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フランツ・ボルケナウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランツ・ボルケナウ
医者裁判におけるボルケナウ(1946年)
人物情報
生誕 (1900-12-15) 1900年12月15日
 オーストリア ウィーン
死没 1957年5月22日(1957-05-22)(56歳没)
 オーストリア チューリッヒ
出身校 ライプツィヒ大学
学問
研究分野 社会学
研究機関 フランクフルト大学マールブルク大学
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フランツ・ボルケナウ(Franz Borkenau、1900年12月15日 - 1957年5月22日)は、オーストリア出身の社会学者、ジャーナリスト。フランクフルト学派の1人で、全体主義理論の先駆者の一人。

経歴

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1900年、オーストリアウィーン生まれ。父は公務員であった。ライプツィヒ大学の学生として、マルクス主義と精神分析に大きな関心を寄せた。1921年にドイツ共産党に加わり、コミンテルンのエージェントとして活動。1924年に大学を卒業し、その後ベルリンに移った。1929年、スターリニズムに反発し、コミンテルンを脱退。

フランクフルト大学の社会問題研究所の研究員となり、カール・グリュンベルク (Carl Grünberg) に師事した。主な関心は、資本主義とイデオロギーの関係であった。 しかし、1933年にナチスによるユダヤ人への圧迫が強まるとドイツを離れ、ウィーンパリパナマに移った。1936年、スペイン内戦に参加し、1937年、『スペインの戦場』を発表。また、著書『全体主義という敵』で、ファシズムと共産主義の実質的な同一性を記し、ロシアは「赤いファシズム」、ナチス・ドイツは「褐色のボルシェヴィズム」と呼んだ[1]

第二次世界大戦後はドイツに戻り、マールブルク大学で歴史学の教授を1年間務めたのち、ドイツのほかパリローマチューリッヒでフリージャーナリストとして活動した。1957年、チューリッヒで没した。

研究内容・業績

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封建的世界像から市民的世界像へ

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著書

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  • Der Übergang vom feudalen zum bürgerlichen Weltbild.(1934年)
    • 水田洋ほか8名訳『封建的世界像から市民的世界像へ』みすず書房、1965年
  • Pareto.(1936年)
  • The Spanish Cockpit. An Eye-Witness Account of the Political and Social Conflicts of the Spanish Civil War.(1937年)
  • The Communist International.(1937年)
    • 佐野健治・鈴木隆訳『世界共産党史』合同出版、1968年
  • The Totalitarian Enemy.(1940年)
  • Drei Abhandlungen zur deutschen Geschichte.(1947年)

注釈

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  1. ^ 「全体主義」エンツォ・トラヴェルソ(平凡社新書、2010年)63p