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フィアット・500

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィアット 500から転送)

フィアット500 (Fiat 500)は、イタリア自動車製造会社フィアットが製造・販売していた自動車である。

初代(1936 - 1955年)

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トポリーノ

1936年に発表された2人乗りの小型車で、1955年まで製造された。500Aと、その改良型である500Bおよび500Cが該当する。

発表当時の高度なメカニズムを多数取り入れたことで、戦前から戦後を通じて大きな商業的成功を収め、総計約60万台が生産された。

一般的にはハツカネズミを意味する「トポリーノ」の愛称で呼ばれているが、この愛称は、その小柄なボディと小さなエンジンで機敏に走り回るさま、そして前期モデルシリーズにおける、丸みのあるボンネット脇のやや高めの位置に外付けされたヘッドライトなどによる愛嬌ある外観から名付けられたものである。

1930年代中期、フィアットでは1932年に発表した1,000cc級の小型車・508「バリッラ」の販売が好調であったが、当時のフィアット総帥であるジョヴァンニ・アニェッリは、大衆向け自動車市場のさらなる開拓を目論み、バリッラよりも小型の乗用車を市場に送り出すことを企画した。開発にあたったのは元航空機技術者のアントニオ・フェッシアを中心とするチームで、その中には後のフィアット主任技術者として数々の傑作車を開発することになるダンテ・ジアコーサがいた[注 1]

フィアットは、すでにバリッラでアメリカのクライスラーの流儀に倣った4輪油圧ブレーキと鋼製ボディを採用していた。また1935年に発売された6気筒エンジンの中級車「フィアット1500」では、当時としては前衛的な空力流線型スタイルの効果で、1クラス上の旧型2L車を凌ぐ性能を確保することに成功し、さらに前輪独立懸架も採用していた。それらの先行成果は、新しいミニマムカーに惜しげなく応用された。

こうして開発された初代500は、当初5,000リラという激安価格での販売が計画されていたが、高度なメカニズムを詰め込んだ結果、製造コストが想定以上にかかり、実際の販売価格は8,900リラにまで跳ね上がってしまった。それでも従来の自動車に比べれば大幅に廉価であったことから、イタリアの大衆から歓迎され、派生型の商用モデルの展開も手伝って、当時の国民車として大成功を収めた。戦時中の生産中断はあったものの、後継車種の500Bにマイナーチェンジされる1948年の生産終了までに約12万2,000台が生産された。

500C

500Bのイタリア本国での売れ行きは戦後も順調で、1949年にはボンネット周りを1940年代のアメリカ車風にヘッドライトのフェンダー埋め込み化するなどデザインを近代化した500Cが登場。1951年に追加された4座ワゴンタイプの「ベルベデーレ」を含むトポリーノ系列は、生産期間末期まで好調な販売を維持し、後継となるリアエンジン車の600(セイチェント)が発売される1955年まで生産された。

また、フィアット資本の入ったフランスシムカでもシムカ5(サンク)の名称で、1937年から同型車両がノックダウン生産された。フランスにおいて当時同等サイズのミニカーがなかったことからヒット作となったが、戦後の1946年にルノー・4CV、1948年にシトロエン・2CVという近似クラスの4ドアで4人乗りのフランス製大衆車が発売されると、2人乗りの不利さから急激に販売は落ち込み、1950年までに生産中止となった。

メカニズム

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シャシは当時のスタンダードである独立したラダーフレームを持つ一方、流線型の全鋼製ボディや油圧ブレーキに加え、先端技術である前輪独立懸架を導入した、この時代の超小型車としては極めてぜいたくなものであった。水冷エンジン、FRを採用した。

小型のエンジンを前車軸前方にオーバーハングさせ、重心を前方に傾けて操縦性に配慮するとともに、ホイールベース間でドライバーが足を伸ばせる十分なスペースを確保するなどの工夫がなされていた。1934年のクライスラー・エアフローが前方荷重を高めることで操縦性と居住性を改善した成果を小型車にまで広げたものといえ、ヨーロッパでも先駆的な手法を取り入れた車両だった。

エンジンはサイドバルブ・2ベアリングという最低限の仕様ながら、上級車種並みの水冷4気筒となっており、排気量569ccで13.5PSを発生した。ラジエーターフロントグリルがエンジン前方で曲線を描いて後傾していることから十分な高さが取れず、バルクヘッド(エンジンルームと室内の隔壁)直前に搭載している。またこの配置により、冷却水の比熱の差で自然循環するサーモサイフォン現象を利用しており、独立したウォーターポンプを持たない。エンジンは1948年の500Bへのマイナーチェンジに際して排気量570ccのOHV・15.7PSに強化・拡大されている。

ドアは後ヒンジの前開き(スーサイドドア)である。後年の安全性重視の見地からすると必ずしも好ましくはないが、当時はそれよりも乗降性を重視して採用された。

通常モデルの定員は2人であるにもかかわらず、ユーザーはお構いなしに座席後にまで無理矢理乗り込み、4人や5人といった定員超過をしばしば敢行した。これにより後輪固定軸を支えるリーフ式サスペンション(1/4カンチレバーリーフ)が折れるトラブルが多発したことを受けて、1938年には後車軸スプリングが1/2半楕円リーフに強化されている。

1953年にイタリアでのロケーションで製作されたアメリカ映画『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督)では、オードリー・ヘプバーン扮するヒロインの王女を撮影しようとするカメラマン(エディ・アルバート)の足車として前期型のトポリーノが登場し、主人公の新聞記者(グレゴリー・ペック)のベスパスクーターと共にローマの街を走り回るが、劇中、カメラマンと新聞記者が乗車した前席の後に王女が立ち乗りするシーンがある。これは、イタリアにおけるトポリーノの実際の乗られ方を踏まえた演出ともいえる。

2代目(1957 - 1975年)

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フィアット・500
NUOVA 500
2代目 NUOVA 500
概要
製造国 イタリアの旗 イタリア
販売期間 1957 - 1975年
設計統括 ダンテ・ジアコーサ
ボディ
ボディタイプ 2ドアセダン
2ドアコンバーチブル
3ドアワゴン
3ドアバン
駆動方式 RR
パワートレイン
変速機 4速MT
車両寸法
ホイールベース 1,840mm
全長 2,970mm
全幅 1,320mm
全高 1,320mm
系譜
先代 フィアット・500 トポリーノ
後継 フィアット・126 バンビーノ
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2代目は初代500(トポリーノ)と区別するためNUOVA 500(ヌオーヴァ500)と称され、一般にはイタリア語で500を意味するチンクェチェント(Cinquecento)の呼称で知られる。トポリーノの直系の後継車ではなく、異なるコンセプトで新規設計された同クラス・別系統車種である。

先行して発表されていた600のメカニズムが多くの点で流用されており、同様にモノコックボディのリアエンジン車となった。

1965年のマイナーチェンジを境に、500D以前の前期型と500F以降の後期型に大別される。

開発の経緯

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NUOVA 500の登場に先行して、新型車600が、1955年に製造終了した初代500(トポリーノ)の後継車としてジアコーサの手で開発されていた。600はトポリーノとほぼ同等の全長ながら、リアエンジンリアドライブ方式の採用などでスペース効率を大幅改善し、完全な4人乗り乗用車として設計されていた。

ジアコーサは600の開発にあたり「4人乗り車の半分の費用で2人乗り車を作ることはできない(したがって4人乗り車の方がユーザーの便益が大きい)」という信念のもと4座化を図った。この実現のためにスペース効率や軽量化の見地からプロペラシャフトを廃した駆動方式を探り、当時は前輪駆動車の実現には等速ジョイントの実用性が不十分であったことから、より現実的なリアエンジン方式を採用した。

600はトポリーノにも劣らぬ人気車種となったが、フィアットはこの成功に満足していなかった。1950年代当時のイタリアでは、軍需を失った戦後の代替製品として、航空機メーカーや鋼管メーカーがこぞってスクーター市場に進出しており、自動車を買えない大衆の足として大きな成功を収めていた。フィアットではこれらスクーターからの乗り換えを喚起すべく、600よりさらに安価な乗用車を投入することが次なる需要につながると判断したのである。

このような背景から、NUOVA 500は基本的に600を一回り縮小したモデルとして設計された。600と比較してスペース的に窮屈ではあるが4人乗りとしており、これは2人乗りだったことで競合車種に顧客を奪われたトポリーノ時代の反省と、スクーターとの大きな差別化を図るという点から重要視され、実現されたものである。

ジアコーサはこれを理解しながらも、さらなる小型車の開発にはあまり気乗りはしていなかった。600こそが小型車としての自身最良の回答であり、それ以下の構成では従来車種に対して走行性能での進化が見込めないと考えていたからである。それでも度重なるフィアット側の説得に折れる形で設計に着手したが、エンジンを空冷直列2気筒とすることには最後まで抵抗し続けた。実際にはコストや開発期間の関係からそれに代わるエンジンの調達は難しく、最終的にはジアコーサもこの条件を呑まざるを得なかった。

しかし、大々的なキャンペーンや低廉な価格設定などの効果もあり、蓋を開けると販売が非常に好調であったことから、いつしかエンジン形式の変更の話は立ち消えとなった。そればかりか、排気量を拡大したユニットが126(バンビーノ)やパンダにまで使われ続けるなど、大変な長寿エンジンとなった。ただしジアコーサは生前日本の自動車趣味誌のインタビューに対し、NUOVA 500が多くの人々に愛されたことに感謝しながらも、「あのエンジンを許したことだけには悔いが残る」と語っている。

メカニズム・デザイン

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600の水冷直列4気筒エンジンは最廉価クラス用としては高コストになるため、500には簡素でコンパクトなパワーユニットとして開発された479 cc・15 PSの空冷直列2気筒OHVが縦置きで搭載されていた。濾紙を使った一般的なオイルフィルターを持たず、平たいドラム状の遠心分離器で金属粉やスラッジを捕集する仕組みであった。最高速度は軽量なボディと相まって95 km/hに達した。エンジンマウントにコイルスプリングを利用するなど配慮は見られるが、騒音が大きく振動も激しいため乗り心地には悪影響を及ぼしており、ジアコーサの後悔のとおり、NUOVA 500シリーズ最大のウィークポイントとなっている。

車体は全鋼製モノコックとされたが、エンジンの騒音が屋根板のせいで車内にこもってしまうため、対策として屋根をオープンにできるキャンバストップを標準装備とし、騒音を車外に発散することで居住性の改善が図られた。

サスペンションは600の縮小コピーともいえる4輪独立懸架で、フロントが横置きリーフスプリングをアーム兼用としたシングルウィッシュボーン、リアがダイアゴナルスイングアクスルとコイルスプリングの組み合わせである。

エクステリアは設計者のジアコーサ自身が手掛けたものである。元々愛嬌のあった600のデザインをさらに縮小して仕上げたような雰囲気を持っている。ジアコーサが晩年『カーグラフィックTV』のインタビューで述べたところでは、自らクレイモデルを毎日撫で回すように手作業で削り出していたところ、自然に出来上がってしまったという。独特の丸みを帯びた形状は、少しでも軽く仕上げるために使用する鋼板を減らすべく、表面積を減らす意図もあったとも語っている。

同時期の日本の軽自動車であるスバル・360にも見られる傾向であるが、これらの小型車では、ボディの表面積を減らしつつ丸みを持たせることで軽量化と強度を両立させるデザインがしばしば用いられた。薄い鋼板でも丸みを帯びたプレス加工を行うことで、補強や工程の追加なしに必要な剛性を確保し得たのである。

運転席

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旧世代の自動車ということもあり、現代の車とは使い勝手が異なる部分が多数ある。

  • チョークレバー - 冷間始動時に使用する。シフトレバーの後方、前席の間の床(ヒーターダクトの上)に、下記のスターターモーターレバーの横に並んでいる。
  • イグニッションスイッチ - オンオフ・パーキング。スターターモーターの勘合はワイヤー式で、レバーを引いて動作させる。
  • ワイパー - オンオフのみ。動力は吸気管負圧やスピードメータケーブルの回転を利用するものではなく、電気モーターで駆動される。このため、スロットル開度や車速に関係なく動作する。
  • 方向指示器 - 最初期型以外はステアリングコラム上のスイッチにて操作する。
  • 燃料タンク - 容量は21 L。フロントのトランク内に設置されており、給油時にはフードを開ける必要がある。フロントフード下はガソリンタンクとスペアタイヤで占領されており、物を入れるスペースはほとんどない。
  • 燃料計 - 残量5 Lで警告灯が点灯。Lタイプには残量計が付く。
  • ハンドスロットル - チョーク弁解放後の暖機運転(アイドルアップ)や、気温や油温によるエンジン回転数の違い(ヒーターの効き具合)を調整する。

沿革

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発売初期の1957年当時は、スクーターを高価下取りするという荒業の販売施策でスクーターユーザーの乗り換えを促し、それまで2輪車に乗っていたイタリアの大衆を4輪車に乗り換えさせた。

1959年、排気量を499.5 ccにまで上げ出力を21.5 PSに向上させたスポーツモデルのスポルトが登場。アバルト・500クーペザガートと同じ型式のエンジンが搭載された。また、ボディ剛性が上がった屋根のフルクローズ仕様も生産された。

1959年7月、後部座席上部にのみ鉄板の屋根を付けた(前席上部のみがキャンパストップ)テッド・アプリービレが追加され、4人乗りがしやすくなった。これまでのフルオープン仕様のトランスフォルマービレでは、クローズ時に後部座席上部に空間がなく頭が当たっていた。

1959年9月、新しい交通規則に対応するためウィンカーをヘッドライト下に追加し、ヘッドライト下にあった空気導入のスリットは廃止された。反射板が付きテールランプも大型化された。1960年8月まで生産され、ヌォーヴァ・セカンド・セーリエと分類される。

1960年9月、スポルトのエンジンを17.5 PSにデチューンしたマイナーチェンジ版の500Dが発売。それまで併売されていたフルオープン仕様のトランスフォルマービレが廃止され、テッド・アプリービレのみの生産となる。また、水平直列2気筒エンジン搭載で荷室を確保したワゴンタイプのジャルディニエラが追加された。

1965年、500Fを発売。新しい交通規則に対応するため、それまでの前開きドアを廃止し一般的な後ろ開きドアに変更される。これに伴い大幅に手が加えられ、フロントウィンドウの大型化、キャンバストップ開閉レバーを2か所から1か所に変更、キャンバストップ後方の金属屋根部を分離可能型から一体成型に変更、テールランプの大型化、ドライブシャフトのジョイントを強化、クラッチをコイルスプリング式からダイアフラムスプリング式に変更、ボディパネルの変更などが施された。

1968年、デラックスモデルでバンパーを補強するフロントバーを持つ500Lを発売。

フィアット500R
東京都内のガレージにて
(2008年7月)

1972年、低価格版の500Rを発売。同年には 後継車種の126(バンビーノ)が発売されたことを受け、500Fおよび500Lは生産を終了し、500Rのみ下位モデルとして生産が継続されることとなった。搭載するエンジンは126と同一の126.000型で、基本構造は500F、500Lが搭載していた110F.000型と変わらないものの、排気量は499.5 ccから594 ccへ拡大され、出力もネット値で18 PSから23 PSへ向上したが、コスト削減のためトランスミッションはそれまでと同様にノンシンクロのままとなった。内装についても500Fと同様にシンプルになり、リアシートは固定式の取り外せないものとなった。車体構造に変化はないが、フロントエンブレムがFIATと銀色の文字のみになり、トレードマークであったフロントグリル風インテリアはなくなった。

NUOVA 500はこの他にも数多くのバリエーションが発売され、イタリア国内のみならずヨーロッパ全土で人気を博した。1975年の全モデル生産終了までに通算で約400万台が製造された。

また、NUOVA 500をベースとしてエンジンやシャシーに改良を施した高性能版が、アバルトから複数リリースされている。

愛好家の存在と日本での認知

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黄色のフィアット500。2022年8月、愛知県にて撮影。『ルパン三世』の初期シリーズ後半や『カリオストロの城』などの影響により、日本でも広く知られるようになった。

NUOVA 500はイタリア本国やヨーロッパに留まらず、世界各国に熱心なファンが存在しており、現在でもレストアして愛用する者も多く見られ、スバル・サンバーのエンジンを搭載した車両や電気自動車に改造した車両など、エンジンスワップの実例も存在している。

特にイタリア本国では排気ガス規制と国内産業活性化の推進により旧車の扱いが厳しくなる中、排気量1,000 cc未満で製造から25年以上が経過した自動車に特例を適用する法案が検討されている。内容は自動車税の免除、車検期間を2年から4年に延長、自動車通行規制区域内への乗り入れ許可の3点。排気量と経過年数はNUOVA 500に合致するもので、同法案は一部では「フィアット500保護法」とも呼ばれている。与党を含む超党派の支持団体まであり「NUOVA 500は歴史遺産のひとつだ」とするコメントが寄せられている[1]

日本では「ルパン三世の愛車」として広く認知されている。当初ルパンはメルセデス・ベンツ・SSKに乗っていたものの、設定変更や、当時の作画監督である大塚康生曰く「自分と青木雄三しか描けない」というSSKの作画の都合から[2]、大塚の愛車でもあったNUOVA 500に変更され、初期シリーズ後半以降は頻繁に登場するようになった。特に有名なものは劇場版『カリオストロの城』で登場するクリームイエローの個体で、3代目500では日本国内限定で同色を模した特別仕様車がたびたび登場する[3][4]など、『ルパン三世』が本車の認知に影響していることが垣間見える。

2005年日本国際博覧会(愛・地球博)ではイタリア館にホワイトチョコレートでコーティングされたNUOVA 500が展示され、閉幕後には、当時愛知県知多郡南知多町のリゾート施設「チッタ・ナポリ」内にあったチンクエチェント博物館に寄贈された[5]

ワゴン(バン)仕様

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初代と2代目のフィアット500には、ボディ後部を延長して荷台としたエステートバン仕様が存在する。

初代(トポリーノ)には、社外製ボディのFiat 500 Servizio、Fiat 500 Giardinettasの2種があり、トポリーノの丸みを帯びた後部を箱状に変更して荷台とするという、初期のエステートバンの製法としてはオーソドックスなスタイルであった。

2代目(NUOVA)には、FIAT 500 Giardinettaというエステートバンがある。これもやはり車体を延長し、エンジンを水平シリンダ仕様としてエンジンルーム高さを抑制、後部を荷台としたものである。リアエンジン車でこのようなボンネットスタイルのバンないしエステートモデルは非常に珍しく、世界的にも他にはフォルクスワーゲン・タイプ3スバルレックス・バン(初代。2代目以降はフロントエンジン)程度しか例がない。

3代目フィアット500にもワゴンモデルである500Lが2012年に発表された。

3代目(2007年 - )

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3代目フィアット500

NUOVA 500の発売から50周年を迎えた2007年3月23日、通算3代目となる新型500が発表された。フォルクスワーゲン・ニュービートルミニ (BMW)などと同様の「ヘリテイジライン」や「リビングレジェンド」など(日本ではレトロ調)と呼ばれるデザイン手法を取り入れ、NUOVA 500をイメージした丸みのあるボディを持つ。

生産はポーランドティヒとメキシコトルーカのフィアット工場で2007年中頃から開始され、2007年9月にヨーロッパ各国で発売された。

4代目

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同シリーズ初の電気自動車専用車種となった。

  • 2020年にヨーロッパで販売を開始。
  • 2022年6月には日本で発売している[6]。同年11月22日にはアバルト500eが発売される予定[7]。12月にはロサンゼルスオートショーでアメリカ展開すると発表[8]。同時にアルマーニ、ブルガリ、 Kartellとコラボしたワンオフモデルを発表した[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「500はジアコーサの処女作」という説が流布しているが、彼は開発に関わってはいたものの主任技術者ではないため、その意味では誤説である。

出典

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  1. ^ “「フィアット500保護法」成立間近!?”. レスポンス. (2004年10月28日). http://response.jp/issue/2004/1028/article65097_1.html 2020年11月20日閲覧。 
  2. ^ 大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、2013年。ISBN 978-4168122002 
  3. ^ 写真で見るフィアット「500 バニライエロー」”. Car Watch (2009年10月19日). 2020年11月20日閲覧。
  4. ^ “バニライエローのフィアット500、オンライン受注開始…抽選で70台限定”. レスポンス. (2014年12月15日). https://response.jp/article/2014/12/15/239681.html 2020年11月20日閲覧。 
  5. ^ 体験レポート VOL .27 万博の展示物はど~なるの?”. EXPO 2005 AICHI,JAPAN (2005年9月20日). 2020年11月20日閲覧。
  6. ^ "フィアット初の電気自動車「FIAT 500e」を発表" (Press release). Stellantisジャパン株式会社. 5 April 2022. 2023年3月20日閲覧
  7. ^ アバルト 500 新型、EVのフィアット『500e』がベース…11月22日実車発表予定”. レスポンス(Response.jp) (2022年11月10日). 2022年11月11日閲覧。
  8. ^ a b アルマーニにブルガリ仕様も!LAオートショーでFIATからスタイリッシュなデザイナーズカーが登場”. @DIME アットダイム. 小学館 (2022年12月10日). 2022年12月12日閲覧。

参考文献

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  • 『フィアット500・600 — イタリアが生んだ偉大なる小型車 1955~1975』マルコム・ボビット著 三樹書房(2004年) ISBN 4895224333
  • 『フィアット500マスターブック』スタジオタッククリエイティブ(2007年) ISBN 4883932265
  • 『フィアット500 ワークショップマニュアル日本語版 1957-1973』J. H. Haynes, J. C. Larminie著 ヴィンテージ・パブリケーションズ(2005年) ISBN 4900821098

関連項目

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外部リンク

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