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フェデリーコ・ディ・カノッサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェデリーコ・ディ・カノッサ
Federico di Canossa
トスカーナ辺境伯
在位 1052年 - 1055年

出生 1040年ごろ
トスカーナ
死去 1055年7月
カノッサ伯領、カノッサ城
埋葬 フェローニカ、サンタ・マリア・アッスンタ修道院
家名 カノッサ家
父親 トスカーナ辺境伯ボニファーチオ4世
母親 ベアトリクス・フォン・ロートリンゲン
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フェデリーコ・ディ・カノッサイタリア語:Federico di Canossa, 1040年ごろ - 1055年7月)は、トスカーナ辺境伯(在位:1052年 - 1055年)。ボニファーチオ・ディ・カノッサベアトリクス・フォン・ロートリンゲンの息子、トスカーナ女伯マティルデの兄。

生涯

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母方の祖父上ロートリンゲン公フリードリヒ2世より名付けられた[1]。1052年5月6日に父ボニファーチオが狩りのときに暗殺されたとき、フェデリーコはまだ年少であった。このため、母ベアトリクスが摂政をつとめた。母ベアトリクスは同族のゴットフリート3世と再婚した。1055年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は、皇帝に会うためフィレンツェを訪れた母ベアトリクスと姉マティルデを捕らえドイツへ連行したが、2人が捕らえられている間にカノッサ城に残されていたフェデリーコは死去した[2]

フェデリーコはフェローニカのサンタ・マリア・アッスンタ修道院に埋葬された。この修道院には1053年12月17日に母ベアトリクスが夫と長女のために寄進を行っている。

脚注

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  1. ^ Anthony Stokvis, Manuel d'histoire, de généalogie et de chronologie de tous les États du globe, depuis les temps les plus reculés jusqu'à nos jours, préf. H. F. Wijnman, Brill Leyde 1890-1893 editions, reissue 1966, Volume III, chapitre XII, tableau généalogique n° 12 « Généalogie des rois d'Italie et des margraves de Toscane »
  2. ^ 藤沢道郎 『物語 イタリアの歴史』 中央公論社、1991年、p. 36
先代
ボニファーチオ4世
トスカーナ辺境伯
1052年 - 1055年
次代
ゴッフレード1世