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フランシスコ・カナロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランシスコ・カナロ
フランシスコ・カナロ(1940年)
基本情報
別名 Pirincho
生誕 1888年11月26日
出身地 ウルグアイの旗 ウルグアイ
サン・ホセ・デ・マジョ
死没 (1964-12-14) 1964年12月14日(76歳没)
アルゼンチンの旗 アルゼンチン ブエノスアイレス
ジャンル タンゴ
職業 指揮者ヴァイオリニスト作曲家
担当楽器 指揮ヴァイオリン
活動期間 1906年 - 1964年

フランシスコ・カナロ(Francisco Canaro, 1888年11月26日 - 1964年12月14日)は、ウルグアイ出身で主として隣国のアルゼンチンで活躍したタンゴヴァイオリニスト指揮者作曲家[1]

生涯

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人物

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カナロはウルグアイサン・ホセ・デ・マジョに生まれ、幼い頃に、アルゼンチンブエノスアイレスに移住するが、実家の家計は苦しく、ギターマンドリンヴァイオリンハモンドオルガン等の楽器をすべて独学でマスターした。タンゴ黄金期を支えたオデオン五大楽団の中心にいた人間である。

1906年にヴァイオリン、ギターそしてマンドリンとのトリオでデビュー、1964年に亡くなるまで、タンゴ界の第一線で活躍している。『タンゴの王』と言われ、作曲した作品[2]は700曲、録音したレコード[3]は7000タイトルにおよぶと自伝の中でカナロは語っている。この数字が信用できるかどうかはともかく、その充実した内容は『タンゴの王』という呼び名にふさわしいものといえる。

作風

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彼がデビューして亡くなるまでの60年近い歳月の間、タンゴ界の大御所として君臨できた理由はいくつかあるが、時代を先取りしたアイディアを次々と打ち出した事[4]や、60年の演奏キャリアの間演奏スタイルは変われど、簡明で親しみやすい演奏密度という一線を守り続けた事・あくまでも踊れるタンゴであることを主張したことが理由として挙げられる。

カナロはそのキャリアのすべてを通じて、メロディアスな演奏と中庸のテンポで大衆の支持を受け続け、このスタイルは聴くだけのモダン・タンゴの流行期になっても、崩される事はなかった。亡くなる3年前の1961年にはただ一度の来日を果たしている。1964年の12月14日に、職場で倒れ急逝。

備考

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なお、カナロの名を冠した『パリのカナロ』 "Canaro en Paris" は、アレハンドロ・スカルピーノと、ファン・カルダレーラの両者の共同の作曲の1925年の作品で、1925年の大成功をおさめたパリへのカナロ楽団演奏旅行の新聞記事の見出しからとった題名の曲である。また、マリアーノ・モーレスとの合作のタンゴ『さらば草原よ』は、1957年度紅白歌合戦1961年NHK紅白歌合戦で、藤沢嵐子によって歌われている。

関連書籍

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  • Karush, Matthew B. Culture of Class: Radio and Cinema in the Making of a Divided Argentina, 1920–1946. Duke University Press, 2012.
  • Francisco Canaro: Mis memorias - Mis bodas de oro con el tango. Corregidor, Buenos Aires 1999, ISBN 9-50051-174-6.
  • Selles, Roberto. "Francisco Canaro: una vida para el tango," Todo es historia, v 18, no. 226 (February 1986), 56-73.

脚注

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  1. ^ Discografía de Francisco Canaro”. www.todotango.com. 2019年3月19日閲覧。
  2. ^ ガウチョの嘆き』、『さらば草原よ』などが有名
  3. ^ 2016年時点でカナロ作であることが確認できる楽曲は3799曲(クレジット欠落曲も含む)。自称7000曲というのは、おそらくは取り直しのテイクまでカウントしたのではないかと考えられる。
  4. ^ 楽団にコントラバスを加えてオルケスタ・ティピカの基礎を築いた事や1930年代のタンゴ界で流行したシンフォニック・タンゴや小編成の五重奏団(キンテート・ピリンチョ)などの新機軸を貪欲に取り入れている

外部リンク

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