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フレスノ野球団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フレスノ野球団[1][2](フレスノやきゅうだん 、: Fresno Athletic Club[3])は、アメリカ合衆国カリフォルニア州フレズノにおいて日系二世によって結成された野球チーム。略称はフレスノ[1]、フ軍[4]: Fresno Athletics[3]: FAC[5]

沿革

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発足

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近代に入り日本からアメリカへの移住が増え、当時日本人が多く移住した場所の一つにフレズノがあった[6]。フレズノでは第一次世界大戦が勃発した1914年を境にプロ野球チームが途絶え、セミプロ野球が盛んになった[7]。そうした中で銭村健一郎などが中心となってフレズノで野球チーム作られそこから二世野球リーグが誕生し、カリフォルニア州で100以上の日系人野球チームが誕生した[3][7][8]

フレスノ野球団(Fresno Athletic Club)は、1919年銭村が中心となって二世リーグから選手を選抜編成して作られた[3]。なお多くの資料では中心人物は銭村であるとしているが、ロバート・K・フィッツ『大戦前夜のベーブ・ルース』では1919年松本瀧藏が創設したとされ銭村が参加するのは翌1920年としており[9]、別の資料ではハワイにいた銭村がフレズノに渡ってくるのが1920年であるとするものがある[6][10]

フレスノ野球団は白人や黒人チームと対戦した。ただ1924年排日移民法が成立するなど排日が活発化していく中でのことである。同1924年白人リーグのサンホアキン・バレー・ベースボールリーグが設立された際にフレスノ野球団も参加したが、その中の一つポータービルのチームが「白人の町であるから日本人がプレーすることを望んでいない」と町に入ることを拒否したという[5]。1930年代になってもフレズノ野球団は健在で、スタンフォードUCLA南カリフォルニア大学などの大学チームには全くひけをとらず、マイナーリーグベースボールAAA級のパシフィックコーストリーグ所属チームに対しても対等の戦いに挑んだ[11]。なお1920年代のパシフィックコーストリーグには日本の野球殿堂入りしているレフティ・オドールがいた[5]が、フレスノ野球団と対戦したかどうかは不明。

極東遠征

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当時、アメリカの日系チームは日本へ、逆に日本の大学や実業団チームがアメリカへ、と交流を続けていた[12]。こうした中で1924年・1927年・1937年の3度にわたり日本・朝鮮満州へ遠征した[8][3]

1924年は、10月に来日し関西から福岡にかけて連戦、11月に関東で6大学野球を中心に試合を行った[1]

1927年は、4月に来日し神宮球場[2]、のち北海道から東北の各地で連戦[4]、5月15日から関西で連戦[4]、のち西へ連戦を重ね朝鮮・満州へ渡った[13]。この年は44戦して35勝8敗1引き分けの好成績で帰米するなど、実力は宮武三郎山下実など日本を代表する強打者を揃えた慶應松木謙治郎らを擁する明治を上回るレベルであった[11]。この年の『野球界6月号』では巻頭グラフで特集が組まれ、「大学チームを総なめに」「悠々連戦連勝」と見出しを飾った[8]。ただ負けた大阪毎日野球団の選手は自分たちの練習不足だったと話し、大毎小野三千麿が聞いたところによると慶応監督腰本寿は「本来の練習をしてやればかならず勝つ」と語ったという[14]

また同1927年には日米野球としてニグロリーグ選抜“Philadelphia Royal Giants(フィラデルフィア・ロイヤルジャイアンツ、費府巨人軍とも)”が同時期(あるいは同じ船)に来日している[3][15]。それ以前の日米野球は大リーグ(MLB)選抜が来日していたが、1922年に行われた17戦のうち第7戦対慶應連合のみ負けてしまった(3-9)ことが発端となり、しばらく大リーグ選抜は来日を止めてしまったため、日系人が代わりにニグロリーグのチーム派遣を仲介し実現させた[5]。ロイヤルはフレスノ野球団とも神宮で対戦し[16]、フレスノと同時期に関西や朝鮮のチームと試合している[17][2]

この1927年のフレスノ野球団来日メンバーにはバスケットボール選手5人も含まれていた[7]。そこで早大商大帝大立教などの各バスケ部との親善試合の日程も組まれた(記録など詳細不明)[7]。松本瀧藏の案内で立教へ立ち寄ったフレスノ野球団は立教バスケ部と親善試合を行った後、ポール・ラッシュ教授の好意でティー・パーティーが開かれ、そのときにフレスノ野球団はアメリカの古い歌である"Our Boys Will Shine Tonight"の替え歌"リッキョー・ウィル・シャイン"を披露した[7]。この歌を立教バスケ部員が事あるごとに歌い広げ、更にラッシュとカール・ブランスタッド両教授がリッキョーを"セント・ポールズ"(立教大学#概観参照)に変えて立教中学校の音楽教材として用いたことで定着した[7]。これが立教大学の第二応援歌"St.Paul's will shine tonight"誕生の経緯である。

1937年の状況は不明。

マーダラーズ・ロウとの対戦

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映像外部リンク
Nisei Baseball Research Projectによる動画。
Rare 1927 film footage of Babe Ruth, Lou Gehrig and Japanese American Baseball All-Stars - 写真は左からナカガワ、ゲーリック、銭村、ルース、ヨシカワ、イワタ。

1920年代半ばの大リーグ地方巡業はベーブ・ルースのBustin’ Babesとルー・ゲーリッグのLarrupin’ Lousのニューヨーク・ヤンキース“マーダラーズ・ロウ(殺人打線英語版)”の対戦が人気ツアーであった[18]。1927年10月20日、彼らがフレズノに興行に訪れ、フレズノ野球団の銭村・ジョニー・ナカガワ(Johnny Nakagawa)・フレッド・ヨシカワ(Fred Yoshikawa)・ハービー・イワタ(Harvey Iwata)がゲーリックのLarrupin’ Lousにゲストとして参加し、ルースのBustin’ Babesとの対戦が実現した[3][11][8][19]

当時の地元紙によると、観客は5千人[8]。試合はフレスノ野球団が参加したLarrupin’ Lousが13-3で勝利している[19]。銭村健一郎の息子である銭村健三によると、当時の試合のことが語り草として残っている[8]

試合で安打を放った銭村はルースが守る一塁へ。大胆にリードを取り、けん制球も難なくかわした。2度目のけん制。今度はルースがブロックしてきた。その股の間をすり抜け、またもやセーフに。怒ったルースは「次に同じ事をしたら、おまえさんをつまみ上げてバット替わりに使ってやるぞ」と叫んだ。

アメリカ野球殿堂博物館にはルースとゲーリッグの2人とフレスノ野球団がユニフォーム姿で一緒に写っている写真がある[5]。試合の記念写真は当時日本にも送られ、その裏書きに銭村が「ルースが日本遠征に興味を示している」と記した[8]。この試合がきっかけで日系人が仲介に入った事により、1931年日米野球にて大リーグ選抜戦の再開、そして1934年ルースの来日へと繋がった[5]

1940年代以降

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その後の活動状況は不明。第二次世界大戦太平洋戦争)が勃発、1942年日系人の強制収容が始まると西海岸の日系人を中心に強制収容所送りとなっている[20]。なお銭村には収容所内で野球をしていた記録がある[20]

記録

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1924年

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朝日新聞社編『運動年鑑. 大正14年度』[21]より。

1927年

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大阪毎日新聞社・東京日日新聞社編『スポーツ年鑑. 昭和3年版』[22]より。

脚注

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  1. ^ a b c 朝日 1925, p. 191.
  2. ^ a b c 大毎 1928, p. 149.
  3. ^ a b c d e f g Kenichi Zenimura”. Nisei Baseball Research Project. 2018年2月6日閲覧。
  4. ^ a b c 大毎 1928, p. 151.
  5. ^ a b c d e f Top 10 Kenichi Zenimura Career Highlights for the Buck O'Neil Lifetime Achievement Award”. Nisei Baseball Research Project. 2018年2月6日閲覧。
  6. ^ a b 銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <1> 広島の思い出”. 中国新聞 (2017年11月16日). 2018年2月6日閲覧。
  7. ^ a b c d e f LA 立教会だより vol.3” (PDF). ロサンゼルス立教会. 2018年2月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g 銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <2> 若き父の活躍”. 中国新聞 (2017年12月5日). 2018年2月6日閲覧。
  9. ^ ロバート・K・フィッツ/山田美明(翻訳) 『大戦前夜のベーブ・ルース 野球と戦争と暗殺者』 原書房、2013年10月、p71-72
  10. ^ 池井 1985, pp. 239–240.
  11. ^ a b c 池井 1985, pp. 240–244.
  12. ^ 日系人野球の父と呼ばれた男”. 異文化越境喜福倶楽部. 2018年2月6日閲覧。
  13. ^ 大毎 1928, p. 154.
  14. ^ 大毎 1928, p. 30.
  15. ^ 大毎 1928, p. 147.
  16. ^ 大毎 1928, p. 150.
  17. ^ 大毎 1928, p. 148.
  18. ^ AT HOME ON THE ROAD”. National Baseball Hall of Fame and Museum. 2018年2月6日閲覧。
  19. ^ a b RARE 1927 FILM FOOTAGE OF RUTH, GEHRIG AND JA BASEBALL ALL-STARS DISCOVERED”. 羅府新報 (2014年11月1日). 2018年2月10日閲覧。
  20. ^ a b 銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <3> 希望を捨てずに”. 中国新聞 (2017年11月18日). 2018年2月6日閲覧。
  21. ^ 朝日 1925, pp. 191–192.
  22. ^ 大毎 1928, pp. 149–155.
  23. ^ 大毎 1928, p. 162.

参考資料

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関連項目

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