フリードリヒ・ベルンハルト (プファルツ=ゲルンハウゼン公)
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フリードリヒ・ベルンハルト Friedrich Bernhard | |
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プファルツ=ゲルンハウゼン公 | |
在位 | 1704年 - 1739年 |
出生 |
1697年5月28日 神聖ローマ帝国 プファルツ=ゲルンハウゼン公領、ゲルンハウゼン |
死去 |
1739年8月5日(42歳没) 神聖ローマ帝国 プファルツ=ゲルンハウゼン公領、ゲルンハウゼン |
配偶者 | エルネスティーネ・ルイーゼ・フォン・ヴァルデック=ピルモント |
子女 |
カロリーネ・ルイーゼ エルネスティーネ・フリーデリケ・アウグステ |
家名 | プファルツ=ゲルンハウゼン家 |
父親 | プファルツ=ゲルンハウゼン公ヨハン・カール |
母親 | エスター・マリア・フォン・ヴィッツレーベン |
フリードリヒ・ベルンハルト(ドイツ語:Friedrich Bernhard, 1697年5月28日 - 1739年8月5日)は、プファルツ=ゲルンハウゼン公(在位:1704年 - 1739年)。
生涯
[編集]フリードリヒ・ベルンハルトは、プファルツ=ゲルンハウゼン公ヨハン・カール(1638年 - 1704年)とその2番目の妃でヴィッツレーベン=エルガースブルク男爵ゲオルク・フリードリヒの娘エスター・マリア(1665年 - 1725年)の長男として生まれた。
1704年に父の跡を継いでプファルツ=ゲルンハウゼン公となった。フリードリヒ・ベルンハルトはフランス陸軍のロイヤル・アルザス連隊の大佐となった。また、聖ユベール騎士団の騎士であった。ツヴァイブリュッケン摂政カロリーネとの間に1736年に結ばれた条約により、フリードリヒ・ベルンハルトには年間12,000ギルダーの手当が与えられた[1]。
フリードリヒ・ベルンハルトは1739年に男子継承者がいないまま死去し[2]、ゲルンハウゼンは弟ヨハンが継承した。
結婚と子女
[編集]1737年5月30日にアーロルゼンにおいて、ヴァルデック=ピルモント侯フリードリヒ・アントン・ウルリヒの娘エルネスティーネ・ルイーゼと結婚した。エルネスティーネ・ルイーゼの母は、プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公クリスティアン2世の娘でフリードリヒ・ベルンハルトの従姉妹ルイーゼであった。この結婚で2女が生まれた。
- カロリーネ・ルイーゼ(1738年1月22日 - 1782年5月26日)
- エルネスティーネ・フリーデリケ・アウグステ(1739年2月17日 - 1746年9月16日)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Johann Samuel Ersch: Allgemeine Encyklopädie der Wissenschaften und Künste. Section 2, H–N, part 21, Johann (Infant von Castilien) – Johann-Boniten, p. 189
- Maximilian V. Sattler: Lehrbuch der bayerischen Geschichte, Lindauer, 1868, p. 412
- Carl Renatus Hausen: Abhandlungen und Materialien zum neuesten deutschen Staatsrechte und Reichsgeschichte, vol. 5, p. 160 ff
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