鎌田賢一
  • 音楽 - 埜邑紀見男
  • 音楽プロデューサー - 高桑忠男、石川光
  • 主題歌
  • 音響効果:伊藤進一
  • 選曲:竹田康宏
  • リーレコ:杉本潤
  • スチール - 久井田誠
  • ネガ編集:堀口正則
  • 記録:鈴木さとみ
  • 装飾:板村一彦、大光寺康、谷口保、葛井泰介
  • 装置:斉藤和弘
  • 特機:城田幸夫、奥田悟
  • 技闘 - 臼木基晴(倉田アクションクラブ
  • 操演:白熊栄次
  • 馬術指導:井上秀一
  • 絵画:到津伸子
  • 楽器提供:ヨコハマ・セーラースタジオ
  • スチール:久井田誠
  • スタイリスト:源武美
  • メイク:杵渕陽子、立川須美子
  • 特殊メイク:原口智生
  • 衣裳:越智雅之
  • 演技事務:河合啓一
  • 製作進行:大澤茂樹、工藤圭一朗
  • 録音:にっかつスタジオセンター
  • 衣裳:第一衣裳
  • 特機:エヌ・ケイ
  • 特機器材:日本映機
  • 車輌:スキルワーク
  • 現像:東映化学
  • 衣裳協力:YAHVAN D.C. / K.HOUSE INC / BASICO / PAO / ST.TOROSA. / P.B.C. COMPANY
  • 撮影協力:清水駅前銀座商店会、静岡鉄道株式会社、清水厚生病院、向ヶ丘遊園、46BLUFF、丸井新宿店インテリア館、にっかつ芸術学院
  • 製作協力:セントラル・アーツ[1][3]

製作

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冒頭タイトルロール前に「七夕野郎とは 女にかまかけている男という意味であり それが転じて 女にうつつを抜かし 男との大事な事を忘れるマヌケを言う」とテロップが出て、劇中も"七夕野郎"というフレーズがセリフの一部として10回程度使われる本作のキーワード[10]。『シティロード』は"七夕野郎"を色ボケ男と説明している[8]。"七夕野郎"という言葉が当時の不良に使用されていたかは分からない。

キャステング

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トモ加入時の少女隊中学生役で出演[5][6][7]。喧嘩の助っ人のお礼にヒロシとトオルに乳を差し出す(ナ〇させる)という凄い設定[6][7][8][11][12]80年代のトップアイドルの一人・柏原芳恵ヒロインとして美大生役で出演[5][13]。持ち味である妙なエロさを画面いっぱいに漂わせる[11]。柏原はヒロシ(清水宏次朗)に好意を持つかのような役を演じるが、実際は一二作目のヒロイン・中山美穂同様、不良を嫌っていたという[13]

撮影

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シティロード』は、アクションは相変わらず過激だが、いつもの高瀬道場でないので少しニュアンスが異なると解説している[8]高所恐怖症の清水宏次朗にとって[14][15]、シリーズを通じて一番撮影がエグかったのは、本作のクライマックスで、ボタ山のてっぺんから車イスに縛られたまま、柴田グループに突き落とされるシーンだったという[14][15][16]特効から「いざとなったらパッと紐が取れるようにしとくから」と体を紐で軽く縛ると伝えられたのに、本番ではがんじがらめで首しか動かせない状態[15][16]。崖もかなり急でそこから突き落とされ、もはや拷問[15][16]。ボタ山のため前輪が埋まり、バランスを取るのが難しく[15][14]、何度も引っくり返り、3度目で肩を脱臼[15][16]救急車で緊急搬送され、病院で肩を入れてもらい、撮影に復帰するもすぐにまた脱臼[16]。清水は「『ビー・バップ』の撮影は本当に悲惨。いつ死んでもおかしくないぐらいの現場だった。他の現場はみんな優しい監督ばかりでしたね(笑)。一回、他の監督の撮影で火だるまになったときもありましたけど『ビー・バップ』での無茶な撮影に比べたら、たかが知れてんなって感じでしたよ」などと述べている[16]。土岐と永田は「スタントマンを雇う金をケチってる」「道路使用許可なんて一回も取ったことはないんじゃないか、警察が来たらすぐ撤収」という撮影だったと証言している[17]。「キツイ部活ほど大人になってからいい思い出になるのと一緒で、それに近いものがある。もう一回やれって言われたらもう絶対にやらない。でも今振り返ってみたら出てよかったと思う。それは那須監督に感謝している」と話している[17]

清水は車イスシーンに続く危険な撮影が、10分過ぎに女子中学生役の少女隊にトオルや菊永とともに蹴り飛ばされ、牛のアドバルーンにぶらさがるシーンと話し[15][16]命綱であるワイヤーは、特効が1本で3トンは耐えられると言い張り[15][16]、清水「絶対に切れないよな?」 特効「大丈夫、大丈夫」 清水「もう一回聞くぞ、絶対に切れないよな!」 特効「大丈夫!切れないから!」などとやり取りがあり[16]、念入りに確認したにもかかわらず、撮影が終わって吊るされたまま降りてきた時に地面まであと30cmというところで清水のワイヤーだけがプチンと切れたため激怒[15]、「てめえ、この野郎!」と特効を追いかけ回したという[15][16]

養豚トラックに轢かれそうになり、ぶただらけのトラック荷台に放り込まれる小沢仁志は「豚のふんまみれになったよ。たまたまお父さん(黒澤満プロデューサー)が現場に来ていて『小沢、お前な、これはイイことなんだぞ』って言うから『何が?』って聞いたら『岩城滉一も前にふんまみれになった(『俺達に墓はない』)。それで、あいつもスターに上がっていったんだぞ』って言われたけど、説得力ねえよ(笑)」などと述べている[18]

愛徳コンビが対決した城東退学組である柴田を演じた小椋正は、菊永役の石井博泰と当時働いていた会社で知り合って石井の推挙もあってオーディションに応募した。最終選考まで残った時に那須監督から「歯が抜けるか?」と訊ねられ、「仕方がないか」と諦め半分の気持ちで「大丈夫ですよ」と答えたが、彼を気遣った原作者のきうちかずひろや他のスタッフたちが反対した事により、特殊メイク入れ歯を作ってもらって事なきを得た[19]。脚本の那須真知子は「小椋君は横浜の不良だった」と述べている[20]。清水・仲村以外で唯一、シリーズ全作に3つの役柄で出演する土岐光明[21]、「出演者の九分九厘は本物の不良です」と述べている[12]。新人が入って来ると土岐たち先輩に名刺を差し出し、たいていそこには暴走族の名前が入っていて「自分は特攻隊しております!!」などと挨拶し、「押忍!一発やらしてもらえますか?」といって待ち時間に喧嘩が始まることが多かったという[12]。土岐は3秒で相手を倒すほど強かったという[12]

同じく城東退学組である柴田の相棒・西を演じた永田博康は板前をしながら、『恐怖のヤッちゃん』(1987年)に出演し[20]、これを那須博之監督が映画館で観て気に入り[20]、永田が住んでいた大阪までスカウトに行って出演を口説いた[20]。当時、仲村トオルの主演映画『新宿純愛物語』の併映で『恐怖のヤッちゃん』の注目度が高まり、永田自身もインタビューを受けることになったが「仲村トオルと写真を撮らせてくれるなら」という条件で引き受けるも仲村の取材が押して、時間になってもなかなか来ることができず、スタッフが気を利かして『新宿純愛物語』の監督である那須監督と話をさせるもイライラしていた永田が『ビー・バップ』のダメ出しを延々と語ってしまい、後日那須監督から直々にオファーがあり、西役に抜擢され、西役には7,000~8,000人の希望者がいたがオーディションに参加せずに異例の抜擢となった。

撮影終了後の舞台挨拶で永田と小椋が登場すると、清水・仲村についた女性ファンから「ギャー!!」と悲鳴、ブーイングが酷く、永田と小椋は落ち込んでいた[22]。それで打ち上げパーティのときに永田と小椋が飲んだ勢いで、脚本の那須真知子に「このまま悪役のままで終わって、トオルさん、宏次朗さんのファンからブーブー言われて悲しいですよね」と愚痴った[22]。その一件があり、二–三週間後に「五作目も引き続き出演してもらう」とオファーが来て、那須真知子から「同じ役柄だけど、今度はヒロシ・トオルの仲間になるから」といわれた[22]。那須真知子はこの一件の影響かは分からないが、小椋と永田の二人を気に入り、那須監督に「一作だけの出演では惜しい。今度は仲間にしよう」と進言し[20]、第五作で仲間にしたと『映画秘宝』のインタビューで話している[20]。永田はこの後、旅館を経営したが[20]、永田は那須夫妻に強い恩義を感じ、那須監督が亡くなった後も那須家に毎年、お中元お歳暮を送り続けているという[20]

クライマックスで、トオル(仲村トオル)が馬に乗って駆け下りるシーンで、2.3秒アニメーションになる[6][23]。不良が駆るのが馬?という唐突な登場は、東映時代劇か、東映まんがまつりを思わすシーン[6]。当初は仲村も自ら乗馬が可能と判断したが、那須監督が「今のアニメの技術は凄い。実際にやらなくても凄い画になる」と自信満々に答えたことから任せたところ、完成された作品は仲村の想像を遥かに超えたものになっていた。仲村は「やっぱり、那須さんの想像力に常人が付いていくことは不可能です(笑)」と答えている。同じく柴田役の小椋正も最も印象に残っているシーンでこの場面を挙げており、撮影では那須監督から「あの山のてっぺんから、トオルが馬に乗って飛んでくる。柴田一派はあの方向を見ながら仰天して倒れてくれ!」と言われ、よくわからないまま、監督の演出どおりに演じた後、完成品として試写室であのシーンを観て、みんな「……」というリアクションだったのに、那須監督だけがどういうわけかガッツポーズしていたと語っている[24]。永田は馬に追いかけられて馬に踏まれたと話している[17]

撮影記録

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  • 1987年秋撮影[7]。永田は撮影は2ヵ月ぐらいあったと話している[19]。小椋の撮影初日はクライマックスで決闘場所へ向かう道路公団の黄色いトラックの荷台に仲村と乗り込み、タバコを切らした仲村に小椋が浅田飴を差し出すシーン[25]。1987年11月8日、神奈川県立横浜立野高等学校で2度目のロケ[7]。1987年11月9日–13日、静岡県静岡市(旧清水市・現清水区[7]。11月9日、 清水秋葉神社の境内にコーマンズ[6][12]勢揃いのシーン[12][26][27]。郷ミノル役の土岐光明と西役の永田博康が初対面し、2人で1時間"ガンのたれあい"を行う[12]。永田は『恐怖のヤッちゃん』で東映京都撮影所のスタッフから、同じ東映京都で撮影した「『極道の妻たち』に出ている土岐は極悪だからシメてこい」とけしかけられていた[12]。しかしこの極悪人は別の役者と判明し、この後一番仲良しになり、永田が新婚の土岐夫妻の家に一緒に住んだり、以降30年以上付き合いが続いているという[12]。同じ日、ヒロシ(清水宏次朗)が入院する病院関係のシーンを夜中の1時まで撮影[7]。特にヒロシが病院を抜けて浅野まゆみ(柏原芳恵)に会いに行くシーンとそれをトオルが追うシーンは雨を降らせてリテイクを繰り返した[7]。11月10日、清水日の出町旧水産試験場(貿易会館)を本町警察署に作り直して、ヒロシ・トオル、鬼島(地井武男)、元村(志賀勝)、如月翔子(五十嵐いづみ)参加のロケ[7]。11月11日、清水港近くの岸壁で、ヒロシ、トオル、菊永が牛のアドバルーンに吊るされるシーン[7]。この日、少女隊が初参加[7]。清水は恐怖におののいたが、周りのギャラリーは大爆笑[7]。11月15日、午前中は撮り残しのあった東京吉祥寺喫茶店のシーンを撮影[7]。ヒロシが交通事故に遭う交差点も吉祥寺[28]。午後からは日活撮影所で、トオルに蹴られて戸塚先生(大地康雄)が吹っ飛ぶワイヤーアクションを撮影[6][14]。11月16日、向ヶ丘遊園で2度目の撮影後、明け方4時までアフレコ[14]。シリーズはほぼオールアフレコと見られ、朝から翌日の朝までアフレコをやっていたという[15]。11月17日、東京都立川市自動車ショールーム跡地で、ヒロシ・トオルと柴田グループとの乱闘シーン[14]。11月18日–21日、ラストの柴田グループとの乱闘シーンを茨城県高萩市炭鉱跡で撮影[14]芸能人が初めて来たと大騒ぎになり、小学生から高校生までの女子が9割と、晴れ舞台の如く、当時は都会ではもう見られなくなっていたシャコタンで駆け付けた地元のツッパリが連日押し寄せ、撮影に難航[14]スタッフはギャラリーの整理に追われた[14]。18日は先述のボタ山のてっぺんから車イスに縛られた清水が突き落とされるシーンの撮影[14]。馬を駆る仲村は乗馬クラブに4日間、トータル15時間程度で馬を乗りこなした[14]。スタッフ・キャストはここから車で約40分の日立多賀ホテルに宿泊[14]。ここにもファンが大勢押し寄せ、仲村と清水は外出できず[14]。11月22日、立川の自動車ショールーム跡地で2度目のロケ[14]。11月24日、スナック「百草」設定の店は[22]、実際に静岡(清水)の飲み屋で撮影[19][25]。柴田グループに仲村と五十嵐が壁を突き破って、海に投げ込まれるシーンを撮ってクランクアップと書かれた文献もあるが[14]、永田と小椋は三保の松原で、永田と小椋が清水と柏原に絡み、永田と小椋が清水をボコるシーンでクランクアップと話している[19]。この日、那須監督は風邪をこじらし38–39があったが、恨みが山積していた清水たちは図って那須を海に突き落とした[15]

興行

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三作目まで10億円以上を稼ぐ大人気シリーズではあったが、東映の営業サイドに「そろそろ危ない」という意見が出たため[29]、第一作を除いて、二作目、三作目の併映作が「どちらかといえばもう一本あるわ」だったが、五分五分ぐらいになるようにと大人気アイドルの南野陽子の主演映画と組ませた[29]。この年の東映はヒットすればシリーズ化を予定していた『湘南爆走族』/『本場ぢょしこうマニュアル 初恋微熱篇』、『シャコタン☆ブギ』/『名門!多古西応援団』がコケて、高岩淡東映専務も「ビー・バップ・ハイスクールシリーズが当たっているのはたまたま」[29]、鈴木常承営業部長が「『はいからさんが通る』をつけて(配収)10億円越さなかったら『ビー・バップ・ハイスクール』もおしまいです」と発言するなど[29]、ヤング番組に対する興行不安があった[29]

興行成績

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当時はビデオによるヤング層の映画離れや[30][31]、ビデオ化も早まり、再上映しても客が来ないといった[30]、映画興行にとっては厳しい時代であったが、配収12億5,000万円と1988年度の邦画配収ランキングで6位に当たる大ヒットになった[2][32]。高岩専務は「『はいからさんが通る』は東京撮影所の植田泰治君[注 1]が頑張ってくれたし、『ビー・バップ・ハイスクール』は黒澤満プロデューサーが、テレビやマンガからの流れで作ったものですし、どちらも東映本体の力で稼いだ作品じゃないですから、私としては実に心苦しい限りです(笑)」などと述べている[32]

ビデオ

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1988年に発売されたビデオも45,009本を売り上げた[33]。本作のビデオ価格は不明だが、当時のビデオは15,000円ぐらいしたため、ビデオ売上げだけでも6億円程度あったものと見られる。

同時上映

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はいからさんが通る

ネット配信

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脚注

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注釈

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  1. ^ 東映東京撮影所の労働組合のボス(『高原に列車が走った』を参照)。

出典

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  1. ^ a b c d e ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲 - 国立映画アーカイブ
  2. ^ a b 1988年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c d ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲”. 日本映画製作者連盟. 2024年8月11日閲覧。
  4. ^ ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲WOWOW
  5. ^ a b c 「東映のお正月映画 強力2本立」『映画時報』1987年11月号、映画時報社、19頁。 
  6. ^ a b c d e f g #不良映画年代記「『ビー・バップ・ハイスクール』その時代と栄光 文・ベビーブーム・マサ」pp.100-103
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 「仲村トオル Memories Of You No.13 『あぶ刑事』『ビー・バップ・ハイスクールⅣ』が公開中!! あなたはどっちのトオル派!?」『週刊明星』1988年1月7/14日号、集英社、182–183頁。 
  8. ^ a b c d 「邦画封切情報」『シティロード』1988年1月号、エコー企画、30頁。 
  9. ^ ギャラリー:愛車の履歴書──Vol30. 柏原芳恵さん(前編)”. GQ JAPAN (2024年1月25日). 2024年1月26日閲覧。
  10. ^ 第133回 白の柴田と赤の西、紅白衣装のビーバップ名コンビに迫る!【ビーバップハイスクール裏話】英雄星チャンネル
  11. ^ a b 「復活! 高校与太郎活劇映画 ビー・バップ・ハイスクール BE-BOP-HIGHSCHOOL 高校与太郎番外篇八十年代アイドル行進曲」『映画秘宝』2006年3月号、洋泉社、73頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i 第184回 山田敏光VS西!初対面でマジ喧嘩!緊迫の1時間【ビーバップ 土岐光明】英雄星チャンネル
  13. ^ a b 第167回 BE-BOP HIGHSCHOOL 山田敏光【ビーバップ 土岐光明】英雄星チャンネル
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「仲村トオル Memories Of You No.14 いよいよトオルのエッセーも、今回でジ・エンド!! たくさんの応援どうもありがとう。」『週刊明星』1988年1月21日号、集英社、160–161頁。 
  15. ^ a b c d e f g h i j k l 第221回 30数年ぶりに集結!ビーバップ俳優のプチ同窓会英雄星チャンネル
  16. ^ a b c d e f g h i j #不良映画年代記「清水宏次朗インタビュー 聞き手・ギンティ小林」pp.111-117
  17. ^ a b c 第183回 骨折事件の真相とは?ビーバップ危険な撮影現場【ビーバップ 土岐光明】英雄星チャンネル
  18. ^ 「最強新聞 小沢仁志インタビュー」『映画秘宝』2016年4月号、洋泉社、76–77頁。 
  19. ^ a b c d 第100回 ビーバップ柴田、歯の真相語られる【ビーバップハイスクール】英雄星チャンネル
  20. ^ a b c d e f g h ギンティ小林「ビー・バップ・ハイスクール Since1985 東映セントラル&セントラル・アーツの世界 Vol.1 那須真知子インタビュー」『映画秘宝』2016年2月号、洋泉社、56-57頁。 
  21. ^ 第197回 暴走族全盛期 リアルな不良時代 語る【ビーバップ 土岐光明】英雄星チャンネル
  22. ^ a b c d 第101回 仲村トオル仲間になる真相…!?柴田西コンビ再登板の理由とは?【ビーバップハイスクール】英雄星チャンネル
  23. ^ 『日本不良映画年代記 仲村トオルインタビュー 聞き手・ギンティ小林』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2016年、104-110頁。ISBN 978-4-8003-0900-6 
  24. ^ 映画『ビー・バップ・ハイスクール』血風録 高校与太郎大讃歌(タツミムック)
  25. ^ a b 第95回 ビーバップハイスクール柴田登場!【ビーバップハイスクール】英雄星チャンネル
  26. ^ ビーバップ トオル・ヒロシ・新吾・菊リン・ミノルが勢揃いしたあの場所を特定!【第277回 ビーバップロケ地探訪テルチャンネル/白井光浩
  27. ^ #168 ビーバップハイスクールロケ地巡りin静岡(2)柴ちゃんTV
  28. ^ ビー・バップ・ハイスクールのロケ地探訪シリーズ!【第451回 ヒロシが交通事故にあった交差点をついに特定! 映画と同じ建物が今もまだ残る! 】の巻テルチャンネル/白井光浩
  29. ^ a b c d e 高岩淡(東映専務取締役)・鈴木常承(東映・常務取締役営業部長)・小野田啓 (東映・宣伝部長、役員待遇)、聞き手・北浦馨/松崎輝夫「本誌・特別インタビュー 東映、'89年度の経営戦略ヤング番組見直しと強化…」『映画時報』1987年10月号、映画時報社、12–14頁。 
  30. ^ a b 石田修大 (1988年1月27日). “巻き返せるか日本映画(3)館数と観客減いたちごっこ”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 32 
  31. ^ 「昭和62年度全国映画統計映画人口1億4千4百万人興行収入1,611億5千万円」『映画時報』1988年2月号、映画時報社、35頁。 
  32. ^ a b 高岩淡(東映専務取締役)・鈴木常承(東映・常務取締役営業部長)・小野田啓 (東映・宣伝部長)、聞き手・北浦馨/松崎輝夫「本誌・特別インタビュー 夏から新春へ強力布陣そろうー 東映、第六十六期の大攻勢を語る」『映画時報』1988年3、4月号、映画時報社、4–5頁。 
  33. ^ 「●1988年度日本映画ビデオソフト売上べスト50」『AVジャーナル』1989年2月号、文化通信社、47頁。 

参考文献

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外部リンク

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